蛙始鳴その五 母への不義理状
「では、用も済んだことですし、城に戻りましょう、恵姫様」
「いや、まだ済んではおらぬ。もう一カ所、行く場所があるのじゃ」
見れば恵姫の油紙の中には、まだ文が入っているようです。雁四郎は尋ねました。
「もう一カ所……どこへ行かれるおつもりなのですか」
恵姫は口を開こうとして、やめました。言おうかどうしようか迷っているようです。
「雁四郎、帰っていいぞ。行こう、恵姫。付き合ってやる」
毘沙姫は傍らに置いてあった大剣を背中に括り付けました。どうやら、毘沙姫には恵姫がどこへ行こうとしているのか、分かっているようです。
「えっ、しかし、護衛の任は拙者に申し付けられたものなれば……」
「護衛は庄屋の屋敷までだろう。それは果たした。ならば帰れば良い。それに今日はこの屋敷に居ても何の役にも立たんのでな。むしろここに居ると邪魔になる。私は外に出た方が良いのだ。そうだろう、黒」
「そうですねえ~。衣替えは力仕事じゃないし、毘沙ちゃん、朝ご飯の後はずっと寝てたからねえ。雁ちゃん、毘沙ちゃんに任せたら。お城のお勤めもあるんでしょ」
確かに今日は南裏門の番方です。厳左を見回り役にすることでその穴を埋め、ここまで来ていたのでした。早く帰城できるのならそれに越したことはありません。
なにより相手が瀬津姫ならば、雁四郎より毘沙姫の方が遥かに心強い護衛です。任せて帰ったとしても厳左に咎められることはないでしょう。
「承知しました。ならば毘沙姫様、よろしくお願いいたします。恵姫様、日暮れまでにはお戻りください」
こうして三人は庄屋の屋敷を後にしました。雁四郎とは城下町で別れ、恵姫と毘沙姫は西へと進路を取ります。
城下町を抜けると海に沿った見晴らしの良い道に出ます。どこからか鳴き声が聞こえてきます。
「蛙か。夏を感じるな」
「冬眠から覚めて土から這い出した蛙も、春が過ぎればつがいを求めて鳴き始める。蛙に限らず蝉も蝶も、つがいを探して鳴き、飛びまわる。そして卵を産み土に還る。これまでも、これからも、ずっと続いていく理じゃ」
恵姫は黙々と歩いています。これから重大な出来事が待ち構えているかのような真剣な顔です。元々無口な毘沙姫も余計な言葉は口にしません。蛙の声に満ち溢れている西の道を、二人は黙って歩き続けました。
そうして半刻も歩いた後、二人はようやく目的地に着きました。
「着いたな」
二人の前には鳥居が立っています。そう、ここは乾神社です。
「伊瀬の旅以来じゃわい。ここだけは本当にご無沙汰しておるな」
鳥居をくぐって参道を歩く二人。やがて拝殿とその前に立つ宮司が見えてきました。
「いらっしゃいましたな、恵姫様。お待ちしておりました。おお、毘沙姫様もご一緒でしたか」
宮司は手に油紙を持っています。古びてはいますが恵姫が持っているのと同じものです。それを広げると中から一通の文が出てきました。
「どうぞ、恵姫様」
手渡された文を丁重に受け取る恵姫、しかしすぐには開こうとしません。
「読むのは……やはりあの場所が良い。毘沙、済まぬがここで待っていてくれぬか」
「ああ、いいぞ。久しぶりに語らって来い」
恵姫と宮司は連れ立って境内を出ました。拝殿の奥に広がる森、そこへ続く道を歩き始めます。恵姫の持つ二つの文、ひとつは恵姫に宛てたもの、もうひとつはその差出人に宛てたものです。
初夏の風が葉擦れの音を奏でる小道を進んで行く二人。不意に、草も樹もない空間が広がりました。目の前には緑の葉を繁らせた
「いつもながら遠き場所まで足をお運び、心苦しく思います。神域は穢れを嫌いますゆえ」
「何度参っても良き場所じゃ。母上も安らかに眠っておられることであろう」
そうして恵姫は宮司から貰った文を広げました。これまで何度も読んできた亡き母からの文。恵姫が初めて貰った、そして最後に貰った亡き母からの不義理状。
「病ゆえに恵姫様に会えぬ不義理を、お母上様は嘆いておられました。わたくしの申し上げた助言によってしたためられた不義理状、今年も恵姫様のお心に届きますように」
