綿柎開その三 お福全快

 昼下がりの釣りを早めに切り上げて間渡矢城に戻って来た恵姫。魚籠の獲物を厨房の女中に渡し、井戸で手と顔を洗って奥御殿の玄関に行くと、小座敷の方から賑やかな声が聞こえてきます。


「誰か来ておるのか。それにしても数が多そうじゃが」


 濡れた魚籠を縁側に吊るし、釣り装束を脱いで普段着に替え、恵姫は小座敷に向かいました。間違いなく中に数人は居るようです。


「こりゃ、何を騒いでおる。お福の体に障るではないか!」


 葭戸を開けると同時に大声で叱りつけました。これだけ大きな声を出せばお福の体に障る振る舞いしているのはむしろ恵姫の方なのですが、そんな事に気付くはずがありません。


「なんと、才ではないか」


 自分の声の大きさに気付かなくても、お福の横に座っている人物にはすぐ気付きました。お福はもう敷布団には寝ていません。座布団に座っています。その前に才姫、そして黒姫、毘沙姫、おまけに磯島まで居ます。


「おや、恵かい。名医才様の八日ぶりの診察だよ。お福、元気そうじゃないか」


 どうやら才姫はお福を診に来たようです。恵姫は顔をしかめました。


『まずいのう。ここで才にお福完治宣言でも出されてしまっては、わらわのお稽古事お休み計画が終了してしまうではないか。せめて七月中だけでもお稽古事は休みたいものじゃ』


 恵姫は才に返事をする事なくお福に近付くとその額に手を当てました。


「ややっ、少し熱があるのではないか。お福よ、いきなり寝床から出て病がぶり返したのではないか」

「それはこの座敷が暑いからだよ。風の通りが良くないからね」

「汗も少しかいておるようじゃが」

「だから風の通りが悪いからだよ。ああ、黒、ありがとよ。扇風機って言うんだってね、それ。あの与太も結構役に立つじゃないか」


 黒姫が回し始めた扇風機から来る風を受けて、才姫は如何にも気分が良さそうです。

 与太郎が作って置いていった扇風機は、盆が明けて以来、大活躍していました。この小座敷だけでなく厨房や女中部屋でも大いに活用されていたのです。更には製作に携わった鷹之丞と亀之助の手に寄って、工夫を凝らした改良版が試作され、表御殿の役方、番方の間でも大変重宝されていました。


「才姫様、ではお福はもう治ったと考えてよろしいのでしょうか」


 磯島が真顔で才姫に尋ねています。このままでは自分の計画が水の泡になってしまう恵姫。最後の抵抗を試みます。


「ま、待て、才よ。ほれ、ここを見るのじゃ。まだ発疹が残っておるぞ」


 恵姫が指差すお福のうなじをチラリと見て、才姫は小馬鹿にしたように言いました。


「何を言ってるんだい。それは汗疹だよ。こんな暑い部屋に寝ていれば汗疹ができて当り前さ」


 さすがは才姫。磯島のように簡単には騙せません。それでも諦めきれない恵姫はお福に問い掛けます。


「お福、まだ苦しいのであろう。我慢せずとも良いのじゃぞ」

 お福は首を横に振ります。


「何を遠慮しておるのじゃ。正直に申せ、七月いっぱいは寝ていたいと」

 やはりお福は首を横に振ります。


「いやいや、分かる。わらわにはお福の本当の気持ちが分かっておる。お役目ができず皆に申し訳ないゆえ、無理に治った事にしたいのであろう。そのような気遣いは無用であるぞ」

