雷乃収声その四 宮司と毘沙姫

 乾神社の宮司はふみを読んでいました。先ほど届いたばかりの文の差し出し人は布姫。既に間渡矢を去ってから七日が経っていました。それでもこうして文を送って来る心遣いを思うと、布姫が如何に間渡矢の現状を気に掛け、提言した自分の策に責任を感じているか、その心情が宮司にはよく理解できるのでした。


「冷淡なように見えて、その心根は優しいお方。何かお役に立てればよいのだが……」


 宮司は文を懐に仕舞うと境内を出ました。拝殿の奥に広がる森の小道へと歩を進めます。境内の清掃が終わったので、今度はこの先にある榊の地を掃き清めるつもりなのです。

 左右に立ち並ぶ樹木は徐々に色づき始めています。やがて紅葉の彩りを風に揺らしながら、小道を落ち葉で埋め尽くす事になるでしょう。


「おや、あれは……」


 榊の前に人影がひとつ、毘沙姫です。こちらに背を向け俯いて立つ姿は、まるで誰かと話をしているかのように見えます。


「毘沙姫様、ようこそお出で下さいました」


 そう声を掛けられて初めて宮司の存在に気付いたようです。驚いて振り向く毘沙姫の傍へ宮司は歩み寄りました。


「この榊にも緑の実が付きました。この実が黒く熟す頃には恵姫様の母上様の命日がやって来ます」

「そうだな。そしてここに来るのはずっとその一日だけだった。この榊も黒い実を付けている姿しか知らぬ。このように緑の実を付けた姿は初めて見る」

「初夏には白い花も咲きます。恵姫様のように愛らしい花です」


 毘沙姫は顔を上げて空を仰ぎました。この榊の地だけは森の木々も生い茂る事を忘れ、ぽっかりと秋の空が見えるのです。


「布はここへ来るたびに言う。恵の母はまだ消えてはおらぬと。生に愛された姫、その力はまだ残されていると。私には何も感じぬのだがな」

「それは私とて同じ事。布姫様と斎主様にしか感じられぬものなのでしょう。ところで、せっかくお越しになったのです、私の住まいでお茶でも如何ですか」

「それは構わんが、宮司殿はいいのか。掃除の途中だったのではないか」


 竹箒を持って歩いて来たのですから、毘沙姫がそう思うのも無理ありません。宮司は穏やかな顔で首を横に振りました。


「掃除はお茶を飲んでからでもできます。さあ、参りましょう」


 榊の地を離れ宮司の住まいへ向かう二人。茅葺き板壁の質素な造りの一軒家、その客間に腰を下ろすのは、土鳩を持って恵姫と共に訪問して以来です。


「しばしお待ちください」


 厨房へ消えた宮司を黙って待つ毘沙姫。ほどなく盆に二つの湯呑を乗せて戻って来ました。


「生憎、茶請けなどはございませぬ。喉の渇きを潤してくださいませ」

「私は恵とは違うからな。茶が飲めれば十分だ」


 静かに茶を味わう宮司と毘沙姫。六月に訪れた時には蝉の鳴き声に包まれていた客間も、今は虫の声が聞こえて来るだけです。


「土鳩はどんな具合だ、宮司殿。港と城の土鳩はそれなりに役に立っているようだが」

「鷹之丞様が二日に一度、代わりの土鳩を持って来るだけ。今のところ出番はないようです」

「そうか。このまま出番がなければそれに越した事はない。引き続き頼むぞ」


 間渡矢港と城の土鳩が役に立っていると言っても、布姫や与太郎についての文を運んでいるだけです。曲者の早期発見という本来の目的では、まだどこの土鳩も役に立ってはいないのでした。

 それから二人は静かにお茶を飲みました。宮司は何も訊こうとしません。ただ黙って座っているだけです。やがて厳左の屋敷で見せたのと同じ自嘲めいた笑みが、毘沙姫の口元に浮かびました。


「何も訊かぬのだな、宮司殿。まさか私が土鳩を気に掛けてここへやって来たと思っているのではあるまい」

「訊かずとも分かっております。間渡矢を去る踏ん切りが付かぬのでしょう」


 宮司は懐から折り畳んだ奉書紙を取り出しました。


「先ほど布姫様から文が届いたのです。その中で毘沙姫様についても言及されておりました。間渡矢に残れと言っても、湧き上がる旅への郷愁が毘沙姫様の心に迷いを生じさせるでしょう。迷った時には親しい者と顔を会わしたくなるのが毘沙姫様の癖。三人の姫、城の者、城下の者、そして最後には必ず乾神社に姿を現すはず。もし用を告げずに訪れる事あらば、その心を軽くしてあげて欲しい、このように書かれておりました」


