鴻雁北その五 雁供養

 やがて恵姫たち四人は西の浜に着きました。厳左の言葉通り、雁四郎はひとり、砂浜に足を抱えて座っています。


「おーい、雁四郎!」


 恵姫が声を掛けると、雁四郎は驚いた顔をして立ち上がりました。


「め、恵姫様、どうしてここへ」

「雛の国見せじゃ。おのこであるそなたは知らぬであろうが、こうして雛人形を携え野山を歩くのじゃ。あられもあるぞ、食うか」

「いえ、拙者は要りませぬ……おお、与太郎殿も来ておられたのか。島羽では一方ならぬご尽力を賜り深く感謝いたしておる。拙者が不甲斐ないばかりに与太郎殿に迷惑を掛けてしまったこと、もはや弁解の余地もない。深くお詫び申し上げる」

「そ、そんな、僕は別に……」


 与太郎は面食らいました。他人から感謝されたことも詫びられたことも、これまでほとんど経験がなかったからです。当然、雁四郎を元気付けるような気の利いた言葉など出てくるはずがありません。目の前で頭を下げる雁四郎に、ただ慌てふためくばかりです。

 屋敷で恵姫から言われた『本当は船底で震えていただけで、全ては恵姫様の活躍によるものです』という台詞もすっかり忘れてしまっていました。見兼ねた黒姫が言いました。


「ねえ、雁ちゃん、厳左さんから聞いたよ~。お城のお役目も毎日の稽古もしていないんでしょ。いつも元気一杯の雁ちゃんらしくないよ。めぐちゃんもお福ちゃんも、もう何とも思っていないって言ってるよ」

「黒の言う通りじゃぞ、雁四郎。確かにそなたにも落ち度はあろうが、わらわの落ち度の方が遥かに大きいではないか。それに結果として、わらわもお福もこうして無事なのじゃ。あの出来事はとっとと忘れてお役目に精を出すがよいぞ」


 恵姫にしては珍しく、島羽の件については自分が一番悪いという認識があるようです。二人の暖かい励ましの言葉を受けた雁四郎、しかし、その表情は冴えません。また砂浜の上に腰を下ろしてしまいました。


「分からなくなってしまったのです。島羽の城下で困っている人を見た時、拙者は人助けをするのが当然だと思いました。見捨てて行ってしまおうとする恵姫様は間違っている、そう思ったのです。しかし、実際には間違っていたのは拙者の方でした。恵姫様の言葉に従っていれば、お二人を危険な目に遭わせることはなかったのですから。一番悪いのはこの雁四郎です。己の考えに囚われ、己の正義だけを信じて行動した、こんな愚か者に城のお役目など務まろうはずがありません」


 恵姫も黒姫もお福も深くため息をつきました。雁四郎の心は相当深い所まで、それこそ全く陽の差さぬ深海の底にまで沈み込んでいるようでした。

 不意に、空から甲高い鳴き声が聞こえてきました。見上げると、それは雁の群れでした。この地で冬を越した雁が北へ帰っていくのです。

 やがてその姿が空の彼方へ消えてしまうと、雁四郎は浜に落ちていた木の枝を拾い上げました。


「恵姫様、この枝は冬に雁が咥えてきたのです。海を越えてここへ飛んでくる雁は、途中で疲れると海に枝を浮かべ、その上で休みます。海を渡ってしまえばもう要らなくなるので浜に捨てて行き、そして春になって北へ帰る時、捨てた枝を拾ってまた海を渡っていくのです。もし、冬の間に命を落とし、春になっても北へ帰れなかったら、枝は浜に残ったままです。この枝のように」

「うむ、聞いたことがある。この地で命を落とした雁への供養に、残された枝を集めて風呂を焚く雁供養。陸奥みちのくに伝わる民話であろう」

「この枝はそんな不遇な雁たちの無念の象徴です。そして今の雁四郎もまた同じです。海を渡ろうとしても己の枝が見つからぬのです。元の雁四郎にどう戻ればよいのか分からぬのです。こうして浜に座って、北へ帰っていく雁を眺めることしかできぬのです」


 枝を持ったまま自分の膝に顔を埋める雁四郎。厳左があれだけ心を痛めていた理由がよく分かりました。初めての失敗、しかも大きな役目を任されての失敗だっただけに、雁四郎も簡単には立ち直れないのでしょう。


「雁四郎、貸せ」


 恵姫は雁四郎に近付くと、その手から枝を奪い、砂の上に放り投げました。


「恵姫様、何を……」

「枝など探す必要はない。そんな物は元から無いのじゃ。雁四郎、枝などなくともそなたは飛べる。枝に頼る雁四郎は死に、そなたは生まれ変わったのじゃ。完璧ではない、失敗もする、間違ったこともする、そんなおのこに生まれ変わったのじゃ。そう考えればよいではないか」

