第4話 致命的な脆弱性③

 楽しい一時というものは、時間が経つのが早いものだ。

 あっという間に、90分という上映時間は過ぎてゆき、スクリーンには『THE END』の文字だけが映しだされた。

 館内に照明が灯る。

 そこでようやく、蟲遣いグリッチャーはシスタに話しかけた。


「どうだった? 面白かったか?」


 するとシスタは椅子の上に立ち上がり、腕と足をぐーんと広げて飛び跳ねながら答えた。


「すっごい面白かった! 少年とワンちゃんが、言葉も交わさずに心を通わせるシーンが最高にハイだった! あうぅ……全米が震撼する感動作だったですよぉ……」

「全米……? そ、そうか……そんなに面白かったか」


 蟲遣いは苦笑いで応える。

 その映画だが、実はあまり褒められるような内容ではなかった。脚本も幼稚だし、構成もめちゃくちゃだったし、少年の演技もぎこちなかった。映画を観るのが趣味の蟲遣いにとっては、駄作と批判しても過言ではなく。

 とくに気にいらなかったのが、少年が捨て犬を助ける理由だった。

 ただ可哀想だから、捨て犬を助けて。

 ただ可哀想だから、冒険に連れていき。

 ただ可哀想だから、犬を護り戦って。

 都合の良い展開で反吐がでる。犬は一言でも「助けてくれ」だなんて言ったか? 「ワン」としか吠えていないじゃないか。そもそも冒険をしたいなら犬など連れていく必要はない。自分の強さを誇示したいのなら、何かを護るのではなく、何かを壊すほうが手っ取り早い。