 依然としてお福は首を横に振っています。


「ああ、なんと健気な娘なのじゃ。己の身を犠牲にしてまでわらわに尽くしたいのであるな。分かったぞ、その見上げた忠誠心に免じて七月いっぱいは寝ていてもよい……」

「おい、恵。おまえ、お福の病が治らないと何か困る事でもあるのか」


 いつまで経っても終わらない恵姫の独り言に業を煮やした毘沙姫から、厳しいツッコミが入ってしまいました。慌てて否定する恵姫。


「な、何を申しておるのじゃ、毘沙よ。そんな事、あるわけがなかろう。ただ、わらわはお福が無理をしているのではないかと心配で……」

「才は治ったと言っている。お福も大丈夫だと言っている。つまりもう病は治ったのだ。そう考えてよいのではないか」

「そうだよ~、お福ちゃんだっていつまでも寝たままじゃ飽きちゃうよ」

「恵、お福の看病ご苦労さんだったね。御典医に代わってあたしから礼を言っとくよ」

「まあ、こんな事だろうと思ってはおりました。所詮は恵姫様の浅知恵。それでも数日間はお稽古事がお休みになったのですから、よろしゅうございましたね」

「うぐぐ……」


 四人からこうまで言われてしまっては、もはや諦めるしかありません。しかも磯島の口振りでは、お稽古事を怠けるためにお福をダシに使っていた事まで見抜かれているようです。如何に肝っ玉の太い恵姫でも、これ以上嘘を塗り重ねて行くのは容易ではありません。となれば直ちに方針変更です。


「そ、そうか。治ったのか。良かったのうお福。わらわもそなたが元気になるのを心待ちにしておったのじゃ。おお、すっかり明るい顔になりおって。数日前まで苦しんでおったのが嘘のようじゃ。うむ。もう何の心配もないな」


 電光石火の如き変わり身の早さに呆れ顔の四人です。委細構わず話を続ける恵姫。


「さりとてすぐに元通りのお役目に付くのも辛かろう。まずは軽い仕事から始めるように磯島に頼んで……」

「その事なんですけどね、めぐちゃん」


 ここで黒姫が横から口を差し挟みました。話を遮られ不機嫌な表情で黒姫を見る恵姫。


「なんじゃ、黒。何か申したい事でもあるのか」

「お福ちゃん、ずっと奥御殿に籠りっ切りだったでしょう。久しぶりに外の空気を吸わせてあげたいんだよ。七月も半ばを過ぎて風も涼しくなってきたから暑さで疲れる事もないと思うし、どうかなあ~」


 お福が倒れてから十日以上経っていました。才姫が来てからは厠や湯殿へ立つくらいの事はできるようになっていましたが、それ以外はこの小座敷の中で過ごしていたのです。黒姫の言う通り、お福とて外の空気が恋しいに違いありません。


「ふむ、ならば皆で中庭にでも出てみるか。まだ紅葉狩りには早すぎるがのう」

「それもいいけど、あたしの屋敷に来てみるってのはどうかなあ。いきなり奥御殿のお役目を始めるんじゃなくて、簡単な野良仕事をやってみるのもいいと思うよ」

「城のお役目よりも野良仕事の方が大変であろう。それにこの時期ならば草取りくらいしかやる事はないのではないか」

「それが違うんだなあ。数日前から吹き始めている綿があるのです。それを摘んでもらおうかなって思うんだよ~」

「ほほう、綿摘みか」


 米作りが基本の庄屋ですが、その他にも色々な作物に手を出していました。麦や豆、野菜などは売って銭に替えられるほど大規模に作っています。しかしそれら以外はほとんど趣味で育てているようなものばかりでした。綿もそのひとつで、畑ではなく庄屋の屋敷の片隅に植えられているのです。


「あれはなかなか楽しいものじゃな。ふわふわした綿の感触がたまらぬ」


 綿を作り始めたのはここ数年の事で、恵姫は毎年綿摘みを手伝っていました。農作業というよりも一種の遊びに近い感覚です。


「いつもは稲刈り前の八月あたりに摘むんだけど、取り敢えず吹いた綿だけお福ちゃんに摘んでもらおうかなあって思うんだ。どう?」


 お福は嬉しそうに頷いています。綿摘みの経験など全くないので興味があるのでしょう。そんな表情を見せられては恵姫も反対などできようはずがありません。


「分かった。ならばこれより綿摘みに出かけるとしようぞ。ただし綿を全て摘み終わらずとも日が暮れかかれば終了と致す。それでどうじゃ、黒」

「は~い、了解です! お福ちゃん、元気になって初めてのお仕事だよ、頑張ろうね」


 黒姫はお福の両手を握ると励ますように声を掛けました。異を唱える者は誰も居ません。毘沙姫も才姫も、そしていつもは口喧しい磯島まで、和やかな笑みを湛えてお福を眺めているのでした。

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