霜止出苗その三 水口祭

 桜鯛の一夜干し弁当が包まれた風呂敷包みを抱えたまま、田に落ちていく恵姫の体。その体がいきなりガッシリと支えられました。


「おや……」


 同時に畦道へと引き戻される力強い感覚。崩れた体勢を立て直した恵姫は足を踏ん張り、すんでの所で田への落下は免れました。


「やれやれ危なかったわい」


 毘沙姫が力を使ったのであろうか、恵姫は最初そう思いました。けれども腰に回された両腕を見て、それが間違いであることに気付きました。


「お、お福、そなたが助けてくれたのか」

 腰にしがみついていたのはお福でした。非力なお福が渾身の力を込めて恵姫を引っ張り上げてくれたのです。

「助かったぞ、お福。礼を言うぞ」

 恵姫の感謝の言葉を聞いても、お福の顔は冴えません。俯いたまま暗い表情をしています。

「お福、どうしたのじゃ。わらわは無事であるぞ」

「ああ、やってしまったな」


 こちらに走って来た毘沙姫が言いました。見れば田の中には風呂敷包みが落ちています。お福に持たせていた恵姫たちの弁当です。


『そうか、わらわを助けようとして咄嗟に包みを放してしまったのじゃな。わらわたちの弁当を台無しにしてしまったと己を責めておるのか。どこまでも不憫なおなごじゃのう、お福は』


 お福は肩をすくめてしょんぼりと立っています。土で汚れている野良着姿の毘沙姫は、平気で田に入ると落ちた風呂敷包みを拾って戻ってきました。


「泥だらけだ。向こうまで持って行ってやろう。そっちがお福か。お初にお目に掛かる、毘沙だ。お前のことは布から聞いている。よろしくな」

「おお、そうじゃ、二人は初めて会うのじゃったな。お福、こちらは以前話した毘沙姫じゃ。厳左を助けてくれた怪力姫じゃ」


 恵姫の紹介を受けてお福は会釈をしました。ただでさえ元気がなかったのに、泥だらけの風呂敷包みを見せられて、更に沈んだ表情をしています。


『なんたることじゃ。お福を明るくするために城から連れ出したというのに、ますます暗くなる一方ではないか。励まさねば、何としても以前のお福に戻さねば』


 毘沙姫の後に付いて歩き出した恵姫は、わざとらしいほどに明るい声でお福に話し掛けました。


「あー、お福よ。田に落ちた風呂敷包みのことは気にせんでよいのじゃぞ。わらわを助けるためにしてくれたのじゃからな。仕方のない事じゃ。それに泥が付いたと言っても、それは風呂敷だけのこと。中の握り飯は大丈夫のはずじゃ。そうであろう、毘沙」

「どうかな、開けてみないと分からん。まあ、形は少々潰れてはいるようだ」


 毘沙姫の返事を聞いて、お福の歩みが遅くなりました。かなり気にしているようです。


『毘沙の奴、何と気の利かぬおなごなのじゃ。そこは嘘でも良いから、全然問題ない、お福、気にするな、とでも言うべきであろうに』


 策略がまたも裏目に出て、地団駄踏みたくなる恵姫です。

 やがて三人は黒姫の居る場所までやって来ました。雁四郎と田吾作も、既にそこに来ています。


「めぐちゃん、わざわざ御苦労さま。田吾作どん、少し早いけどお昼にしようよ」

「分かりました、お嬢様。では、あちらにゴザ等敷いて準備を致しましょう。恵姫様、毘沙姫様、風呂敷包みをお寄越しください」

「あ~、これ、田吾作とやら」

 風呂敷包みを渡しながら、恵姫が言いました。

「一人で支度をするのは大変であろう。お福に手伝ってもらうとよい」

「えっ、いえいえ、お福様の手を煩わさずとも……」


 ここで恵姫が黒姫に向かってパチパチと目配せをしました。普通の人間ならば全く分からない合図ですが、そこは幼い時から共に遊び、喧嘩をし、昼寝をしてきた恵姫と黒姫、これだけで恵姫が何を言いたいのか、黒姫は悟ることができたようです。


