山茶始開その五 袋小路与太郎

 布姫直伝の「知らぬ存ぜぬの策」が呆気なく空振りに終わり動揺する与太郎。吉保は勝ち誇ったような顔で言い放ちました。


「これにてお開きとする。大儀であった」


 与太郎は慌てました。このまま終わってしまっては、この後恵姫からどんな叱責や罵倒や食事抜きの罰が与えられるか知れたものではありません。それだけは是が非でも回避したいのです。


「お、お待ちください! 一旦、戻って調べたとしても、それがこちらの世で間違いなく起こるかどうか、確かではないのです」

「何? それはどういう意味だ」

「えっと、その、つまり、僕は三百年の後の世から来たと言ったけど、あれは違っていたみたいで、実は今居るこの世と同じ時間を生きているって事が、今日、ようやく分かったんです」

「……意味が分からぬ」


 首を傾げる吉保。それは恵姫もお福も同じです。


『与太郎の奴、苦し紛れに何を言い出すのじゃ、出鱈目にも程があるぞ。これだけの大嘘、付き通せるはずがなかろうが』


 与太郎の考えが全く読めぬ恵姫。それでも口出しはできません。ここは全てを与太郎に任せるしかありません。真冬に雪を被った山茶花のように無言で耐え忍ぶしかないのです。


「そのほうは三百年の後の世から来たと申したではないか。それは嘘であったのか」

「あ、はい。なんか、間違っていたみたいです」

「お上を謀るとは許せぬ。厳罰に処してくれる。間渡矢の恵姫、このような不埒な輩を連れて来たその方も同罪ぞ。覚悟致せ」

「ええっ!」


 またも驚く与太郎。もはや袋小路に迷い込んだ鼠の如く、完全に進退窮まってしまいました。


「ち、違うんです。世界の時間は同じでも、人の世の歴史の時間は三百年後で、その分の知識は持っているんです。だからその意味では嘘ではないんです」

「いい加減にせぬか。何を申しているのかさっぱり分からぬわ。どこまでお上を愚弄するつもりだ。誰かある、この者に縄を打て。牢に入れて厳しい仕置きをしてくれる」

「ま、待ってください。僕じゃうまく説明できないんです。布様、布姫様を呼んでください」

「喧しい、見苦しいぞ」

「まあまあ、出羽殿。少し落ち着かれよ。上様も驚いておられるではないか」


 それまで黙って事の成り行きを見守っていた正武がようやく口を開きました。その一言で我に返った吉保、大きく息を吐くと座布団の上で居住いを正しました。


「与太郎、その方は三百年分の知識を持っているなどと申しておるが、最初から最後まで分からぬ、知らぬ、存ぜぬとしか答えておらぬではないか。それでは誰もその方の言葉を信じる事はできぬ。何でもよい、近々起きる出来事をひとつ、ここで申してみよ」


 正武の言葉はもっともでした。このままではかたりを働いているのと何ら変わりはありません。問題は与太郎がこの場に居る者を納得させられる出来事を話せるかどうかです。


『正武の恩情には感謝するが与太郎には荷が重すぎるのう。富士の山の時も頓珍漢な話をしておったし』


 恵姫は半分諦めていました。物覚えの悪い与太郎にできるはずがない、そう信じ切っていたのです。しかし今日の与太郎は違っていました。下田で別れてから半月以上も経過しているのです。その間にこの時代の出来事を片っ端から調べていたのでした。


「分かりました。今、この世は元禄十四年ですが、僕らの世の歴史では元禄十二年頃に相当すると思うんです。それで近々起きる事と言えば、日光奉行の設立だと思うんです」


 正武と吉保の顔色が変わりました。どちらも真顔になり、鋭い眼差しで与太郎を見ています。手応えを感じた与太郎は続けます。


「多分、今は日光守護職が亡くなって、代わりに目付が任に就いているはず。でも近々それも止めて、老中配下の奉行所を置こうと考えている。そうでしょ」


 正武も吉保も何も言いません。互いに顔を見合わせています。と、ここで綱吉公が声を出しました。


「この者の申す通りなのか、吉保。余は何も聞いておらぬが」

「は、はい。まだ草案の段階でありますれば、詳細な検討を行った後、上様にはお知らせするつもりでおりました」

「日光は徳川家の祖廟を祀る霊地。奉行設置は良き事である。そのまま進めるがよいぞ」

「ははっ!」


『何たる事じゃ、当ておったではないか、与太郎の奴』


 驚きの恵姫。まさかあの与太郎がこれほど胸のすく事をやらかしてくれるとは、寝耳に水以上の大事件と言えましょう。


「どうかな、これで僕が三百年分の知識を持っているって納得できたでしょ」


 どこかから漏れた……二人が最初に考えたのはそれでした。しかし、この案はまだ口頭で交わされただけ。それも江戸城本丸御殿の御用部屋で数回議題に上っただけの話です。これが外に漏れたとあっては全ての合議が漏れていると考えねばなりません。あり得ない事です。