 蟲遣いはその映画を、自分の境遇と照らしあわせて、心中では酷評していた。

 仲良しこよしの冒険活劇など、ただの妄想だ、と。


「おいシスタ、もう一本映画観てけよ。次の作品のほうがアクションシーンも豊富で面白いぞ。次のは本格的なスペースオペラだ。光る剣を振り回して、チャンバラするんだ」

「ああ、それは……」


 シスタは残念そうに目をそらした。


「そろそろ行かないと……ですです……」


 シスタは席を立った。もそもそと乱れた服の皺を正し準備を整えている。


「もう……行くのか?」

「はいです。あたしには使命があって……。だから行かないといけないです」

「使命……?」

「あたしにしかできない任務です。えへへ」


 シスタは触覚を交互に動かしながら、おぼつかない足取りで蟲遣いの側から離れた。

 けれど、名残惜しそうに顔半分だけ振り向いた。


「映画、一生忘れられない素敵な思い出になったです。またどこかで会えた時は、今度はオススメの映画を観せてくださいね」


 そう言って笑うシスタ。

 その笑顔には、言い表せないような悲壮感が漂っている。無理矢理に例えるなら、自殺でも考えて崖っぷちに立っているかのような、そんな諦めが混じった笑顔だったのだ。

 かと言って、蟲遣いにはシスタを引き止めるだけの理由は無い。


「……残念だな。古い映画を一緒に観られる相手なんて、そうはいないから」

「ぐぅちゃんは友達いないです?」

「いねぇよそんなもん。ウザったらしいだけだろ」

「ならなら、あたしが初めての友達ですね!」

「……調子こいてんじゃねぇぞ」


 蟲遣いは恥ずかしくなって鼻の下を指で掻いた。こんな幼女の仮想生物が友達とは、治安が悪いだけのこの街で、犯罪を生業としている凶悪犯の蟲遣いには相応しくない。


「じゃあなシスタ。達者でな」


 そう言って、蟲遣いは片手を無愛想に上げ、ばいばいさよなら、と無作法に挨拶した。蟲遣いの肩ではフンコロガシも「さようなら~」とハンカチを振っていた。

 結局のところ、だ。

 この幼女が害蟲ではなかった以上、蟲遣いにとっては興味が薄かった。

 もしも箱の中身が害蟲だったら、他の害蟲と同様に連れ帰り、仕事でハッキングを行う際の武器として調教することもできたが、それができない以上、シスタに利用価値はない。

 そもそもお喋りをする仮想生物など、連れ帰っても面倒なだけだ。仕事上、危険な目にあうこともあるだろう。だからお互いにとって利益は発生しないのだ。

 ならば、このまま後腐れなくサヨナラするのが妥当な判断。

 映画とは違う。今、二人の置かれている状況というのは、利害が一致しないのだ。


「じゃね! またどこかで!」


 シスタは手を大袈裟に振ったあと、元気よく駆け出し、映画館を出ていった。もうこれっきり。さようならだ。

 蟲遣いは後ろ姿が見えなくなるまで見送ったのち、そして恥ずかしくなって自分の顔を両手で覆った。


「まったく……ガキなんぞと一緒に映画を観て、何を浮かれてるんだ俺は」


 蟲遣いは、いつも子供には甘かった。

 世界の仕組みに対して反抗的にかまえていながら、それでも純粋な子供や若者に対しては、それを助けたいと願う気持ちが優先してしまい、結果的に人助けをしてしまう。口では「金のため」「自分が生きるため」と否定してきたが、それは恥ずかしさからくる虚言であった。

 学校の子供たちを助援するのも、それが本音。

 子供を助けてしまうのは、自分みたいな不幸な子供を、これ以上増やしたくないからなのだろう。一時でも幸せに、せめて人間らしい生活を送ってもらいたいと願う、一種の願望みたいなモノを、自分よりも若い世代に押し付けているのかもしれない。


「……けっ。俺もまだまだガキだな!」


 そう言って、蟲遣いが悪ぶった時。


「……!?」


 ビリッとした、髪の毛が逆立つような、嫌な感触が辺りを伝播した。

 その感覚の正体はおそらく、何者かが近くで仮想現実をクラッシュさせ、アクセスポイントにあるテクスチャマッピングを不正に改竄したのだ。その余波が、蟲遣いの敏感な皮膚に流れてきたのである。

 蟲遣いは慌てて立ち上がり、辺りを見回す。


「この胸焼けするような感じ……もしやヴィジュアルハッカーの仕業か? しかしどうしてこんな廃れた場所にハッカーが? 俺を狙っているのか? いや違うな……」


 この場所に精神情報を独占している金持ちの大人は住んでいないので、ヴィジュアルハッカーが狙うような価値のある財宝は無い。

 なら、仮想現実を改竄し、事実を隠蔽しようとしている、この不穏な動きの正体は? 

 答えは一つしかなかった。


「まさか……シスタ!」


 蟲遣いは慌てて駆け出し、そして映画館の外へと出た。

 すると、悪い予感が的中するという形で、胸糞が悪くなるような状況が繰り広げられていた。


「…………」


 蟲遣いは静かに目を細め、薄暗い路地裏の奥を見た。

 するとそこには、頭を両手で抱えて、冷たい地面に蹲るシスタの背中があった。

 それを囲むようにして足蹴を入れる、若者たちの姿もある。

 簡潔に述べるなら、シスタは袋叩きにあっていた。若者五人に、容赦なく。

 仮想生物であっても、痛みはあるのだろうか。シスタはしきりに「あうぅ」「あうぅ」と泣き叫んでる。

 そのシスタの顔面を、若者たちは無表情で傷めつけていた。靴の踵の一番出っ張った部分で、機械的に何回も何回も。


「……おい」


 怒りに震えた低い声で、蟲遣いは若者たちを威嚇した。

 若者たちが声に気付いて振り向いたとほぼ同時に、蟲遣いはトレンチコートの袖から害蟲を放った。

 十匹、二十匹、三十匹。

 その害蟲は魚の群れのように織り固まって狭い路地裏を疾走し、シスタを足蹴にする若者たちの顔面を無警告で強襲した。


「ぐあ! 何だ!」


 若者たちは害蟲の群れに狼狽し、手でそれを払いながら逃げ惑う。

 蟲遣いはその隙をみてシスタの隣にかしずき、自らが着ていたコートを肩に羽織らせた。


「大丈夫か?」

「あうぅ……」


 シスタの額や鼻からは、赤い血のエフェクトが流れている。傷口もとても生々しく描写されていた。

 驚いた。創りモノのまがいモノ。ただの仮想生物であろうに、生々しく血を流し、そして痛みを感じてリアクションをとっているのだ。五感までシミュレートされている、その無駄な理由はなぜ?


