雷乃発声その五 旅の終わり
「くしゅん、やれやれ助かった」
小早船に引き上げてもらった与太郎は、与えられた布きれに包まって、がたがた体を震わせました。恵姫とお福も既に船に乗っています。厳左は恵姫の頬を見て顔を曇らせました。
「姫様、頬が赤くなっておるが、まさか殴られたのではあるまいな」
「う……いや、殴られてはおらぬ。恐らく船が壊れる時にうっかり木切れにでも当たってしまったのじゃろう」
恵姫は本当のことを言いませんでした。それは、自分を殴った女頭領をかばったのではなく、ただでさえ怒りに燃えている厳左をこれ以上怒らせるのは良くないと判断したからです。
「それにしてよくここが分かったのう、厳左よ」
「不思議なことに一羽の鴎が、まるで道案内をするように舞っておったのだ。その姿はやがて消えてしまったが、とにかくその方角に漕ぎ進めていくと、いきなり落雷と竜巻が見えた。後はそこを目指して漕ぎ進めるだけであった」
道案内をするように舞う鴎……恵姫はお福を見ました。お福は笑って首を傾げるだけです。
『間違いなくお福の力じゃ。斎主様に会って以来、お福の力は格段に増しておる。一体、何があったというのじゃ』
「姫様、お福の顔などを見詰めて、どうかされたか」
「ん、いや、なんでもない。ところで雁四郎はどうなったか知らぬか」
「疲れ切っておるゆえ城に置いてきた。姫様たちが船で連れ去られたと知らせるために、五里の道を駆けてきたのでな。急報を受けた我らは、
「飛魚丸……わらわが島羽城へ攻め入る時の秘密兵器じゃったのにのう。もう手の内を晒してしまいおったか。これでは奇襲ができぬな」
「姫様、これは漁師が海で遭難した時に、直ちに駆けつける救命船だと何度も申しておるはず。いい加減にそのような夢物語は捨てなされ。ところで、」
厳左は飛魚丸の隅で身を丸めてがたがた震えている与太郎に目を遣りました。何か汚らわしいものでもみるような目付きになっています。
「あの者は、何故ここに居るのかな」
「ああ、与太郎か。わらわを助けるために、わざわざ三百年の後の世から駆けつけてくれたのじゃ。あやつが来てくれなんだら、わらわもお福もどうなっておったか知れたものではないな。いわば命の恩人じゃ」
「なんと、この与太郎が……」
厳左は驚きの余り、次の言葉が出て来ないようです。無理もありません。一月ほど前には比寿家に仇なす者として斬り捨てようとしたのですから。しかしすぐに姿勢を正すと、与太郎に向かって軽くお辞儀をしました。
「与太郎殿、先日の御無礼を許して欲しい。そなたがこれほどの忠義の士であったとは、この厳左、目が曇っておったようだ。これからも姫様と我らのために力を貸して欲しい」
「あっ、は、はい」
与太郎は目を丸くしました。自分を殺そうとした相手がこうも簡単に態度を翻すことが、信じられなかったのです。
『ああ、これが君子豹変すってやつなんだな』
と、先日受けた入試問題を思い出しながら、こそこそと恵姫に近付き耳打ちしました。
「ねえ、僕、別にめぐ様の危機に気付いて助けに来たわけじゃないんだよ。たまたまだったんだよ。これ、厳左さんにばれたらまずいんじゃないのかな」
「要らぬ気を遣うな、与太郎。厳左は無骨ながら義理堅いおのこじゃ。此度の恩に報いるために、これからはわらわ同様お主も全力で守ってくれるはず。上手く口添えしてやったわらわに感謝するのじゃな。ふっふっふ」
なんという世渡り上手。自分より年下なのにこの風格、さすがは城主の一人娘、めぐ様。図らずも尊敬の念を禁じ得なくなる与太郎でありました。
「海に浸かっている悪党どもは如何いたそうか、姫様」
「このまま放っておくのも気の毒じゃ。できるだけ大きな板切れに縄を掛け、それに掴まらせて島羽の港まで引っ張っていくことにしようぞ」
厳左はこの提案を受け入れ、漕ぎ手に命じて実行させました。人買いどもはほとんど抵抗せずに一カ所に集められました。何しろ
そうして準備ができると、飛魚丸は島羽目指して漕ぎ始めました。これだけの人数を引っ張っているにもかかわらず、その船足の速さは目をみはるものがあります。恵姫は誇らしげに言いました。
