Award
「ふぅー」
新宿の地、無機質に立ち並ぶビルの一室の扉前でため息をついている男がいた。緊張しているのか、体を小刻みに動かしながら左腕にしている時計をしきりに見ていた。周りから見れば挙動不審な怪しい男、彼の名は山崎太陽。現在は『週刊現世』の記者として働いていて今日はある人の取材するために扉前で立っている。左腕にしていた時計が午前十時五十五分を差したとき、山崎は今まで繰り返してきたため息ではなく、大きく深呼吸をして目の前の扉を叩いた。
「ど~ぞ~」
中から聞こえてきた声は何とも気の抜けた声だった。身構えていた山崎にとっては不意打ちのような返しに少し動揺をしていたが気を取り直して扉を開けた。九畳ほどの白い部屋の窓際には小さな机と二つの椅子が並べられていて片方の椅子の上には茶色のショルダーバッグが置かれていた。窓際の反対側には水槽の中に観賞用の熱帯魚が漂っていて水槽前では一人の男が石の様に動かずにじっと熱帯魚を見ていた。
今より一週間前、世界三大映画祭のひとつであるカンヌ国際映画祭がフランスで行われていた。日本人は三人がノミネートされていてそのうちのひとりが目の前にいる竹山昇だった。『三十八丁目の暮ノ下』より最優秀監督賞が立候補されていたが結果は落選という形になってしまった。この結果を聞いていた山崎は一週間後に取材するプレッシャーから不眠症になっていた。二人のいる空間に少しの沈黙が流れると耐えることができなかった山崎は思わず、声をかけた。
「あの、竹山監督?」
「あ~、うん。分かった!」
緊張して言葉の震えている山崎と違って監督はまるで子供のような返事を返すと今まで微動だにしなかった体をこちらに向けて跳ね起こした。
「あ~、はじめまして。竹山昇って言います。監督やっていま~す。そちらは『週刊現世』の山崎さんですか~?」
訛りに近いような特徴的な喋りは監督に異様なオーラを醸し出していた。
「はい、『週刊現世』の山崎太陽と申します。本日は宜しくお願いします」
山崎があいさつと同時にお辞儀をし、改めて監督の方へと目を向けると監督の目はなぜか、天井に向けられていた。
「う~ん」
数秒間、固まっていた監督は急に首を左右に揺らして首の骨を鳴らすと椅子においてあったショルダーバックを肩に掛けた。
「外にでましょっか~」
「えっ?」
山崎は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが監督は気にもせずにそそくさと部屋の扉から出て行った。
「ちょ、ちょっと待ってください」
慌てて山崎も後を追って部屋から出るとすぐ近くにあるエレベーターの扉前に監督は立っていてじ~っと階数表示のパネルを見つめていた。
「監督、どこに行かれるんですか?」
突然の出来事に山崎の言葉には怒号が入り混じってしまっていたが監督は表情を変えることなく、笑いながら答えた。
「まあ、まあ。そんなに怒らずにいきまし~ょうよ。今日は天気もいいですし~、中でこもってるより~、外の方が楽しいですよ~」
「はぁ」
監督の予測できない行動に山崎はただ、唖然とするほかなかった。エレベーター内では監督は陽気に聞いたことのないような曲を口ずさみながら体は曲に呼応するようにリズムと取っていた。
「何の曲ですか?」
よく音楽番組を見ている山崎は聞いたことのなかった曲だったので質問してみると突然、笑いながら答えた。
「あはは、曲じゃないよ、ただ、適当に歌っているだけだからね~」
「そうですか…」
山崎の中では今日の取材がうまくいくかどうか内心、不安になっていた。一階に着いてビルから出ると監督は両手をあげながら背筋を伸ばした。
「あ~、日光浴で光合成」
意味不明な発言をしていたが山崎の中ではなんとなくではあるが分かりだしていた。要は『体は大人、心は少年』なのだ。
「あそこが~、いいですね~」
そんなことを考えていると突然、監督が指を差して言った。指先の方向を見るとビルの一階に設けられていたスターバックスが目について入ると監督は天井近くに設置されたメニュー表をボケーッと突っ立って眺めていた。数秒が経った頃に突然、カウンターに向かうと注文を始めた。
「エスプレッソのティー下さい~」
「えっ?」
「えっ?」
山崎と対応していた店員さんは予想だにしていない言葉に思わず、疑問の声が漏れていた。
ティーって。
「エスプレッソのトールでよろしいですね?」
注文を確認した店員の顔は苦笑いをしていたが監督は気にもせずに「はい」と威勢よく返事をしていた。山崎も注文を終えて商品を受け取ると日当りのいい屋外のテーブルへと移動した。やっとこれで監督の話が聞けると思いながら注文したブラックコーヒーを飲んでいた山崎だったが監督はなぜか黙り込んでいる。注文したエスプレッソも一口飲んだだけでその後、一切口につけていなかった。顔も何か不機嫌そうになっていて何かこちら側に不手際があったのだろうかと内心、焦った。
「どうかなされたんですか?」
不安な気持ちを押し殺しながら恐る恐る聞いた。
「だって、熱いんですもん~」
その瞬間、山崎の全身を拘束していた見えない糸が切れて頭がテーブルへと落ちていった。自分が無駄に緊張してしまった原因が猫舌だったとは。
「どうかしたんですか~?」
落胆している山崎をよそに監督はエスプレッソを息を吹きながらひたすら冷ましていた。山崎はというと何をする気力もなく、ただ口だけを動かして答えた。
「いえ、大丈夫です。気にしないで下さい」
だがいつまでもこうしてはいられないと山崎は頭を上げると気合を入れるために両手で両頬を叩いて気合を入れ、監督に向き合った。
「監督、取材を始めさせていただきます」
「いいですよ~!」
監督はこちらが気合を入れると呼応して何とも気持ちのいい返事をしてくれた。山崎は仕事に対する意気込みや私生活のことを次々と聞きながら取材は本日一番の難所を迎えた。
「カンヌ国際映画祭の最優秀監督賞に関してなんですが、逃されてのお気持ちをお聞きしたいのですが」
相手にとって気持ちのよいことはないことは分かってはいたが記者として聞かなければならないという葛藤の末の質問だ。しかし、返ってきた返答は以外なものだった。
「う~ん。別に僕の中では全然、残念じゃないけどね。むしろ、ノミネートされて感謝しているくらいだよ」
「えっ、そうなんですか?」
監督はてっきり悔しがっているものばかりだと思っていたので山崎は拍子抜けしてしまった。だが次の言葉は山崎にとってとても深く、監督の心の深層を垣間見た気がしていた。
「だってたかだか数人に評価されるだけの賞だからね。僕が映画で最も大切にしていることは『多くの人に見てもらう』こと。別段、数人の人に評価されたからって世界一だとは思っていないよ。むしろ、賞なんて宣伝媒体の一種だとしか僕は思っていないよ」
普段、子供のような行動をとっていてふいに大人びた言葉がでてくるとギャップで唖然としてしまうことがある。山崎も監督の言葉に一瞬、固まっていた。
取材が終わり、監督と別れた山崎は満足そうな顔をしていた。ただの能天気だと思っていた監督の本質を見られたからだろう。ただ、取材で答えてもらった他の質問はなんというか子供のような回答で記事にできるかどうかが気がかりだった。
「上になんて報告しよ…」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます