霜止出苗その二 お弁当

「うむ、出掛けるには絶好の日和じゃな。磯島、付いてくるのはここまででよいぞ」


 恵姫とお福を見送るために、磯島はわざわざ城門まで来てくれました。余程、お福の事が気掛かりなのでしょう。


「夕刻までにはお戻りください。それから水のある場所には不用意に近付かぬよう、くれぐれもお気を付けくださいましね」


 水を避けるのは瀬津姫を考慮しての注意です。恵姫の神海水と同じように神水を携帯しているはずですが、最近の姫の力の減衰を考えれば、さほどの脅威ではありません。川や池に近付かなければ、瀬津姫など恐るるに足らずなのです。


「分かっておる。磯島も余計な心配をせずに待っておれ。では、行ってくるぞ」


 心配そうに城門に立つ磯島に手を振って、二人は山を下り始めました。


「こうして二人で山を歩いておると、伊瀬の旅を思い出すのう。あれからもう一月半も経ったのじゃな。時が経つのは早いものよ、魚が釣り針から餌をかっさらって行くのよりももっと早い。目にも留まらぬ早さであるな」


 冗談めかして話し掛ける恵姫。お福は少し笑いましたが、すぐに目を伏せてしまいます。磯島の言葉通り以前とは雰囲気が違います。


『う~む、確かに表情も仕草も明るさがないのう。考えてみればお福と顔を会わしたのは花見が最後、もう十日以上も経っておる。わらわに会えずに寂しかったのであろうか。ここはわらわ自らが陽気に振る舞って、お福の明るさを取り戻さねばな』


 恵姫はぶら下げた風呂敷包みをお福の顔の前に突き出しました。


「見よ、磯島がこしらえた昼の握り飯であるぞ。中の具は食ってからのお楽しみじゃ。伊瀬の旅では熊に持ち逃げされてしまったが、此度はそんな心配は無用。腹いっぱい食ってやろうぞ」


 お福は暗い表情をして顔を伏せてしまいました。磯辺街道の峠越えで、皆に迷惑を掛けたことを思い出したのでしょう。


『しまった、逆効果であったか。わらわとしたことが何という失態。これは無闇に話をせぬ方がよいな』


 それからの恵姫は「今日はぬくいのう」とか「夕飯は何かのう」とか「お福は愛らしいのう」とか「間渡矢城の恵姫は容姿端麗有智高才うちこうさい、三国一の姫君であるのう」などと、虚実入り混じった他愛のない話に終始し、気が付けば庄屋の屋敷に到着していました。


「おーい、黒。居るかー。遊びに来たぞ」


 落ち込んでいるお福を励ますには、いつも陽気でご機嫌で明朗快活な黒姫が適任であることは、磯島に言われるまでもなく分かっていることです。そこで恵姫はお福を連れて庄屋の屋敷にやって来たのでした。


『黒ならば、必ずやお福を元に戻してくれるはずじゃ。うむ、頼んだぞ黒』

 との期待を込めて屋敷の門を叩けば、出て来たの庄屋でした。


「これはこれは恵姫様。ようこそいらっしゃいました。残念ながら黒はただいま田に行っております。苗作りを始める今が一番忙しい時期なのでございます。遊んでいただけるのは嬉しいのですが、本日はちょっと無理かと存じます」


 言われてみればその通りでした。だからこそ諸国遍歴の旅の途上にある毘沙姫を引き留め、農作業の手助けをしてもらっているのです。どうやら田植えが済むまでは黒姫と遊ぶのは無理のようです。

 さりとて、このまますごすごと城に戻ったりすれば、磯島に軽蔑の目で見られるのは明らかです。


「大食いで寝坊で怠け者で、その上お福を励ますことすらできぬとは、与太郎殿と五十歩百歩の役立たずでございますね」

 などと言われかねません。それだけは何としても避けたい恵姫です。


「うむ、分かった。ならばわらわたちも田へ行こう。黒たちの野良仕事を見物するのも悪くなかろう」

「おお、そうですか。それでは一つ頼まれてはくれませぬか。おーい」


 恵姫の返事を聞いた庄屋は、屋敷に向かって呼び掛けると、手を叩きました。しばらくして女中が出てきました。手に大きな風呂敷包みを持っています。


「使いをさせるようで恐縮なのでございますが、田に居る黒にこれを届けてはいただけないでしょうか」

「何じゃ、これは」

「昼の弁当にてございます。いちいち屋敷に戻るよりも外で食べた方がよいと申しますので、季節の良いこの時期は田にて昼食を取っております。いつもは女中に行かせておりますが、田に行かれるのでしたら、ついでにお持ちいただけないでしょうか」

