綿柎開その二 恵姫の見立て

 すっかりお盆前と同じ日常に戻った間渡矢城。ただひとつ、まだ戻っていない事があります。小座敷で寝た切りになっているお福です。


 御典医が「しばらく養生すれば数日のうちに回復致しましょう」と述べて才姫と共に城下へ去ってから、既に八日が経っていました。その間、恵姫は毎朝小座敷に出向き、お福の病状を見立てていました。

 お福は日毎に元気を取り戻し、誰の目から見ても明らかに病は完治していました。しかし、恵姫の見立ては全く違っていました。お福にお役目を与えるのは時期尚早であると、この八日間ずっと主張し続けていたのです。


 今日も今日とて小座敷にやって来た恵姫は、布団の上で半身を起こして座っているお福を見ると、すぐに注意を与えます。


「おお、お福。寝ていなければ駄目ではないか。無理は禁物じゃぞ」


 そう言われて素直に横になるお福。顔色はすっかりよくなり、咳はなく、熱もなく、汗もかいておらず、息は乱れず、もはや病人と呼ぶには相当無理があります。が、


「どれどれ、今日もわらわが診てやろうぞ。ああ、そのような心配顔をするでない。才直伝の見立てである。さて、熱はっと。ふむ、さほど高くはないようじゃが、無理をするとぶり返す恐れがあるな。ほれ、口を開けてみよ。喉は……まだ少々腫れているようじゃぞ。咳は出ておらぬようじゃが、ひょっとして我慢しているのではあるまいな。遠慮せず咳き込むが良い。さて発疹はと……ふむまだ目に見えない程に残っているようじゃ。完全に消えぬうちに陽に当たると痕になって残るからのう。まだまだ外には出られぬな。うむ、結論として、今日もこのまま寝て過ごすが良い。お役目は一切してはならぬぞ」


 お福は困った顔をしています。お福自身はもうどこも悪くないと感じているからです。それに引き換えにんまり顔の恵姫。どうあってもお福を病人のままにしておきたいという魂胆見え見えの表情です。


「お福は如何ですか、恵姫様」


 小座敷に入って来た磯島が尋ねました。恵姫は眉間に皺を寄せ、腕組みをし、険しい表情で答えます。


「うううむ……かなり良くなってはおるようじゃが、まだまだ起き上がるのは無理のようじゃ。しばらくは安静にしておった方が良かろうな」

「具合が悪いようには見えませんが。数日前から着替えも食事も厠も行水も、全て一人で行っております。お福はとっくに治っているのではありませんか」

「いやいや、磯島よ。それは早合点と言うものじゃ。麻疹とは恐ろしい病でのう、しっかり治さねばぶり返す事もあるのじゃぞ。生兵法は怪我の元と申すではないか。それでなくともわらわたちはお福の具合が悪いと気付いていながらお役目を続けさせ、病を悪化させてしまったのじゃ。二度とそのような事が起こらぬよう、ここはしっかりと治し切った方が良いのじゃ」


 お福の病は既に治り、いつでも元通りに働けるはず、磯島はそう考えていました、しかし恵姫にこのように言われると反論できなくなってしまいます。

 お福の病が死線を彷徨うほどに重くなったのは、磯島が病状を軽く見過ぎたせいでもあるのです。同じ過ちを繰り返さぬためにも、再びお役目に就かせるかどうかは、慎重に判断したいのでした。


「分かりました。それでは本日も一日様子を見る事に致しましょう」

「うむ、それが良い。となれば本日のお稽古事も休みであるな。お福がこのような有様では稽古に身が入らぬからのう、ふっふっふ」


 最後の含み笑いは磯島に聞こえぬように、こっそりと発せられました。そうです。お福を病人のままで居させたい理由、それはお稽古事をやりたくないからなのです。


『お福を病人のままにさせておけば、稽古はいつまで経っても始まらぬ。お福もお役目から解放されて楽をできるし、一石二鳥じゃのう。ふっふっふ』


 お福ひとりが抜けて奥御殿の女中たちは忙しさが増しているのですが、そんな事に気が回るはずもない恵姫です。口元を緩めて悪い顔になっている恵姫を一瞥した磯島は、冷ややかな声で言いました。


