第16話 決戦!プロポリスタワー侵入③


「この傷……なぜ? ……どこで? ……誰が?」


 どうして重戦車ジャガーノートは傷を負ったのか。その理由もわからぬまま、事体はさらに深刻になる。

 重戦車の周りには、何やら黒い粒子が飛び交っていた。

 その粒子は、それぞれ一本の線となり、辺となる。辺と辺とか直角に結びつき、正四角形の箱の枠組みが完成した。

 その箱には、見覚えがある。


「その箱……まさか! 重戦車、逃げろ! 全力で逃げろっ!」


 蟲遣いグリッチャーは慌てて警告を発したが、時既に遅かった。

 周りに具現化された黒い箱は、重戦車を中心に捉え、そのエネルギーを収束させる。


「きゃぁ!」


 重戦車は声を荒げる。その身体は宙に浮き、車椅子から離れていった。

 結果的に、重戦車は黒い箱にされた。まるで牢獄に捕まったお姫様のように。


「――……! ――……!」


 黒い箱に囚われた重戦車は、箱の側面を叩きながら騒いでいる。だがその声は聞こえてこない。それもそのはず。その箱の中に一度でも入ってしまうと、物理的な干渉が遮断され、行動不能に陥るのだ。ネイル端末による仮想現実へのアクセスも制限され、重戦車の持つストレス=アビリティも発動できなくなってしまう。


「黒い箱。仮想現実を検閲し、隔離するストレス=アビリティ。まさかこれは!」

「――そうよ。私よ、ぐぅちゃん」


 その威厳のある声には、聞き覚えがあった。

 蟲遣いにとって、もっとも身近で、もっとも尊敬してきた者の声だ。

 振り返ると、そこにはいつの間にか人影があった。

 赤色のハイヒールを履き、短いタイトスカートと胸を強調したレディーススーツを着こなし、黒縁のメガネをクイッとあげるお馴染みのその仕草。いつも冷徹に笑っていて、蟲遣いを小馬鹿にしてくるその人物は、決してこの場にいるはずがない。


先生せんせー……。どうして、この場にいる……」


 蟲遣いは声を低くし、先生を威嚇するようにして呟いた。


「そんなに警戒しないでほしいわねぇ。私たちは、気心の知れた間柄でしょう?」


 先生はハイヒールの柄でコツコツと床を叩きながら、こちらに近づいてくる。

 蟲遣いはその音に合わせ、後ずさりしながら距離を保つ。


「だっておかしいだろ。あんたは、この仕事に直接は介入しないと言っていた。学校の子供たちに危険が及ぶ可能性があるからとな。なのに、戦いの最前線でもある、このプロポリスタワーの天辺に現れた……。なぜだ。どこから侵入した?」

「とりたてて疑問を抱くことかしらん? 自慢の愛弟子のために、居ても立っても居られなくなって、加勢にやってきたってことも、考えられるんじゃない?」

「いや、先生は感傷に流されるような人間じゃねぇ。もっと打算的な人間のはずだ……」


 先生は決してリスクを負うような真似はしない。教科書通りのヴィジュアルハッカーであって、例えそれが愛弟子の危機であっても、助けにくるような真似はしないはずだ。


「つーか、どうして重戦車を隔離した? あいつは俺に力を貸してくれたんだ。敵じゃない」

「ぐぅちゃんにとっては敵ではないでしょうね。でも先生にとっては敵なのよん」

「なら、重戦車の胸部の傷も先生が?」


 先生が装着しているネイル端末の先端には、液体状の精神情報が滴っている。それはきっと重戦車の精神情報だ。そのネイル端末の先端で、直にファイアーウォールを破り、胸部に穴を開けたのだろう。


「予定通りだわん。さすがの重戦車ちゃんも、完全なる不意打ちならば、避けようがないわよねぇ。恋は盲目って言うじゃない?」


 先生はネイル端末を回すようにして操った。すると、重戦車を隔離している箱はフワフワと移動を開始して、先生の頭上で停止する。


「……――。……――」


 重戦車は必死にその隔離から逃れようと叫んでいるようだが、やはり脱出は不可能だ。その黒い箱にはプロテクトがかかっていて、内部からではこじ開けられないのだ。おまけに、胸部に致命傷を追っているのだから、力の半分も出すことができないのだろう。


