楓蔦黄その五 晩秋桜色

 ずかずかと表御殿に上がり込む恵姫。その後を追う雁四郎。数日前に訪れたばかりなので大書院の場所は分かっています。襖を開けて大声で叫びました。


「おい、乗里、来てやったぞ。話は手短にな。わらわは疲れておる……」


 威勢よく飛び出した言葉が尻すぼみになっていきます。それもそのはず、大書院には誰も居なかったからです。


「恵姫様、乗里様が居られるのはここではありません。小居間にてお待ちです」


 声を掛けてきたのは、先ほど老中の屋敷で左右衛門の横に座ったまま、ほとんど何も喋らなかった松平家の留守居役です。


「それならそうと早く言わぬか、さっさと案内せい」

「ははっ」


 他家の家臣を自分の家来の如く扱う恵姫。雁四郎ですら眉をひそめてしまう振る舞いです。どうやら恵姫の頭の中では、既に自分は乗里の正室になってしまっているようです。


「乗里、来てやったぞ」


 小居間の襖を開ければ乗里がお茶を飲んで寛いでいます。どたどたと中に入り、敷かれた座布団に尻を置くのかと思えば、いきなり身に着けた装束を脱ぎ始める恵姫。


「えっ、ちょっと君、何を始める気なのかな」


 乗里が驚くのは当然ですが、雁四郎は驚くを通り越して顔が青ざめています。慌てて恵姫の腕を掴みました。


「おやめください。気でも違えたのですか」

「失礼な事を申すな。こんな重くて暑苦しくて身動きできぬ装束を身に着けていては気が滅入ってしまうわ。おい乗里、小袖を二、三枚貸せ。それに着替える」

「勿体ないなあ、その衣装、可愛くて好きなんだけどなあ」

「べ、別にそなたを喜ばせるために着ておるのではないのじゃぞ。勘違いするでない」


 言葉とは裏腹に頬がほんのりと桜色に染まる恵姫。乗里は余裕の笑いを浮かべています。


「まあ仕方ないや。ちょっと誰か来て。この破廉恥娘をどこかへ連れて行って着替えさせてあげて」


 手を叩いて人を呼べば、先ほどの留守居役が小居間に入ってきました。脱ぎかけのまま恵姫は連れられていき、いつもの町娘のような格好になって戻って来ました。


「ふうー、ようやく人心地ついたわい。どれどれ茶でも飲むとするか。グビッ。ふ~む、なかなか良い茶を飲んでおるではないか。おや、茶請けは饅頭か。けち臭いのう。天下の松平家ならば栗羊羹くらい用意致せ」


 乗里そっちのけで喋りまくる恵姫。それでも名君と名高い乗里は、実に愉快と言わんばかりの顔で恵姫を眺めています。


「もぐもぐ、ところで乗里、何の話がしたくてわらわを呼んだのじゃ。とっとと話さぬか」

「ああ、そうだね。本当は恵姫と二人だけで話がしたいんだけどなあ。雁四郎君ってさあ、結構気が利かないよね。縁談が決まった二人がお話するとなれば、普通は席を外してくれるものじゃないのかなあ」

「拙者のお役目は恵姫様の警護。それに先日いきなり襲い掛かられた前例もありますれば、片時もお側を離れるわけには参りませぬ」

「あっ、そう。お役目ご苦労様」


 堅物の雁四郎に言うだけ無駄と分かっていた乗里。すぐに諦めて恵姫に視線を向けました。


「別に大した話があるわけじゃないよ。さっきの礼を言おうと思ってね。君のおかげで思った以上に首尾よく事が進んだでしょ。正武さんも僕の聡明さに感心していたし、これで乗里様の名声は一層高まったはずさ」


 ご機嫌です。数日前、大書院で恵姫の説得に当たっていた時の不機嫌さは、もう影も形もありません。一方の恵姫は不愉快極まりない表情です。結果的に乗里の思い通りになってしまったのが面白くないのです。


