楓蔦黄その四 姫屋敷からの文

 老中正武との面談における最大の難所を乗り切った左右衛門。これまでの緊張はどこへ行ったのかと思うくらい緩んだ顔で、出された茶を飲んでいます。それはまた他の三人も同じでした。

 打ち解けた雰囲気が漂い始めた小書院の中で、正武が何かに気付いたように言いました。


「ところで与太郎とか申す者はどうなっておる。まだ姿を見せぬのか」


 突然の問い掛けに慌てて湯呑を置き、頭を下げる左右衛門。


「申し訳ありませぬ。今日か明日かと待ってはおりますが、今に至るまで一向に姿を現さぬのです。与太郎出現の折には直ちに知らせを走らせますゆえ、今しばらくお待ちいただきとうございます」


 正武は頷きながらも良い顔をしません。与太郎召喚に対しても何か思うところがあるようです。


「与太郎に関しては我ら老中も意見が割れてな。そのような怪しげな者を江戸に呼び寄せるのは以ての外、いや怪しげな者だからこそ吟味の必要があると、なかなか話はまとまらなかったのだ。江戸に呼ぶべきか呼ばざるべきか決めあぐねた挙句、最後には出羽殿の一言で決まってしまった」

「それでは与太郎召喚の件に関しても、吉保様は何か企んでおられるとお考えなのですか」


 好奇心に目を輝かせながら正武に尋ねる乗里。与太郎召喚について乗里は全く関係がないのですが、公儀の内部事情についてはかなり興味があるようです。


「違うな。出羽殿が与太郎に何か仕掛けるつもりなら、召喚などせずに間渡矢で亡き者にしようと考えたであろう。これに関しては公方様の意向が大きく働いているものと思われる。恐らく直接会って話を聞きたいのだ」

「なんと! ならば与太郎を御城に招き入れ、公方様に御目通りさせるおつもりなのですか」

「そうなるな。そうまでして公方様が与太郎に執着するのは、これより後、徳川の世はどうなるのか、そして公方様自身に何が起きるか、それを知りたいが為であろう」

「……なるほど」


 正武に全てを言われるまでもなく、乗里には綱吉公の心の内が分かりました。将軍の心を悩ませている最大の関心事、それは世継ぎが居ない事です。

 長女鶴姫が誕生した二年後、長男徳松が生まれるも僅か五歳で夭折。その後は子宝に恵まれる事なく今に至っているのです。それは偶然にも比寿家の置かれた状況と全く同じでした。この先、嫡男は誕生するのかどうか、それを与太郎から聞き出したいのでしょう。


「だが、与太郎の件はさして重要ではない。問題は姫衆なのだ。恵姫、布姫から何か聞いてはおらぬか」


 何の前触れもなく話を振られて、飲んでいたお茶を吹き出しそうになる恵姫。姫屋敷では与太郎の話は全く出なかったので、ありのまま答えます。


「いえ、何も聞いてはおりませんが」

「そうか。実は先日姫屋敷から使いの者が文を届けに来たのだ。そこにはこう書かれていた。与太郎召喚の折には、今江戸に居る伊瀬の姫衆全てを同席させてもらう、とな」


 ここで言葉を区切り、恵姫をじっと見据える正武。何か知っているなら正直に申せ、その目はそう言っています。姫屋敷から文が届いたのならば、それを書いたのは間違いなく布姫のはず。そして布姫の目的は与太郎が江戸に留め置かれるのを阻止する事。しかしそれをこの場で言って良いものかどうか……迷った恵姫が選択したのは質問返しです。


「姫屋敷からの文にその理由は書かれていなかったのですか」


 含み笑いをする正武。見破られたか、心の中でそうつぶやきました。恵姫から引き出した答えと、文に書かれている理由を比べてみるつもりだったのです。同じなら良し。異なればどちらかが嘘をついている。しかしこんな子供騙しの手には引っ掛からなかったようです。


「いや、書かれていた。与太郎がこの世に留まれるのは半日。それ以上留めるためには姫の力が必要となる。大勢居た方が容易く与太郎を留めておける。ゆえに全ての姫を同席させてもらう、とな」


 そんな話を聞くのは初めてでした。しかも与太郎が半日以上留まれるという事実を、わざわざ公儀に教える理由も分かりません。困惑する恵姫。しかし文に書かれている以上、話を合わせておかなくてはなりません。