「先生、何を企んでいる?」

「うふ。ぐぅちゃんは、よくやってくれたわん。シスタちゃんをシステムの中枢まで護衛して、きちんとパッチを当ててくれた。爛狐バンフォックスや他のハッカーを退け、全ての敵を排除してくれた。肝心の重戦車ちゃんも、口車に乗せて弱体化させた。さすがは自慢の生徒ねぇ」


 ほっこりと満足気に頷く先生。それがあまりにも嬉しそうであるから、蟲遣いは逆に不信感を抱く。


「全ては計画通りって感じの憎たらしい顔だな、先生」

「計画通り……。言われてみればそうかもしれないわねぇ」

「どういうことだ、はっきりと説明しろ。まさかこのフロア自体が先生の罠なのか? どこまでが先生の仕業なんだ。答えろ!」


 蟲遣いは怒鳴る。

 すると、先生は目の下に指を添えながら、べっとお茶目に舌を出して答えた。


「ごめんなさいねぇ。先生ってば、ぐぅちゃんを騙してたの」

「騙して、た……?」

「そうよん。シスタちゃんの正体も最初から見当がついていたし、シスタちゃんを貴方に預けたのも故意だったし、重戦車ちゃんと戦うように仕向けたのも、このフロアに統治者の手が及ばないように細工したのも、全ては、わ、た、し、が、裏で糸を引いていたからなのよん」

「なぜ、そんな回りくどいことを?」

「今にわかるわぁん。この街は新たに生まれ変わるのよん。それは私の長年の夢であり、ずっと心に秘めてきたよん。子供たちが何不自由なく生きていける、そんな安堵に満ちた理想郷を創りだすために……。そして、有害な大人を排除するためにっ!」


 先生は、ネイル端末を起動し、指を少しだけスライドさせた。

 すると、一つのボタンが現れた。


「ぽちっとな」


 先生がボタンを押した。

 するとフロア全体が激しく揺れ始めた。窓は割れ、柱は倒壊し、そして脆くなった天井が抜け始める。

 もちろん、その崩れ落ちた壁の先には、蒼い星がある……はず、だった。


「この有様は……」


 そこにあったのは黒く染まった大地の姿。茶色い微粒子が蠢き、ネバネバとした波が押し寄せる海の姿。汚染された空気は淀み、枯れ果てた岩肌が露出してもいる。


「驚いたでしょう。これが世界の真実。仮想現実が及んでいない、破滅寸前の世界の姿。夢や希望なんてない、全ては現実に起こっている絶望よん」


 先生は遠い目でその汚染された世界を見下ろしていた。

 濁り、腐り、歪み、朽ち果てた世界。仮想現実に彩られていない、本来の姿だ。それは即ち、この世界そのものがヴァーチャル=ネストからことを意味する。


「一体、あんたは何をしようとしているんだ!」

「そうねぇ、一言で言えば、やりなおすって言葉が適切かしらん?」

「やりなおす?」

「一度、ヴァーチャル=ネストを世界から切り離さす。その上で、新たなルールを上書きし、初期化する。さらに全ての精神情報を一箇所に濃縮させ、新たな再生プログラムを指導する。つまりは、破壊と再生。……だなんて魔王っぽい喩えがしっくりくるかしら?」

「ふざけんな! そんなこと一人の人間にできるはずがない!」

「それができるのよ。シスタちゃんがシステムに当てたのは、パッチなんかじゃない。私が作った、お手製の『ウィルス』よ。そのウィルスによって、仮想現実に異常が発生している。全てのディレクトリに感染し、その管理者権限は、このに移ることになる」

「システムを乗っ取るためのウィルスだと? そんなわけがない! シスタは、ヴァーチャル=ネストの管理者だぞ! システムを不当に改変させるようなことをするはずがない! そもそも、シスタはこの街のバランスを正すためにやってきたんだぞ!」

