第六十三話 さけのうお むらがる

鱖魚群その一 与太郎の選択

 恵姫は大の字になって天井を眺めていました。閉められた縁側の雨戸の隙間からは障子を通して朝の光が漏れています。寝たまま薄暗い座敷を見回せば、床の間、物入れ、襖、縁側の障子。それはこれまでずっと慣れ親しんできた風景。けれども今朝だけは妙に懐かしく感じる風景。


「帰って来たのじゃのう間渡矢に。あたかも鮭が川に戻るが如く……」


 今、自分が間渡矢の座敷に寝ている事自体が夢なのではないか、そんな非現実感を抱きながら、恵姫は再び仰向けになって天井を眺めました。それは紛れもなく見慣れてきた自分の座敷の天井。そして恵姫は思うのです。長かった旅は昨日で終わり、今日からはいつも通りの毎日が始まるのだな、と。


「恵姫様、いつまで寝ておられるのです。さっさと起きてくださいまし」


 何の合図もせずに磯島が襖を開けて入ってきました。後ろには数名の女中たち、その中にはお福と小柄女中の顔も見えます。

 女中の一人が縁側の雨戸を開けました。朝の光が冷気と共に座敷に入り込んできます。その光に照らされたお福の顔……そう、お福は伊瀬に留まる事なく、昨日、恵姫と一緒に間渡矢へ戻って来たのでした。


「お福、旅の疲れは残っておらぬのか。働き者じゃのう」


 恵姫にそう言われてにっこりと笑うお福。その笑顔を見ながら恵姫は三日前の斎主宮を思い出すのでした。


 * * *


「さあ、どちらを選ぶのですか与太郎。間渡矢か、それとも伊瀬か」


 斎主に重ねて尋ねられた与太郎。頭を捻って考えています。しかも時々チラッチラッと恵姫に視線を向けてくるのです。


『ちっ、与太郎の奴、答えを渋りおって。わらわへの当て付けか。どうせ伊瀬を選ぶのであろう。お福と別れねばならぬのは少々辛いが、立春までの辛抱じゃ。それに伊瀬と間渡矢ならば歩いて半日。お福面会を口実に伊瀬へ遊びに来る事もできよう。それはそれで楽しいかもしれぬのう、ふっふっ』


 既に頭の中では前向きに考え始めている恵姫。不気味な笑いを浮かべる恵姫に嫌な予感を覚えたのか、与太郎は慌てて斎主に向き直ると、ぼそぼそと返答しました。


「あ、あの、斎主様の申し出は嬉しいし伊勢も好きなんですけど、僕はやっぱり今まで通り間渡矢に現れたいと思っています」

「なんと!」


 と声を上げたのは恵姫です。勿論、お福も才姫も、そして斎主も驚いています。しかしこの与太郎の返答を一番意外に感じたのは何と言っても恵姫でした。


『何を企んでおるのじゃ、与太郎の奴。間渡矢を選ぶ事でわらわに恩を着せ、こちらへ来るたびに我儘を言いまくるつもりではなかろうな』


 与太郎を自分に置き換えて変な妄想を働かせる恵姫。悲しいまでに与太郎は信頼されていないようです。

 与太郎が答えても帳の向こうからはしばらく何も聞こえてきませんでした。斎主自身、思ってもみなかった返答に戸惑っているようです。が、しばらくしてこれまでと同じ、落ち着いた声が聞こえてきました。


「そうですか。私としては残念ですが、そなたの希望はできるだけ叶えてやりたいと思っております。それではお福をここに留め置くのはひとまず止めましょう。ただし立春が近付けばそうも参りません。数日、あるいは半月近くこちらの時空に留まっていただく事になります。よろしいですね」

「あ、はい。お福さんと一緒なら何日だって全然平気です。親には……そうだなあ、受験勉強に集中するためにウィークリーマンションに滞在する、とでも言っておこうかなあ」


 明るい声で答える与太郎。その様子からは与太郎の意図は読み取れません。何故伊瀬ではなく間渡矢を選んだのか、それが腑に落ちぬ恵姫は訝し気に与太郎を見詰めるばかりです。と、またも才姫が声を上げました。


