螳螂生その四 蟷螂の斧

 睨み合う毘沙姫と与太郎。胃が痛くなるほど張りつめた空気に耐えられなくなったのか、与太郎が打ち掛かりました。


「えーい!」


 勿論、難なくかわされます。それでも与太郎は菖蒲を振るい続けました。物怖じすることなく毘沙姫に立ち向かっていきます。縁側でまったりと茶を飲んでいる恵姫は、そんな与太郎の姿にほんの少しだけ感心したようでした。


「ほう、与太郎もそれなりに様になってきたではないか。あの毘沙に殴り掛かれるだけの気合いを身に付けるとはのう」

「拙者も毘沙姫様も稽古を付けているのです。それくらいは出来て当たり前でございましょう。さりとて、毘沙姫様が攻勢に出ればどうなりますやら……」


 その時、縁側に虫が飛んできました。緑の体を持ち上げて威嚇するように両手を広げたその姿、螳螂です。


「ふっ、螳螂の斧か。今の与太郎そのままの姿じゃな。身の程知らずも甚だしいわ。ずずっ」


 呑気に茶を飲む恵姫、心配顔の雁四郎、そんな縁側の二人とは全く無縁の空間で、与太郎は菖蒲を振るい続けていました。毘沙姫は避けるだけで一度も攻撃してきません。与太郎が一方的に攻め続けているだけです。知らぬうちに与太郎の中には慢心が芽生え始めていました。


『あれ、僕って意外と強くなったのかも』


 そんな思い込みに囚われた与太郎は、あらぬ言葉を口走ってしまいました。


「毘沙様、逃げてばかりいないで、そちらも打ち込んできたらどうですか。そんな葉っぱ一枚でも少しは役に立つはずですよ」


 毘沙姫の口元に浮かぶ微笑。滅多に見せない表情の変化。大きく後ろに引かれた左手の菖蒲。雁四郎が叫びました。


「与太郎殿、逃げられよ!」

「えっ?」


 与太郎には何が起きたか分かりませんでした。毘沙姫が打ち込んできた、それは間違いないようでした。目の前に居たはずの毘沙姫の姿が見えなくなっていたからです。後ろを振り向くと毘沙姫はこちらを向いて立っていました。そして与太郎が着ていたポロシャツの右の袖は切られ、肌が見えていました。


「こ、これは、どうして、切られるなんて、そんな事が……」


 声を震わせて切られた袖を左手で押さえる与太郎。雁四郎が声を掛けます。


「与太郎殿、毘沙姫様の菖蒲は真剣と同じでござる。触れられただけで斬られます。用心されよ」

「真剣! 嘘でしょ、草で斬るなんて」

「人を斬るのに刀は要らぬ。草で指を切ったことはないのか。紙で手を傷つけたことはないのか。つむじ風に皮膚を裂かれたことはないのか。この菖蒲も使いようによっては刀に劣らぬ切れ味を示す。与太郎、心して掛かって来い」


 毘沙姫の言葉を聞いて与太郎はようやく理解できました。どうして雁四郎があれほどの気迫で毘沙姫に臨んでいたか、どうして勝負の前に覚悟を確認させられたか。これは遊びなどではなく真剣を相手にした戦いだったのです。与太郎は声を震わせながら言いました。


「ご、ごめんなさい。僕、知らなかったんです。もう僕の負けでいいです。これで菖蒲切りは終わりにしてください」

「言ったはずだ。どちらかの菖蒲が折れるまで勝負は続くとな。途中で終わらせることはできん」

「だったら……」


 与太郎は菖蒲を横にしてその端を両手で握りました。自分で折るつもりなのです。すぐさま毘沙姫の蹴りが入り、与太郎の菖蒲は遠くへ飛ばされました。


「己自らが得物を折るとは何事だ。認めぬぞ!」


 毘沙姫の菖蒲が再び振り下ろされました。今度は左の袖を切られています。


「菖蒲を持て、与太郎。今度折ろうとしたら即座におまえを斬る。続けるぞ」

「は、はい」


 怯えながら地に落ちた菖蒲を手に取る与太郎。もはや完全に戦意を喪失しています。体は縮こまり足は震え、身動きさえもできません。そんな与太郎に毘沙姫は情け容赦なく菖蒲を振り下ろします。シャツの横腹を斬られ、ズボンを斬られ、頭髪を刈られ、与太郎はされるがままです。


