温風至その四 毘沙姫の頼み

 相も変わらず晴れていました。じりじりするような暑さの奥御殿の座敷で顔突き合わせている恵姫、毘沙姫、与太郎の三人。やがて太鼓の音が聞こえてきました。九つの時太鼓です。


「昼か。与太郎の与太話はこれくらいにしておくかのう。大して面白くもない話であったが、聞いている間は暑さも忘れてしまったわ。与太郎のお喋りもそれなりに役に立つものじゃな、毘沙よ」


 恵姫にそう話し掛けられても毘沙姫は返事をしません。まだ何か考えているようです。


「毘沙様、僕の話はどうでしたか。少しは涼しくなりましたか」


 今度は与太郎が話し掛けました。止まっていた団扇で再び扇ぎ始めながら毘沙姫は答えました。


「ああ、確かに暑さを忘れる事はできたな。興味深い話だった。残念なのはほうがここに居なかった事だ。居れば違った考えが聞けただろうにな」

「ホウ? 誰ですかそれは」

「布姫じゃ。伊瀬の姫衆随一の智者。神と仏の両方に仕える唯一の姫。もし会えたら爪の垢でも分けてもらえ。煎じて飲めば少しは賢くなるじゃろう」

「わあ、凄い。是非会って爪の垢が欲しいです!」


 恵姫は半分冗談で言ったのですが、与太郎は本気にしているようです。学業の出来が悪くてふうちゃんと同じ大学に行けなかった与太郎にとって、布姫の爪の垢はこの上なく御利益のある受験アイテムに思えたのでしょう。


「恵姫様、入りますよ」


 葭戸の向こうから磯島の声が聞こえてきました。いつもは何も言わずに勝手に入って来るのですが、今日は客人が居るので声を掛けたようです。


「おう、昼飯じゃな。待ちかねたぞ」


 恵姫が返事をすると同時に膳を持った女中たちが入って来ました。最後に磯島と黒姫も中に入ります。


「本日は鯛焼き作りに手間を取られておりますれば、昼の食事は心太でございます。簡単なもので相済みませぬ」

「わ~、僕、これ好きなんだよ。今年初ところてんだあ~」


 与太郎は喜んでいます。恵姫と毘沙姫もそれほど不快な様子ではありません。


「このような暑き日に心太とは気が利くではないか、磯島。それに今腹を膨らませると、せっかくの与太郎鯛焼きを思う存分味わえぬからのう。良き趣向じゃ」


 女中が並べている膳は五つ。どうやら磯島も一緒に食べるようです。並べ終わった女中が座敷を下がると、さっそく与太郎が箸を付けました。


「ずずっ、う、辛い。それにあんまり甘くないね、これ」

「心太は芥子酢で食う物じゃ。お主の世ではどのように食っておるのじゃ」

「えっと黒蜜を掛けて食べるのが好きかな」


 これには磯島が驚いたようです。


「心太に蜜でございますか。なんと贅沢な。与太郎殿はよほど裕福なお武家の御子息なのでしょうか。父上様はいかほどの俸禄を貰っておられるのですか」

「えっ、いや、うちはしがない中流家庭で、別に裕福なんてもんじゃないですよ。それに黒蜜なんて僕らの時代では安いものなんです。鯛焼き道具と一緒に持って来てあげれば良かったね、ははは」

「それは良き世でございますね」


 磯島が感心するのを見ていると妙に腹が立って来る恵姫です。まるで心太に黒蜜を掛けられない比寿家は、与太郎の家以下の貧しさだと言われているような気がするからです。


「ふん、心太に黒蜜などを掛けて食っておるから、このような腑抜けな跡取りになるのじゃ。それよりも黒よ、鯛焼きの方はどうなっておる。上手く作れそうか」

「ちゅるちゅる、ん、鯛焼きですかあ。万事順調ですよ~。八つ時までには出来上がると思うよ。磯島様やお福ちゃんと一緒にあれこれ工夫をしてね、小麦に山芋を混ぜて焼くと、いい感じの皮に仕上がるんだ」

「おおう、それは美味そうじゃのう、じゅる」


 話を聞いただけでよだれを垂らす恵姫です。実物を前にした時、膳の上がよだれだらけにならないように、手拭いを数本用意しておこうと磯島は密かに決心しました。


「前回は二匹でしたが今回は材料が多い事もあり、かなり沢山作れそうでございます。厳左殿や雁四郎殿を呼んでも一人一匹を割り当てられますれば、前回と同じく表御殿の小居間にて賞味致そうと思っております」

