桃始笑その三 出立

 磯辺街道は志麻の国から伊瀬の国へ通じる最短の街道です。その志麻側の起点は乾神社でした。城から神社まで約一里。その前に厳左の屋敷に寄って、雁四郎と黒姫に合流する予定です。

 庄屋の家は街道とは反対側にあるので、黒姫はあらかじめ厳左の屋敷に行き、そこで城山から下りてくる恵姫たちと落ち合う手はずになっていました。


「少し早く来すぎたかのう。雁四郎も黒もまだ寝ているのではないか」


 お福は首を横に振っています。逆に待ちくたびれているはずだと言わんばかりの顔付きです。


「待たせるのも駆け引きのひとつであるぞ。特におのこを待たせるのはおなごの常套手段である。お福も覚えておくとよいぞ」


 お福は首を傾げました。何を言っているのかさっぱり分からないと言わんばかりの顔付きです。


「なあに、すぐに分かるじゃろうよ、ははは」


 と、笑っているうちに侍町に入りました。町に入れば厳左の屋敷はすぐです。門の前に立っている三人が見えます。


「めぐちゃ~ん、遅いよ~」


 手を振っているのは黒姫。その横に庄屋と雁四郎が立っています。


「おい、雁四郎。その格好は何じゃ、ははは。これは愉快じゃ」


 恵姫が笑うのも無理はありませんでした。雁四郎はいつもの袴ではなく股引姿だったのです。紺の股引に黒の脚絆と草鞋。小袖は尻でからげているので膝まで見えています。上は藍染の半合羽と手甲。どう見ても武士ではなく町人の旅姿です。ただし腰に帯びているのは道中差しと言うよりは長脇差と言うべき刀でした。ここはさすがの雁四郎も譲れなかったのでしょう。


「いやいやお恥ずかしい。お爺爺様に言われたのです。『なまじ武士の格好ではかえって危険を招きやすい。むしろ町人の姿の方が町に馴染んで人目にも付きにくかろう』と。それで庄屋殿に協力していただき、このような姿となりました」

「恥ずかしがらずともよく似合っているではないか。いっそ、町人に職を替えてはどうじゃ」

「御冗談を。これでも跡取りですぞ。とは言っても、こうして着替えてみれば町人姿もよいものですな」


 どうやら雁四郎も満更ではない様子です。やはり身に着ける装束には、その者の気分も性格も考え方すらも、変えてしまう力があるようです。


「そう言うめぐちゃんの格好は何? お侍様?」

「左様じゃ。われは恵之進である。尋常にお相手願おう」

「恵姫様、いまどきそのような口上は流行りませぬよ。しかし恵姫様が侍の格好をなされたのでは、拙者が町人の姿になった意味がありませんでしたな」

「ふん、こんな弱そうな侍姿、気に留める者などおらぬじゃろう」

「そうですな、見方を変えるとおなごに見えますからな。おっと、実際におなごでしたな、これは失礼」


 雁四郎は失言を誤魔化すように、置いてあった振り分け荷物を肩に掛けると、菅笠をかぶりました。


「遅れておりますゆえ、立ち話もこれくらいにして出発いたしましょう。庄屋殿、お見送り感謝いたします」

「いえいえ、こちらこそお黒がお世話になります。恵姫様、雁四郎様、お黒をよろしくお願いいたします。お黒、迷惑を掛けないようにするのだよ」

「分かっておりますよ、父上」


 明るく答える黒姫の出で立ちはいかにも町娘という風情。重ね着た小袖の表着おもてぎは大きく端折って裾を軽くし、白木綿の脚絆と足袋に、お福と同じ結わい付け草履。菅笠と杖も同じです。


「黒、親子の別れの挨拶は済んだのか。水杯は酌み合わさずともよいのか」

「めぐちゃん、一生の別れじゃあるまいし、そんな縁起の悪い事を言わないでよ」

「ははは、では参ろうか。庄屋殿、見送りご苦労であったな」

「恵姫様も皆様も、どうぞお気を付けて」


 庄屋は深々と頭を下げた後、ずっと四人を見送っていました。黒姫の伊瀬行きはこれが初めてではないのですが、何度旅立とうとも娘を心配する気持ちが薄れることはないのでしょう。

