一人と一匹

時刻は夜八時。辺りは暗闇に包まれて所々の街灯が光を放つ頃、

犬居健は仕事の都合で埼玉へと上京していた。

会社から徒歩十分の場所にある1LDKのアパートの一角が犬居の今の家で

今年ですんで三年目になる。

独り暮らしの犬居は誰もいない暗い部屋の明かりをつけると

片手に持っていたコンビニの袋から弁当を取り出すとテーブルの上に置いて

胡坐を掻いた。無音の空間を打ち破るべく、テレビをつけると犬居は

黙々と弁当を食べていると部屋の隅から一匹の黒い猫が現れた。

犬居は猫が現れた方向には目もくれず、ただ黙々とテレビを見ながら

食事をしていると黒猫は胡坐を掻いた足の上に座った。

それでも犬居は微動だにしないまま、食事をしている。

この黒猫は犬居の飼い猫ではなく、近くの公園に住んでいる野良猫だ。

半年前に突然、犬居の部屋に現れ、わざとらしく愛嬌をふりまいて

餌をねだりにくる。今日も他の餌にありつけなかったのか、犬居の元へ訪れた。

「瓜子。ここはお前の餌場じゃねえぞ」

食事の終わった犬居は弁当をゴミ箱に打てると押入れを開きながら黒猫の

気まぐれに愚痴をこぼした。『瓜子』とは犬居が黒猫に付けた名で『瓜子姫』の

物語から借用したものだ。

『瓜子姫』は瓜から生まれた美しい瓜子姫と彼女に目を付けた天邪鬼の物語で

黒猫は天邪鬼だが毛並みが美しい雌猫だったのでそう名付けた。

押入れの中には古びたプラスチックのほとんど使用してないないキャットフードが

置いてあった。犬居は時折来る瓜子を抑えるためにキャットフードを常備していた。

皿にキャットフードを盛ると瓜子の前に置いた。

瓜子が夢中になって餌を食べている間、犬居は体育座りでずっと瓜子を見ていた。

「飯食べてまた、食べて寝て。気楽でいいよな、お前」

犬居は答えてはくれない瓜子相手に話していると餌を食べ終わった瓜子は

開いた窓から出ていった。

まるで犬居は瓜子にとって都合のいい男の様だが本人自身、

この関係に悪い気はしていなかった。

一人暮らしではほとんど人との関わりがなかった犬居にとって自分を頼ってくれる

瓜子は唯一心を許せる友人だった。

瓜子は休日の読書中や仕事帰りに時折現れては餌をねだり、

帰っていく日々が一年ほど続いた。季節は春一番を待つ三月の中旬に入った。

会社は決算期とあって仕事は目まぐるしくまだ仕事経験の浅かった犬居は

忙しさのおかげで所々、ミスをしてしまい、上司に怒られてさんざんな目に

合っていた。ようやく仕事終わりの金曜日を迎えると犬居は

疲れきった体で帰宅すると一緒にベットの上で眠り込んでしまった。

どのくらいの時間が流れただろうか?時計を見ると午前二時になっていた。

周りの空気が冷たさと増し、肌に寒気を感じる中、不思議と頬の部分だけ

温もりを感じていた。犬居はそっと温もりの方へと目を向けると

黒い毛並をした物体が存在した。瓜子だ。

犬居は瓜子が今までこんなことをしたことがなかったので内心、疑問に思っていた。

最近、別段と変わったことはなかったが決算期のおかげで疲労感に苛まれていた。

「お前、もしかして?」

瓜子は瓜子なりに疲れている犬居のことを慰めていたのかもしれない。

いまはこの温もりに身を委ね、犬居は再び眠りについた。

次の日の正午、深い眠りから犬居は覚めると瓜子の姿はどこにもなかった。

久々の休日でしかも給与日とあって犬居のテンションは上がっていた。

仕事の鬱憤を晴らす意味でも買い物に出掛けた。

デパートでは大安売りのバーゲンが開催されていたらしく、様々な商品が売られていた。

日用品や食料品が所狭しと並ぶ中、犬居の目にある商品が飛び込んできた。

商品のキャットフードだ。

いつも買い置きしているキャットフードよりも少し安かった。

自宅にあるキャットフードも底をつきかけていたので犬居は真っ先に買いに行った。

夕方になって犬居が持っていたものは二袋のキャットフードだけだった。

一日中歩き廻ってキャットフードだけかと思いながら犬居は満足していた。

友人もいない孤独な犬居にとって誰かのために行う行為に満足していたのかも

知れない。キャットフードを買う度犬居は喜びが沸き上がっていた。

瓜子のおかげだろう。孤独で寂しい日々に生き生きとした日々になっていた。

犬居は嬉しさに心躍りながら自宅の手前にある角を曲がったときだった。

自宅に続く道の途中に黒い物体が存在し、周りには赤い液体が飛び散っていた。

犬居が近づくと黒い物体ははっきりと姿を現した。四足の足に見慣れた顔は瓜子だった。

おそらく犬居の家に入ろうとして道路を横切ったときに車に轢かれたのだろう。

見るも無残な姿だった。犬居は理解するのに時間はかかったが

身体だけは理解していたのか、両手にもっていたのか、両手に持っていた

キャットフードは地面に落ちていた。


それ以来、二袋のキャットフードが開封されることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る