蚕起食桑その五 毘沙姫の予感

 比寿家に対して何のしがらみも持たない毘沙姫も、恵姫に咎められて自分の言葉を少し反省しているようでした。


「ああ、済まん。そこまで気が回らなかった。ずけずけ物を言い過ぎたな。だが与太郎の話が事実なら今言った事はいつか必ず起こる」


 与太郎が調べてきた志麻の国の歴史を聞かされて、すっかり暗くなってしまった間渡矢城の面々です。恵姫は深くため息をつきました。


「やはりわらわが城を出るのが最善の策なのじゃろうな」

「姫様! 何を仰っておられるのです!」


 恵姫の言葉にすぐ磯島が反応しました。


「そのような事、滅多に口にされるものではありませぬ。最善の策は婿養子を取ることだと何度も申し上げているはず。この磯島が育て上げた姫様ならば、必ずや立派な婿を迎えられるはずでございます」


 恵姫たちのやり取りを聞きながら、与太郎は疑問を感じ始めていました。江戸時代の社会について興味が出て来た与太郎は、その関係の本をあれこれ読んでいたのです。今はもう、ここに初めて来た時よりもかなりの知識を身に着けているのです。


「ねえ、別に婿養子じゃなく普通に養子縁組をして、どこかの誰かにめぐ様の兄になってもらえばいいんじゃないの。元禄の頃には末期養子も認められていたし、世継ぎがないってだけで、それ程深刻になる必要はないんじゃないかなあ」

「与太郎殿のご意見はごもっとも。実は江戸家老を中心として養子縁組の話は進められておる」


 与太郎にしては珍しく真っ当な見解です。しかし、それに答えた厳左も恵姫も、そして場の一同も皆その顔色は冴えません。


「与太郎でさえ、その策を押すか。ならば、やはりわらわは城を出るしかなさそうじゃな」

「どうして? 養子を迎えたからって、めぐ様が城を出る必要はないじゃない」


 恵姫は苛立ちました。与太郎に悪気はないだけに一層腹立たしくなるのです。語気を強めて恵姫は答えます。


「思慮の浅い奴じゃな。考えてもみよ与太郎。養子となった者はやがて新しい領主となる。正室も側室も迎えられる。正室は江戸屋敷に入るが、間渡矢の奥御殿は新領主と側室を中心に回るようになる。そうなればわらわの居場所はどこにもない。肩身の狭い思いをして奥御殿で暮らさねばならぬのじゃ。そのような扱いをされるくらいなら、城を出た方がましじゃ。そもそも姫は嫁いでこそ価値があるもの。嫁に行けぬのなら出家でもするしかない。どのような高貴なおなごとて、皆、そのような生涯に甘じておるであろう」

「恵姫様、この磯島にとって間渡矢の領主は姫様のご嫡男以外には考えられませぬ」

「うむ、わしも同じだ。恵姫様あっての間渡矢城なのだからな」


 磯島と厳左の言葉を機に、その場のあちこちから声が上がりました。「領主は恵姫様のお子のみ」「比寿家の血筋以外の者にお仕えしたくはない」「姫様が城を出るなら我も」など、恵姫を慕う声ばかりです。


『ああ、そうなのか。恵姫はこんなに城のみんなに愛されているんだ』


 与太郎は改めてそう感じました。考えてみれば城に勤める者たちにとって、これまで一番長く親密に触れ合って来たのは恵姫なのです。正室は江戸に居続け、城主は一年おきに江戸に行き、側室だった恵姫の母は早くに逝ってしまいました。ただ恵姫だけが、間渡矢城に勤める者たちと苦労を分かち合い、楽しさを喜び合い、哀しさを慰め合いながら過ごしてきたのです。共に暮らした長い歳月は家族以上に強い絆を育んだのでしょう。

 熱気を帯びて来た城の面々とは対照的に、部外者である与太郎と毘沙姫は、冷めた目でそんな一同を眺めています。


「大した人気者だな、恵は」

「不思議だなあ。平気で嘘を付くし、行儀も悪いし、食い意地も張っているし、怠け者だし、破廉恥だし、傲慢だし、僕には全然優しくしてくれないのに、こんなにみんなに慕われているなんて」


 愚痴とも不満とも判別できない与太郎の恵姫評を聞いて、毘沙姫は声をたてて笑いました。


「ははは、確かにな。だが聖人君子だから人に好かれるという訳でもない。お前とて恵を嫌ってはいないのだろう、与太郎」

「そ、それは、まあ……」


 毘沙姫に指摘されて与太郎は初めて自分の気持ちに気が付きました。考えてみればこの時代に来るのが嫌なら、自分の部屋で過ごさなければよいのです。にもかかわらず、与太郎は家に居る時はなるべく自室で過ごすようにしていたのでした。それはこの時代が、つまりは恵姫を取り巻くこの時代の人々が、いつの間にか他人には思えなくなっていたからでした。恵姫の暴言や無茶な命令も、なんとなく心地よく感じ始めているのかもしれません。