 これには毘沙姫も驚かずにはいられませんでした。文に書かれた通りだったからです。


「布……恐るべき知恵者だな。そこまで私という人物を見抜いていたか……それで、宮司殿はどのようにして私の心を軽くしてくれるのだ」


 宮司は文を懐に仕舞うと、穏やかではありながら威厳を感じさせる眼差しを毘沙姫に向けました。


「これまで毘沙姫様が迷いをぶつけられた皆様は、思うままにすればよい、間渡矢を去る事に異議はない、このように言われた事でしょう。しかし私はそうは申しません。毘沙姫様は間渡矢に残るべき、そう申し上げます」

「ほう、それは何故だ」

「布姫様がそう仰られたからです。毘沙姫様に迷いが生じるのは、間渡矢に残らねばならない理由が解せないからです。腑に落ちぬ理由のために何かを行えと命じられても、素直に行えるものではありません。布姫様の仰った万が一の危機、たとえそれが起きたとしても間渡矢の者たちだけで十分解決できる、そう思っているからこそ素直に間渡矢に残ろうという気になれず、余計に旅への想いを募らせているのでしょう」

「そこまで分かっていながら何故間渡矢に残れと言うのだ。宮司殿も私の力はもはや必要ないと思っているのではないのか」

「はい。姫衆が忍衆と手を切った時点で恵姫様の危機はほとんどなくなったと思っております。これが常人の意見であれば私も皆様と同じく、毘沙姫様が間渡矢を去る事には何の問題もないと考えたでしょう。しかし、これを言われたのは布姫様です。そのお考えは私たちの理解を遥かに超えているのです。間渡矢に残るべき理由が分からないのは当然なのではないでしょうか」

「なるほど。布は我らよりも先を読んでいるのだから、腑に落ちぬからと言って軽んずべきではない、こう言いたいのか」

「はい」


 宮司の考えはよく分かりました。瀬津姫をおびき出すために二人で間渡矢を出た時も、船が引き返すまで布姫の真意は分からなかったのです。今もまた同じなのではないか、宮司はそう言いたいのでしょう。


「私一人だけが貧乏くじを引かされているような気がするな。私を間渡矢に留まらせる理由について、文には他に何か書いてなかったのか」

「書いてはございませんでした。ただ、布姫様は毘沙姫様ひとりを間渡矢に残した事について、心を痛めておられるようです」

「ほう、悟りを開いたはずの布でも思い煩う事があるのか」

「文にはこのような事も書かれておりました。恵姫様への危機が残っている以上、布姫様も間渡矢を去るべきではない。しかしどうしても片付けねばならない務めがある。結局、布姫様は恵姫様よりも己の都合を優先させて間渡矢を去った。にもかかわらず、毘沙姫様には己の都合を後回しにさせて間渡矢に残れと命じた、これほど身勝手な振る舞いはない、毘沙姫様には本当に申し訳ない事をしたと」

「申し訳ない……布がそう書いてよこしたのか」

「はい」


 毘沙姫は自分の中で何かが解けていくような気がしました。布姫に対して抱いていた不信や怨嗟の情、それらがまるで春に降る雪の様に消えていくのを感じたのです。自分の苦悩に対する布姫の謝罪……黒姫、恵姫、厳左と語り合いながら、それでも満たされなかった毘沙姫の心は、この布姫の一言でようやく解放されたのでした。


「己一人だけで去らねばならなかった布も、私同様辛かったのだな」

「だからこそ布姫様は最後に付け加えられたのです。毘沙姫様の思うようになされよと。そして毘沙姫様が去られた時の事を考え、できるだけ多くの手を打っておいたとも書かれておりました。これほどまでに毘沙姫様を慮っておられる布姫様のお心を考えれば、やはり私は布姫様のお言葉に従うのが一番良いと考えるのです」


 言い終わった宮司は両手を揃え頭を下げました。布姫の意を汲んで間渡矢に残って欲しい……毘沙姫の前で平伏する宮司の姿からは、そんな声が聞こえて来るようでした。


「宮司殿、頭を上げてくれ。私の心は定まった。よくぞ話してくれたな、礼を言うぞ」


 迷いは吹っ切れました。できる限り間渡矢に留まろう、そう心に決める毘沙姫ではありました。

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