草露白その三 河月院招集

 才姫の言葉通り、三味線のお稽古は昼少し前に終わりました。


「はい、お疲れさま。今日はここまでだけど、また習いたくなったら遠慮せずにお言い。いつでも教えてやるよ」


 にこやかにお稽古終了を告げる才姫。ようやく緊張から解放された恵姫は、三味線を習いたくなる時など永遠に来るはずがないと確信していました。


「じゃあ、めぐちゃん、あたしは帰るね。その三味線はめぐちゃんにあげるから、気が向いたら弾くといいよ」


 楽しそうに帰り支度をする黒姫。貰える物は何でも貰っておく恵姫でしたが、気が向いて弾きたくなる時など永遠に来るはずがないと確信していました。


「それにしても黒よ。こんな芸事にうつつを抜かしておってよいのか。そろそろ稲刈りであろう。準備はできておるのか」

「やだなあ、八月大名を忘れたの。二月と八月は好きな事をする月って決めてるんだから。伊瀬に行ったのも二月だったでしょ。八月も来るべき稲刈りに備えて、遊んでおくんだよ~」


 そう言われればそうでした。農閑期の二月と八月は普段できない事をするのが昔からの黒姫の習慣だったのです。


「骨休めもほどほどにな。二人とも、気を付けて帰るのじゃぞ」


 こうして、初めてにして恐らくは最後となるであろう三味線のお稽古は、恵姫を一層芸事嫌いにさせただけで終了しました。二人が帰ってしまうと、残して行った三味線を納戸にぶち込んでしまう恵姫。


「このような物、二度と見たくないわ。こっそり見倒屋みたおしやにでも売っ払ってしまおうかのう」


 黒姫が聞いたら拳骨で頭を数回殴られそうな言葉です。しかし納戸にはこうしてぶち込まれたままのガラクタが、山のように転がっています。この三味線もやがて忘れ去られ、売られる事も弾かれる事もなく山の一部となってしまうのでしょう。


 二人が帰ってすぐに昼食となりました。食べ終わって腹が膨れても気分が優れない恵姫。最近は夕方ではなく昼下がりに浜へ行く事が多くなっていますが、三味線の稽古に体力と気力を使い果たしてしまったようで、浜へ行く気になれないのです。


「少し昼寝でもして鋭気を養うとするかのう。昨日は大漁であったし、今日は無理に釣りをせずともよかろう」


 横になるとすぐに眠気が襲ってきます。食後の居眠りほど心地良いものはありません。このまま夕食まで寝てしまいそうな極楽気分です。


「食後の一睡、万病円まんびょうえんと言うからのう。毘沙の口癖ではないが、寝ていれば果報が葱を背負ってやって来そうな気になるわい」


 昼過ぎのそよ風に吹かれながらウトウトと昼寝を楽しむ恵姫。そんな時は必ず邪魔者がやって来るのが間渡矢城の決まり事。今日も縁側から声が掛かりました。


「姫様、恵姫様、居られるか」


 厳左です。最初は無視して寝ていた恵姫ですが、あんまりしつこく呼び掛けるので、仕方なく御簾戸を開けて縁側に出ました。


「何じゃ、昼寝の最中であるぞ」

「おう、これは良かった。返事がないので浜へ探しに行こうかと思い掛けたが、手間が省けた」


 どうやら釣りに行ったと思ってしまっていたようです。探しにまで行こうとするのですから、余程急な用件なのでしょう。


「朝の稽古ですこぶる疲れてのう、釣りはやめて体を休めておったのじゃ。して、何の用じゃ」

「布姫様より言付けだ。今晩、河月院に集まっていただきたい、との事だ」

「ほう、布が再度わらわを呼び寄せるか。ならば必要な話は全て聞き終わったというわけじゃな」


 布姫が間渡矢に到着してから既に十日が過ぎていました。その間、恵姫たちを手始めに、厳左や磯島などの城の者、庄屋や網元などの間渡矢の領民、その他、布姫に指名された者たちが河月院に呼び出され、布姫と様々な話をしていたのです。


「そうだ。この十日間で布姫様と話をした間渡矢の領民は百を下らぬと聞いておる。今の間渡矢がどうなっているのか、多くの者から話を聞いて考えたい、それが布姫様の要望であったからな」