『も、もしかして、僕ってM体質だったのかな……』


 そんな勘違いまでしてしまいそうになる与太郎でした。


「皆の衆、有難う、有難う、そうまで言ってもらえてわらわは嬉しいぞ。うむ、やはり磯島の言葉通り、婿養子を取るよう尽力致そう」


 恵姫の言葉を聞いて湧き上がる場の一同。が、その時、声を上げた者が居ました。


「それで全てが丸く収まると、本当に考えておられるのかな」


 皆の視線が声の主、次席家老の寛右かんうに集まりました。


「何が言いたい、寛右殿」

「いつまで隠しておられる厳左殿。江戸家老様よりの書状によれば、殿の御病気はかなり深刻であるとのこと。いい加減に公表すべきではないのかな」


 場がざわつき始めました。殿様の病気、それは磯島も、そして恵姫すらも知らされていなかった事柄だったのです。


「誠なのか、厳左」


 恵姫に問い詰められた厳左は渋面に皺を寄せて答えました。


「確かに江戸家老の文にはそのように書かれていた。だが、殿は元々病弱なお体ゆえ、これまでに具合が悪くなることは何度もあった。此度もそれに類するもの。わざわざ公表する必要もない、そのように判断したまでのこと」

「そうして無策のまま、どれほどの無駄な時を過ごしたとお思いか。殿は既に高齢。手遅れにならぬ内に、打てる手は打っておくべきではないのか。江戸家老様の策に従って婿取りは諦め、早々に養子を迎えるのが最善ではないのか。でなければ毘沙姫様の言葉通り、我らは全てを失う事になろうぞ」


 寛右は武人というよりも文人肌の武士。いつもは大人しく口数も少ない温厚な人柄なのです。それがこれほどまでに声を荒げ、自分より目上である城代家老の厳左に意見をするのは珍しいことでした。あるいは、これまで自分の中に溜め込んでいた不平不満が、比寿家断絶の話を与太郎から聞かされたことで、一気に爆発したのかもしれません。

 厳左は少し居住いを正すと諭すように話し始めました。


「寛右殿。お気持ちはよく分かる。だが我らは蚕ではない。人によって飼い慣らされてきた蚕は、幼虫のまま放り出されれば生きては行けぬ。繭から出て羽が生えても飛ぶことすらできぬ。人の庇護がなければ滅亡する宿命の虫だ。しかし我らは違う。山繭が山の木の葉を食い、己の力のみで生きているように、たとえ城と領地を失っても我らは生きていける。仕えたくもない領主を主君と仰いで生きていくより、忠誠を誓える主君と共に歩んでこその人生なのではないか」


 寛右は厳左を見ていました。何も言い返しませんでした。そして小さな声で「失礼致す」と言うと、小居間から出て行きました。


「珍しいこともあるものだ。あの寛右殿が……」

 厳左はそう言った後、すぐに立ち上がると大声で言いました。

「皆の衆、本日の昼食会はこれにてお開きと致す。昼からもお役目に励んでくれ。ご苦労であった」


 厳左の締めの言葉を聞いて、一同は立ち上がり小居間を出て行きます。恵姫は与太郎に歩み寄ると頭を拳骨で殴りました。


「痛てっ。何をするんだよ」

「お主のせいじゃぞ、与太郎。面白い話をせよと言ったのに、姫の力がなくなるだの、比寿家はなくなるだの、下らぬ話ばかりしおって。せっかくの筍料理が不味くなってしまったではないか」

「めぐ様が話せって言ったからじゃないか。僕は正直に話しただけだよ」

「言い訳など聞きとうない。来い。雁四郎に引き渡して雨の中で素振り千回させてやる。今日の罰じゃ」

「そ、そんなあ~」


 与太郎は恵姫に連れられて小居間を出て行きます。その後から磯島も退出し、厳左と毘沙姫だけが残りました。

「食わぬまま退出か、勿体無い」

 毘沙姫は手つかずのまま残されている料理を食べ始めています。厳左は苦笑いして小居間を出て行こうとしました。


「仲が良いと思っていた間渡矢城も一枚岩ではないようだな、厳左」


 背後から毘沙姫に話し掛けられて、厳左は向き直ると小さく頭を下げました。


「見苦しい所を見せたな。恥ずかしい話だが、江戸家老に同調する者は寛右以外にも多いのだ。恵姫様の婿取りか、後継ぎとなる養子を取るか、家中は二派に分かれておる」

「下手をすればお家騒動だ。上手く収められるのか」

「無論」


 自信満々の厳左の態度を見て、薄らと笑みを浮かべる毘沙姫。厳左は再び頭を下げると小居間を出て行きました。


「恵を手に入れたい者と恵を城から追い出したい者か。そして記伊の姫衆と手を組んだ者は、未だ不明のまま……」


 筍料理を黙々と口に運び続ける毘沙姫。その目は筍料理ではなく、もっと別の物に向けられているかのようでした。





※明日は休載日です。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る