「そ、そして余った鯛焼きは全てわらわが食ってよいのじゃな。た、楽しみであるぞ、じゅるじゅる」

「ふふふ、今度ばかりはめぐ様も僕の鯛焼きを褒めてくれそうだね。少しは見直してくれるかな」


 食べる前からよだれを垂らしている恵姫を見て、与太郎は自信満々です。前回の不味い鯛焼きによる汚名をここで一気に返上したいところなのでしょう。

 勝ち誇ったような与太郎の言い方に、恵姫は慌てて口元のよだれを拭うと、食後の茶を飲みながら言い返します。


「な、何を申しておるのじゃ。所詮は与太郎の鯛焼きであろう。如何に黒や女中たちが丹精込めて作ったにせよ、たかがしれておるではないか。褒めるかどうかは食ってみるまでは分からぬからな。図に乗るでないぞ、与太郎、ずずっ」

「はいはい、早く出来るといいねえ」


 恵姫の反論など物ともせず相変わらず余裕綽々の与太郎です。今回はかなりの額の現金をつぎ込んでいるのですから、その出来栄えに余程自信があるのでしょう。

 心太の昼食は鯛焼きの話題一色で終わりました。皆、お茶を飲み始めると磯島が場を締めます。


「それでは昼の膳を下げさせます。鯛焼きが出来上がりましたら呼びに参りますので、それまでお待ちくださいませ」


 そう言って立ち上がった磯島に毘沙姫が声を掛けました。


「待て、磯島。鯛焼き味見の会には次席家老の寛右も呼んでくれないか」

「寛右殿ですか。よろしいですけど何故に」

「雁四郎と同じく甘味好きだと聞いている。食わせてやれば喜ぶだろう」

「承知致しました」


 磯島は座敷を出て行きました。しばらくすると女中が入って来て昼の膳を片付けます。


「それじゃあ、もうひと頑張りしてくるよ。みんな、楽しみにしていてね~」


 片付けの女中と一緒に黒姫も出て行きます。すっかり静かになった座敷で恵姫が毘沙姫に尋ねました。


「毘沙よ、寛右に鯛焼きなど食わせても何の得にもならんぞ。言葉数の少ない無口な奴でのう。どんなに美味い物を食っても『馳走になった』ぐらいしか言わぬのじゃ。鯛焼き一匹ドブに捨てるようなものじゃぞ」

「ああ、済まんな。少し話をしたくてな。何なら私の分の鯛焼きを譲ってやっても良いぞ。それなら文句はないだろう」

「い、いや、そこまでは言わぬ。まあよい。毘沙の頼み事など滅多にないからな」


 毘沙姫は鯛焼きを食べる事より、寛右を呼ぶ事に重きを置いているようです。人が増えて自分の取り分が減る事に不満だった恵姫も、こうまで言われては引き下がる他ありません。

 胸に一物を抱えたまま鯛焼きの出来上がりを待つ恵姫と毘沙姫、それに引き換え呑気に団扇を扇いでいる与太郎。やがて昼の暑さと食後の満腹の相互作用で眠気に襲われた三人は、知らぬ間に昼寝を始めてしまいした。


 そうして気付けば八つ時を告げる時太鼓。その頃には鯛焼きも出来上がっていたので、さっそく表御殿の小居間へと移りました。二度目の鯛焼き味見会の始まりです。前回と同じ面々の八人に加え、今回は次席家老の寛右が加わり総勢九人。なかなかの賑やかさです。


「お呼びいただき感謝する」


 それだけを挨拶して座に着いた寛右は、無表情のまま何も言いません。再び鯛焼きを味わえる、しかも今度は一人に一匹ずつと聞いて大喜びの雁四郎や、既にによだれを磯島に拭いてもらっている恵姫とは大違いです。


「おお、やっと来たようじゃ。待ちかねたぞ」


 女中が盆を持って小居間に入ってきました。中央の大皿には鯛焼きが山のように盛られています。ひとりひとりに小皿に乗せた鯛焼きが配られると、鯛そっくりの見事な出来栄えに、さしもの寛右も目を丸くして驚いています。


「これは、このような焼菓子は初めて見る……」


 毘沙姫の言っていた甘味好きは本当だったようです。堅物の寛右の頬が少し緩んでいるように見えます。

 皆に鯛焼きが行き渡ったところで恵姫が立ち上がりました。


「では、皆の者、与太郎が材を揃え、間渡矢の厨房女中が全力を注ぎこんで作った鯛焼きじゃ、さっそく味わうとしようぞ、はぐっ!」


 言い終わるや、立ったままで鯛焼きにかぶり付く恵姫ではありました。

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