「うむ、これなら島羽城奇襲攻撃は必ずや成功するであろうな」
野望は依然として胸の中に燻っているようです。
「おお、島羽の港が見えてきたわい」
舳の厳左が声を上げました。恵姫も振り返り、迫って来る港の光景を眺めました。
「妙に人が多いのう。しかも民ではなく、役人が集まっておるようじゃが」
「船を出す時、島羽城に向けて早馬を出したのだ。腰の重い松平様にしては、此度は動きが早かったようだな」
飛魚丸は速度を落とし着岸の準備に入りました。喫水が浅いのでそのまま横付けできます。係留縄を投げてもやい杭に括り付け、着岸が完了すると恵姫たちは船を下りました。
「城下の者が御迷惑をお掛けしました」
そう言って近付いてきたのは、恵姫たちを泊めてくれた親切な家老です。
「実は以前より海豚屋には悪い噂が立っておったのです。しかしながら、確たる証拠がなく、これまで手をこまねいておりました。恵姫様のお陰で一網打尽にできました事、心より感謝いたします」
「そうか、わらわも役に立てて嬉しいぞ。はっはっは」
役人たちが海に浮いている人買いどもを引き上げています。皆、ずぶ濡れで震えています。悪党といえども少々可哀相な光景です。
「ほら、さっさと歩け」
手に縄を括り付けられ、役人に引かれていく人買いたち。恵姫は一番後ろを歩いている女頭領に話し掛けました。
「そなた、罪を償ったらこのようなことはやめるのじゃな。子を奪われた親の悲しみは筆舌に尽くしがたいものがあるのじゃぞ。それを考えれば、娘を拐かすことなどできるものではない」
「親の悲しみだって」
女頭領は憎々しげに言いました。
「分かってるさ。それがどれほど辛い事か。あたしだって昔は親だった、娘もいた。だけど飢饉が続いて泣く泣く娘を人買いに売ったんだ。だけど、すぐに後悔した。あたしは娘を探して人買い仲間に近付いた。そして気が付いたら、いつの間にか頭領に仕立て上げられていたんだよ。馬鹿な話さね。あんなに人買いを憎んでいたのに、自分自身が人買いになっちまうなんてね」
女頭領……お福と自分を拐かし、頬を殴った女。それなのに恵姫の胸中には、この女への憎しみがもうほとんど残っていませんでした。いや、むしろこの女の優しさ、お福の手足を縛らなかった、腹が減ったと言ったら水と味噌玉をくれた、そんな優しさだけが思い出されるのでした。飢饉さえなければ、この女も娘と一緒に平凡に暮らし、真っ当な人生を送ることができたのです。恵姫は女に頭を下げました。
「済まぬ。そなたのような心根の優しき者をこのような境遇に追いやったのは、我ら上に立つ者の力不足によるもの。心より詫びる。許せよ」
「ふ、ふん。あんたに謝ってもらっても仕方ないよ」
女頭領はそれだけ言い残して引かれて行きました。厳左が恵姫の肩に手を置きました。
「飢饉も流行り病も天災も、我らの手では如何ともし難いもの。姫様に落ち度はなかろう」
「いや、なればこそ、上に立つ者が手を尽くさねばならぬのじゃ。あの女の罪の一端は我らにもあるのじゃ」
恵姫と厳左は目の前に広がる伊瀬の海を眺めました。先ほどまで重く垂れ込め、春雷を轟かせていた灰色の雲は切れ、明るい日差しが漏れ始めています。
「姫様は此度の旅で様々な事を学ばれたようだな」
「うむ。しかしそれも今日で終わりじゃ。間渡矢城を出て十七日、長いようで短かった旅路であった。ふあ~」
恵姫は大きな欠伸をすると、厳左にもたれ掛かりました。
「どうやら力を使い過ぎたようじゃ。腹も減っているのじゃが眠くてかなわぬ。厳左、わらわは眠るぞ。間渡矢へは飛魚丸で運んで、くれ……」
言い終わるや、すぐに眠りに落ちてしまった恵姫の体を、厳左は横にして抱き上げました。不作も不漁も姫の力の減衰も、早く終わって欲しいものだ、そう思いながら、明るくなってきた東の空を眺める厳左ではありました。
様々な思い出と、出来事と、食欲と、与太郎の災難に彩られた十七日間に渡る恵姫の伊瀬への旅は、こうして終わりを告げたのです。
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