虹蔵不見その三 乗里挨拶
殿様の診察を済ませた与太郎たち四人。昼までにはまだ間があるので一旦休息を取ろうと表御殿の小居間へ向かいました。中には誰も居ないはず、でしたが、
「な、何故そなたが、ここに……」
小居間の襖を開けた途端、恵姫は絶句してしまいました。小居間の真ん中で乗里と雁四郎が仲良くお茶を飲んでいたからです。さっそく雁四郎が挨拶です。
「これは恵姫様。乗里殿がお見えになっております」
そんな事は言われなくても分かります。続いて乗里。
「やあ、恵姫と与太郎君。殿様の病は治りそうかい、って……君、与太郎君だよね……」
今度は乗里が絶句してしまいました。与太郎は女中姿だったのですから無理もありません。
「あ、ああこれ。えっと、この格好は、そのつまり」
「いいよいいよ聞いてる聞いてる。女装が趣味なんだってね。恵姫の替え玉役も見事に果たしたそうだし、いい趣味してるじゃないか。さすがは与太郎君、僕には逆立ちしたってそんな真似はできないなあ」
「えへへ」
褒められているようで馬鹿にされているのですが、与太郎は気付いていないようです。間抜けな照れ笑いを聞かされて機嫌が悪くなった恵姫は左右衛門に食って掛かりました。
「おい、これは如何なる事じゃ。何故乗里がここに居る。何故与太郎が来た事を知っておる」
「姫様には申しておりませんでした。実は与太郎様がこちらに現れたら直ちに知らせるようにと、乗里様より言い使っていたのでございます。それ故、殿の座敷に向かう前に雁四郎を松平家まで遣わしたのです」
「そうゆう事。で、雁四郎君と一緒にこの屋敷へ来たってわけ」
まるで自分の座敷で茶を飲んでいるかのように寛いでいる乗里。ここに居る事情は分かりましたが、ここに来た理由は分かりません。問い詰めようと恵姫が言い出す前に乗里が答えました。
「どうしてここに来たか知りたいんでしょう。挨拶だよ。君たちが江戸に留まっているのは与太郎君を待っていたから。その与太郎君が来て目的を果たせた以上、早晩、君たちは江戸を発つ。恵姫ともしばらく会えなくなるからね、お別れの挨拶に来たんだ。どうせ、間渡矢へ帰る前に僕の屋敷へ来るつもりなんかなかったんでしょ。だから僕の方から出向いてきたのさ」
「ほほう、恋しい恵姫様との別れを惜しんでわざわざ会いに来たというわけじゃな。ふっふっ、持てるおなごは辛いのう。乗里の愛が重いわい」
普段滅多に聞けないような言葉を口にしています。どうやら最近の才姫の愛読書「好酒五人女」をこっそり読んでいたようです。恵姫は顔をにやつかせながら乗里の真ん前に立つと、体を揺り動かしながら揶揄います。
「ほれ、ほれ、愛しい恵姫様の姿を拝めて嬉しいじゃろう。これで用は済んだな。とっとと帰れ」
「せっかちだなあ。君だけじゃなく君の父上と母上にも挨拶したいんだよ。一応、公儀に対して縁談の届けも出したし、君と僕がそろって江戸に居るなんて滅多にない事でしょ。二人揃って縁談の挨拶をしておけば、喜ばれるんじゃないかと思ってさ」
乗里と恵姫の父は参勤交代が逆になっています。本来は乗里が江戸に居れば恵姫の父は志麻に帰っているのです。二人が顔を合わせる機会はこれまでほとんどなかったのでした。しかも正室は江戸から動かず、恵姫が次に江戸に来るのはいつになるか分かりません。この四人が江戸に揃って居る今のこの状況は、本当に稀有な出来事と言えるのでした。
「なるほど。それは良きお考えですな。されど殿は床より起き上がれませぬ。寝床に就いたままの対面となりますが、よろしいでしょうか」
「いいよ。挨拶って言っても正式なものじゃないし」
「分かりました。それでは奥方に事情を話し、中奥の殿の居室まで来ていただく事にしましょう。用意が整いますれば呼びに参りますので、しばらくお待ちくだされ」
左右衛門はそそくさと小居間を出ていきました。その間に女中が茶を持って来てくれたので、ようやく落ち着いて一服する恵姫、才姫、与太郎の三人。
「ちっ、乗里と共に父上、母上に会わねばならぬとは難儀な事じゃのう。おい、言っておくが、いつものような軽々しい口の利き方はやめるのじゃぞ。それからわらわは上品で淑やかな娘であると、父上も母上も思い込んでおる。そなたもわらわをそのように扱うのじゃ。分かっておるな」
