螳螂生その三 菖蒲切り
「暇だな」
湯呑の酒を舐めながら毘沙姫は外を見ています。粽はあらかた食べ尽し、出された酒もほとんど飲み干し、後は昼に出される御馳走と黒姫の鯛のぼりを待つばかりの四人です。
「端午の節供は毎年暇なものじゃ。飾ってある鎧兜など眺めておっても、ちっとも楽しくない。早く鯛のぼりが出来上がらぬかのう」
恵姫は畳に寝転がっています。行儀の悪さを咎める役の厳左は、黒姫たちと座敷を出て行ったきり戻って来ないので、したい放題の格好で寛いでいるのです。
手持無沙汰の一同の様子に、皆を招いた雁四郎は申し訳なく思ったのか、こんな事を言い出しました。
「ならば毘沙姫様、菖蒲切りを致しませぬか。長じてはほとんどしなくなりましたが、幼き頃は恵姫様、黒姫様、そして我が姉上などと共によく遊んだものです」
菖蒲切りは菖蒲を刀に見立てて打ち合う遊びです。幼い子らならば喜んでするのでしょうが、さすがにいい年の大人が行うものではありません。
それでも雁四郎がやろうと言い出したのは、毘沙姫に稽古を付けてもらいたいからです。旅に生きる毘沙姫と布姫。どちらの姫も年一回は必ず間渡矢にやって来ますが、これだけ長い期間滞在するのは初めての事でした。ここに居る間に出来るだけ多く毘沙姫と剣を交えたい、それが雁四郎の願望なのです。
「菖蒲切りか。面白い、やるか」
雁四郎の気持ちを知ってか知らずか毘沙姫は快諾しました。一気に顔が引き締まる雁四郎です。
「有難い。されば菖蒲を持って参ります。菖蒲湯に使う菖蒲の残りがまだあったはず……」
雁四郎は慌ただしく座敷を出て行きます。毘沙姫も傍らに置いていた大剣を背中に括り付けると座敷を出て玄関に向かいました。残った恵姫と与太郎は縁側に出ます。ここから毘沙姫と雁四郎の戦いの様子を見物する算段なのです。
「菖蒲切りか。幼い頃はよく遊んだのう。ずずっ」
縁側に湯呑を持ち込んで茶をすする恵姫。その隣に与太郎が並んで座りました。
「雁さんと毘沙様の手合わせか。何だかワクワクするなあ」
今日の与太郎は陽気です。鯉のぼりの話をして皆に気に入られた事がよほど嬉しかったのでしょう。そんな与太郎を横目で見ながら馬鹿にするように恵姫が言います。
「何がワクワクじゃ。毘沙の圧勝に決まっておろう。結果は見えておるわ」
それは与太郎も感じていました。雁四郎にも厳左にも毘沙姫にも稽古を付けてもらっているのです。毘沙姫の強さは身を以って体験していました。それでも雁四郎の力を侮るような恵姫の言葉には反感を覚えずにはいられませんでした。一番長く稽古を付けてもらっているのは雁四郎、いわば自分の師匠のような存在だからです。
「めぐ様、雁さんだって結構強いんだよ。勝負は時の運。何が起こるか分からないよ」
「ふっ、何が起ころうと雁四郎は勝てぬよ」
「毘沙姫様、お待たせしました」
二人の会話を遮るように雁四郎が中庭にやって来ました。手には菖蒲の束を抱えています。
「好きな菖蒲をお選びください」
毘沙姫はしばらく束を眺めてから、一番短い菖蒲を一葉だけ選びました。
「そんな短いものを、しかも一葉だけとは。普通は一株を紐で束ねて使うのですよ」
「雁四郎相手なら一葉で十分だ。それに長ければ良いというものでもない。菖蒲が折れて使い物にならなくなると負けなのだろう。短い方が良い」
余裕の毘沙姫に苦笑いする雁四郎。ここまで手を抜いてもらって勝てる気がしないのですから困ったものです。
「ならば拙者はこれで」
雁四郎はそこそこの長さの菖蒲を一株選び、ばらけた先端を紐で結びました。武器が決まれば後は打ち合うのみ。二人は適度な間を取り睨み合います。
「先に言っておく。雁四郎、この毘沙との菖蒲切り、それなりの覚悟はあるのだな」
「無論。拙者とて子供ではござらぬ。一撃を入れられて負けるか、菖蒲が折れて負けるか、如何なる結末になろうと悔いはない」