「しかし、そんな情けない男になど……、お、お福殿、何を!」


 突然のお福の行動に、雁四郎は思わず立ち上がりました。お福は男雛で雁四郎の体を擦り始めたのです。


「一体、何を……何をしているのです、お福殿」


 雁四郎の背中に腕に胸に腹に足に、体をぐるりと一回りして男雛を擦り付けたお福は、波打ち際まで行ってそれを海に浮かべました。


「……」


 無言で恵姫を見詰めるお福。何をして欲しいのか、恵姫にはすぐに分かりました。両手を海に向かって掲げると同時に髪も扇形に持ち上がります。その一本一本の先端が青く輝き始めた時、恵姫は言葉を発しました。


「引け!」


 まるで海の底に穴でも開いたかのように潮が引き始めました。そしてお福が浮かべた男雛も沖へと流されていきます。波間に揺れるお福の男雛。やがてそれも波に飲まれ見えなくなってしまいました。


「お福殿、何故です、何故こんなことをするのです。あれは大切な雛人形ではなかったのですか」


 雁四郎にそう詰め寄られても、お福は優しく微笑むばかりです。雁四郎は恵姫を見ました。乱れた髪を直しながら、恵姫は厳しい目をして雁四郎に言いました。


「海に消えた男雛はな、雁四郎、そなた自身じゃ。雛祭りは流し雛が形を変えて武家にも浸透したもの。本来は身の穢れを託した祓いの人形を水に流しておったのじゃ。見たであろう、古い雁四郎は海の彼方へと消えた。ここに居るのは新しい雁四郎じゃ。いつまで昔の己に囚われておる。いい加減に目を覚ませ、雁四郎よ。大切な雛人形を犠牲にしてまで、そなたに立ち直って欲しいと願ったお福の気持ち、無駄にするでない」


 深海の底に沈んでいた雁四郎の心に、温かい手が差し伸べられました。それはお福の、恵姫の、黒姫の、与太郎の手です。ゆっくりと引き上げられていく雁四郎の心、その心が再び海面に顔を出し、青い空と陽の光の中へ導かれた時、雁四郎はすっかり元気を取り戻していました。


「お福殿、恵姫様、黒姫様、与太郎殿。皆のおかげでこの雁四郎、ようやく目覚めることができました。感謝いたす。心よりお礼申し上げる」

「よし、これで花見ができるわい。雁四郎、厳左がそなたの為に花見をやると言っておったぞ。これでますます元気が出るのう。おい、与太郎、お主も呼ばれておるのじゃからな、これからは片時も床柱から離れるでないぞ、分かったな」

「そ、そんな、僕だって生活があるんだから、四六時中自分の部屋に居るのは無理ですよ」

「恵姫様、与太郎殿は寺子屋に通っておるのです。そうそうこちらの都合に合わせられるものでもないでしょう」

「あ、いえ、寺子屋は卒業、というか、手習いは無事終わったんです」

「ああ、そう言えば、今は浪人しておるとか何とか言っておったのう」

「浪人……与太郎殿は仕官の口を探しておられるのですか」

「いやいや、そういう意味の浪人じゃなくて……」


 何か大変な勘違いをされそうなので慌てて否定しようとしたのですが、恵姫が怒涛の如く喋り始めました。


「そうなのじゃ、雁四郎、まあ聞け。与太郎の惚れたおなご、名はおふうと言うのじゃがな、そのおなごがどこぞの大名の屋敷に女中奉公に入ったらしいのじゃ。そこで、その大名に取り立ててもらおうと仕官を申し出たもののあっさり断られ、結局、今は浪人の身。毎日、することもなくブラブラと過ごしておるそうじゃ。まあ、こんな腑抜けなおのこゆえ、仕方ない話ではあるのう」

「な、何を勝手に話を創作してるんですかっ!」

「おや、違ったかのう。ならばどこが違うか言ってみよ、与太郎」

「そ、それは……おふうじゃなくて、ふうちゃんで、それから……」


 確かに全然違う話になっていますが、どことなく事実を踏まえているので、頭ごなしの反論もできかねます。そもそも大学とか進学とかを説明するのが面倒なので、与太郎は口を閉ざしてしまいました。


「なるほど。そうと分かれば放ってはおけません。この雁四郎が一肌脱ぎましょう。恵姫様のお役には立てずとも、与太郎殿の力にはなれます。武士の仕官となれば腕を磨くのが第一。与太郎殿、これからは拙者が稽古をつけて差し上げましょう。与太郎殿仕官の悲願、必ずや叶えてみせまする」

「え、いや、だから、浪人ってそういう意味じゃなくて……」

「何を遠慮しておられる。恵姫様、与太郎殿を我が屋敷にお連れしてよろしいでしょうな」

「ああ、構わぬぞ。こちらに来たのが昼頃じゃったから、夜中頃までは帰らぬはずじゃ。たっぷり鍛えてやってくれ」

「そ、そんな、めぐ様、ちょっと……」

「さあ、参りましょう」


 雁四郎は与太郎が羽織っている小袖の襟をむんずと掴み、引きずるように歩き出しました。与太郎は何か叫んでいますが、恵姫たちにはまるで届きません。


「うむ、よき雛祭りであった」


 三人の娘の頭上を北へ帰る雁が飛んでいきます。枝など咥えず、己の力のみを信じて沖へと飛んでいく雁。三人はその姿をずっと見守っていました。

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