3皿目 あの2。
生まれたばかりの太郎を育てるには、新宿のアパートはあまりにも安普請だった。そこで、浅草の2DKの賃貸マンションに引っ越した。花子が生まれ、4人家族となっても充分な広さはあったが、ある事情により、再度の引っ越しを余儀なくなれた。その事情はあとで述べる。
ダメ元で応募した都民住宅の抽選に当り、江戸川区の3LDKマンションに引っ越した。当時、太郎4歳、花子は3歳になったばかりだった。なんとか保育園にも滑り込み、待機児童にならずに済んだ。そのかわり、家から園までは、大きな川を超えて、自転車で片道15分かかった。通園用に、電動アシスト自転車を買った。前後に子供を乗せられる優れものだ。
浅草で通わせていた保育園に比べて、江戸川区の園は規模も数も桁違いだった。大きな園庭には、アスレチックフィールドがあり、ちゃんとしたプールもあった。運動会は近くの小学校を貸し切って行われる。園児の数は悠に300人を超えた。だから、太郎と花子の転入は、思ったよりもスムーズにいった。大所帯ゆえにひとりやふたり増えた所で、その態勢や、園児たちの人間関係にさほど影響しないのだ。私は安心した。
引っ越しから1週間がすぎたころ、保育園近くのスーパーで、見知らぬ女性に会釈され、声をかけられた。
「こんにちわ」
魅力的な奥さまだった。すらっとした足に、スキニータイプのジーンズがよく似合っている。その太ももに、小さな男の子が腕を巻き付けて、足の後ろに身を隠すようにして私を見上げていた。母親に似て、可愛らしい。
「はぁ、どうも、こんにちわ」とまどいながら、挨拶を返した。
「ほら、こうちゃん。ちゃんと挨拶しなさい。あの太郎君パパよ」子供を見下ろしながら言った。
おや?いま、奥さまは『あの』っていわなかったか?
「たろうくんぱぱぁ?」
「そうよ。こんにちわは?」
「こんにちわぁ」言いながら、身を前に出してきた。
「うちのこうちゃんは、ちょっと人見知りするんですよぉ。それに比べて、太郎君はひとなつっこくて、うらやましいですわ」
「はぁ、あれは、大人はみんな、やさしくて、おやつをくれて、頭をなでてくれる生き物だと思い込んでいますから・・・で、大変失礼ですが、どちらさまでしたか?」
「あぁ失礼しました。うちの子が太郎君と同じ園に通っているんですよ。うちのこうちゃんは、まだ乳児組ですが・・・」奥様はなぜか、身振り手振りが大げさだ。
乳児組、それは、つまり花子と同じ歳ということになるはずだが・・・花ちゃんパパではなく、太郎君パパとなるのか・・・?しかも、太郎は2月生まれだから、まだ4歳であるが、年中組だ。学年でいうと二つも違う。それに、もうひとつ解せないことがあった。太郎は6月から転入し、やっと数回、通いはじめたばかりだ。
「そうでしたか、うちはまだ越してきたばかりで、不慣れなところもあると思いますが、宜しくお願いします」この1週間、なんども繰り返したお決まりのセリフを吐いた。
「いや、もうそんな。もうすっかり打ち解けていますよ。太郎君ならもう大丈夫ですよぉ」
そこへ、べつの奥さまが、買い物カートを押しながら割り込んできた。
「こんにちわ田中さん。こちらは?」新たな奥さまは、私と魅力的な奥さまを交互に見ながら声をかけてきた。
「あら、鈴木さん。こんにちわ。ほら、こうちゃん、かよちゃんママよ。挨拶しなさい」子供に挨拶を促してから、どこか自慢げに私を紹介した。「こちらは、太郎君パパですよ」
「どうも、はじめまして、赤和です」私は軽く会釈をしながら、鈴木さんを観察した。よく日焼けし、健康そうな肌をしているが、かなり歳はいっているようだ。40近いかもしれない。少なくとも35は越えている。私より少し年上だろう。
「え!?あの太郎君パパですか!?どうもはじめまして!鈴木です」
いま、この女性もたしかに『あの』と言った。間違いない。
「鈴木さんちも、うちの太郎と同じ園でしょうか?」私は尋ねた。
「いえいえ、うちのかよ子はもう、小学1年生ですよ。太郎君はほんとにしっかりしてらっしゃいますよねぇ・・・可愛らしいし・・・うちのやんちゃ娘がすっかり気に入っちゃって・・・」私はもう話を聞いていなかった。
なんてこった!まだ1週間だぞ!田中さんちのこうちゃんは、年は違えども、同じ園だ。しかし、鈴木さんちのかよちゃんとの接点は不明だ。
新しい街に来て、数日のうちに、太郎はかなり有名になっていた。理由は定かではないが、私の幼少のころの体験とくらべると、そのスピードは桁違いだ。太郎は、もちろん私のDNAを受け継いでいるはずだから、街の有名人になる素質はあったろう。だがそれだけでは説明のつかないプラスアルファの何かを持っているようだ。私は心配になった。息子が支払う有名税も桁違いになるだろう。その高額納税の内訳には、きっと、『いじめ』も含まれるだろう。そして、それは、間違いなく数年後に起きる。
スーパーの通路で、人の流れを邪魔しながら続く奥さまトークをBGMに、私は自身の少年期を走馬灯のように思い出していた。それは苦い思い出で埋め尽くされていた。
間違いなく、数年後に起こる。息子が、それを乗り越えられるだろうかと訝った。同時に、私が両親にいじめの相談をしなかったことも思い出した。
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