「そうですか。実は与太郎様を留めておく方法を、私はよく知らないのでございます。姫屋敷からそのような文が届いたのならば、書かれている通り為された方がよろしいのではないですか。公方様との遣り取りの途中で与太郎様に姿を消されては困りますでしょう」


 澄ました顔で答える恵姫ですが、内心では、

『うぐぐ、何が悲しくて与太郎に様など付けねばならぬのじゃ。彼奴、今度わらわの前に姿を現したら目に物見せてくれるわ』

 と非常に理不尽な怒りを与太郎に向けているのでした。


「そうか。まあ、これに関しては姫衆嫌いの出羽殿が大変神経を尖らせておってな。見るのも聞くのも嫌な姫衆を、一人ではなく多数本丸御殿へ招き入れる事に相当腹を立てているようだ。さりとてこれは公方様のご希望であるから逆らうわけにもいかぬ。当日はかなり機嫌が悪かろう。用心致すようにな」

「有難き御忠告、感謝致します」


 ここで小書院の襖の向こうから声が掛かりました。


「ご老中様。そろそろ話を打ち切っていただかねば、並んでいる方々全てに会えなくなります」

「おお、そうか。すっかり話し込んでしまったな。ではこれにて松平家、比寿家縁談の話を終わりと致す。ご苦労であった。尚、与太郎出現の折には速やかに知らせを送るように。数日中に公方様へお目通りできるよう取り計らうつもりだ」

「ははっ! 承知仕りましてございます」


 平伏する左右衛門。正武は立ち上がり一旦小書院を出ます。それを見届けてから恵姫たちも立ち上がりました。やっと終わった……それは左右衛門だけでなく他の三人もまた等しく抱いた解放感でした。

 老中の屋敷を出て門へと向かう恵姫たち四人。庭の立木が見事に紅葉しています。


「屋敷に向かう時は色付いた立木にすら気が付かなんだのう。心にゆとりができると様々な物が見えてくるようじゃ」

「僕は行く時も気付いていたけどね」

「ふっ、口だけなら何とでも言えるわい。左右衛門、とっとと屋敷に帰って寝るぞ。早起きのせいで眠くなってきたわい」


 喉元過ぎれば熱さ忘れる、恵姫が先ほどまで被っていた猫は、一匹残らずどこかへ行ってしまったようです。乗里に毒舌を浴びせながら門を出れば雁四郎たちが待っています。


「お帰りなさいませ。随分と長引いておりましたので心配致しましたぞ。それで面談の方は……」


 それ以上は訊くまでもありませんでした。左右衛門のにこにこ顔を見れば全てが首尾良くいったのは一目で分かります。

 こうして江戸での目的の一つは達せられました。駕籠に揺られて半分眠りながら恵姫は満足でした。何故、自分の意思を曲げて比寿家断絶を認めたのか、それは恵姫自身にも分かりませんでした。けれどもその事を悔やむどころか、そんな決断をした自分を嬉しく感じていたのです。


「むにゃむにゃ、皆を喜ばす、か。なるほど確かに気持ちの良いものではあるのう、むにゃ」


 揺り籠の中で眠っている赤子のように、恵姫は一時の安眠を楽しむのでした。



「姫様、恵姫様、着きましたぞ。起きてくだされ、恵姫様」


 誰かが体を揺すっています。揺り籠の揺れは心地よい眠りへと誘ってくれますが、この揺れは逆に眠りを引き剥がそうとします。仕方なく目を開けると雁四郎の顔が見えました。


「うるさいのう、気持ちよく眠っておったのに。もう昼飯か」

「まだ昼にはなっておりません。それにしてもよく駕籠の中で眠れるものですね。屋敷に着いたので起こしたのです。夢の続きは座敷で見てくだされ」


 ああ、駕籠の中で寝ておったのだなと気付いた恵姫は、揃えて置かれた草履を履いて駕籠の外へ出ました。少し周りの風景が違います。


「おい、ここはどこじゃ。比寿家の屋敷ではないであろう。しかし見覚えもあるが、はて……」

「ここは松平家のお屋敷でございます。恵姫様と話をしたいので連れて参れと、乗里様直々にお命じになられたので」

「の、乗里がわらわと話がしたい、じゃと!」


 眠っている間に連れてくるとは、信義にもとる振る舞いではないのかと憤慨しつつも、心の片隅でほんの少しだけ嬉しさを感じていた恵姫ではありました。

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