第五十六話 ち はじめてこおる

地始凍その一 ふたつの世

 朝食を美味しくいただいた後の一服は実に清々しいものです。七人の姫衆と与太郎はお茶を飲みながら、柳の間でお呼びが掛かるのを待っているところでした。


「まさかこんな事になるなんてなあ」


 昨日から鼻の下が伸びっ放しになっている与太郎。その右手とお福の左手は紐でしっかりと結び付けられています。うっかり離れて与太郎が帰ってしまうのを防ぐためです。


「こんな事になって嬉しいのじゃろう、与太郎よ。これだけの美女に囲まれて一夜を過ごせたのじゃからな」

「てへへ」


 笑って誤魔化す与太郎。恵姫の言葉通りなのですから笑うしかありません。そう、結局恵姫たちは江戸城で一泊してしまったのです。



 昨夕の大広間は大荒れでした。暮れ六つが過ぎてしまったので与太郎謁見はお開きにすると言い張る吉保。この機会を逃せば与太郎謁見は二度とないかもしれないと継続を主張する布姫。両者の意見は完全に食い違い、しかも全く歩み寄ろうとしませんでした。仕方なく老中正武が提案したのが、一旦お開きにして与太郎たちを城に留め置き、翌日再開するというものだったのです。


 勿論、吉保は大反対。これだけの人数を、しかも得体の知れぬ男と姫衆を江戸城に泊めるなど前代未聞。絶対認められぬと突っ撥ね続けたものの、疲労のためにすっかり関心を失っていた綱吉公が「正武、良きに計らえ」と言って退出してしまった為、正武の案が採用され、与太郎たちは江戸城で一泊する事になったのでした。


「な、なんと、それは一大事!」


 知らせを聞いた左右衛門は腰を抜かさんばかりに驚きました。一泊するからと言って城の者が面倒を見てくれるわけではありません。大手門前で待機している供の者たちと一緒に屋敷へ戻った後、直ちに人数分の夕食弁当と夜着を用意して城へ持参。朝も早くから朝食弁当を作ってこれまた持参する事となりました。

 布姫はこうなる事を予期していたのか、予め自分たちの夜着を持って来ていました。ただ与太郎と姫衆が同じ座敷で一夜を過ごすのはさすがに抵抗があるので、城坊主に多額の銭を握らせ、与太郎を隔離するための衝立を用意させました。


 こうしてその日は過ぎていき、姫衆と公儀の対決は二日目を迎える事となったのです。


「皆様、そろそろお呼びが掛かる頃です。気を抜かずに乗り切りましょう」


 気を抜かずにと言っても、実質的に矢面に立つのは与太郎と布姫の二人だけのはずです。座っているだけでよい恵姫と才姫は呑気なもので、お茶を飲みながら私語厳禁の殿中で無駄話に花を咲かせています。


「そうじゃ、才。与太郎に父上を診てもらうのはどうじゃ。あれでもそれなりに医術の知識があるようじゃからのう」

「そりゃいいね、おい、与太。ちょっとこっちに来な」


 昨晩は遅くまで布姫と一緒に今日の対策を練っていた与太郎。眠い目をこすりながら才姫の近くに寄ります。


「何ですか、才様」

「恵の父が病なのは知っているだろ。今日の謁見が終わったら屋敷に寄って診てやって欲しいんだよ」

「いいですけど期待はしないでください、医者じゃないんですから。それで、どんな病気なんですか」

「あたしも御典医も江戸煩いって見立てさ」

「江戸煩い……聞いた事があるなあ。どんな病気だっけ」


 言葉は知っていてもそれに関する知識は全く無い与太郎。一応考えてみるものの元から言葉だけしか知らないのですから、どんな病気か思い出せるはずがありません。頭を捻っているうちに城坊主が呼びに来ました。


「大広間に参上せよとの事。お支度を」

「皆様、参りますよ」


 布姫を先頭に柳の間を出る七人。しかし布姫の供の女は座ったままです。この女は昨晩もずっと被衣を着けたまま、一言も口を利きませんでした。どうして一緒に来ないのか理由を訊きたいところですが、さすがに廊下に出てしまっては無駄口を叩けません。気になりながらも無言で大広間へ向かいます。