「あ、ぐぅちゃんじゃないですか。助けに来てくれたですか? えへへ」


 傷が痛むだろうに、それを悟られまいとアホみたいに笑うシスタ。

 蟲遣いはそれを見て、ギリッと歯ぎしりをした。


「別に助けたわけじゃない。俺のお気に入りである映画館の軒先が、賊に荒らされてちゃ見過ごすわけにもいかねぇ……。ここは俺の縄張りだからな」

「素直じゃないですねぇ……ぐぅちゃんは」

「素直じゃないのはシスタのほうだ。傷口……痛むんだろ?」


 シスタは元気なフリを続けている。顔は笑っていたが明らかに息は荒く、体力を消耗させている。他人の感情にたいして鈍感な蟲遣いですら、それは容易に察することができた。


「……外道が」


 胃の内側から沸々ふつふつと湧き上がる負の感情。それは見紛おうなき憤怒の精神情報。蟲遣いは素直に拳をわなわなと揺らしていた。


「安心しろ。シスタをイジメた奴は、今から俺が直々にぶん殴ってやる。俺の縄張りで好き勝手やるような不届き者には、お灸を据えてやらなきゃな。だから、お前は安全なとこに隠れて――」

「ぐぅちゃん、逃げて」


 予想だにしない台詞だった。それを言ったのは、シスタだ。


「逃げて? はぁ?」

「ぐぅちゃんは今、あの男たちに喧嘩を売ってるですよ。はやく逃げないと、精神情報を全て抜き取られ、ミイラにされて棺桶の中ですよっ!」

「あいつらに? 俺が?」

「ほら! 男の人たち……凄い怒ってますですよ!」

「あん?」


 視線を移動させれば、そこには指に装着されたネイル端末を黒く光らせる若者たちの姿があった。それは一人でなく、五人全員がそうだ。彼らは端末によって精神情報をグループ化させている。どうやら、五人一組の組織的なヴィジュアルハッカーのようだ。

 その誰もが、額にビキビキとド筋を浮かべて睨んできている。その眼は灰色に濁っていて、怨嗟と憎悪に満ちあふれている。


「俺の害蟲の群れを、この短時間で追っ払ったのか。なかなか腕が立つじゃねぇか」


 蟲遣いの害蟲は、一つ一つはただの小さなバグであり、殺傷能力は低いが、数十匹が寄り集まれば一つのウィルスのように作用する。触れれば一般人がまとっているファイアーウォールを蝕み、中身の精神情報を食い荒らす電子兵器と化す。

 だが、目の前の若者たちは、その危険な害蟲を一匹残らず駆除していた。

 これは少なく見積もっても、それなりの実力と危機管理能力を合わせ持つ敵。

 おそらくは夢現狭にも少数しか存在しない、『ウィザード級』のヴィジュアルハッカーも混じっている。


「ぐぅちゃん! 早く逃げてください! あたしを助ける義理はない。それにあたしは、ただの仮想生物です! そうでしょう?」


 蟲遣いを突き放そうと、シスタが胸を押してくる。

 だが、どうにも解せない。蟲遣いは踏みとどまった。


「お前、本当に何者なんだ? ウィザード級に命を狙われる仮想生物とか、普通じゃありえねぇ。……わからないことだらけだ。答えを導きだすピースが足りねぇよ」

「そうだよ! 答えは見つけられないですよ! だからさ、今日あたしと出会ったことは無かったことにして! そして逃げるです!」


 シスタは意地でも蟲遣いを巻き込みたくないようだ。

 だが、蟲遣いはハッキリと答えた。


「俺は頑固なんだ」

「が、頑固? ……です?」

「そうだ。一度決めたことは、貫き通す性分なんだ。だから背中は見せたくない」


 その台詞に、シスタは「……っ!」と声を詰まらせる。

 そんなシスタの頭に手を添えて、蟲遣いは語り始めた。


「どうやら俺の目はふし穴だったみたいだな。シスタ、お前はただの仮想生物じゃない。もっと他の何か……。普段はつるまないヴィジュアルハッカーが五人がかりで襲ってくるほどに、有益な秘密を握っている。そうだろ?」