「うむ、わかった。引き受けてやろうぞ」

「ありがとうございます」


 そう言って受け取った風呂敷包みは大きく、ずしりとした重みがあります。手ごたえから推測するに、どうやら重箱が五段ほど包まれているようです。


「おい、庄屋。弁当にしては大きすぎるのではないか。黒はそれほど大食いではなかろう。これだけの量、食いきれまい」

「黒と毘沙姫様の他に、非番の雁四郎様が手伝いに来ておられます。それから下働きの田吾作の分も入っております。更に本日は苗代田の水口を開く日なれば、かような大きさになりました」


 恵姫が会ったことのある姫の中で一番大きいのが毘沙姫でした。その上背は雁四郎よりも高く、髪を短くすればほとんど男にしか見えないくらいです。大食いに関しては恵姫と互角の勝負を展開するはずです。


「忘れておった、毘沙が居るのじゃったな。あいつはよく食うからのう」

「勿論、恵姫様も召し上がっていただいて結構でございます。本日はこんがりと焼きあげた桜鯛の一夜干しが入っておりますよ」

「し、庄屋よ、でかしたぞ! うむ、わらわが責任を持って届ける。任せておくがよい。お福、わらわたちの弁当はそなたが持て。大切な桜鯛を落としたりしたら一大事じゃからな。では庄屋、行ってくるぞ」

「お気を付けて」


 こうして五段重箱仕様の大きな風呂敷包みを両腕に抱えた恵姫は、お福を従えて黒姫たちの居る田を目指して歩き始めました。庄屋の屋敷は城下町の外れにあるので、東の道を進めばすぐに田と畑が広がる間渡矢領一の田園地帯に出ます。


「おう、すっかり様変わりしたのう」


 前回、新田候補地の検分に来た時には、畦道には雑草が生え、田は一面の蓮華草に覆われていました。しかし今、目の前にあるのは雑草が刈られてスッキリした畦道と、蓮華草をすき込んで黒々とした田です。百姓たちの苦労が偲ばれます。


「さて、黒たちは……おお、あそこか」


  遠くに野良着姿の黒姫と毘沙姫、そこから少し離れてやはり野良着姿の雁四郎と田吾作が居ます。雁四郎が脇差を帯びて野良仕事をしているのは武士として当然としても、毘沙姫まで大剣を背負ったままで働いているのには少々違和感があります。けれどもこれには理由があるのです。恵姫の印籠や黒姫の小槌と同じく、毘沙姫の大剣も斎主さまより拝領した神器だからです。


「畦道は気を付けて行かねばな」


 転んだりしてはせっかくの御馳走弁当が台無しです。恵姫は足を滑らさないように、ゆっくりと歩いて行きました。


「あれ、めぐちゃんとお福ちゃんだあ。お弁当を持ってきてくれたんだねえ~。じゃあ、お昼にしてお弁当を食べようか」


 黒姫の声が聞こえます。相変わらず明るく元気な声です。そして、その声に乗って耳に届いた「お弁当を食べようか」という言葉が、ゆっくり歩いていたはずの恵姫の足取りに変化を与えました。急に早くなったのです。


「ぐふふ、桜鯛の一夜干しがもうすぐ食えるのじゃな。じゅる。最近、城では鯛を食わせてもらっておらぬからのう。やはり庄屋は太っ腹じゃわい、桜鯛よ、待っておれ~、じゅるり」


 もはや食欲の塊となった恵姫は、裾が乱れるほどの早足になっていました。そして事故というものは得てしてそんな時に起こるのです。百里を行く者は九十里を半ばとすの格言通り、終了間際というものはもっとも注意を要する時間帯なのでした。


「あっ!」


 恵姫の足が滑りました。傾く体、傾く五段重箱弁当。


『しまった、わらわともあろうものが!』


 慌てて体勢を立て直そうとするも、重い風呂敷包み抱えていてはそれも叶いません。


「恵!」


 毘沙姫の声が聞こえます。こちらに向かって走って来る気配もあります。しかし間に合わない事は恵姫には分かっていました。


『このまま田に落ちるしかないか。うう、桜鯛の一夜干しよ、そなただけは守ってみせるからな』


 諦めて体の力を抜いた恵姫。それでも風呂敷包みだけはしっかりと抱き締めています。自分は泥だらけになってもいい、せめて中の弁当だけは無事でいてくれと願いつつ、恵姫の体は田に向かって傾いていきました。

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