鶺鴒鳴その三 布姫の罠
恵姫に下がっていろと言われたお福は、瀬津姫からも四人からも離れた場所に立っていました。転がっていた与太郎は立ち上がると、周囲をキョロキョロと見回しています。
「ああ、また来ちゃったのか。ここはお城じゃないし、黒様の屋敷じゃないし……初めて来る場所かな」
「な、何だい、おまえは!」
瀬津姫は目をひん剝いて与太郎を見詰めています。無理もありません。いきなり現れただけでなく、Tシャツにズボンという、この時代ではあり得ない服装をしていたからです。
「あ、僕は与太郎です。初めまして」
馬鹿正直に挨拶をする与太郎です。舌打ちをして天を仰ぐ恵姫。一方、瀬津姫はますます驚いた顔をしています。
「与太郎……おまえがあの与太郎だって言うのかい? ちょっとこっちに来な」
「あ、はい」
これまた馬鹿正直に瀬津姫の方へ歩き出す与太郎。もし相手が
「阿呆! 何を素直に瀬津の言う事を聞いておるのじゃ。止まれ、近付くな!」
「へっ? あ、はい」
歩みを止めた与太郎。しかし瀬津姫の動きは俊敏でした。すぐさま与太郎の背後に回り込み、左手で首を絞めると、右手に持った
「えっ、ちょっと、これ何? どーゆー事?」
驚く与太郎には委細構わず、瀬津姫は恵姫たちに吠え立てます。
「さあ、白状しな。どうやってこの男、与太郎を呼び寄せたんだい。もう嘘は通用しないよ」
恵姫はうんざりしてしまいました。さっきから嘘などついてはいないのです。本当の事しか話していないのです。それなのにそれを頭ごなしに否定されては、もう何をどうする事もできません。
「瀬津よ、これまで言った通りじゃ。与太郎はわらわが呼び寄せたのではない。ほうき星が昇れば与太郎は勝手にやって来るのじゃ。その理由もその仕組みも、分かっておる者は一人も居らぬ」
「この状況でまだそんな口が利けるのかい。あんたの大事な与太郎がどうなっても知らないよ」
瀬津姫は苦無を与太郎の頬に押し当てました。恵姫は飽き飽きした顔をすると、吐き捨てるように言いました。
「いいぞ、そんな奴。煮るなり焼くなり好きにするが良い。何なら記伊へ連れて帰っても構わんぞ。のう、才よ、そうであろう」
「ああ、与太郎なんか居ても居なくてもどうでもいいからねえ。瀬津、あんたの家来にしてやったらどうだい」
こんな遣り取りを聞かされたら与太郎も黙ってはいられません。
「ちょ、ちょっと二人も、そんな言い方酷すぎるよ。この前は山の中に置き去りにして、今度は僕を売り飛ばす気なの。少しは僕の身になって考えてよ。あ、お福さん、病気治ったんだね。良かったあ。才様の力を信じないわけじゃないけど、ちょっと心配だったんだ」
「な、何を喋っているんだい。あんたら、正気なのかい」
瀬津姫は自分の思惑が外れて、すっかり戸惑っています。そしてその戸惑いに追い打ちを掛けるように、木立の向こうから腹に響く声が聞こえてきました。
「そこまでだ、瀬津。与太郎を放せ!」
この声。恵姫たちも、そして瀬津姫も、自分の耳が信じられませんでした。木陰から現れた二人の姿を見た時ですら、自分の目が信じられませんでした。
「毘沙、布!」
現れたのは毘沙姫と布姫。先ほど港から帆掛け船に乗って、海の向こうへ消えて行った二人が、六人の前に姿を現したのです。
「あ、あんたたち、間渡矢を去ったんじゃなかったのかい」
「瀬津姫様、驚かせてしまったようですね。お詫び致します。こうでもしなければあなたは姿を現してくれないと思ったものですから。どうしても瀬津姫様とお話がしたかったのです」
「瀬津、与太郎を放せ。おまえの苦無が与太郎の喉に突き刺さる前に、私の大剣がおまえの首を刎ねるぞ」
毘沙姫の大剣は真っ直ぐ瀬津姫に向けられています。それは脅しでも何でもありません。毘沙姫の業の切れ味を考えれば、苦無がピクリと動いただけで、大剣は瀬津姫の命を奪うでしょう。
「ふっ、騙されたよ。まさか布が人を