恵姫の母が逝き、形見として遺されたこの不義理状を宮司から受け取った時、幼い恵姫はそれを読む事ができませんでした。まだ字を知らなかったからです。さりとて他の者に読んで聞かせてもらいたくもありませんでした。自分だけで、自分一人の心だけでこの不義理状を知りたい、恵姫はそう思ったのです。
それ以来、毎年四月一日の不義理の日には、一人で乾神社を訪れ、この不義理状を読むのが恵姫の決まり事となりました。年が経つにつれ書いてある字も次第に読めるようになってきました。今ではもう分からない字も言葉もありません。
口元を引き締め真顔で文を読む恵姫。その眼は字ではなく、どこか遠い風景を眺めているように見えました。幼い娘を置いて先立つ母の想い、恵姫の記憶に微かに残る、母と共に過ごした懐かしい思い出の日々、文から溢れ出るそれらの心象が、実際の光景となって恵姫には見えているかのようでした。
深く嘆息した後、恵姫は文から目を離しました。丁寧に折り畳み、初夏の青空を見上げます。
「如何ですか、この不義理状、そろそろ手元に置かれては」
宮司の言葉に恵姫は首を横に振りました。
「いや、これを手元に置くにはまだ早い気がする」
「ほう、何故でございますか。もはや文の内容は全て理解できていらっしゃるはず」
「字は分かる、言葉も分かる、じゃが、母上の言いたかったこと、伝えたかったこと、これらが本当に分かっておるのか、わらわにはまだ確信が持てぬのじゃ」
恵姫は折り畳んだ文を宮司に差し出しました。
「済まぬな。また一年預かってくれぬか」
宮司は頭を下げ恵姫の手から文を受け取りました。数年に渡り何度も読まれてきたにもかかわらず、昨日書き上げたかのような鮮やかな文字に彩られた不義理状。大切に油紙に包むと宮司は懐に仕舞いました。
「お預かり致しますよ。恵姫様が心底この文を必要とされるその日まで」
宮司の言葉に恵姫も頭を下げました。それから手に持った油紙を広げ、そこに残った最後の文、亡き母に捧げる最後の不義理状を手に取りました。
「母上、御無沙汰をしておりました。持参致しました今年の不義理状、読んでくだされ」
恵姫は文を広げ、緑の葉を繁らせた榊の前に掲げました。初夏の風が文と榊の葉を揺らして吹いて行きます。文は揺れ続けています。まるで誰かが手に取ってそれを読んでいるかのように。
宮司は腰に下げた袋から火打石を取り出しました。その場にしゃがみ、火口に火を点け火種を作り、付け木を差して炎を燃え上がらせます。
「さあ、姫様、お渡しください」
恵姫は油紙を添えて亡き母への不義理状を宮司に渡しました。それを手に取った宮司は付け木の炎を移しました。燃え上がる不義理状と油紙。薄い煙が青空へ立ち昇って行きます。
「我が文は母上に届いておるであろうか」
「届いておられますとも。そして喜んでおられますとも。姫様が手渡した他の方々と同じように」
燃え尽きる文と油紙。青空を目指して昇り、消えて行く薄煙。それを眺めながら恵姫は不義理状に書かれていた母の言葉を思い出していました。
『あなたがこの文を貰った時の喜び、その喜びを他の者にも分けてあげなさい……』
「母上、恵は言い付けをきちんと守っております」
何かを吹っ切るように恵姫は榊に背を向けました。そして境内に向かって歩き始めました。慌てて後を追う宮司。
「もうよろしいのですか、恵姫様」
「毘沙を待たしておるからのう。早く戻ってやらねば気の毒じゃ」
「毘沙姫様も布姫様も、お母上様の命日には必ずここへ参られて榊に言葉を掛けておられます。久しぶりに母上様の思い出話など聞かれては如何ですか」
「そうじゃな、それも良いな」
境内へ通じる小道を歩く二人、やがて毘沙姫が見えてきました。こちらに気付いた毘沙姫が大声をあげます。
「おう、帰って来たか。恵、城まで送ってやるから夕飯を食わせろ。腹が減った」
「ははは、食い意地が張っておられるところは恵姫様そっくりでございますな」
「まったくじゃ。まるでわらわを見ているようじゃ」
宮司と恵姫は顔を見合わせて笑いました。笑う二人に釣られて自分も笑い出す毘沙姫。初夏の新緑の中で語り合う三人を見守りながら、最後の不義理状を燃やした紫煙は穏やかに青空へと昇って行くのでした。
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