第二十話 みみず いずる

蚯蚓出その一 雁四郎の決心

「やれやれ、今日の昼も魚は無しか」


 昼食の膳に向かう恵姫の落胆した表情。素知らぬ顔で外方を向く磯島。毎度お馴染みの奥御殿食事どきの風景です。


「ここ数日、昼は魚無し、夕も三日に一度しか魚は食えぬ。これでは午前の稽古事に身が入らぬのも無理はないのう。腹が膨れるからこそ礼儀を尽くせると、諺にも言われておるのじゃからな」


 愚痴をこぼしながらも箸を動かす恵姫。衣食足りて礼節を知るとは、中国春秋時代の思想家管仲の言葉。どうやら紀元前の昔から、腹が減ると行儀が悪くなる恵姫のような人物は大勢居たようです。


「仕方ありませぬ。恵姫様の贅沢の為に奥で使う銭が足りぬのですから」

「わらわが毎日浜で釣り上げる魚はどうなっておるのじゃ。あれを食わせてくれ」

「あれはほとんど魚商人に売りさばき、銭に代わっております。そうでもせねば味噌も醤油も買えませぬゆえ」

「うぐぐ……」


 反論できずに飯を掻き込む恵姫。米を作る百姓が年貢の取り立てによって米を食えないのなら、魚を釣る恵姫が銭のために魚が食えないのもまたこの世の摂理。諦めるしかないのです。


『こうなったら釣った端からその場で食ってしまおうか。いや、魚を持って帰らねば翌日の飯が極端に貧相になるからのう。三食全部麦飯だった時は泣きたくなったわ。魚は食いたいが米も食いたい。痛し痒しじゃな』


 不機嫌な顔で昼食を済ませ、お茶を飲む恵姫に磯島が言いました。


「さりとてそれも今日までの辛抱でございましょう。お忘れですか、明日は今年最後の鯛漁船出の日。恵姫様が乗れば必ず大漁、鯛は食べ放題。毎年のことではございませんか」

「おお、そうであったな、じゅるじゅる」


 昼食を終えたばかりなのに、鯛食べ放題の言葉を聞いてよだれを垂らす恵姫です。

 大好物の真鯛の旬は秋から春。そして春の産卵前の時期は脂が乗って一番美味しいのです。季節は既に初夏。産卵のために沿岸部にやって来た真鯛を狙った漁も明日で終わりです。そしてその最後の漁には、これまでの大漁に対する感謝の証しとて、海の女神たる恵姫を乗せて船出するのが、間渡矢漁民の習わしとなっているのです。


「明日に備えて今日の午後は浜へは行かず、奥御殿にて英気を養うとするかのう。そうじゃ、お福の今日のお役目はどうなっておる。久しぶりに相手をしてやるのも悪くない」

「お福ですか。そうですね、八つ時を過ぎれば夕刻までは手隙ができるかと」

「そうか、では、それまで昼寝でもするか」


 まだ膳も片付いていないのに、恵姫は畳の上でゴロリと横になりました。磯島の額の恵皺が深くなります。


『先程腹が膨れるからこそ礼儀を尽くせると言っておきながら、舌の根も乾かぬうちにこのお行儀の悪さはなんたることでしょう』


 さすがの磯島も小言を言いたくなってしまいました、


「姫様、腹が膨れたのならお行儀良くしてくださいまし」

「ぐうぐう」


 寝息で返事です。本当に寝ているのか狸寝入りなのか判別できません。磯島は女中を呼ぶと膳を片付けさせ一緒に座敷を出ました。とにかく今日の午後を大人しく過ごしてくれるのなら、寝ていようが起きていようがどうでもよい、と実にお手軽な結論を出して、廊下を歩いて行く磯島でありました。


「やっと行ったか。口やかましいのう、磯島は」


 むくりと起き上がる恵姫。やはり狸寝入りだったようです。困ったことがあれば逃げるか寝た振りをする、これが恵姫の十八番です。


「さて、改めて寝るとするか」


 恵姫はまた畳の上で横になりました。すぐに寝るのなら別に一旦起き上がらずともそのまま寝続ければいいのではないか、と考えがちですが、そこは痩せても枯れても武家の娘の恵姫。狸寝入りと本当の昼寝、この間にけじめをキッチリとつけたいのです。