 侍町を抜け城下の外へ出ると、四人は乾神社を目指しました。そこで宮司に挨拶をしてから磯辺街道に入るのが、伊瀬の神宮へ行く時の習わしになっていたのです。


「ところで、雁四郎よ。お主、厳左から路銀を預かっているはずじゃが」

「はい、ここにしかと巻き付けております」


 雁四郎は自分の腹をボンと叩きました。大切な路銀です、胴巻きの中に入れて肌身離さぬようにしているのでしょう。恵姫は咳払いをしてから言いました。


「オッホン。ああ、雁四郎よ。胴巻きの中に銭を入れていたのでは、茶屋などでの勘定の時に手間が掛かるであろう。実はわらわは道中財布を持ってきているのだが、ほとんど空でな。銭を入れる余裕がかなりあるのじゃ。もし良かったら、路銀を少しわらわが持ってやってもよいのじゃぞ。どうじゃ」

「ありがとうございます。お爺爺様より『姫様に路銀を渡すのは盗人に路銀を渡すに等しい愚行である。決して渡すでない』と言われておりますので、残念ですがご辞退申し上げます」

「そ、そうか。まあお主が断るのなら、わらわも無理にとは言わぬよ」


 と、にこやかに作り笑いをする恵姫の心の中は、当然のように怒りが渦を巻いていました。


『くっ、厳左のやつ、余計なことを雁四郎に吹き込みおって、小憎らしい。まあよい。他にも手立ては山ほどある』


 路銀を巻きあげる次の方法を考える、悪い顔の恵姫でありました。

 こうして四人は仲良く元気に、如月の日差しの中を歩み続け、最初の目的地である乾神社にやってきました。鳥居を抜けてしばらく歩くと、参道の石畳を掃いている宮司が目に入りました。


「宮司殿、久しぶりじゃな」

「これは皆さんお揃いで。斎主様に会いに行かれるそうですな」


 宮司は掃くの止めると四人と一緒に境内に入りました。街道に入る前に旅の安全を願って、ここで祈りを捧げるのもいつもの習わしなのです。四人は荷を下ろして笠を取り、拝殿の前に立ちました。そして恵姫が代表して鈴を鳴らし二礼二柏手一礼の後、祝詞のりとを唱えました。


「掛けまくもかしこき乾神社の大前を拝み奉りてかしこみ恐みもまをす。負い持つわざによりて励まし合い、直き正しき真心以ちて真の道を違う事なく、夜の守り日の守り道中の守りに守り幸い給えと、恐み恐みも白す」


 うろ覚えの部分は適当な言葉に置き換えたようです。宮司は笑顔で頷いていました。

 恵姫は参拝を終わるとすぐに風呂敷包み背負い、笠を頭に乗せました。


「宮司殿と話をしたいのは山々じゃが先を急ぐのでな。これにて出立じゃ」

「良き旅になりますようにお祈りしております」

「うむ。では行って参る」


 こうして四人は乾神社を後にしました。ここから伊瀬の神宮までは約五里。二時もあればたどり着ける距離ですが、峠越えの道なのでもう少し掛かりそうです。

 磯辺街道に入って最初の一里半ほどは比較的平坦な道です。四人はお喋りをしたり唄を歌ったりしながらのんびり歩いて行きました。やがて大きな桜の木が見えてきました。


「おう、岩戸桜が見えて来たか。どれ茶屋で休むとするか」


 見れば桜の木の下に茶屋があります。雁四郎が渋い顔をして恵姫に言いました。


「姫様、遅れ気味なのですから、先を急いだ方がよくはありませぬか」

「いやいや、雁四郎は知らぬだろうが、ここからは峠越えの難所になるのじゃ。少し休んで団子でも食っておいた方がよい。そうであろう、黒」

「そうですねえ。道が険しくなるのは間違いないかなあ」


 これまで何度もこの街道を利用している二人にそう言われては仕方がありません。雁四郎は恵姫の言葉に従う事にしました。

 茶屋と言っても柱と葦の簾で小屋掛けをして、その下に縁台を置いただけの簡素な造りです。それでも腰を下ろして休めるので、四人は生き返った心地がしました。

 まだ旅は始まったばかりです。瞳を輝かせて空を見上げる四人に、二月の陽光が優しく降り注いでいました。


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