 ハッカーという人種は、もちろん蟲遣いも含めて、利益を得るためには手段を選ばない狼藉者ばかりだ。例え罪も無い赤子を殺めたとしても、利益が手に入るのなら、その手を鮮血で染める残虐非道な性格をしている。


「だから――」


 蟲遣いはシスタの頭をぐしゃぐしゃと撫でた後、五人のハッカーたちの前に立ちふさがった。腕を広げて構え、さあ、かかってこいと強く敵を睨む。


「――シスタの持っている利益は俺のモノにする。あいつらを全員ぶっ飛ばしたら……正直に答えてもらうぞ! お前の正体と、その資産価値を!」

「な、な、なぁっ! ぐぅちゃんは短絡的ですよ! そんな現金な理由で!」

「いいから口を閉じてろ。べらべら喋ってると舌噛むぞ! それともお前は、みすみす殴られて、痛い思いをして、こんな汚い場所で野垂れ死ぬつもりか! この街の子供たちみたいに!」

「うにゅ……」

「子供っつーのはみんなそうだ。大人に踏みにじられ、文句も言えず、ただただ我慢して。ほんとにイライラするぜ! 弱々しい立場に甘んじるその奴隷根性に、反吐が出る!」

「ぐにゅ……」

「いつも俺は、それが気に入らねぇ! 弱い奴が強い奴に立ち向かえず蹂躙されるのがムカつく! 世界がそういう仕組みになっているのが、心底に納得できねぇ!」

「うぐぅ……」

「だから我慢なんてすんな! 今は俺の背中に隠れてりゃいい! 利用するだけ利用すりゃいいんだよ! それが弱者がこの弱肉強食の世界で生きるための術だ、わかったか!」


 蟲遣いの早口で強引な説教に、シスタは渋々「はい……」と頷いた。


「よろしい。……ってことで、そこで黙って見てろ。これは俺が始める喧嘩だ。てめぇには関係のない話だ」


 結局のところ、蟲遣いはクールに決断した。

 このに首を突っ込むことには、利益が発生する。

 シスタの正体。シスタが持つ秘密。それには好奇心が湧いてしまう。それを丸ごと横取りすることは、ヴィジュアルハッカーである蟲遣いには十分すぎる報酬だった。決して、子供を助けたいだとか、正義のヒーローになろうだとか、そんな偽善な目的など一つもない。絶対に。

 要は金だ。金になりそうだから戦うのだ。いつものことであると、納得できる。


「さてと、おっぱじめるか」


 蟲遣いは指を前に出し、ネイル端末を通常モードから戦闘モードへと移行させた。同時に、いくつものフォルダが展開され、その中から害蟲が這い出てくる。

 それは数百。数千という単位の、害蟲の群れだ。


「ぐぅちゃん……!」

「なんだ、まだ逃げろって言うのか?」

「違う! 戦うなら、気をつけてくださいです!」

「何を気をつけっ――」


 と、その時。蟲遣いの腕が、ずしりと重くなった。

 まるで漬物石を手の上に落とされたかのような、そんなアバウトな感覚だ。指が麻痺を起こし動かなくもなっている。

 違和感を辿ってネイルの先端を見れば、そこには「ケラケラ」と笑う、醜悪な獣がいた。


「なんだこいつらは……」


 数は五匹。大きさは子猫ほど。毛がボサボサで目が大きく、長い腕と長い鉤爪を伸ばしている。例えるなら小さな悪魔のような生物が、蟲遣いのネイル端末にまとわりついていたのだ。


「ああ、ぐぅちゃん……敵の術中にはまってるですよ……だから警告したのですよ……あたしも、その悪魔に攻撃されたです……そしたら身体が動かなくなって……逃げることもできなかったですよ……」

