Dedect
空が青春に輝く水色から一日の終わりを告げる朱色に変わる頃、校舎では野球部や生徒会が活動を始めていた。帰宅部である僕は家に帰ろうとしたが今日は日直だったため、教室に鍵をかけて職員室に戻さなければならなかった。職員室の扉を開けると先生方は部活に出向いているのか、閑散としていた。僕は扉の横にある無数のフックの中から自分のクラスのフックに鍵を引っ掛け、出ようとしたときだった。誰もいないと思っていた職員室に気配を感じたのだ。辺りを見回すと一番奥の席に人が一人座っていた。滝沢先生だ。隣のクラスの担任の先生であるが周りからは浮いた存在だった。生物の構造に興味を抱いていて授業の合間に話すので生徒からは気味悪がられていた。先生が読書している机の上には解剖された蛙が瓶詰めになって置かれている。僕自身は生物に興味があったので先生に悪い印象は持たなかった。僕は近づいたが読書中の先生は全然気づいていなかった。
「先生、何を読んでいるんですか?」
先生はさほど驚いた様子もなく、顔だけこちらに向けた。
「君は確か隣のクラスの。この本は生物全般の習性が書かれている本だ」
僕は構造しか興味がないものだと思っていたので構造以外に興味があることに驚いた。
「最近はね、心理学の本も読み始めてね」
「心理学ですか?」
先生はほおけた顔の僕をよそに問題を出してきた。
「心理学と習性の違いは何か分かるかい?」
突然の質問に戸惑いの表情を隠せなかった僕は思いつきで答えた。
「人間か、動物かの違いですか?」
先生は机に置かれていたコーヒーの入ったカップを一口飲むと答えた。
「正解は感情が存在するか、しないかだ。私はね、感情がない生物がなぜ、自然社会を築き上げることができたのか、疑問に感じていた。人間社会では感情で物事が成り立っているのに自然社会では何を基準として成り立っているのか?その答えが習性だったんだよ」
先生は水を得た魚のように喋りだした。
「その中では人間社会ではあり得ないことが起きている。何か分かるかい?」
「分かりません」
「共食いだ。人間社会ではあり得ないことだよ。それでも不思議なことに自然社会は保たれている。面白いだろう?」
僕の中ではあるひとつの疑問が頭に浮かびあがり、先生に投げかけた。
「人間はどうなんですか?」
すると今まで楽しげに喋っていた先生の顔が急に曇りだした。
「人間社会は脆いものだよ。感情によって成り立っている構造だからね。ひとつの方向に向いている生物と違ってそれぞれ違う方向を向いている人を無理矢理、ひとつの方向に向かせる人間社会は無理が生じる。特に『人を殺してはいけない』。結果として人が飛躍的に増え、自ら命を絶つ者まででてきた。だから私は人間社会に好感が持てないよ」
その時、チャイムが下校時刻を告げ、時計を見ると指針は四時半を差していた。
「君はもう帰る時間じゃないのかい?」
先生は机の上に置かれたカップを手に取ると給湯室へ向かった。僕の目線は時計の隣にあるカレンダーへと向けられ、『ある日』を思い出した。
「先生、日曜日は母の日ですね。先生の目にはどう映っているんですか?」
先生は立ち止まると少し考えてから口を開いた。
「私は親孝行も感情でできた構造の一部だと思っている。親は『子育て』という願望を満たすために産んでいるに過ぎない。子が親に感謝する理由は本来何処にもないのだよ。だが人間社会では感謝することが当たり前になっていて私には気持ち悪く映っているよ」
「先生は親に感謝していないのですか?」
「私はむしろ怨んでいるかな。生まれてこなければこんなに苦しい思いをすることもなかったからね」
先生は悲しげな顔をしたまま、給湯室の方へと姿を消した。母の日が過ぎた次の日、テレビでは『某学校の教諭が母親殺し』のニュースが絶えず放送されていた。クラスメイトや先生方は騒いでいたが僕は酷く冷静で落ち着いていた。確かに先生は社会においては異端なのかもしれないが社会自体が自然の摂理の中で異端ならば、先生の行動が間違っているとは思わないからだ。
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