「その正義の気持ちを、利用させてもらったのよん」


 先生は丸眼鏡を白く曇らせ「ククッ」と引き笑いした。その何気ない所作ですら、蟲遣いの背筋を凍らせるほどに恐ろしい。

 そして先生は、今回の事件の真相を語り始めた。


「シスタちゃんを拉致したのは私よん。今回の事件の発端は、最初から私のてのひらの上で動きはじめたこと」


 シスタは言っていた。この街にやってこれたのは、「たまたま抜け道があったから」と。

 その抜け道を掘り、逃げるようにと促したのが先生だったとしたら、全て合点が行く。先生の技術と知能をもってすれば、統治者の運用するサーバにだってアクセス可能だ。


「そして私は、統治者の手から逃げるシスタちゃんには内緒で、とあるウィルスを仕込ませてもらったのよん」


 先生は、きちんとシスタの正体を知っていたのだ。その上で箱に隔離し、ウィルスをシスタに気づかれないように仕込んだ。


「最後にシスタちゃんをぐぅちゃんに引きあわせた。それは何故か、わかるかしらん?」

「……俺が、シスタの手助けをすることを、あらかじめ予測していたからか」

「正解。ぐぅちゃんは情報弱者にはめっぽう優しいものね。子供のように無邪気で、脆弱すぎるシスタちゃんを放っておけるはずがないわぁ。私はその点に目をつけたのよん。ぐぅちゃんなら、例え敵に追われようとも、シスタちゃんをシステムの中枢まで護衛してくれる。どんな困難に直面しようとも、それを成し遂げようと躍起になる。だってほら、ぐぅちゃんってアレでしょ? 自分が役立たずじゃないことを、証明したかったんですものねぇ」

「俺の気持ちすら利用したのか。自分では達成困難な、この目的を成就させるために!」


 すると先生は、大きく腕を広げて強く語り始めた。


「そうよっ! 私はね、ずっと機会を狙っていたの! このヴァーチャル=ネストと呼ばれる、不条理なシステムを乗っ取り、清く正しく運営するためにっ!」


 けれどすぐさま、悲しそうに腕を垂らした。


「……でも、ヴァーチャル=ネストの強固なセキュリティを破ることは難しかった。私の老いた力では、技術的には可能でも、精神的には無理難題だった。ウィルスをシステムの中枢に仕込むには、超えるべき壁がたくさんあったのよん……」

「超えるべき壁?」

「例えば、重戦車ちゃんのような、若くて粋のいいヴィジュアルハッカーがそれよ。私がシステムにウィルスを仕込み、ヴァーチャル=ネストを掌握しようと企めば、ぐぅちゃんも、重戦車も、爛狐や統治者の警備部隊だって、全ては敵となって立ち塞がったでしょうねぇ。なにせ、ヴァーチャル=ネストありきで、この世界の人間は生きながらえているのだから」


 先生は重戦車が捉えられている箱を見ながら言った。


「だから俺と重戦車を同士討ちさせたのか。さらにシスタにかせられた懸賞金目当てに、その他のハッカーも潰し合いを始め、消えていった……。それらは全て、邪魔者を表舞台から蹴落とすための策略だったんだな」

「その通りよ。全ては私の書いた台本通りに話は進んだ。もはやシステム改変を止めることのできるはいない!」


 先生は、統治者と呼ばれるシステムの思想すらも利用して、この街にヴィジュアルハッカー同士の抗争を引き起こしたのだ。街が混乱に陥っている今ならば、システムの改変も秘密裏に実行することができるだろう。

 先生は恐ろしい人だ。自分の手をまるで汚さずに、こんな大それたことを計画し、実行に移したのだ。たった一人で、誰にも悟られずに。

 