「これが奴らのストレス=アビリティか?」

「ストレス……? ってなんです?」

「つまりは奴らの特殊能力さ。コッチの業界じゃ、それをストレス=アビリティって呼んでるんだよ。基本的に、頭のおかしい奴らが地獄を体験して手に入れた、一種の偶発的な弊害へいがいさ」

「偶発的な弊害……? です?」

「説明は後だ。ストレス=アビリティ持ちなら、これは難儀な戦いになってくる」


 蟲遣いは両足を踏ん張りながら、敵の姿、五人の男を注視する。

 男たちはそろってネイル端末を起動し、指をリズミカルに動かしていた。

 とくに中央にいる男の手さばきは別格で、おそらくはリーダーであろう。他の四人は、情報を制御するための補佐役と考えていい。

 そのリーダーのハンドシグナルが意味する命令は、蟲遣いの指に縋りつく悪魔によって実行されているようだ。ますます腕が重くなり、ついには片膝をつくほどだ。


「重力が……何倍にも……くそぉ……」


 体重が増えているのかと一瞬そう推理した。けれどそれは誤解だ。リアルに生きる人間の体重を増減させることは、ヴァーチャル=ネストとて難しい。錯覚を利用した感受性の操作こそが、本来はヴァーチャル=ネストの真髄であるからだ。

 だとするのなら、やはりこれはストレス=アビリティによるサイバー攻撃だ。


「奴らのストレス=アビリティの正体はなんだ? この悪魔に掴まれていると、体が重くなる……それがなのか? だとしたら厄介だな……このまま、この気持ち悪い悪魔に掴まれていたら……負ける!」


 ヴィジュアルハッカーによるサイバー攻撃には、様々な方法がある。

 精神情報を破壊するためのウィルスを構築し、それを巧みに侵入させようとしてきたり、はたまた真正面からファイアーウォールを破壊し突破するつもりで、電子戦を挑んでくる武闘派もいる。

 その攻撃の中でも、もっとも致命的かつ効果的な一撃こそ、ネイル端末そのものを破壊する方法だろう。それが容易にできるとすれば、かなりやっかいな能力だ。


「これは……グレムリン効果ってやつか……」


 蟲遣いは記憶の引き出しから、そのワードを拾い上げた。


 ――グレムリン効果。

 それは二十世紀初頭、第二次世界大戦で一人の航空機パイロットが体験した事故が始まりとされる。以後、電子機器やコンピュータが原因不明の故障で使い物にならなくなる事件が頻発し、当時のパイロットはそれを悪戯妖精の仕業と恐れたとされる。

 ヴァーチャル=ネストにおいても、その単純な攻撃方法はハッキングにて悪用される。

 五人のハッカーたちの攻撃方法、すなわちストレス=アビリティと呼ばれる特殊能力の正体こそ、電子機器の動作不良を誘発させるサイバー攻撃――。


 ――動作を重くする能力『グレムリン』である。


「動作がどんどん重くなってく。ハンドシグナルの操作がきかねぇ……!」

「し、しっかりするですよ! ぐぅちゃん!」

「しっかりしろって言われてもな……ネイル端末が使えないんじゃ、ピンチだぜ」


 ヴァーチャル=ネストにおいて仮想現実を利用するには、ネイル端末と呼ばれるポータブルアタッチメントが必要不可欠だ。

 ネイル端末は指輪程の大きさをしていて、指の爪に取り付けるのが一般的だ。

 手にある爪、その全てにネイル端末を装着し、そして指の動かし方や手の動きを取り込み、命令文やプログラムを認識して、仮想現実を生成・実行・体感することができる。

 しかし今、そのネイル端末はグレムリンにより動作不良を起こし、さらには乗っ取られている状況だ。今や指の第一間接を動かすのがやっとである。このままでは負荷が膨大すぎて、強制終了させられてしまうのも時間の問題だ。