「田吾作どん、せっかくだから手伝ってもらいなよ。お福ちゃん、済まないけど手を貸してくれるかな」


 黒姫の言い付けとなれば従わないわけにはいきません。田吾作とお福は田の端にある木陰の方へ歩いて行きました。いつもそこで昼食を取っているのでしょう。


「で、何なの、めぐちゃん。お福ちゃんには聞かせたくない話があるんでしょう」

「うむ、さすがは黒。よく分かっておるではないか。三人とも、ちょっと耳を貸せ」

 黒姫、毘沙姫、雁四郎の三人は、恵姫を取り囲みました。

「実はな……」


 そうして恵姫は手短に、今日お福をここへ連れて来た訳を説明しました。花見の時からお福の元気がないこと。神海水作りに手間を取られ、お福に構ってやれなかったこと、なんとかお福を元気にしてやりたいこと、などなど。


「ここへ来るまでにわらわなりに色々やってみたのじゃが、どうにも今一つでな。こうなればそなたたち三人に頼るしかないと思っておるのじゃ。お福の明るさを取り戻すために力を貸してくれ」

「お安い御用だよ~、あたしに任せて、めぐちゃん」

「微力ながら、この雁四郎も助太刀致しましょう」

「どこまでできるか分からんが、一応努力はしてみよう」

「おお、そう申してくれると思っておったぞ。有難いのう、有難いのう」


 快く引き受けてくれた三人の手を一人一人握り締めながら、感謝の涙をこぼさんばかりに礼を言う恵姫。傍から見ていると、女中思いの立派な主のように見えますが、内心では、

『これでお福のことは此奴らに任せておける。肩の荷を降ろしたわらわは、心行くまで桜鯛の一夜干しを味わうとしよう。じゅる』

 などと、三人が耳にしたら間違いなく怒り出すような事を考えていたのでした。


「皆様、用意が整いましてございます」


 木陰から田吾作の呼び声が聞こえてきました。


「よいか、お福にはくれぐれも悟られぬようにな。いつも通りの自然な感じで上手くやるのじゃぞ」


 恵姫は最後の注意を三人に与えると、待ちかねたとばかりに木陰へ走りました。ゴザの上に広げられた五段重箱の料理を見た瞬間、恵姫の口からは滝のようなよだれが流れ落ちました。


「こ、これは、どうしたというのじゃ、じゅる。盆と正月と花見と五節供が一度に来たとはこのことではないのか、じゅるじゅるり」


 無理もありません。桜鯛の一夜干しだけでなく、車海老の鬼殻焼、鰆の木の芽焼などの海の幸に加え、菜の花酒粕和え、タラの芽天ぷら 蕗味噌などの山の幸が五段の重箱にぎっしりと詰められていたのです。


「わあ~、今日は御馳走だねえ」

「く、黒よ、じゅる、そなた、このような贅沢な食い物を、じゅるじゅる、毎日この田で食っておるのか」

「めぐちゃん、よだれ拭いてよ。今日は特別なんだよ~。雁ちゃんが来て人数が多いし、なにより苗代に籾種を撒く日だからね。美味しい米は立派な稲から、立派な稲は丈夫な苗から、ってことで、元気な早苗が出来ますようにと前祝いをすることになっているの」

「そ、そうであったか。ならばこれからは苗代作りの日には、是非わらわを呼んでくれ」


 そんな習慣があるとは全く知らなかった恵姫です。田植えの時だけでなく苗代を作る時にも、水口祭と言って簡単な儀式をすることがあるのです。見れば苗代田への水口には藁の束と花が飾られています。


「そうそう、恵姫様の握り飯は少々形が崩れておりましたが、泥も付いておらず食べるには何の支障もございません。ご安心ください」


 田吾作がにこやかに話し掛けても、恵姫の全神経は重箱の料理に集中しています。もう磯島が持たせてくれた握り飯など眼中にはないのです。


「では、お昼をいただく前に、早苗の健やかな成長を祈願して、田の神様に御神酒を捧げましょう」


 黒姫は白い陶器の徳利を手にすると、苗代田へその中身を撒いて行きます。風に乗って芳醇な酒の香りがほんのりと漂い、御馳走を前にしておあずけを食っている空腹が、早く食わせろと悲鳴をあげます。


「く、黒、まだか、まだ終わらぬのか。わらわはもう辛抱できぬぞ」

「田の神様、田の神様、今年も山から里へ下りていただきありがとうございます。良い苗を生やし、良い稲を育て、良い米を実らせていただけますよう、ここに御願い申し上げ奉ります」


 それは黒姫だけでなく、志麻の領民の、日本の全ての百姓の願いでもあります。黒姫の真剣な祈りを聞いて、さしもの恵姫のよだれも、ほんの少しだけ垂れる量を減らしたようでした。

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