鱖魚群その二 磯島絶好調

 間渡矢に帰って来た翌朝とあって、まだ旅の途上に居るような気がする恵姫。磯島が女中を引き連れて座敷にやって来ても、寝床に座ってぼんやりとしています。


「今日はよい天気ですこと。その分、寒うございますね」


 女中が開けた雨戸から中庭を眺める磯島。その言葉に寒さを感じ、夜着に包まって寝床に横たわる恵姫。


「失礼致します」


 女中の一人が問答無用で恵姫を転がしました。温もりが残ったままの寝床はさっさと片付けられ、夜着は剥ぎ取られて有無を言わさず着替えを始められ、寝惚けたままの状態で好き勝手にされ続け、ふと気が付けば磯島以外の女中たちは座敷から退出し、座布団に座った恵姫の前には朝食の膳が置かれているのでした。


「さっさと食べてくださいましね。今日からお稽古事を始めますゆえ」


 まるで恵姫は旅になど出ず、ずっとこの座敷で暮らしていたかのような磯島の口ぶりです。恵姫は汁をすすりながら取り敢えずの反抗です。


「ずずっ、磯島よ。わらわは昨日長旅から戻ったばかりじゃ。まだ旅の疲れが癒えておらぬ。昨日の今日でお稽古事を始めるなど、わらわのようなか弱い娘には酷過ぎると思わぬのか」

「おや、疲れておられるのですか。船の中ではたまに釣りをするくらいで、一日中食っては寝てばかり。島羽と伊瀬では食い放題飲み放題の大名気取り。毎日が盆と正月のような旅の日々だったと雁四郎様から聞いておりますが。こんな過ごし方をして、どうすれば疲れる事ができるのか、教えていただきたいものでございます」


 絶好調の磯島です。日常茶飯事だった恵姫との口論ができなくなって、磯島にとっては非常に物足りない日々だったのです。その待ちに待った恵姫との言い合いが遂に今日からできるのです。磯島としては当然気合いが入るのでした。


「いやいや、磯島よ。疲れとは体だけに起きるのではない。心も疲れるものなのじゃ。巨大な御座船を操り、雁四郎から小言を聞かされ、才から酒臭い息を浴びせられ、お福が病に罹らぬよう気を配り、飛入助が垂れる糞の後始末をしながらの旅。心労がたたって今にも倒れそうなのじゃ。この旅の疲れを癒すには、そうじゃな、師走に入るまではお稽古事をやらぬ方がよいじゃろう。うむ。では飯を食ったら一時いっときほど休むとしよう」


 間渡矢を離れている間、食事の後は必ず横になって眠りの時間を取っていたのです。その習性がすっかり身についてしまった恵姫。旅の疲れを理由にして何とか稽古事をせずに済まそうと、そればかりを考えています。


「おや、そこまで疲れるほどに気を使われたのですか。御座船をいい加減に操って尾治に漂着させたり、雁四郎様に我儘を言って困らせたり、こっそりと才姫様の酒を舐めたり、寝相の悪さに心配したお福に夜着を掛け直してもらったり、飛入助の干しエビを盗み食いしたりしていたと才姫様が仰っておられましたが。これでは逆に皆様が恵姫様に気を使い過ぎて疲れてしまったのではないですか」

「う、ぐぐぐ……」


 まさかたった一日でこれほど旅の詳細を把握しているとは思ってもみなかった恵姫。これでは誤魔化しようがありません。言い返すのは止めて食事に専念します。


「おや、随分と諦めが早いのですね。もうお仕舞いですか。旅の間に譲歩の精神を身に付けられたようですね。それではお稽古事は本日より始めさせていただきます」


 取り敢えず磯島の言いたいようにさせておき、食事を済ませた恵姫。お茶を飲みながら答えます。


「ずずっ、ふは~、朝のお茶を飲むとようやく目が覚めた気持ちになるわい。で、磯島よ、そなたの申し分はもっともじゃ。もっともではあるが、ちと考えてくれぬか。いかにのらくら過ごしておったと言っても長旅には違いないのじゃ。無事にお役目を果たし、旅を終えて帰って来たわらわをもう少し労わってくれてもよいのではないか。鮭は寒くなると川を上る。千匹の鮭が川を下っても、生まれた川に戻って来るのはその中の一匹に過ぎぬ。旅を終えて戻って来るのはこれほどに大変な事なのじゃ。いきなり元通りの生活を始めろと言われても、頭も体も付いて来ぬ。取り敢えず今日のお稽古は休みにして、数日様子を見てから……」