「……ぐっ」


 蟲遣いは膝を内股にし、へっぴり腰で蹲る。

 その痴態を見ていい気になったのか、敵はますますグレムリンを増殖させていく。いつの間にやら、蟲遣いの身体には十数匹のグレムリンがまとわりついている。

 そのグレムリンは、蟲遣いを地獄の底へ誘うかのように、身体をグイグイと地面に引っ張ってくる。

 これだけの重力負荷を与えられてしまえば、ネイル端末を正しく動作させることはできない。身体の中を循環する精神情報を上手く処理することもできず、それに従って害蟲を精密に操作することもできない。もはや攻撃に転じる術を完全に封じられているのだ。


「ほら、今すぐごめんなさいして、許してもらおうよです」


 シスタが弱気な提案をしてきた。


「そんなに……俺は今……弱く見えるか……?」

「見えるですよ。だって、もはや絶対絶命じゃないですか。もう白旗を振って降参しちゃうですよ。あたしのために、そこまでして戦う理由はないですよ」

「理由……か。まあ、確かに俺もそう思う。痛い思いをするくらいなら、降参するのが一番いい。リスクを恐れるくらいなら、逃げるほうがマシだ。ましてや見ず知らずのガキのために、命を張るだなんて変態がやることだ……」

「だったら!」


 けれど蟲遣いは、それを全否定するつもりで「かかかっ!」と、高笑いした。


「だが降参はしない。逃げも隠れもしないし、勝負を諦めたりもしない。だからよ、豪華客船に乗船したつもりで安心して船旅楽しんでろ。この程度の雑魚、俺の相手じゃねぇんだよ!」


 軽快に誇ったあと、蟲遣いは確実に指を動かして、一つの命令文を害蟲に送った。

 動作不良を起こしていたとしても、事前に用意していたシンプルなショートカットならば、どうにか害蟲に伝えることができる。

「何をする気だ?」と、五人のハッカーたちは訝しげにしていたが、けれど彼らにとって現状が有利なことに変わりない。そのままグレムリンによる動作不良攻撃を続けてくる。

 彼らのバトルスタイルは、おそらくは持久戦。ネイル端末に負荷を与え続け、行動を制限したところでトドメを刺すつもりなのだろう。

 けれど、そんな原始的で弱点丸出しのDoSドス攻撃に対処できないほど、蟲遣いは無能ではない。くぐってきた修羅場の数が違うのだ。この程度で負けるなら、先生に説教されてしまう。


「てめぇらのやってることはハッキングじゃねぇ。幼稚園のお遊戯だぜ。ヴィジュアルハッカーなら、相手の力量を見抜いてみせろってんだ!」


 蟲遣いは、敵を攻撃することを諦めることにした。

 だって、攻撃する必要など、はなっから無かったのだから。


「……ぐあっ!」


 敵の中のリーダーが、悶えるような声を出し、その場に膝をついた。

 他の四人も次々に表情を曇らせ、連鎖的に蹲っていく。

 それはまるで、先程までの蟲遣いと同様の姿だ。ネイル端末に負荷が与えられ、動作不良を起こしているかのようだった。

 蟲遣いはそれを確認し、自分のネイル端末を見る。

 すると、グレムリンもまた身体を痙攣させていた。口から泡を吐き、顔をしわくちゃにして「ギャギャギャ!」と悶絶している。そのグレムリンの頭をグリグリと踏み潰しながら、フンコロガシも「参ったか!」と勝ち誇っていた。

 その状況を横目に、蟲遣いはゆうゆうと立ち上がった。


「形勢逆転だな、おい」


「何をした?」という悔しそうな目で、五人は歯を食いしばっている。


「不思議か? グレムリンの攻撃が俺にきかず、あまつさえ自分たちが同じように動作不良を起こしているのが、そんなに不思議か? まるで攻撃そのものがしたみたい……そう思っているんだろう?」


「はん!」と鼻を突き上げ、蟲遣いは胸を張る。


「いいか、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。俺はな、この害蟲バグを操って、仮想現実に動作不良を引き起こすことができる。もちろんファイアーウォールを破壊するために害蟲を操ることも可能だが……。それだけじゃねぇ。やりようによっちゃ、自分自身を武器にすることもできる」