「しかし、一つだけわからねぇことがある」

「なにかしら?」

「どうして俺を騙した? 先生の命令なら、俺は何一つ文句も垂れず、仕事を完遂させようとしたはずだ。そのくらいの恩が、あんたにゃあるんだぜ」


 蟲遣いは拳を強く握りながら訊いた。その疑問が一番、釈然としないことだった。

 先生は、蟲遣いにとって命の恩人だ。

 餓死寸前で道端で倒れていた所を助けてもらい、生き方と戦うためのノウハウを教授してもらい、学校の子供を助けるためにと、人間らしい仕事を斡旋あっせんしてもくれた。

 先生に恩返しする。それが唯一の、蟲遣いの生き甲斐となっていた。なのに、


「母親に裏切られた気分だぜ……。どうして、俺の気持ちを踏みにじるようなことを……」

「親……ね。随分と勝手なことを、ほざいてくれるわねぇ」


 先生はちっちっちと舌を鳴らした。


「ぐぅちゃん。ゴミ捨て場で貴方を拾った時から、この計画はスタートしたのよ。貴方をヴィジュアルハッカーに育てあげたのも、全てはこの計画を無事に完遂するためよん」

「なら最初から、騙すつもりで……」

「そうよ。使い捨てにするつもりだったのよ。貴方みたいな害蟲にたかられる危険なハッカーは、私にとっても敵だった。だから味方に引き入れて手駒にした。ただそれだけのことよん」


 何とも無慈悲な結末だ。

 蟲遣いは、先生に利用されるためだけに、今まで育てられてきたというのだ。


「そうかい。俺は利用されていたんだな。とんと間抜けな話だぜ……」


 蟲遣いは酷い喪失感に襲われた。

 ずっと一人で惨めに生きてきた。何をすることもなく、ただただ犯罪行為に手を染めて、無意味に息をして、無意味に蜜を吸うだけの生活を繰り返してきた。それでも狂ったりせずにいられたのは、先生という歯止めが側にいたからこそだ。

 しかし、その唯一の歯止めに裏切られてしまった。

 そのうち喪失感は大きな怒りへと様変わりし、蟲遣いの奥歯をカタカタと鳴らし始めた。

 やはり自分は利用されるだけの存在だったのか。

 害蟲のように、このヴァーチャル=ネストと呼ばれるシステムの中で、バグとして認知される化物だったのか。


「……っざっけんなっ! 人の人生、何だと思ってやがる!」


 蟲遣いは吠えた。悲しみと怒りがごっちゃになって、ただただ暴走状態に陥った。

 その怒りに触発されてか、害蟲が無造作に放出される。


「先生! 幻滅したぜっ! あんただけは俺の味方だと思っていた! なのに、この仕打ちはあんまりだっ! 許せねぇ……。絶対に許せねぇ!」


 蟲遣いは怒筋を浮かべながら、ネイル端末を素早く操作する。そして害蟲の群れを右手に集め、それを先生に向かって強襲させた。


「ぐぅちゃんが怒るのも無理はないわん。先生ってば、酷い大人よねぇ」


 先生は悠長にお喋りをしながら体勢を低く構え、その害蟲の群れを軽々と避けてみせた。まるでかすりもしない。


「どうしてだ! ウィルスを仕込まなくても、シスタのパッチがあれば、システムは正常に動き出す! ヴァーチャル=ネストを破壊し、システムを上書きしなくとも、全ては丸く収まるはずだろ! 学校の子供たちも、幸せになるはずだっ!」


 蟲遣いは左手でも害蟲の群れを創りだし、それを先生に向けて解き放った。害蟲の群れは十字に交差しながら移動し、先生を挟み込むようにしてサイバー攻撃をしかける。


「それはどうかしら。結局、バランスを整えたところで、一時凌ぎにしかならないわよん。数ヶ月もすれば、統治者による啓蒙けいもう活動によって、誰かが新たなパッチを当てて、そして今までと同じように、バランスの崩れた世界が子供たちの精神情報を奪うことになるわん」


 先生は蟲遣いの攻撃を巧みにかわしながら、そう説明した。

 その解釈は正しい。シスタのしようとしたことは、飼い犬に腕を噛まれた程度の事故にすぎない。正されたバランスなど、大人たちの保有する資産と人材によって、容易に修正することができるだろう。新たな統治者を創りだし、シスタの後釜に据えることも可能だ。