「それにしてもさあ、あんなに嫌がっていたのにどうして比寿家断絶を認めてくれたのかな。もしかして僕に気に入られたかったから、とか?」

「むぐっ!」


 食べていた饅頭を喉に詰まらせそうになった恵姫。慌ててお茶を飲んで言い返します。


「あ、阿呆か。何故にわらわがそなたのような無能で無礼で人徳の欠片もない奴に気に入られたいと思わねばならぬのじゃ。戯言も大概に致せ」

「じゃあ、どうして?」

「そ、それはじゃな、布や才の忠告を受けたからじゃ。それと左右衛門をがっかりさせたくなかったからじゃ」

「へえ、そうなんだ」


 乗里は恵姫をじっと見詰めています。何も言いません。黙って見詰めているのです。その視線に耐えかねたように恵姫は顔を伏せてしまいました。


「あの時もそうやって視線を逸らしたよねえ。どうしてかなあ」

「そ、それは理由などない。別の所を見たくなっただけじゃ」

「その前はずっと僕の方を見ていたよねえ。何が気になっていたのかなあ」

「あ、あれはそなたが粗相をせぬよう見張っていただけじゃ」

「頬っぺたも今と同じで火照っていたよねえ。何故かなあ」

「し、装束を何枚も重ね着させられて暑かっただけじゃ」

「僕が君の手に触れても振り払おうともしなかったよねえ。普段の恵姫なら考えられないなあ」

「ま、正武様の手前、そのような無作法な振る舞いを慎んだだけじゃ」


 これを聞いた雁四郎。憤懣やるかたないといった調子で口を挟んできました。


「なんと、そのような事があったとは。みだりに姫様のお体に触れるとは許せませぬな」

「そうであろう雁四郎よ、もっと怒ってやれ。乗里を叱りつけてやるのじゃ」

「乗里様、今後そのような端ない真似はおやめくださいませ。この雁四郎が許しませぬ」


 さすがは男女の仲に疎い雁四郎です。乗里の言葉と、頬を染めてしどろもどろに返答する恵姫を見ていれば、二人の仲が今どのような状況なのか容易に推測できるのですが、武芸一筋に生きてきた雁四郎には気付く事すらできなかったのでした。


「あ~あ、興醒めもいいところだよ。雁四郎君さあ、早く嫁を貰った方がいいよ、後継ぎなんでしょう。厳左さんも曾孫の顔を早く見たいんじゃないかなあ」

「余計なお世話でござる!」


 どうやら二人の機嫌を思いっ切り損ねてしまったようです。溜息をついて苦笑いの乗里。


「話がそれだけなら帰らせてもらうぞ。おい、雁四郎、行くぞ」

「ははっ!」

「待ちなよ」


 立ち上がった恵姫に乗里が声を掛けました。恵姫は不審な目をして乗里を見据えます。


「まだ何か用があるのか」

「あるよ。これで僕の役目は終わったけど君はまだ終わってない。与太郎君の件が残っているものね。これは意外と面白い事になるかもしれないよ」


 思わせ振りな乗里の言い方に、恵姫はまた座布団に尻を下ろしました。聞いておいて損はない話のようです。


「面白いとはどのような意味じゃ。申してみよ」

「今日、正武さんが言っていたよね。江戸に居る姫衆全てが御城に上がるって。布姫さんってさあ、いつも冷静で喜怒哀楽を表さないけど、島羽に来た時、僕は感じたんだ。この人かなり怒っているなあって。姫衆を潰しにかかろうとした公儀に相当腹を立てているのは間違いないよ。だからね、二度と姫衆に手が出せないように、吉保さんを懲らしめるつもりなんじゃないかな」

「ほう、それは面白いではないか」

「でしょ。僕も見に行きたいけどそれは無理だから、恵姫だけでも楽しんでおいで。話はそれだけ。ああ、その小袖は返さなくていいよ。松平家からの贈り物。それからさあ、間渡矢に帰る時はお別れの挨拶くらいはして行ってよね」

「無用な恩は受けぬ。小袖は後で使いの者に持たせるわい。帰りの挨拶は気が向いたらじゃ。よし、帰るぞ、雁四郎」

「ははっ!」


 立ち上がり、今度は本当に小居間を出ていく恵姫。雁四郎は風呂敷に包んだ恵姫の装束を持ってその後に続きます。

 松平家の庭を通って門に急ぐ二人。見回せば庭の立木はすっかり色付いています。その美しい風景に雁四郎が賞賛の声を上げます。


「紅葉が美しい季節になりましたなあ。さすがは松平家のお庭、よく手入れされておりまする。そう言えば、小居間での恵姫様ですが、頬が紅葉のように色付いておられましたな。熱でもおありですか」


 歩いていた恵姫の足が止まりました。戻っていた頬の色が、また色付き始めています。


「よ、余計な事は気にせずともよい。帰りは駕籠には乗らず歩くぞ」


 そして再び速足で歩き始める恵姫。去りゆく秋の風景の中、恵姫の頬にだけは春がやって来ているようでした。

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