「与太郎、よかったら教えてくれないかね。何故間渡矢がいいのさ」


 斎主を差し置いて下段に控える者同士が話をするのは、明らかに無礼な振る舞いです。それでも与太郎に問い掛けたのは、恵姫と同じく才姫自身も我慢できないほどに、与太郎が間渡矢を選んだ理由を知りたかったからでした。そしてそれは斎主も同じだったのでしょう。才姫の無礼を咎める事なく与太郎の返事を待っています。


「えっと、それは……何って言ったらいいのかなあ」


 その場に居る全員から刺すような好奇心を向けられた与太郎は、またぼそぼそとした声で話し始めました。


「間渡矢を選んだっていうよりも、めぐ様を選んだっていう方が正しいんです。僕は立春を過ぎたら、もう二度とこちらには来られないじゃないですか。だからこちらの時空でしか体験できないような思い出を沢山作っておきたいんですよ。伊勢に居ればお福さんと一緒だし、間渡矢に居る時よりも大切にされて、美味しい物も食べられて、山の中に置き去りにされる事もないし、腹に突きを食らう事もないし、身代わりにされて危険な目に遭う事もないし、あれやれこれやれって命令される事もなくて、それは間違いなく楽しいに決まっています」


『ぐぐぐ、与太郎の奴、好き勝手に言いたい放題抜かしおって。これではまるで比寿家は与太郎を満足に持て成しとおらぬと言っているようなものではないか。斎主様に誤解されたらどうするつもりじゃ』


 心の内で憤怒の炎を燃え上がらせる恵姫。ここが斎主宮でなければ間違いなく怒りの鉄槌が与太郎の頭上に振り下ろされているはずです。そんな恵姫にはお構いなしに、与太郎は話を続けます。


「でも、伊勢での暮らしは楽しいけれど詰まらない、そんな気がするんです。楽しいだけなら僕の時空でだって体験できる、それじゃ思い出にならないでしょう。これまでめぐ様と一緒に過ごしてきて、僕はとんでもない事ばかり経験してきたけど、それも今となっては本当にいい思い出になっているんです。だから、立春までの僅かな時間もめぐ様と一緒に過ごして、沢山の思い出を作っておきたいんです。それになにより僕はめぐ様が好き、って言うと変だけど、何だか不思議な魅力を感じているんです。この時空に来る事はめぐ様に会いに来る事に等しい、僕の中ではそんな等式さえ成り立っているんです。だから斎主様には申し訳ないですけど、これからも間渡矢、ううん、めぐ様と一緒にこの時空で過ごさせて欲しいんです」

「与太郎……」


 恵姫は不思議な気持ちに襲われていました。いつもあれだけ冷たい態度で接していたのです。当然与太郎には嫌われている、そう思っていたのです。けれどもそれは大きな間違いのようでした。

 与太郎は恵姫自身さえも気付いていない、生まれついて備わっている厚い人望を感じ取っていたのです。それは与太郎だけではなく、恵姫を取り巻く全ての者が感じている恵姫の天賦の資質と言うべきものでした。


「そこまで与太郎に惚れ込まれるとは、恵も幸せ者さね」


 才姫の揶揄いには無言で応じる恵姫。斎主の手前、丁寧な言葉だけを喋りたいのですが、丁寧な言葉だけで才姫に言い返せる自信がなかったのです。


「与太郎の気持ち、よく分かりました。ただしこれだけは覚えておいてください。私たちはできるだけそなたの希望に沿いたいと思っています。しかし全てを希望通りにできるわけではありません。そなたの意思に関係なくこちらからお願い、いえ、無理強いをさせる事もありましょう。その覚悟だけは持っておいてください」

「え、あ、は、はい」


 戸惑いながら返事をする与太郎。この斎主の言葉はこれまでとは打って変わって、ひどく暗く、そして重く聞こえました。


「それから間渡矢の姫たちにも言っておきます。最近、記伊の姫衆が不審な動きをしているとの知らせを耳にしています。何か困った事態が起きれば遠慮なく伊瀬を頼りなさい」

「はい、心得ました、斎主様」


 恭しく頭を伏せる恵姫、才姫、お福の三人です。


 こうして斎主と与太郎の謁見は終わりました。与太郎はその日の夕刻に元の時空へ戻り、恵姫たちは姫札が切れた二日後に伊瀬を発ち、島羽城で一泊した後、ようやく間渡矢に戻って来ました。到着したのは十一月十八日。公儀隠密の忍に城を急襲され間渡矢を去ったのが九月三日。実に七十四日ぶりの間渡矢への帰還でありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る