 二日目は最初から中段之間に座り、与太郎を取り囲みました。やがて昨日と同じように綱吉公が出御します。平伏して出迎える大広間の面々。


「うむ、皆の者、面を上げよ。さて本日は何をするのであったかな」

「与太郎の申し開きの吟味でございます。後の世の者ではないのに三百年の知識がある、これは如何なる意味かを問いただすのが肝要かと思われます」

「おお、そうであったな。与太郎、今一度分かりやすく言い表してみよ」

「与太郎、上様も斯様に仰られておる。簡潔明瞭に申し上げるようにな」


 今日の吉保は落ち着いてみえます。昨日、あれほど神経を尖らせていたのは、姫衆と顔を合わさぬよう早く切り上げたい、そんな事ばかりを考えていたからでしょう。こうして姫衆と顔を合わさざるを得ない状況になった以上、事を早く済ませる必要もなくなり、心に余裕ができたようです。


「あ、はい、それじゃあ、申し上げますね。何故僕が後の世から来たのではないと思い始めたかというと、この世の出来事が僕の世の出来事と同じだからなんです。間渡矢の城の楠の木の枝は同じ形をしていました。富士山は三百年前に噴火していました。東北、いや陸奥の国で地震があったのは五年前でした。播磨の国で地震があったのは二十年前でした。それは僕の世でも同じなのです。人がかかわらない自然の歴史はこの世も僕の世も同じなのです。でも人が作り出す歴史、これだけは僕の世とは違っている、三百年遅れているんです。つまり今僕が居るこの世は僕の世の過去の姿ではなく、僕の世とは全く関係ない別の世なんです、たぶん」


 胡散臭そうな顔をする吉保。隣に座る正武も同様です。


「それでは何か、世というものは一つではなく二つあるとでも申すのか」

「はい、もしかしたら三つ、それ以上あるのかもしれません。そして、それぞれの世において経過した時間は全て同じなんです。間渡矢城には大きな楠の木があって、僕の世では樹齢七百年って言われています。それはこちらの世でも同じはずです。楠の木が芽生えて七百年後を僕らは平成二十八年と呼び、楠の木が芽生えて七百年後をこの世では元禄十四年と呼んでいる、それだけの事なんです。時間の経過はどちらも同じなんです。人の歴史だけがゆっくりと進んでいるんです」


 吉保も正武も実に興味なさげな顔をしています。二人にとっては、この世と与太郎の世の関係がどうなっているかなど、どうでもよい話。与太郎が役に立つかどうか、それさえ分かればよいのです。

 しかし綱吉公だけは熱心に与太郎の話を聞いていました。余りにも日常とかけ離れた内容なので、綱吉公の頭に適度な刺激となって作用しているようです。


「与太郎、それは考え方のひとつに過ぎぬのではないか。逆に、正しく経過しているのは人の歴史で、それ以外の歴史が通常よりも早く経過しているとも言えるではないか。さすればその方は過去に遡った事になろう」


 いきなり綱吉公が喋り出したので驚く吉保。慌てて取り繕います。


「与太郎、人と自然の経過の仕方が、その方の考えとは逆の可能性もあり得よう。これを如何に考える」


 綱吉公と吉保に指摘されても与太郎は落ち着いています。昨日から今日にかけて布姫から与えられた多くの知恵が、与太郎の自信を支えているのです。


「ううん、やっぱり人の歴史が遅れているんです。と言うか間延びしているんです。僕らの世では関ケ原の戦いは元禄十四年の百年くらい前に起きているはずなんです。なのにこの世では百二十年前に起きている。元禄の前の貞享も僕らの世では五年までしかないのに、ここでは六年まである。人の歴史にかかわる全ての事象が、大体二割増しくらいで間延びして進んでいるんです。きっと人の寿命なんかも延びていると思います。ですから進み方がおかしいのはやはり人の歴史の方なんです。僕が動いたのは時間軸ではなく単純に空間軸だった、そして動いた先の世の人の歴史は僕の世よりもゆっくり進んでいるので、その差が三百年も開いてしまっていた、これが真実だと思うんです」

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