「認めざるを得ませんな、出羽殿」


 正武に促され無言で頷く吉保。してやったりの与太郎。これで取り敢えず身の安全は確保できたはずです。しかし当然ながら話は振り出しに戻ってしまいました。


「これほどの知識があるとなれば間渡矢に返すわけにはいかぬ。恵姫、お福ともども江戸に留まってもらおう」

「ええっ!」


 思わず顔を上げた与太郎。目の前には更に険しくなった吉保の顔、後ろを振り向けば、鬼のような顔でこちらを睨みつけている恵姫。完全なる万事休す。与太郎は慌てて弁解します。


「待ってください。さっきも言った通り、僕は三百年の知識があるだけで、三百年の後の世から来たわけじゃないんです。つまりこの世と僕の世は違うんです。だから僕の知識が完全にこの世にも当てはまるわけじゃないんです」

「今、見事に言い当てたではないか。それはどう申し開きをするのだ」

「だから当たるのもあるし当たらないのもあるんです。今のはたまたまです。現に僕の世とは違う出来事だって見付けているんです」

「今更そのような嘘を申してどうなる」

「嘘じゃないんです、本当なんです」

「出鱈目を申すな! いい加減にせぬと痛い目を見るぞ!」


 食い下がる与太郎に腹を立てた吉保は、これまでにない怒鳴り声を張り上げました。そして、それが起きたのはまさにその瞬間でした。


「与太郎様の言葉に嘘偽りはございません」


 大広間に響き渡る穏やかながら威厳のある声。下段之間に立つのは布姫、そして才姫、禄姫、寿姫の四人です。思いもしなかった出来事に動揺する吉保、驚嘆と怒りが混ざり合った顔で吠え立てます。


「ひ、控えおろう、上様の御前であるぞ」

「失礼致しました。ささ、皆様、頭を下げましょう」

「ふん、仕方ないね」


 不満顔の才姫を促して素直に端座し平伏する四人。吉保は尚も続けます。


「誰の許しを得てこの大広間に参った。その方たちは控えの間に詰めておれと申し付けたはず、このような無作法な真似……」


 ここで御殿の外から時太鼓の音が聞こえてきました。暮れ六つを知らせる太鼓です。


「くっ、そういう事であったか……」


 与太郎がこの世に留まれるのは半日。それが過ぎれば姫の力で帰還を阻止するため、暮れ六つと同時に姫衆が与太郎に付き添う事を認める、それが公儀と交わした約束だったのです。


「さあ、皆様、そして恵姫様とお福様も、与太郎様の近くに参りましょう」


 布姫に言われて六人は与太郎の傍へにじり寄りました。特にお福は身も触れあわんばかりに近付きます。吉保は忌々しそうに姫衆たちを眺めていましたが、すぐに気を取り直して言い放ちました。


「その必要はない。暮れ六つを過ぎれば上様が政務に就かれる事はない。謁見はこれにてお開きと致す」

「それでは与太郎様、そして比寿家の者たちは今日を限りに間渡矢へ戻ってもよいのですね」

「いいや、それは許さぬ。再び与太郎がこの世に来るまで江戸に留まっておれ」

「次に与太郎様がこの世に来る保証などありませぬ。来るにしても一年後、いえ十年後かもしれませぬ。それでもよろしいのですか」

「ならば、明日また登城致せ。姫衆が居れば与太郎はこの世に留まり続けるのであろう。明日までこの世に引き留めておけ」

「姫衆が与太郎様を引き留める事ができたのは、今までに一度だけ。それも屋敷の中に居た時だけでございます。もしこの御殿から出れば姫の力が散逸する恐れがあります。そうなれば与太郎様を引き留めておけぬかもしれませぬ」

「ぐぐっ……」

「吉保様も茶を嗜まれるならば一期一会の心をお持ちのはず。与太郎様とのこの出会いを大切にすべきではないのですか。三百年の知識を持ちながら後の世から来たのではない、その意味を知ろうとは思われないのですか」


 断固として引き下がろうとしない布姫。これほどまでに強気で居丈高な布姫は、誰も見た事がありませんでした。それはまたこの謁見に懸ける布姫の意気込みの凄まじさをも表していたのでした。

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