「はいはい。何匹猫を被っても驚いたりしないよ。僕は逆に素を出すだけだから何の苦労もないけどね」
まるで普段のバカ殿ぶりはあくまでも演技で、本当の自分は名君であるかのような口振りです。自尊心たっぷりの乗里を冷ややかに眺めながら、
「ふっ、好きなように申しておれ、お飾り城主」
と、鼻であしらう恵姫。しかし心の底では、普段の乗里の軽薄さは本当に演技なのかもしれないと思う気持ちが、ほんの少しだけあったりするのでした。
「お待たせ致した。用意が整いましたゆえ、乗里様、恵姫様、殿の居室へお出でくだされ」
左右衛門が小居間に戻って来ました。恵姫が気乗りしない表情で腰を上げます。
「やれやれ行くとするか。乗里、付いて来い」
「お手柔らかに頼むよ、恵姫」
連れ立って小居間を出ていく二人。その後姿に声を掛ける与太郎と雁四郎。
「めぐ様~、しっかりね~」
「乗里殿、みだらに恵姫様のお体に触れるような真似は慎まれるように」
「ずずっ」
才姫は何も言わずに茶をすすっています。元より恵姫の縁談になど大して興味はないのです。
左右衛門を先頭にして廊下を歩く三人。乗里がどんな挨拶をするのか少し気になる恵姫でしたが、今それを訊かずともすぐに分かるのです。それに老中正武の面談で見せたような態度を取ってくれるなら、こちらは何も言わずに座っているだけで済むはずです。ここは全てを乗里に任せようとお気楽に考える恵姫なのでした。
「殿。乗里様、恵姫様が参られました」
「うむ、お通しせよ」
左右衛門が声を掛けて襖を開ければ、寝床に半身を起こした殿様と、寄り添うように座る奥方の姿が見えます。乗里と恵姫は二人の前に並んで座り、息を合わせて頭を下げました。
「志麻国島羽城城主、松平乗里でございます。此度は比寿家ひとり娘恵姫を嫁に迎えるにあたり御挨拶に参りました。故あって結ばれた縁とはいえ、末永く
可もなく不可もないまずまずの口上であるなと感じる恵姫。この調子ならば自分は何もせずに済みそうです。
殿様は乗里の言葉が終わると、小さく頭を下げました。
「大給松平家の当主にわざわざ足を運んでいただき、感謝の言葉もない。こちらも端座して対したいのであるが病のためそれも叶わぬ。このような無作法を許されよ」
そこで言葉を切り、大きく息を吐く殿様。これだけ喋る事ですら今の殿様にとっては難行苦行なのです。
「末永く、と申されたな。それはこちらも願うところなれど、わしの代で比寿家は終わる。誼を通じていられるのも余り永くはなさそうだな」
「殿、そのような事は仰られますな」
寄り添っている奥方がたしなめました。いくら病気の身の上とは言っても、当主には似合わぬ言葉です。
「済まぬ。恵の行く先も決まり、安堵して気が緩んだせいであろう。思えば恵を女城主に、などと考えていた事もあった。改めて思い直せば実に愚かな考えであったな」
そう言って遠くを見詰める殿様。その視線の先には城主となった恵姫の幻が見えているのかもしれません。
「長生きなされませ」
乗里は殿様を見詰めています。その瞳の中には真剣で実直な輝きが宿っています。
「公儀の中で姫衆を、そして比寿家を嫌っているのは柳沢吉保様ただお一人だけ。吉保様が亡くなれば公儀はどう動くか分かりませぬ。長生きされるのです。吉保様よりも長く生きるのです。さすれば比寿家存続の芽も出て参りましょう」
恵姫は驚きました。先日才姫と冗談半分で話していた、それと同じ事を、乗里もまた考えていたのです。
「うむ。しかし恵が男子を産まねば養子は迎えられぬ」
「ならば、この乗里の力で恵姫を間渡矢の城主にしてみせましょう。当主がありながら正室を城主とする……徳川の世においてどの大名も行った事の無い奇策中の奇策。成し遂げられればこの乗里の名声、日の本中に鳴り響きましょうぞ」
殿様も奥方も左右衛門も、そして隣に座っている恵姫も、驚きを通り越して呆気に取られてしまいました。そんな四人の呆れ顔を愉快そうに眺める乗里ではありました。
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