梅子黄その二 二の丸梅園

 間渡矢は今日も曇り空。朝から雨模様のお天気に朝食を取る恵姫も少々憂鬱顔です。と、

「本日のお稽古事はお休みに致します」

 唐突でした。磯島がいきなりそんな事を言い出したのです。


『おかしい、これは何かある』


 と恵姫が思うのは当然でしょう。お稽古事第一の磯島がこうも簡単に休みを言い出すなど、相当な理由がなければ考えられない事です。


「な、何が目的じゃ、磯島。はっきりと申してみよ」


 ここは慎重に事を進めたい恵姫です。お稽古事休みの代償が明確にならない限り、迂闊に喜ぶことはできません。以前、お稽古事を休みにするので庄屋の屋敷に行ってくださいと言われ、喜び勇んで行ったところが、そこに居たのはお琴の師匠。その日は黒姫と一緒に朝から晩まで、お琴の稽古をさせられた事があったからです。


『またわらわをたぶらかそうとしても、その手は食わぬからな』


 恵姫に疑り深い眼を向けられても磯島は全く動じません。平然と答えます。


「朝食が済みましたらお福と一緒に二の丸へ行ってくださいませ」

「二の丸、あの荒れ果てた二の丸へ行けと言うのか」


 現在の間渡矢城は廃城跡に表御殿と奥御殿を作り直したもの、それらはかつての三の丸跡に建てられています。城山と言うよりもむしろ丘のような頂点部分が平坦な高台に、三の丸、二の丸、本丸があり、二の丸と本丸は手を入れることなく昔のまま放置されているのです。


「はい。二の丸にあります梅林に行っていただきとうございます」


 この言葉を聞いて恵姫には磯島の意図がようやく分かりました。梅の実を取って来いと言っているのです。


「そうか、もう梅が熟す季節となったか」

「既に立春から数えて百三十五日を過ぎております。いつ長雨が始まってもおかしくありません。このまま放置して腐ってしまう前に集めておきたいのです」

「それは良いが、何故、今日なのじゃ」

「本日は雨が降っておらず、また雲が広がって日も差しておりませぬゆえ、怠け者の姫様が『雨に濡れて集められない』だの『日が眩しくて見付けられない』などと文句を言う恐れがないからでございます」


 いちいち癪に障る言い方をする磯島に、つい腹を立てたくなる恵姫ではありますが、どちらも昔、言ったことがある文句なので、ここは堪えるしかありません。

 食後のお茶をゆっくりと味わって気を落ち着かせると、恵姫は考えました。これはあくまで磯島からの頼み事。こちらがお稽古事を休みにしてくれと言い出したのではないのです。となれば、言われた通りに二の丸に行くにしても、もう少し良い条件を磯島に飲ませられるはず、そう考えた恵姫は勿体ぶった口調で話し始めました。


「そうじゃのう、二の丸への道も梅林も荒れ放題、下草が伸び放題じゃ。昨年はわらわに付き添う女中が三名も居ったのに、今年はお福一人だけとは少々心許無いのう。何とかならぬか」


 付き添う女中が少ないのは昨年より奥で働く女中が減って、余計な仕事に人数を割けない事に加え、大勢で行くと恵姫は遊んでばかりで梅の実を集めようとしないからです。それでもさすがに二人だけでは少ないと思ったのか、磯島は少し考えてから言いました。


「ならば雁四郎殿を行かせましょう。本日は非番で屋敷におられるはず。後で厳左殿に頼んで使いを出していただくことにします」

「ふむふむ、それならば安心じゃな。さて次は昼飯じゃ。毎年二の丸で弁当を食っておるが、あんな荒れた場所では落ち着いて食う事もできぬ。一旦、屋敷に戻って昼にしたいのう。おお、もちろん普段よりも豪勢にな。何しろ、梅の実集めという大仕事をしておるのじゃからのう」


 磯島の眉がピクリと動きました。恵姫の魂胆が分かってきたようです。


『このまま言いたいことを言わせておけば、付け上がって何を言い出すか知れたものではない。この辺りで引き締めねば』


 磯島は、しかしそんな考えを顔には出さず、やや強めの口調で答えました。


「分かりました。では昼は奥御殿でお取りください。なれど普段通りの食事でございます」

「そ、それでは昼からの梅の実集めに支障が出かねぬ。それなりの飯を準備してもらわねば」

「そうですか。でしたら二の丸に行かれるのは昼までで結構でございます。昼食が済みましたらお稽古事を始めましょう。じっくりと日暮れまで鍛えて差し上げます。うふふふ」


 磯島の不気味な含み笑いを聞いて、恵姫はこれ以上のゴリ押しを断念しました。


「わ、分かった。昼は普段通りでよい。その代わり昼からの稽古は無しじゃぞ」


 大した成果はなかったものの、雁四郎という働き手が一人増えたのです。少しは楽になるでしょう。

 話がまとまれば仕事が早い磯島。さっそく恵姫とお福の支度に取り掛かります。蛇や虫除けの為に藍で染めた帷子と裁着たっつけ袴を身に着けさせ、肌には虫の嫌う目箒めぼうきの汁を塗り、草に切られぬよう手甲、脚絆で手足を覆い、笠を頭に乗せ、籠を背負わせて完了です。その頃には非番の雁四郎も城にやって来ました。


