蚕起食桑その四 与太郎の話
与太郎の思い掛けない発言に静まり返ってしまった筍料理の会。それでも毘沙姫だけは平気な顔をしています。
「そうか。つまり姫の力はやがて消えると考えていいのだな。それが運命ならば受け入れるしかない。恵、分かっただろう。あのほうき星は姫の力を奪うためにやって来た。そしてそれは変えられない。瀬津たち記伊の姫衆にも無駄な足掻きはやめろと、早く教えてやったほうが良いな」
毘沙姫には全く動揺は見られません。姫の力などに元々それ程の執着はないのでしょう。それは恵姫も同じでした。こんな力はあろうとなかろうと別段構わないのです。ただ、それを与太郎に教えられたことが無性に腹が立つのでした。
「しかしな、毘沙よ。三百年後に姫の力を持つ者が居らぬのは認めるとしても、長い歴史の中で姫が一人も存在しなかったとは聞き捨てならぬではないか。それはつまりわらわたちが存在しなかったと言われているのと同じことぞ。容認できるものではない」
「三百年も経てば記憶も薄れる、人々の意識も変わる、それはこの時代の者とて同じだ」
「同じ? どういう意味じゃ」
「例えば鬼だ。牛の角を生やし虎の皮の褌を締め、節分の日に豆で追い払われる鬼、こんな存在を今でも信じている者など一人も居ない。
「……どう思う、与太郎」
毘沙姫にすぐ返答をせず、一旦、与太郎に振るのが如何にも恵姫です。与太郎は考えながら、そして戸惑いながら答えました。
「う~ん、そうだなあ。僕らの時代にも鬼とか妖怪とか物の怪とか、不思議な力を持った存在は民話みたいな形で残っているよ。勿論、誰も信じていないけどね。姫っていう形では聞いたことがないけれど、もしかしたら僕の知らない姫に類する伝承があるのかもしれないね」
「そうか、あるかもしれぬのか。三百年……想像できぬほど長い歳月じゃ。それだけ経てばわらわたちも忘れられて当然なのであろうな」
恵姫もようやく納得できたようでした。考えてみれば今から三百年前にどのような不思議なモノが存在していたのか、当の恵姫もよくは分かっていないのです。与太郎の時代の者が恵姫の時代のモノについてよく分かっていないのも、それと同じと言えるでしょう。
「よく話してくれた、与太郎。それ食わぬのなら食ってやるぞ」
毘沙姫は茶を飲むと、まだ手を付けていない与太郎の筍料理を勝手に自分の膳に移しています。どうやら与太郎への興味はすっかりなくなってしまったようです。
「ああ、もう。与太郎のおかげでせっかくの筍料理がすっかり不味くなってしまったわい。もっと面白い話はないのか、与太郎。この場を明るくするような愉快な話をせよ」
またも恵姫の無茶振りです。いきなり言われて面白い話ができるほどの才が与太郎にあるはずがありません。困った顔をするだけの与太郎に、今度は厳左が救いの手を差し伸べます。
「与太郎殿、今度は姫ではなく間渡矢の歴史について語ってはくれぬか。我らの比寿家は今後どうなるのだ」
「おう、そうじゃ。それを教えてくれ。比寿家がいつ島羽城攻略に成功し、志麻の国を統一するのか、是非とも知りたいものじゃ」
恵姫の頭の中では志麻国統一は夢ではなく現実のものとして認識されているようです。二人から期待の眼差しを向けられた与太郎は、意外にも自信満々の態度で話し始めました。
「ふっふっ、いつかそれを訊かれるんじゃないかと思っていたんだよね。僕も歴史に興味が出てきたから、江戸時代の伊勢志摩について図書館で色々調べてみたんだ。二カ月前にずぶ濡れの僕を迎えてくれた親切な鳥羽城の人たち。その城主は松平
「そうじゃ、わらわより年下のくせに威張り散らかしておる生意気な奴でのう。徳川家の老中になるなどと戯言を抜かしてばかりおる痴れ者じゃ」
「へえ~、そんな事を言っているんだね。でもそれ当たりだよ。乗邑さん、八代将軍吉宗の時には老中首座になっているんだ」
「な、なんと、乗里殿は本当に老中になられるのか!」
驚く厳左、そして腰が抜けるほどに驚愕する恵姫。
「よ、与太郎、それは誠か。あの小賢しくて威張りん坊の乗里が、ろ、老中首座じゃと……」
恵姫は今度は厳左に顔を近付けました。
「そうと知ったら、今のうちに乗里に恩を売っておいた方が良いのう。これからは島羽城に毎年参上し、献上の干し鮑も八個から十個に増やすか」
「それが賢明であろうな。加えて島羽城攻略などという愚かな野望は、きれいさっぱり捨てられるが良い」
「うむ。乗里が老中になれば、志麻一国全てを比寿家の領地にするように頼み込めばよいのじゃからな。それまでは辛抱するとするか」
今度は武力ではなく縁故の力で志麻の国を我が物にしようと企み始めました。どうあっても野望は捨てきれないようです。
「どうかな、これで少しは場も盛り上がったかなあ」
「阿呆、まだ一番肝心な話をしておらぬではないか。比寿家はいつ志麻の国を統一するのじゃ。来年か、それとも再来年か」
気の早い話です。島羽の乗里は城主ながら恵姫よりも年少なのです。一年や二年で老中になれるはずがありません。
「それがね、色々調べてみたんだけど、志摩に比寿家なんて大名はないんだよ。元禄の頃の志摩の国は、鳥羽の松平家ひとつだけで統治されているんだ」
「ふっ、それは調べ方が足りぬのじゃ。与太郎の読んだ書物には石高の大きな大名しか載っていなかったのじゃろう。日本全土の大名は、小さいものも含めれば三百はあると言われておる。わらわや城の役方ですら全ての大名を知っているわけではない。三百年後の与太郎に調べられるはずがなかろう」
「それはそうかも知れないけど、でも明治の始め、と言うか、徳川の世が終わった時の記録は正確なものが残っていて、それによると最後に志摩の国を治めていたのは鳥羽の稲垣家なんだ。比寿家なんて大名は、日本のどこを探しても見つからなかったんだよ」
「では、比寿家は徳川の世が終わる前に断絶する、そう申したいのか、与太郎」
これには与太郎も声を出して答えられませんでした。無言で頷くだけです。
「……そうか」
恵姫も厳左も磯島も、そこに集まった間渡矢城の誰もが、貝のように口を閉ざしました。そしてお通夜のようだった筍料理会の場は、全てが死に絶えた戦場跡のようにひっそりと静まり返ってしまいました。ただ、毘沙姫だけが無頓着な顔で、隣に座る与太郎の筍料理を勝手に食べているだけです。
誰も何も言いません。動く者も居ません。この場の時が止まってしまったようです。止むを得ないという感じで毘沙姫が言いました。
「仕方ないな。姫の力がなくなれば城主格大名の地位は剥奪。恵が婿養子を取れぬのなら世継断絶で改易。比寿家が生き残れない可能性の方が高い。そうだろう」
「毘沙よ。そなた、よくもそんな言い難い事を平気で言えるな。少しはここに居る者たちに気を使ってやれぬのか。比寿家がなくなれば家臣たちは碌を失い、与太郎のように浪人となるのじゃぞ。気の毒すぎるではないか」
『えっ、僕ってもしかしたらみんなに気の毒な奴って思われているのかな。浪人は浪人でもこの時代の浪人とは全然違う浪人だよって、早く訂正した方がいいのかもしれないなあ』
と、今更ながらにそんな事を考え始める与太郎ではありました。
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