 台詞の後、蟲遣いの身体の表面から、害蟲がワラワラと湧き出てくる。それはまるで、害蟲の巣窟そうくつのような酷く醜い有り様だ。


「ぐぅちゃん……その気持ち悪い格好は、一体何をしたのです?」

「簡単なことだ。つまり俺は自分自身を害蟲で侵した。そんな危険で汚らしい本体に向ってよ、無防備に直接攻撃をしかけちゃいけねぇよなぁ……。だってよ、免疫力も持たずにウィルスに触れたなら、誰だって簡単に感染しちまうもんだろう?」


 語りかけるが、もはや五人のハッカーは声を出すのも億劫なようだった。それは即ち、蟲遣いの攻撃が骨の髄まで効いているということだ。


「ふっ。声も出せないなら、冥土の土産に教えてやるぜ。俺の身体から感染しちまったのは、害蟲のだ。それに侵されて、てめぇらはもう再起不能に陥ってんだよ」


 ――毒。

 自然界に潜む昆虫の中には、猛毒を所持する者がいる。そのほとんどは捕食に対して毒を使うだけでなく、鳥などの天敵から身を護るために、体表面に毒を滲ませている場合が多い。

 それを蟲遣いは実践してみせた。身体に毒を塗りたくり、グレムリンを媒介にして敵の本体に感染させたのだ。

 蟲遣いにとって最大の自衛手段。それはシステムを護るためのファイアーウォールや、セキュリティソフトで身を固め、殻に篭もることではない。

 本来はと揶揄され駆除されるバグや不具合を逆手に取って、武器、または防具として利用するオリジナル技術にあった。

 決して派手ではなく、地味で卑怯な能力であるが、それこそが蟲遣いの本領。他には真似できない、唯一無二のストレス=アビリティ。


『グリッチ=ノイズ』


 それが、蟲遣いの特殊能力の名である。


「欠伸が出るような解説もここまでだ。苦しいか? 時間をかけて楽にしてやるよ」


 蟲遣いは、じらすようにゆっくりと指を動かして、害蟲の群れを操る。

 群れは、蹲る五人の男たちを飲み込んでいった。まるでアリジゴクにはまる餌のように。

「ぐわぁ!」「助けてくれ!」そんな断末魔が、ギチギチと鳴る羽音に混じって聞こえてきた。

 しかし、電子戦をしかけてきた者に対し、慈悲を手向けることはない。

 死ぬか生きるか。得るか失うか。

 ヴィジュアルハッカー同士の抗争は、常に非情さがつきものだ。


「害蟲に喰われながら、奈落への片道旅行をじっくりと味あうんだな。そして猛省するこった。『デミゴット級』のこの俺様に、歯向かったことをな……」


 キメ台詞のようにそう呟くと、首を斬るようなジェスチャーの後に親指の先を地面に向け、処刑を実行した。グレムリンによって負わされた苦痛を百倍にして返すつもりで、勢いよく。