 それが権力によって統治されている、この世界の真理。

 ならばその権力を強奪することでしか、本当の平和を維持する方法はない。


「だからって、それじゃやってることは統治者と一緒だ! 裕福になるのが、大人から子供へと移り変わるだけだろうが! なぜ共存しようとしない! なぜ自分の思い通りに動かない奴を切り捨てようとする!」


 蟲遣いは害蟲の群れを合流させ、先生の胸めがけて一直線に突撃させた。

 けれど無駄。やはり害蟲による攻撃は容易く避けられてしまう。


「同種を切り捨てるねぇ。でもそれが正解なのよん? シマウマの群れが仲間を見捨てて逃げるように、性交を終えたクモやカマキリがオスを食うように……。生産性を失った個体は、有益な個体に吸収されるべきなのよん。それが自然の摂理ってものなのよん」

「黙れ! シスタの無垢な夢まで弄びやがって! ふざけるな!」


 蟲遣いが一番に納得できないのはそれだった。

 勇気を振り絞り、人類のためにヴァーチャル=ネストを管理しようとしてきたシスタの気持ちが、ないがしろになってしまう。


「シスタちゃんには、やはり犠牲になってもらうしかなかった。何せ彼女は、この世界で唯一、ヴァーチャル=ネストの中枢にアクセスできる管理者なのだから……。そして、その大事な役割を終えたなら、潔く吸収されるべきなのよん。未来ある、他の子供たちのために」

「だからって! だからって! それはやっちゃいけないことだろうが!」

「偽善に惑わされてはいけないわ、ぐぅちゃん」


 先生は厳しく諭しながら、蟲遣いの懐に飛び込んできた。

 そして、喉仏に素早く手刀の先っぽを近づけた。


「ぐっ! クソッ!」


 首の急所を捉えられ、蟲遣いは動きを止めざるを得なかった。一歩でも足を前に出せば、頸動脈をかっきられてもおかしくない。


「今しがた見たでしょう、穢れた大地の姿を。世界はもう、とっくに狂ってる。朽ち果て終末に追い込まれたゴミ溜めの中で生き残るのなら、ほんの一握りの犠牲はつきものよ。貴方も、それはよくわかっているはず。ヴィジュアルハッカーとして育ってきたなら、たくさんの仮初めな正義を揉み消してきたはずよん」

「それでも俺は……俺は……! おれはぁぁぁ!」


 蟲遣いは、身体の表面から害蟲を竜巻状に発現させた。その勢いに圧され、先生は弾き飛ばされる。けれど大したダメージは無いようだ。空中で受け身を取ると、身体を翻して綺麗に着地してみせた。


「やれやれ。自分が何者なのか、何をするべきなのか……錯乱しているようね」

「違う。錯乱なんてしてねぇ。最初っから、やるべきことは一つだ。俺は愚直に、頑固に、その一つの目標のために、生きようとしてきた!」


 結局のところ、蟲遣いは自分の直感を信じていた。

 先生のやろうとしていることは間違っている。一握りの子供を助けるためにルールを折り曲げ、さらにはシスタの気持ちを排他するやり方は、統治者と同じ、独裁者の思考だ。

 その正反対の解決策を、シスタは示してくれた。

 ヴァーチャル=ネストは、この世界の誰もが手を取り合い、夢と希望を共有するシステムだ。その思想が現実となれば、誰もが傷つかずにハッピーエンドを迎えることができるはずだ。

 もちろん、その偽善を、成し遂げられた者はいないだろう。卓上の空論と揶揄やゆされゴミ箱に投げ捨てられればそれまでだ。

 しかし、だからこそ自分がそれを最初に成し遂げてみせると、蟲遣いは固く誓い、シスタを最後まで護り抜くと、約束を交わしたのだ。


「あんたの計画には賛同しかねる。俺はシスタを信じることにした。自分の考え方が正しいと証明するために、先生を倒して、ウィルスを止める! 重戦車も俺が助けてみせる! 