「本日は梅の実集めを手伝えとのご命令にて参上致しました」


 玄関で挨拶する雁四郎を磯島が労います。


「非番の所をわざわざ済みませんね。恵姫様が二人で梅の実集めをするのは骨が折れるなどと我儘を仰るもので」


 そう言いながら恵姫やお福と同じく、梅の実を集める籠を雁四郎に背負わせる磯島。それなりに期待はしているようです。


「いえいえ、拙者も屋敷で退屈をしておったのです。丁度良い暇潰しになりましょう」

『その通りじゃ、雁四郎。わらわの分までしっかり集めるのじゃぞ』


 心の中では既に怠け始めている恵姫です。磯島は更に風呂敷包みを恵姫に渡しました。


「今日は蒸し暑い日和にて吸筒を三本入れてあります。汗をかきましたらお飲みください」

「うむ。では行って参るぞ」


 こうして三人は奥御殿を出て南の裏門を抜け、荒れ果てた道を二の丸目指して歩き始めました。草は繁り放題、藪は茂り放題、木の枝は伸び放題の道なき道を進む三人。

 先頭を行く雁四郎は柄の長い草薙ぎ鎌を持参していたので、それで草を薙ぎ払って道を作ります。その後に続く二人は楽に歩くことができ、これだけでも雁四郎を呼んだ甲斐があったと恵姫は満足顔です。


「お福殿、その衣装もなかなかに似合っておりますな。伊瀬の旅の折に恵姫様と装束を交換した時の事を思い出しますぞ」


 裁着袴に脚絆という日頃滅多に見られない男のようなお福の姿に、雁四郎はなにやら感動を覚えているようです。後ろを歩いているので見えないはずのお福を褒めています。


「そのような姿ならば拙者と一勝負しても不自然には見えぬでしょう。機会があればお福殿と剣を交えてみたいものでござる」


 お福は困った顔で首を傾げています。磯島から薙刀の手解きは受けているようですが、流石に剣の心得はないはずです。


「最近のお福殿は随分と変わられましたな。まだ城に来て一年も経たぬと言うのに、古参の女中の如き貫禄を感じます。これも持って生まれたお福殿の品格が為せる業なのでございましょう」


 雁四郎はお福にばかり話を向けます。面白くないのは恵姫です。完全に仲間外れになっています。さりとてこれが三人連れの宿命。誰かと誰かが話をすれば、残りの一人は必ずあぶれてしまうのです。そしてあぶれた者が取る行動は二つに一つ、そのままあぶれ続けるか、こちらから割って入るかです。無論、恵姫は後者でした。


「雁四郎、付かぬ事を訊くが先日の磯島蛍憑きの一件で使った火薬玉、我が城の蔵にあのような光玉があると、よく知っておったものじゃな。あれは忍びが使う道具であろう」

「ああ、その事でございますか」

 雁四郎は草を薙ぎ払う手を止め、恵姫に向き直りました。

「実は拙者も知らなかったのでござるよ。毘沙姫様が必ず蔵にあると仰るので半信半疑で探したところ、偶然見つかったのです」

「毘沙が……何故毘沙はあると思ったのじゃろうな」

「次席家老の寛右かんう様は伊賀の御出身ゆえ、伊賀の忍具が必ず蔵にあると思われたようです」

「それはつまり寛右が城の銭で忍具を揃えておるという事か」

「まさか。この泰平の世に忍具など必要ありますまい。恐らく伊賀の商人から譲り受けたのでございましょう。庄屋殿とて紅花の種だの蚕の卵だのを伊賀の者から頂いているではありませぬか」


 それだけを言うと雁四郎は再び鎌を振るって歩き始めました。恵姫は胸の内で何かが引っ掛かって仕方がありませんでした。


『新田候補下見の折、川辺に現われた記伊の姫衆、瀬津。あの時彼奴がまとっていたのはくノ一と見紛うような装束であった。そして蔵には忍具……偶然か』


 信じるに足らぬ、些細な取り越し苦労に過ぎぬ偶然、しかし全ての出来事の辻褄が合う偶然……芽生え始めた小さな疑念に、知らず心が暗くなる恵姫ではありました。

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