「布も物好きじゃのう。今の間渡矢がどうなっておるかなど知っても、布には何の益にもならぬじゃろうに」

「うむ、それは、まあ……」


 ここで厳左は言い淀んでしまいました。布姫を呼び寄せた理由、それは記伊の姫衆、伊賀の忍衆、それらと繋がる寛右の動き、これらの問題を解決してもらうためです。その為に布姫は多くの者から話を聞いて解決の糸口を探っていたのでした。しかし、その事を恵姫にはまだ話してはいなかったのです。


『このまま話さずに隠しておくべきか。いや、布姫様が来た以上、いずれは知られる時が来る』


 今、布姫が集合を掛けたのは、解決の方策が見出せたからに他ありません。恵姫も呼ばれているのですから、もう隠し通すのは不可能でしょう。


「どうした厳左。何を難しい顔をして黙りこくっておる」


 自分の顔を覗き込む恵姫を前にして厳左は決心しました。毘沙姫との相談なしではありますが、ここはもう包み隠さず自分たちの考えを話しておくべきだと感じたのです。


「恵姫様、中庭を歩きながら聞いてくれぬか。少々長い話になりそうなのでな」


 恵姫は縁側に座ったり寝転んだりできますが、厳左は突っ立ったままです。長時間同じ姿勢で立っているより、歩いて話した方が楽なのです。


「ならば昼飯の腹ごなしに、少し動くとするかのう」


 厳左の求めに応じて庭に下りる恵姫。日陰の場所を選んで歩きながら、厳左は布姫が間渡矢に来た経緯を語って聞かせました。忍衆と手を結んだ記伊の姫衆、忍衆の背後に居る寛右、恵姫を城から追い出す事で利害が一致する瀬津姫と寛右。そしてそれらの動きを封じている毘沙姫の存在。土鳩を配置した本当の目的。


「もはや我らだけでは事は収まらぬ。そこで布姫様の知恵を借りるべく、毘沙姫様に文を書いてもらったのだ。我らの申し出を受け入れてこの地に足を踏み入れた布姫様は、さっそく多くの者たちから話を聞き始めた。この十日間で今の間渡矢がどのような有様なのかを把握し、それを解決するための方策をようやく考え付いたのであろう」


 厳左が話している間、恵姫は一切口を挟みませんでした。話の内容には恵姫自身も薄々勘付いていたからです。自分の推論を厳左の言葉が補強してくれた、ただそれだけの事でした。


「うむ、よくぞ話をしてくれたな、厳左。布が毘沙の文によって間渡矢へ来た事は乾神社でも河月院でも聞かされて知っておった。布の知恵を借りたくなるそなたの気持ちは分からぬでもないが、わらわたちの問題はわらわたちだけで解決したかったのう。今となっては手遅れであるが」

「面目次第もない。比寿家の揉め事に他人を巻き込むとは、家老として失格であるな」

「言い出したのは毘沙であろう。ならば厳左が気にする事はない。しかし、よく斎主宮が許してくれたものじゃ。争い事、特に武家に関する問題には極力関わらぬはずなのじゃがな」

「それは代筆をしてくれた乾神社の宮司殿の手柄であろうな。恵姫様の危機を匂わせる様な書き方をしてくれたのだ。伊瀬の姫衆の一大事とあっては斎主宮も黙ってはいられなかったのだろう」


 恵姫は八朔の日に宮司に礼を言っていた毘沙姫を思い出しました。代筆と言っても文の内容はほとんど宮司が考えて書いたのでしょう。つまり宮司もまた今の間渡矢について、厳左や毘沙姫と同等の知識を持ち、危機感を抱いていたのです。


「なにやら仲間外れにされていたような気がするのう。さりとてこれで皆が何を考え、何に心を痛めていたのか、わらわもようやく分かったのじゃ。有難く布の解決策を聞くとしようぞ」

「されば、本日夕刻、河月院にて」


 厳左は小さく礼をして表御殿へ歩いて行きました。その後姿を、実を付けた芍薬が見送っています。昼の日差しの中で揺れる芍薬の葉には、もう朝の露は残っていません。


「風に揺られながら必死にしがみ付いておった白露も、昼の日差しには勝てずに消えたか。露とは儚いものじゃのう」


 ずっと昔、母に読んでもらった萩の上露の話を思い出しながら、比寿家の行く末がこの露のように儚く感じられる恵姫ではありました。

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