 そうして、蟲遣いはトレンチコートをばさりと脱ぎ捨てて、ネイル端末のリミッターを外した。

 紅蓮に燃えたぎるネイル端末は、ギリギリという痛々しい駆動音を漏らし、全てを吐き出す。

 身体中に痛みが伝播する。骨が軋み、筋肉がねじれ、肌が焼ける。

 精神の奥に潜む、蟲遣いの淀んだ黒い感情は、システムのバグと共鳴し、そして漆黒の害蟲となって周辺に沸き蠢いた。その数は怒りの精神情報に比例して、十万匹、二十万匹……三十万匹。今までの最大の群れと化す。


「私に反抗しようというのねぇ……悲しいわぁ……。でもね、それもまた因果よねぇ。貴方はこのヴァーチャル=ネストのバグ。間違って生まれてきた存在。誰かが駆除しなければ、システムに悪影響が及んでしまう……。やはり最後には……」


 臨戦態勢に入った蟲遣いの姿を見て、先生は残念そうに項垂れている。

 けれど、すぐに丸メガネの位置をクイッと直し、乱れたスーツをビシっと整えると、そして蟲遣いと同じように、ネイル端末を紅蓮に燃焼させた。


「いいでしょう。かかってきなさい。貴方の先生として、私が今一度、人という種が何たる存在か、教鞭を執ってあげるわよ」 

「教わることなんぞ一つもねぇ! いつまでもガキ扱いしてんじゃねぇぞ!」


 蟲遣いは床がめくりあがるほどの勢いで、その場から飛び出した。体勢を低く維持したまま全力疾走し、固く握った拳に害蟲を凝縮させる。


「砕け散れっ!」


 渾身の一撃。蟲遣いは先生の顔面めがけて大振りの拳骨をつきだした。

 が、手応えはまるでない。その拳骨は空気を突き抜けた。


「直線的な攻撃は意図も容易く予知できる。回避するのも簡単すぎて欠伸がでるわん」


 先生はそう言うと、蟲遣いの脇腹に膝蹴りを入れた。


「――ぐっ! ちくしょう!」


 痛みを無視しながら、害蟲を貼り付けた両腕を振り回す。けれど先生の姿はない。脇腹へ軽く打撃を与えた後、すぐさまヒットアンドアウェイで距離を取り、間合いを一定に保っていた。


「だめね。戦いにおいて、何の計画も練らずに突撃してくることは敗北を意味するわん。そうねぇ、今のぐぅちゃんの痴態を点数に表すなら……十点、赤点よ」


 採点しつつ、先生は指を複雑に絡ませ、ハンドシグナルを実行。

 同時に、先ほど先生から受けた脇腹の打撃痕から、蒼い稲妻が迸る。


「ぐはっ!」


 蟲遣いの腹部から精神情報が飛び散る。先生にハッキングを受けたのだ。打撃痕に残したウィルスを遠隔で起動し、体表面にあった精神情報を焼き切られたのだ。

 地味ではあるが、かなりの大ダメージである。あの一瞬の攻撃で、これほどまでの重いウィルスを感染させてくるとは、さすがは先生と褒め称えるべきだろう。それはストレス=アビリティによる特殊能力なんかではなく、サイバー攻撃による純粋なテクニックの一種にすぎない。


「戦いは常に未来を見越し、予測しなきゃならないわ。そして綿密な計画を素早く実行する正確無比な行動力こそが、天秤の上に乗せられた勝機を惹きつけるのよん。それができなきゃ、ぐぅちゃんに勝ち目はないわ」

「わかってるさ、それは何度も教わってきた……。だったら、これはどうだっ!」


 蟲遣いは、天井に向けて二本の指を向けた。

 すると、先生の頭上にブラ下がっていた巨大なシャンデリアが、左右に大きく揺れ始める。


「落ちろ! ぺしゃんこになっちまえ!」


 蟲遣いが声で命令を出すと、一本のケーブルによってブラ下がっていたシャンデリアは、音を立てて崩れ落ちる。そしてそのまま先生の頭上へと真っ逆さまに落下していった。


「あらまぁ」


 と、先生は口をあんぐりと開けた。その所作を押し潰すようにして、辺りには砂埃が舞い上がり、装飾品が散り散りバラバラになる。先生はシャンデリアの下敷きになったのだ。


「これは読めたか、先生」


 このフロアにある家具は、全て仮想現実によって装飾されていた。だからこそ、害蟲を使えば、その家具や空間にバグを引き起こし、破壊させ、攻撃に転用させることは可能だ。シャンデリアと天井を繋いでいた一本の配線を切ったのも、カミキリムシの仕業である。