「よく言った。始めるか」
両手で構える雁四郎。敢えて利き手ではない左手だけで構える毘沙姫。睨み合う二人の表情は真剣そのものです。
「な、なんだか二人とも別人みたいに恐い顔になっているけど、これって遊びなんだよね」
「阿呆か。菖蒲を持った毘沙と遣り合うのじゃぞ。気合いを入れねば如何に雁四郎とて危ういわ」
恵姫に阿呆呼ばわりされて釈然としない与太郎です。とは言っても、たかが草遊びにここまで真剣になれる二人に若干の敬意も感じます。
「参る!」
最初に動いたのは雁四郎でした。先ずは上段から頭目掛けて振り下ろします。軽く避ける毘沙姫。下ろした菖蒲を横ざまに振って胴を狙う雁四郎。素早くかわしつつ左手の菖蒲を喉元へ突き付ける毘沙姫。慌てて後ろに飛びのく雁四郎。そして二人は再び睨み合います。
「す、凄い、二人の気迫。本当に命を懸けているみたいだ」
与太郎は圧倒されていました。テレビや映画の時代劇で殺陣のシーンは何度か見たことがありましたが、これほどの殺気を感じたことは一度もなかったからです。
「今頃何を言っておるのじゃ。幼子の戯れではないのじゃぞ。ずずっ」
縁側で呑気に語り合う二人とは別世界の住人のように、雁四郎と毘沙姫は菖蒲を繰り出し合いました。どちらの体にも一度も触れぬ互いの菖蒲。しかし、次第に雁四郎の菖蒲が
「拙者の負けでござるな。手加減していただき感謝しております」
「いや、苗田で手合わせした時より気迫を感じた。やはり手にした得物が菖蒲だからか」
礼をした後、互いの健闘を讃え合う二人。これで毘沙姫が男なら熱い友情が芽生えて、固い抱擁などするのかもしれませんが、さすがに男女である以上、それは憚られました。
「ねえ、毘沙様。今度は僕と菖蒲切りをしてくれませんか」
突然縁側から与太郎の声がしました。二人の戦いを見てすっかり興奮してしまっているようです。
「おい、与太郎、何を言い出すのじゃ。身の程をわきまえよ」
「身の程って、そんな大層なもんでもないでしょ。草遊びだもん。雁さん、僕が仇を取ってあげるよ」
「いや、しかし、与太郎殿、これは……」
「いいぞ、与太郎」
雁四郎の言葉を制して毘沙姫が声をあげました。
「相手になってやる。だが言っておく。一旦始めたら勝負が着くまで止めることは出来ぬ。それでいいのだな」
「もちろんだよ! 必殺の一撃を食らうか、菖蒲が折れてしまうか、どちらかが起これば勝負あり、だね」
言うが早いか縁側から座敷に戻る与太郎。しばらくして玄関から中庭に走ってやって来ました。
「ええっと、どの菖蒲にしようかな。ふんふん」
鼻唄まじりに菖蒲の束を漁り始めました。心配でたまらない雁四郎はもう一度毘沙姫に言います。
「毘沙姫様、与太郎殿を相手に菖蒲切りなど酷ではありませぬか」
「与太郎が言い出したのだ。仕方あるまい」
「うん、これにするよ」
与太郎が取り出したのは一番長い株でした。その先端を紐で縛り準備完了です。
「与太郎殿、本当に大丈夫でござるか。これは菖蒲切りなのでござるぞ」
「心配ないよ。ここに来るたびに稽古を付けてもらって、僕、ちょっと自信が出て来たんだ。まあ、勝てないとは思うけど楽しんでみたくなっちゃって」
「いや、楽しむなどと、その様な心構えでは……」
「いつまで無駄話をしている、始めるぞ!」
二人のお喋りは毘沙姫によって終わらされました。間合いを取り、睨み合う二人。与太郎は感じ始めていました。これは稽古の時とは違う、この気迫、この殺気……
「さあ、打って来い、与太郎」
毘沙姫の声が襲い掛かって来ます。与太郎の額に汗が滲み始めました。今、自分が居るのは厳左の屋敷の中庭などではなく、もっと別の空間なのではないか、そんな気さえし始める与太郎ではありました。
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