「うむ、夏の昼下がりは昼寝に限るのう」

「姫様、姫様」


 縁側の障子の向こうから声がします。雁四郎の声です。寝ようと思っていた所を邪魔されて少し機嫌が悪くなる恵姫。のそのそと立ち上がると、不愛想な顔で障子を開けました。


「なんじゃ、雁四郎、何用じゃ」

「突然済みませぬ。実は昨日伊瀬より拙者宛てに荷が届きました。内宮の門前町にて姫様が求められた書ではないかと思われますが」


 不機嫌だった恵姫の顔が咲いたばかりの牡丹の花のように艶やかに輝きました。雁四郎が差し出している紙包みを引っ手繰ると、荒々しい手付きで広げていきます。


「本来なら登城してすぐに渡すべきとは思ったのですが、朝方は少し立て込んでおりまして、ようやく表御殿より退出致しました時には、既に姫様は午前のお稽古事の最中。止むを得ずこの時刻となりました。お渡しするのが遅れまして申し訳ございませぬ」


 縁側の向こうで頭を下げる雁四郎の言葉は、恵姫の耳にはまったく入っていません。紙包みを解き、中から出て来た書を見て、恵姫は歓声を上げました。


「おお、これじゃ。まさしくこれじゃ。ようやくわらわの物となったか。うむ、満足であるぞ」


 ご満悦の恵姫の姿を見て雁四郎も嬉しくなりました。伊瀬内宮の門前町のとある書物屋で、恵姫のたっての願いで書を注文したのがかれこれ二か月前。今日やっとそれが届いたのですから恵姫が喜ぶのも無理はありません。


「よろしゅうございましたね、恵姫様」


 そう言いながら恵姫の持っている書を覗き込んだ雁四郎、一瞬で驚愕の表情に変わりました。


「め、恵姫様、そ、その書は……」

「ああ、絵草紙じゃ。『伊瀬生真鯛蒲焼いせうまれまだいのかばやき』美味そうな題名であろう。最後の真鯛漁を明日に控えた今日届くとは、真鯛を蒲焼にして食えとの御告げであろうか、のう、雁四郎よ」


 雁四郎は怒っています。両眼が狐みたいに吊り上がっています。


「のう雁四郎よ、ではありません、姫様。話が違うではないですか。あの時姫様は、『雁四郎よ、姫の力について詳しく書かれた書が欲しいのじゃ。この店は姫札が全く効かぬが、注文しても良いか』と仰られたはずです。なればこそ、拙者は大切な路銀の一部を融通して、書の注文を許可したのです。なのに……それなのに何ですか、この書は。この絵草紙のどこに姫の力が書かれていると言うのですか」

「んっ、まあ、言葉の綾と言うやつじゃ。書かれておるのは姫の力ではなく鯛の旨さであったな。大して違わぬであろう。そう怒らずともよいではないか。雁四郎にも読ませてやるから安心せい」


 騙された、と雁四郎は思いました。恵姫の口車に乗ってしまった二か月前の自分の頬を引っ叩きたくなるくらい後悔しました。このまま放っておくことなどできません。


「勘定方に報告します。大切な路銀を無駄に使ったのですから」

「ほう、いいのかそんな事をして。この書はわらわではなくお主宛てに届いたのじゃぞ。わらわが知らぬ存ぜぬと言い張れば、お主一人の所業と断ぜられても言い逃れはできまい。罪を一人でかぶるなど馬鹿馬鹿しいとは思わぬか。黙っておればよいのじゃ」


『書の送り先を間渡矢城ではなく拙者の屋敷にしたのはこの為だったのか』


 恵姫の悪知恵の深さは賞賛を通り越してもはや恐怖です。向いている先が魚なので大した被害はありませんが、別の方向にこの悪知恵が働かされれば、とんでもない事態を招きかねません。


「分かりました。では弁償します。手違いで別の書が届いたと報告します。二ヶ月も経っておりますが、遅延金を上乗せすれば大きな罰は受けますまい」

「雁四郎如きの俸禄でこの書の代金を賄うのは大変であろう。やめておけ。知らぬ振りをしておくのが一番ぞ」

「明日の鯛漁の船に拙者も乗ります。網引きを手伝った者は、鯛の取れ高に応じて銭が支払われるはず、それを弁償金に当てます」


 どこまでも生真面目な雁四郎です。ここまで決心が固いのなら恵姫も退き下がざるを得ません。


「そうか。ならば明日は頑張るのじゃな。わらわが乗るのじゃから大漁間違いなしじゃ」

「失礼つかまつる!」


 雁四郎は頭を下げると早足で表御殿に歩いて行きました。恵姫は障子を閉め、さっそく絵草紙を読み始めます。もちろん畳の上に寝っ転がってです。


「ぐふふ、思った以上に美味そうじゃわい、じゅるじゅる」


 雁四郎の気苦労も知らず、いつも通りの呑気な恵姫ではありました。

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