「ほらほら、さっきまでの威勢はどこへ行った。棒立ちではないか。このままではおまえの装束はズタボロになるぞ」

「与太郎殿、攻められよ。攻撃は最大の防御。攻めねばやられる一方でござるぞ」


 雁四郎の檄も与太郎に届きません。毘沙姫の手にあるのは菖蒲ではなく真剣、その事実は与太郎から戦意を奪い取るのに十分だったのです。


「お願いします。許してください。毘沙様、僕の負けにしてください」


 毘沙姫に斬られながら、そんな言葉しか口にできないのでした。


「情けないのう。元の与太郎に逆戻りではないか。少し買いかぶり過ぎたわい」


 与太郎に関しては氷のように冷たい恵姫です。雁四郎は尚も声を掛けます。


「与太郎殿、菖蒲を振られよ。振っていれば菖蒲は弱くなり、やがて折れまする!」


 雁四郎の声を聞いて、与太郎は闇雲に菖蒲を振り始めました。右に左に上に下に、そして地面に叩き付けて菖蒲を折ろうとした時、右手に激痛を感じました。


「つっ、痛い」


 顔をしかめる与太郎。毘沙姫の菖蒲が右手の甲に突き刺さっていました。


「ああ、済まんな。手元が狂った。まだ酒が残っているようだ」


 毘沙姫は手の甲から菖蒲を引き抜くと、低い声で言いました。


「与太郎、無意味な動きはやめろ。攻める意志なく菖蒲を振れば、次はおまえの首に突き刺さるぞ」

「は、はい。ごめんなさい。もうしません」


 与太郎は菖蒲を抱きしめました。もう動くことはできません。変な動きをすれば毘沙姫によって傷を負わせられるのです。ではどうすればよいのか、それも分かりません。ただ立ち尽くしたまま、自分の服が切り刻まれていくのを眺めているしかないのです。


「騒がしいな、何事だ」


 厳左が座敷に入ってきました。そのまま縁側に進み、戦っている二人を見て驚きの声をあげました。


「毘沙姫様が菖蒲切りだと。馬鹿な、与太郎殿は死にたいのか。雁四郎、何故毘沙姫様を止めなかった」

「与太郎殿が言い出されたのです。お爺爺様、毘沙姫様を止めてくだされ。このまま放ってはおけません」

「無理だ。ここで止めに入ってはわしの命とて危うい」

「では恵姫様、お願い申す。お止め下され。神海水を使われれば容易く止められるはず」


 雁四郎の頼みにも恵姫は冷淡です。


「冗談が過ぎるぞ、雁四郎。何が悲しくてあんな阿呆の為に大切な神海水を使わねばならんのじゃ。自業自得じゃ、放っておけ。それに毘沙は伊瀬の姫。記伊の姫とは違い無用な殺生は絶対にせぬ。ここは毘沙に任せておけばよいのじゃ」


 自分より力の勝る二人から拒まれ、雁四郎自身も与太郎救済の手立てを失ってしまいました。その間にも毘沙姫は与太郎を責め続けています。


「どうした、与太郎。何もせぬのか。装束が引き千切られた後は、おまえの体が切り刻まれるのだぞ。その覚悟はあるのか」


 与太郎は菖蒲を手から放すと両膝を地につけました。両手をつき、頭を下げ、毘沙姫に懇願します。


「お願いします。もう許してください。僕が間違っていました。この時代の姫に挑もうなんて思い上がりもいいところでした。謝ります。ごめんなさい、ごめんなさい、だからもう終わりにしてください」


 地に頭を擦り付けて謝る与太郎を、毘沙姫は冷たい目で見下ろしました。その瞳には一片の情も宿ってはいません。


「そうか。そこまで言うのならこの勝負、終わるとしよう。与太郎、おまえの命が尽きれば嫌でも終わるのだからな。案ずるな、一思いに逝かせてやる」


 毘沙姫の左手に握られた菖蒲がゆっくりと持ち上がります。雁四郎は刀の柄に手を掛けると大声で叫びました。


「おやめくだされ、毘沙姫様!」

 叫ぶと同時に飛び出そうとしたその腕を厳左に掴まれました。

「お爺爺様、離してくだされ!」


 しかし厳左は無言のまま離そうとしません。恵姫は手に持っていた湯呑を置きました。


『何を考えておる、毘沙。そなたまさか本気で与太郎を……』


 額に汗が滲み始めているのを感じながら。右手を帯の中へと忍び込ませる恵姫ではありました。

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