「姫様、付かぬ事を伺いますが、まさかお稽古事をやりたくないが為に、お福を病人に仕立て上げているのではないでしょうね」

「な、なんじゃと!……」


 見事に心中を言い当てられて二の句が継げなくなる恵姫。しかし磯島との化かし合いは今に始まった事ではありません。すぐさま適当に言い繕います。


「ば、馬鹿を申すでない。わらわがそのような浅ましい真似をするはずがなかろう。ほれ、これを見るがよい。まだこのようにブツブツが残っておろう。治り切っていない証拠じゃ」


 恵姫はお福を起こすとうなじの辺りを指差しました。赤い発疹が数粒出来ています。それを見た磯島はまた冷ややかな声で言いました。


「ああ、本当でございますね。では仰せの通り、しばらく様子を見ましょう」


 それ以上反論する事もなく小座敷を出て行く磯島。一難去った恵姫は安堵の表情です。


『ふう~、危ない危ない、昨日、お福の襟首に汗疹あせもを見付けておいて命拾いしたわい。発疹と汗疹の区別もつかぬとは、磯島もまだまだ甘いのう』


 相変わらず悪知恵だけは働くようです。


「……」


 一方、お福は済まなそうな顔をしていました。自分のお役目を果たせず、磯島や他の女中たちに迷惑を掛けているのが気になるのです。さりとて恵姫の「まだ寝ていろ」という言い付けに背く訳にもいかず、本当に痛し痒しの状態なのでした。


「これこれお福、そのように困った顔をするでないぞ。そなたは何も考えずゆっくり養生しておれば良いのじゃ。では、わらわは座敷に戻るからのう」


 恵姫みたいにお気楽な性格ならば、お福も随分と気楽な人生が送れる事でしょう。葭戸を開けて出て行く恵姫に軽く頭を下げ、取り敢えず横になるお福であります。


 さて座敷に戻ればいつものようにゴロゴロと時を過ごし、昼の食事を済ませてまたゴロゴロしている恵姫。盆が明けてからは朝釣りをやめて、日暮れ時の夕釣りだけを楽しんでいるのですが、今日の空は雲が広がり始めています。


「雨が降りそうな雲行きじゃのう。日差しがなくてさほど暑くもない事じゃし、久しぶりに昼下がりの釣りにでも出掛けるとするか」


 食後の一服を早めに切り上げて奥御殿を出た恵姫。昼八つ前に釣りをするのは二カ月ぶりです。木戸を出て山道を下り、餌となるイワムシを取り、釣り糸を垂らす。それは食事をしたりお稽古事をしたりするのと同じく、もう何年も続けて来た習慣のようなものです。


「ふ~む、昼釣りを始めると夏の終わりを実感するのう」


 日差しがなければ昼の風も心地良く感じられます。あれほど喧しかった蝉の声も今はすっかり衰え、今は波の音と鳥の鳴き声の方がよく聞こえてきます。


「今年の夏は賑やかじゃったのう。与太郎や毘沙が釣りに付いて来たり、皆と浜で遊んだり……こうして一人で釣りをしているのが不思議に思えるほどじゃ」


 いつもなら一人で釣り糸を垂らす事に何の違和感も抱かないのに、今日ばかりは妙に寂しさを感じるのです。今年の夏は一人ではなく、気心の知れた仲間たちと過ごした時間が長かったからでしょう。そしてその楽しい時間は過ぎ去った夏と共に遠くへ行ってしまった……単調な波の音を聞き、涼しさを感じる風に吹かれていると、秋の憂いに染められた考えが浮かび上がって来るようです。


「おっと、掛かったわい」


 しかしそんな秋愁に満ちた乙女的な感情は、針に魚が掛かった途端に吹き飛んでしまいます。両足を踏ん張り、竿を力強く握り締め、早くもよだれをだらし始める恵姫ではありました。


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