桃始笑その四 峠越え

「はい、どうぞ」


 茶屋の縁台に腰掛けている四人に皿と湯呑が出されました。皿には焼いた蕎麦餅が四つ。湯呑には茶葉を煮詰めた煎じ汁。どちらも素朴な味わいのする茶屋ならではの品です。


「うむ、これを味わうと旅に出た気分になるわい」


 恵姫はご機嫌です。雁四郎も景色を見回しながら、しみじみとした顔で言いました。


「この辺りは良き所でございますな」

「そうであろう、ここら一帯は由緒ある土地として知られておってな。この茶屋が家立やたて茶屋と言うのは、大昔、猿田彦さるたひこ大神が家を立てたという伝説に基づいておる。向こうの逢阪山一帯の森は猿田彦の森。森の手前には清水が湧き出る風穴があってな、天岩戸と呼ばれておる。どうじゃ、有難い話であろう」


 雁四郎は驚きを隠せませんでした。恵姫の頭の中は海と魚に関すること以外は入っていないと思っていたからです。


「めぐちゃん、こういう事には詳しいんだよね~」


 黒姫が茶化していますが、恐らく黒姫も知っている事なのでしょう。さすがは天に通じる力を持つ姫たちです。


「さて出発するか。これからの道は少々きついぞ」


 恵姫の掛け声で四人は腰を上げました。


 恵姫の言葉通り、茶屋を出てからの道は上り坂になりました。天岩戸を過ぎてからは更に傾斜が激しくなり、足を滑らせでもすればズルズルと落ちてしまいそうなほどでした。


「お福、大丈夫か」


 余りの道の険しさにお福が遅れ出しました。息が乱れ、髪は汗に濡れ、時々立ち止まってはのろのろと付いてきます。慣れぬ装束のせいもありますが、お福の日常はほとんど奥御殿の中での生活、そのため長い距離を歩くことに慣れていないのでした。恵姫のように浜で遊びまわったり、雁四郎のように毎日山道を往復して城へ通ったり、黒姫のように畑や田で野良仕事をしたり、ということがありません。


「身軽にさせた方がいいじゃろう。黒、お福の袿を持ってやれ。市女笠はわらわが持つ。雁四郎、手を貸してやれ」


 雁四郎に手を引っ張られて、お福はふらつく足取りで付いて来ます。見兼ねた雁四郎は振り分け荷物を恵姫に預け、お福を背負いました。


「雁四郎、無理はするなよ」

「なに、おなごの一人や二人、軽いものですよ」


 しかし、猿田彦の森に入った所から、道は想像を絶する険しさになりました。岩に手を掛け、よじ登るような急傾斜です。雁四郎は息を切らしながら登り続けました。が、程なくその歩みを止め、片膝を地につけました。お福は申し訳なさそうに雁四郎の背から降りました。


「うむ、少し休むか」


 この逢阪峠越えが最大の難所となることは、恵姫には最初から分かっていたことです。分からなかったのはお福の体力でした。峠の困難さを余りにも過小評価し、お福の体力を過大評価してしまっていたのです。


「恵姫様、大丈夫です。少し休めば、また、お福殿を背負えます」


 息を切らしながらの雁四郎の言葉。しかしその言葉とは裏腹に、雁四郎は既に限界であることは容易に見て取れました。


『どうする、一旦引き返してお福を神社に預けるか。それとも強引に突っ切るか』


 恵姫は迷いました。どちらの策も取りたくはありませんでした。かと言って名案が浮かんでくるわけでもありません。森の木々の間から見える青空を仰いで、恵姫は考えました。


「あっ、居るかも」


 不意に黒姫が立ち上がりました。右手にはいつの間に取り出したのか、小槌が握られています。


「黒、何をするつもりじゃ」


 恵姫の問いには答えず、黒姫はゆっくりと小槌を振り上げました。髪が浮き上がり、その一本一本の先端が白く光り出します。黒姫は森のずっと奥を凝視したまま、いつもとは全く違う重々しい声を発しました。


