菜虫化蝶その四 布姫

「これはまた、心が落ち着きますな」


 橋を渡り終え神宮内宮に入った雁四郎は、ここはまるで別世界だと思いました。先ほど恵姫と黒姫から聞かされた御伽噺のような物語が、不思議な現実感を伴なって心の内に蘇ってきました。常世の国、諸国を歩いた倭姫、そしてこの内宮の景色が、忘れていた郷愁を心の中に呼び覚ましてくれる、そんな気がするのです。


「それにしても娘に諸国を遍歴させるとは意外です。何故男を遣わさなかったのでしょう」

「それは豊鍬入とよすきいり姫も倭姫もわらわたちと同じ、力を持ったおなごであったからじゃよ。この二人は姫の始まりの姫とも呼ばれておる。そして最初の斎主様じゃ。その後、斎主様は斎宮様に代わられたが、今はまた斎主様に戻っておる」

「そんな昔から姫は居たのですか」

「そうだよ。日本武尊やまとたけるが大活躍できたのも、倭姫の力が籠められた剣を授かったからなんだよ~」


 なんだか神話の世界に紛れ込んでしまったような気がする雁四郎です。もしや、ここは元禄の世ではなく、本当は太古の昔、まだ不思議な力が満ち溢れていた神々の世なのではないか……木立に囲まれ神秘的な気に包まれた参道を白い玉砂利を踏みしめて歩く雁四郎は、そんな幻想の中に居る自分を感じていました。

 五鈴川で手を洗い清めた四人は御正宮へ向かいました。外宮での時と同じく四人は静かに手を合わせ参拝します。その後、長く続く石段を下りて荒祭宮あらまつりのみやに参り、橋を渡って風日祈宮かざひのみのみやに参拝していた時です。向こうから歩いてくる人影がありました。


「おう、ほうではないか」

「あ~、布ちゃんだ。久しぶりだねえ」

「これは恵姫様、黒姫様。こんな所でお目に掛かれるとは、御仏の御導きでございましょうか」


 黒い法衣に白頭巾、一目で尼僧と分かります。雁四郎は恵姫に尋ねました。


「こちらはお二方のお知り合いですか」

「うむ。布姫じゃ。姫の中で唯一、頭を丸めて仏に仕える姫であるぞ。そうか、何故あんな所から歩いてくるのかと思ったが、御正宮に参拝しておったのじゃな」

「はい、身供みどもは御正宮へは立ち入れぬゆえ」


 神宮では僧などのように頭を丸めた者は、御正宮御神前での参拝が禁じられています。そのため、風日祈宮の東に僧尼拝所が設けられ、川を挟んで御正宮を参拝出来るようになっているのです。