 この不意の一撃ならば、いくら先生でも致命傷であろう。


「……今のは、地形を利用した巧みな攻撃だったわん。花マルをあげましょう」

「んなっ……」


 砂埃の奥から現れたのは先生だった。まるで無傷。着ている服にシワ一つついていない。

 先生の頭上には、宙に浮いた四角い箱がある。それはとても大きな黒い箱であり、わずかに透過した中身には、シャンデリアの残骸が塊となって圧縮されていた。

 その巨大で黒い箱こそが、先生のストレス=アビリティの正体である。


「仮想現実によって具現化された全てのオブジェクトファイルを検閲し、強制的に隔離する特殊能力……。名を『クオレンティン=キューブ』。やれやれ、ついに本気ってわけかい、先生よぉ」

「そりゃ私だって、本気のぐぅちゃんを相手に安々と勝てるとは思ってないわよん。死に際の害蟲ほど、手強い生物はいないものねぇ」


 そう愚弄されたとしても、蟲遣いは攻撃の手を緩めるつもりはなかった。


「害蟲よ、集中攻撃だ! 先生に能力を使わせる暇もないくらい、徹底的に攻めきれ!」


 蟲遣いは指を一本一本動かしながら、このフロア内にある仮想現実を順にバグらせていく。柱は倒れ、天井は抜け、床は迫り上がっていく。その全ての残骸は、先生めがけて飛んでいく。害蟲によってバグった仮想現実は、全てを破壊する殺傷兵器と化していた。

 けれど、それでも尚、先生は余裕である。まるでゲームでも楽しんでいるかのように、「るんるん」と鼻歌を奏でながら戦ってみせる。


「無駄よん。私には仮想現実による攻撃は通用しない。それがこのクオレンティン=キューブの能力であり、真髄でもあるわ。どれほど威力の高いサイバー攻撃を仕掛けてきたとしても、その根本であるプログラムを、停止させて隔離することができるのよん」


 先生はネイルを直角に動かして、次々と四角い箱を具現化させる。

 その箱に、仮想現実のオブジェクトは順に吸い込まれ、隔離されていく。


「くそっ。なら、直接に害蟲を当てて……」


 蟲遣いは、オブジェクトの裏に張り付いて隠れていた害蟲を先生に放った。一撃でも害蟲の牙が刺さりさえすれば、先生の精神情報を毒によってバグらせて、戦闘不能に陥らせることができるだろう。


「だめね。害蟲による攻撃も例外ではないわん。学習しましょうね」


 先生は細かく小さな害蟲すらも、一匹ずつ小さな箱に隔離していく。その針の穴をも通す命中率は、一瞬の躊躇いや、一つの間違いも有り得ない。

 ただただ、蟲遣いの害蟲は全て綺麗に隔離され、無力化されていく。


「クソッ! クソッ! ちくしょうっめっ! どうしてた! なぜ勝てない!」


 蟲遣いはヤケになり始め、冷静さを欠きはじめた。

 最強に見える先生にも、付け入る隙はいくらでもある。

 大人であるから、体内に蓄積されたスタミナは少ない。攻撃を絶え間なく継続させ、防御に専念させてしまえば、蟲遣いよりも早く精神情報は尽き果て、息切れを起こすはずだ。

 他にも弱点はたくさんある。先生の能力『クオレンティン=キューブ』は、射程距離が極端に短い。遠距離から攻撃をしかければ安全であるし、反撃を許すことはないだろう。

 箱を具現化させるためには多少のタイムラグもある。先生の装着するネイル端末は玄人仕様の骨董品なので、処理能力や演算速度だって低い。そもそも、先生は極度の近視を患っているので、遠距離攻撃を得意とする『グリッチ=ノイズ』とは戦闘面において相性が悪いはず。決定的なのは、先生は蟲遣いよりランクは格下。ウィザード級の末端にすぎない。