「何を甘えた事を仰っているのです!」


 語気を強めた磯島の一喝に、思わず口を閉ざす恵姫。今日の磯島の頑固さは今までとは一味違うようです。


「人と鮭は全くの別物。それに川に戻って来た鮭を労わる者などおりません。逆に熊に捕まって食われているではありませんか。普段の生活から長らく遠ざかっていたからこそ、早急にそれを取り戻す必要があるのです。雁四郎様を御覧なさい、今日から番方のお役目に就いております。お福に至っては昨日から女中仕事をしているのです。それに引き換え恵姫様はまだ旅気分が抜けず、稽古事などしたくないと我儘ばかり。恥ずかしくないのですか」

「いや、しかしあの二人は旅の途中も警護と女中仕事をやっておったからのう。それに引き換えわらわは……」

「だからこそ今日から始めねばならないのです! お稽古は休みにはしません。今日から始めます。よろしいですね」

「う、うむ……」


 断固として態度を変えようとしない磯島に恵姫は押されっぱなしです。考えてみれば最後に稽古事をしたのは、江戸へ行く準備を始めた八月末。三カ月近くも休んでいたのですから、磯島が強気になるのは無理もない話なのでした。


 食事が済んで膳と共に退出していく磯島。一人座敷に残された恵姫はいつも通り畳に寝転がります。稽古事が始まるまでの僅かな寛ぎのひと時。火鉢の縁に右足を乗せて足裏を焙りながら、恵姫はもう一度座敷を見回しました。

 昨日から始まったいつもの生活。同じ事が繰り返されるだけの日々。それは単調ではありますが、だからこそ幸せだとも言えます。大波が押し寄せる海よりも波風が穏やかな海の方が、船にとっては幸せなのと同じです。さりとて荒れ狂う海から帰って来た者にとっては、凪いだ海が物足りなく感じるのもまた致し方のない事です。


「稽古事か。江戸に居る時は懐かしく思った事もあったが、いざやり始めるとなるとやはり心は重たくなるのう」

「何ですか、そのお行儀は。端ないにもほどがあります。おやめください」


 またも挨拶なく座敷に入って来た磯島の怒り声が聞こえてきました。寝っ転がって片足だけ火鉢に乗せているのですから当たり前です。仕方なく起き上がって火鉢に手をかざす恵姫。磯島の後ろからは花器や草花を持った女中も入ってきました。


「今日のお稽古は生花か。まあ、とっ始めとしては無難なところではあるな」


 磯島の前に道具を置いて支度を整え、座敷を出ていく女中。恵姫も渋々道具を挟んで磯島の前に座ります。


「おう、これは水仙ではないか。今日はこれを生けるのか」

「左様でございます。よいですか、いつも申して上げておりますように、あたかも道端に咲いているが如く……姫様、何を笑っておられるのですか」


 不審な顔で恵姫を見る磯島。水仙を手に持って思い出し笑いに耽っている恵姫は、磯島に問われて笑いながら答えました。


「江戸に居るときにのう、これを野蒜と間違えて食いそうになったのじゃ。遣り繰り下手の左右衛門のおかげで江戸屋敷は香の物を買う銭すら無くてな。才が止めてくれねば腹痛を起こすところじゃったわい。わははは」

「笑い事ではありません。同じ過ちを二度繰り返すとは何たる不甲斐なさ。少しは反省なされませ」

「二度じゃと。水仙の葉を食おうとした事が以前にもあったと申すのか」

「はい。もうお忘れになったのですか」


 呆気に取られながら諦めの口調で返答する磯島。手に持った水仙を今一度眺めてみると、それがいつの間にか野蒜に見えてきて、知らぬうちによだれが垂れ始めてしまう恵姫ではありました。

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