「召す!」


 森の中に響く黒姫の声。その声の余韻をかき消すように何かが落ちる大きな音がしました。黒姫の正面に黒いものが立っています。熊でした。


「く、熊じゃと!」


 腰を抜かさんばかりに驚く恵姫。お福は口に手を当てて震え、雁四郎は刀に手を掛けています。


「みんな、怖がらなくても大丈夫だよ~。今からちょっと聞いてみるね」


 黒姫は自分の頭を小槌で叩くと熊の胸に手を当てました。何やら熊と交渉事を行っているようです。


「うん、まとまったよ。冬籠りから目覚めたばかりでお腹が空いているから、後で食べる物をくれれば、お福ちゃんを背中に乗せてくれるって」

「おう、でかしたぞ、黒姫。食い物をやるのは惜しいが、これで峠を越えられる。さあ、お福、有難く背中に乗せてもらえ」


 恵姫にそう言われても、お福は怖がって近付くこともできません。無理もないでしょう、いくら黒姫が呼んだ熊とはいえ、相手は獰猛なケダモノなのですから。しかし、近付いても、手で体に触れても、熊が唸り声もあげず大人しいままだと分かると、お福はようやく四つん這いになっている熊の背中に乗ることが出来ました。


「うむ、それでは再度出発じゃ」


 四人と一匹は磯辺街道最大の難所、逢阪峠越えを開始しました。熊に乗っていない三人にとってはかなりきつい登り道です。恵姫が気を紛らわせようとこんな軽口を叩き始めました。


「熊に乗っておると、お福は金太郎みたいじゃのう。ここだけの話じゃがな、力持ちのおのことして名を馳せておる金太郎、実は黒姫と同じように獣と心通わせる力を持つおなごであったのじゃ。知っておるか」

「え~、そんなの初めて聞いたよ。本当なの、めぐちゃん」

「本当じゃとも。金姫という名でな、皆からはお金ちゃんと呼ばれ、毎日、熊の背中に乗って家来のように扱っておったのだ。しかし、おなごがそのような勇ましい真似をするのはけしからんという上からのお達しで、後の世の人々によって勝手に金太郎と名を替えられ、今に至っておるのじゃ」

「じゃあ、桃太郎は本当は桃姫で、呼び名はお桃ちゃんだったのかな」

「冴えておるではないか、黒。お桃は黒と違って、犬、雉、猿と、三匹の獣を同時に召すことができたのじゃ。優秀であるのう」

「そんな三又掛けるような真似、たとえ出来たとしてもあたしはしませんからね」


 歩きながらの井戸端世間話に苦笑する雁四郎。不思議なもので口を動かしていると、今自分たちが苦しい山道を登っていることをすっかり忘れてしまいます。気が付けば四人と一匹は峠の頂上に着いていました。お福は熊の背中から降りると黒い剛毛を撫でました。お福なりのお礼なのでしょう。


「ホラホラ、めぐちゃん。何か食べる物をあげて」


 熊は立ち去ろうとせず、こちらをじっと見詰めています。黒姫に急かされて恵姫は渋々風呂敷包みを開けました。


「どれどれ、握り飯の包みはこれか。ふむ、一人二つずつで八つあるのか。では熊よ、お主にはお福の分の二つの握り飯をくれて、あ、こりゃ、何をする!」


 熊は素早く握り飯の包みを引ったくると、すぐさま元来た道を走り下りて行きました。恵姫が顔を真っ赤にして怒っています。


「くま! 誰が全部やると言うた。待てくま! 戻れくま! ああ、わらわの握り飯が。磯島に頼んで作らせた握り飯が、楽しみにしていた干し鰹削りと刻み若布の握り飯があ~。うう、返せくま~!」

「めぐちゃん、お気の毒」


 黒姫がポンポンと肩を叩きました。雁四郎も気の毒そうに恵姫を見ながら言いました。


「昼の弁当は拙者も持っております。よければお分けいたしましょう。峠越えも一段落したことですし、ここで昼にしますか」

「ううん、坂を下りてすぐ坂下茶屋があるから、そこで食べよう。ホラホラめぐちゃん、もう諦めなよ。熊さんが力を貸してくれなかったら、わたしたちここには登れなかったんだから。行くよ」

「くまあ~! 握り飯を返せ~!」


 吠え続ける恵姫を引きずるようにして、四人は峠を下って行きました。

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