 けれど勝てない。

 勝てる道理がない。

 それには、大きな理由があったのだ。

 蟲遣いの攻撃パターンは、完全に解析、把握され、先読みされてた――


「諦めなさい。ぐぅちゃんを育てたのは私よん。ヴィジュアルハッカーとしての技術から心得まで、その全てを磨きあげ、能力を限界まで引き出したのも私。その攻撃のを知っているからこそ、対抗手段なら事前にいくらでも用意できるのよん」


 その性格も、その立ち振舞いも、センスや個性も、先生の背中を追って養ったものだ。

 それが逆に、先生にとっての最大の武器となる。

 つまりは先生こそが、蟲遣いの天敵なのである。


「だからなんだ! 俺は負けねぇ! 絶対にシスタが夢見た世界を実現させてみせる! 俺が俺であることを証明してみせる! そのための戦いだ! 諦めねぇぞ、最後まで!」


 蟲遣いのネイル端末は、処理限界を大きく越えてオーバーヒートを引き起こし、クラッシュしかけていた。

 体内の精神情報も計画性の無いサイバー攻撃の数々に、底をつき始めた。

 目に見えて、蟲遣いの勢いは衰退していく。

 命令に従えきれない害蟲は隊列を崩しはじめ、攻撃もおろそかになっていく。

 隔離され、遠くから見ているだけの重戦車も、「それじゃだめよ」と言いたげに、箱の中で首を振っていた。


「憐れね……」

「憐れだと……? 違う……。俺は違う! 生きる目標を見つけたんだ! もう、負け犬のような人生はまっぴらごめんだ! 光が欲しいんだ! 俺はぁぁぁぁ!」


 蟲遣いは怒りを露わにし続ける。攻撃は雑になり、蟲の群れも統率を乱し始める。


「ぐぅちゃん、怒りでは何も解決できないのよ。我を忘れ、闇雲に駄々をこねる子供のままじゃ、成長なんてできやしないわ。強くはなれないのよ」


 先生が説教しながら、ゆっくりと近づいてくる。


「くるなっ!」


 蟲遣いは害蟲を放ち応戦するが、先生はその攻撃を最低限の行動でいなす。


「授業は終わりよん。ぐぅちゃんというバグを駆除して、ようやく子供たちは救われる。そして世界は、新しい歴史を刻みはじめる」


 先生は一つの箱を手の平に発現させると、それを蟲遣いの心臟めがけて突き出してきた。


「ポイントロック!」


 先生の箱は、蟲遣いの心臟を的確に隔離した。

 人の心臟という部位には、精神情報の根源が集約されている。その急所を隔離されてしまえば、ヴァーチャル=ネストから切り離され、意図も容易く精神の死を迎えるとされる。


「……かはっ」


 息ができなくなる。体内を循環していた血流も止まり、身体中の筋肉も弛緩する。

 痛みはない。けれど生命の危機は感知した。

 敗北という二文字が、面前にチラつく。

 蟲遣いは前かがみに倒れた。辺りに散らばった害蟲たちも宿主を失い、半透明になって消えていった。


「――……! ――……!」


 遠くでは、重戦車が必死に暴れている。涙を滝のように流してもいる。

 なぜそんなに、彼女は号泣しているのか? 傷が痛むからか? 不意打ちを食らって頭にきているからか? どれも違う。

 蟲遣いが、今にも死にそうだったからだ。


「……ぐはっ。かはぁ!」


 蟲遣いは、頭から血の気が引いていく感覚を目の当たりにしながらも、ひくひくと身体を痙攣させて悪あがきし続ける。口からはアブクが溢れ、喉が焼けるように熱い。


「さて、ぐうちゃん。まさにここからが胸突き八丁よん。貴方はどうするの? 死ぬの? 生きるの? この世界を救うと決めたなら、最期まで抗うの? 諦めるの? それとも――。さあ、選択してきなさい」


 先生は意味深にそう告げたあと、絶命寸前に浅く息をする蟲遣いの傍からに立った。


「これまでか――……」


 蟲遣いの心の鼓動はついに停止する。

 目の前が真っ白になり、そして暫くして、精神の死を迎えた。

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