「そのような身ながら神宮に参ったということは、もしや布も斎主様に会いに参ったのか」

「はい。これから会いに行くところでございます」


 恵姫とも黒姫とも違う落ち着いた雰囲気の布姫に、雁四郎は興味をそそられました。しかし頭巾の下の端正な顔立ちからは、年も性格も読み取れませんでした。


「そうか、わらわたちは明日、斎主様に会うのじゃ。ところで、」

 恵姫が布姫に顔を寄せました。

「記伊の動きはどうじゃ。厳左の話では以前より活発化しておるらしいが」

「はい。昨今の力の衰弱に本宮も異変を感じているように見受けられます。既に多くの姫が各地に散らばったとのこと。恵姫様もご用心召されませ」


 二人の会話は他の三人には聞こえませんでした。黒姫がじれったそうに声を上げました。


「ほらほらめぐちゃんも布ちゃんも、こそこそ話をしていないで、自己紹介をしてあげたら」

「おう、そうであったな。布よ、こちらは雁四郎。厳左の孫で此度の我らの護衛じゃ」

「初めまして。雁四郎と申します」

「初めまして、ではございません。幼少の頃に会っております」

「そ、それは失礼いたしました。まったく記憶にありませんでしたので」

「幼い頃の話じゃ、無理もなかろう。して、こちらはお福。奥御殿の女中見習いでな。どうしても連れて行けと磯島が言うので、わらわの世話係として同行させておる」

「こちらは初めましてですね、お福殿。布姫と申します。以後よろしくお願いいたします」


 布姫は頭を下げました。お福も頭を下げました。そしてそれだけです。慌てて恵姫が言いました。


「ああ、すまぬ。お福は口が利けぬのじゃ。声は出るが言葉が喋れぬ」

「言葉が……」

 布姫の顔に驚きの色が現れました。まったく予期していなかった、そう思わせるほどの表情の変化でした。

「言葉を喋らぬ姫とは珍しいですね。どのように力を使うのですか」

「力……いや、お福は姫でない。力も持ってはおらぬぞ」

「姫では、ない……」


 布姫の顔から表情が消えました。元の穏やかな顔に戻っています。しかしその両目は鋭い光を放ってお福を凝視していました。そうしてしばらくお福を見詰めてから、布姫はようやく口を開きました。


「そうですか。失礼いたしました。身供の勘違いだったようでございます。時に恵姫様、そろそろ蝶の舞う季節でございますね」

「あ、ああ。そうであるな。先程も一匹、団子屋で見掛けたわ」

「菜虫が蝶になるのは定め。そしてそれは喜ばしい事。さりとて、蝶にならず菜虫のままでいた方がよい場合もあるものです。蝶の命は儚いものにてございますからね。お福殿が言葉を発せられる日が来ぬことを願っておりますよ」

 布姫が何を言いたいのか、恵姫にはよく分かりませんでした。返事をし兼ねていると、

「それではこれで失礼いたします」

 と言って、布姫は橋の方へ歩いて行きました。四人は頭を下げてそれを見送りました。


「布ちゃんもお福ちゃんに姫の気配をかんじていたんだね」


 黒姫の言う通りだと恵姫は思いました。それは自分たちも感じていたからです。ただ、布姫の最後の言葉、その意味が恵姫には分かりませんでした。


「蝶にならぬ方がよい……」


 恵姫はお福を見ました、お福は橋の向こうに消えて行く布姫の後姿をじっと見詰めていました。

 それから四人は神楽殿を回って宇治橋を渡り、内宮の参拝を終えました。もう昼を過ぎていたので、恵姫の希望により鰹と鯛の切り身をのせた手こね寿司を食べ、その日は早々に宿坊に戻りました。斎主様との面会を明日に控え、さすがの恵姫も大食いは出来なかったのです。


 次の日は曇り空で今にも雨が降り出しそうな空模様でした。 宿坊で朝食を取った四人は、すぐに斎主宮へ出発しました。


「用件は朝一番に済ますべきじゃ。そうすれば、心も軽くなり腹も軽くなり、食い物も美味くなる。今日も食いまくるぞ」

「えっ、斎主様に会ったらすぐ島羽に立つんじゃないの、めぐちゃん」

「黒は何を言っておるのだ。姫札は一月ひとつきの間使えるのじゃぞ。ならばその間食いまくらねば勿体無いではないか」


 雁四郎はやれやれと思いました。伊瀬に着いて今日で四日目。あと二十五日もここに滞在し、その後は島羽に寄って松平様にご挨拶。それが済めば島羽道を歩いて間渡矢城に帰還の予定です。一体、いつ城に戻れるのか見当も付きません。


「あたしは明日、志麻に帰るよ。下働きの田吾作どんが迎えに来ることになっているんだ」

「そうか、では、今日は思う存分食い溜めしておくがよいぞ。おお、そうじゃ姫札は置いて行ってくれ。お福に持たせれば余計な路銀を使わずに済む」

「めぐちゃん……」


 黒姫はすっかり呆れているようです。雁四郎も、これが忠誠を誓った主かと思うと、ちょっと恥ずかしくなってしまいました。そうこうしているうちに斎主宮に着きました。三日前と同じく下院の敷地に入り、中院まで進んだところで恵姫が言いました。


「雁四郎はここまでじゃ。これより先はおなごしか入れぬ」

「承知いたしました」


 雁四郎は恵姫たちの荷を預かり、中院御殿諸大夫しょだいふの間で帰りを待つことになりました。


「では、行ってくるぞ」


 恵姫と黒姫、そしてお福の三人が内院へと消えて行きます。雁四郎はただ黙ってその後姿を見送っていました。

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