与太郎の首を絞めていた瀬津姫の腕から力が抜けました。瞬時に毘沙姫が駆け寄り、瀬津姫の手から苦無を叩き落とすと、その両手を縄で縛ります。
「手荒な真似をする事をお許しください、瀬津姫様。どうしてもお話を聞いていただきたいのです。出来ればこのまま城下の河月院までお越しいただけませんか。そこでゆっくりとお話し致しましょう」
「ああ、あんたらの好きにすればいいさ」
瀬津姫はすっかり観念した様子です。自由になった与太郎は突っ立ったままの恵姫たちの元へ駆け寄りました。
「た、助かった~。でも何がどうなっているのか、さっぱり分からないや」
さっぱり分からないのは恵姫たちも同じです。四人とも狐に鼻を抓まれたような顔で毘沙姫たちを見ているのです。
「恵姫様―!」
城下の方から呼び声が聞こえてきました。雁四郎の声です。見れば、鷹之丞と厳左の三人がこちらに駆けてきます。
「無事であったか、恵姫様」
「あ、ああ。しかし厳左よ、何故ここに来たのじゃ」
「間渡矢港からの土鳩文だ。船で去ったはずの布姫様と毘沙姫様が再び港に戻り、城下に向かったとの文を受け取ったのだ。これは何か起きたに違いないと思い、雁四郎、鷹之丞と共に駆け付けた次第」
鷹之丞は土鳩の入った鳥籠をぶら下げています。代わりの土鳩を港に届けるためにやって来たのでしょう。またも土鳩文が役に立ったようです。
「布、毘沙、これはどういう事なのじゃ。説明してくれぬか」
「そうですね。では歩きながらお話し致しましょう」
港へ土鳩を届ける鷹之丞と別れて、総勢十人に膨れ上がった恵姫一行は城下へ向けて歩き始めました。与太郎は三百年後の装束でしたが、こんな格好では城下を歩けぬと、毘沙姫が自分の荷を解いて与えた合羽を羽織っています。
布姫の語るところによれば、最初から間渡矢を去る気はなかったのです。瀬津姫をおびき出し、捕らえ、互いの話を聞き合う、その為に一芝居打ったのでした。
「では、毘沙も知らされてはおらなんだのか」
「ああ、そうだ。驚いたぞ。おまえたちの姿が見えなくなったと思ったら、いきなり、『さあ、港に戻りましょうか、毘沙姫様』とか言い出すのだからな。そこで初めて布の真意に気付いたのだ」
「いいのかねえ、布。あんたは神にも仏にも仕えているんだろう。嘘は五戒のひとつ、人を騙したりしたら仏罰がくだるんじゃないのかい」
「才姫様、私は嘘を申してはおりません。人を騙してもおりません。言葉通り間渡矢を去りました。そして間渡矢に戻らぬとも申しておりません。間渡矢を去り、即座に間渡矢に戻った、それだけの事でございます」
「ははは、さすがは姫衆随一の知恵者。してやられたね。ははは」
明るく笑う才姫。それは才姫だけでなく恵姫たち皆が感じた笑いであり、明るさでした。ただ未だに事情が全く飲み込めていない与太郎だけは、縛られている瀬津姫を気の毒そうな顔で眺めていました。
「しかし、うまい具合に与太郎が現われたものじゃな。布、間渡矢を去る日を今日にしたのは、ひょっとして与太郎が来るのを知っていたからではあるまいな」
「いえ、与太郎様に関しては本当にたまたまでございます。さりとてこれまでの話から、与太郎様は節供の御馳走を楽しみにされている御様子でしたので、中秋の名月となる今夜、あるいは月見の宴を目当てに姿を現すかも、という思いはございました」
「えへへへ」
与太郎が照れ笑いをしています。どうやら布姫に図星を突かれたようです。
「せっかくでございます。今宵は河月院にてお月見を致しましょう。瀬津姫様と親睦を深める良き機会となりましょう」
「あ、あたしは別に、親睦なんか……」
「瀬津、ここまできたら観念おしよ」
口籠る瀬津姫の肩に才姫が手を置きました。それは長らく会っていなかった二人の姉妹の間に、ほんの少しだけ通い始めた心の触れ合いでもありました。
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