 しかし、ネイル端末が光るその親指に、シスタが優しく手を添えてきた。


「ぐぅちゃん、許してあげましょう。あの人たち、もう悪さできないですよ……」

「あん? 何を甘ったれたことを。仕掛けてきたのはアッチだ。腕の一本や二本、引きちぎられても文句は言えねぇはずだ」

「そんな酷い拷問を……するつもりだったのです? ダメですよ。この狭い世界で生きる者同士、きちんと仲直りしないと……ですです」


 シスタが涙目になって訴えかけてくる。

 その切ない表情に、蟲遣いは思わず尻込みした。害蟲を操るその手も止まってしまう。


「シスタ、お前は一体――」


 何者なのだろう。仮想生物の分際で、自分の命を狙ってきた敵に慈悲を手向けようなどと。まるで女神のような道徳心を見せつけてくるシスタに、蟲遣いは疑問を感じた。

 ――と、その時だ。

 蟲遣いの頭の上を旋回していた一匹の害蟲が、「ピギィィ!」と警報を鳴らした。


「ッッッ!」


 蟲遣いは慌てて上空に視線を向ける。

 すると、巨大な炎の塊が、隕石のようにして蟲遣いとシスタめがけて墜ちてくるではないか。


「くそッ! 新手のヴィジュアルハッカーかッ!」


 蟲遣いはシスタを素早く抱え、その場から後退する。


「ひゃぁ、今度は何事です?」

「敵だ。俺らの命を問答無用で狙ってきやがった」


 先ほどまで蟲遣いが居た場所に炎の塊が墜落し、派手に弾けた。辺りは瞬く間に炎上し、黒煙が狭い路地裏を漂いはじめた。凄まじい熱風。肌が焦げそうだ。

 その炎や黒煙は、リアルではなく仮想現実のエフェクトであるが、その情報濃度は人を殺めるには十分なデータ量であった。


「けほっけほっ! 煙いです……。一体、誰がこんなことをしたです……?」


 目をしぱしぱさせながら咳き込むシスタ。蟲遣いも多少なりとも咳き込みながら、けれどその業火の先を見据え、静かに身構えていた。

 そこには一人の人物が、妖炎の後ろで身体を揺らしながら立ち尽くしていた。


「……っち。やっかいなサプライズゲストだな」


 焼け焦げた黒尽くめの外套を着こみ、ボロボロの包帯で手足や顔を手当てしている姿。その異様な出で立ちを一目見て、普通じゃないと警戒してしまうほど。

 その人物がこの炎の仮想現実を創り出したことは、火を見るよりも明らかだった。

 そして、その男の名を、ヴィジュアルハッカーの蟲遣いはよく知っていた。


爛狐バンフォックス……。てめぇ……」


 それが、その男のハンドルネームである。

 炎を具現化し、ヴァーチャルネスト内の仮想現実を特殊能力者。ストレス=アビリティ持ちの特異なヴィジュアルハッカーの一人。蟲遣いの商売敵でもある。

 そのランクは、この夢現狭で今は三人しかいないとされる、デミゴット級のヴィジュアルハッカーである。つまりは蟲遣いと同等の強さを誇っているということだ。


「なにしにきた? てめぇは統治者側の人間だろうが。程度の低いハッカー同士の小競り合いに乱入してくるなんざ、穏やかじゃなねぇな」

「ケケ……。蟲遣い、か……。お前、うまそうな匂い、する。焼けばきっと、絶品」


 爛狐は素朴な単語を並べながら、獣のように片言で喋るだけだ。「ニィ」と鋭い犬歯を剥き出しにし、舌でベロリと涎を拭きとっている。


「相変わらず知能指数が低そうだな。一度頭の病院に行ったほうがいいんじゃねぇの? おい、聞いてんのかよ……統治者の犬っコロが」


 爛狐は、蟲遣いと同業のヴィジュアルハッカーであるが、その待遇は異なる。

 自由に仕事を選び、自由に生きる蟲遣いとは違って、爛狐は決まった宿主に従い、仕事をこなしている。その宿主こそが、この世界を牛耳っている統治者と呼ばれる権力者である。

 その統治者お抱えのハッカーが、こんなきな臭い場所に何をしにきたのか?


「ケケケ。燃やす、焦がす、灰にする。任務、失敗したら、それ隠す。これオレの仕事。それオレの楽しみ!」


 爛狐は肩を小刻みに揺らしながら不気味に笑い、そして再起不能に陥っていた五人のハッカーたちにネイル端末を向けた。

 ネイル端末からは、線香花火のような僅かな火花がカチカチと散り始める。


「……まさかっ! てめぇ、爛狐っ! やめろっ!」


 そのまさかだった。言葉で制止するが、時すでに遅い。

 爛狐はネイル端末から火球を発射し、再起不能に陥っていた男たちを火達磨にした。


「ぐあぁぁ――」


 炎上していく五人のハッカー。即座に肉の焼ける独特の臭いが辺りに充満する。

 彼らは暫く熱さに悶えてはいたが、次第に動きは鈍くなり、そして断末魔は消え、その魂はヴァーチャル=ネストから切り離された。


「……ひぇ!」


 シスタは口に両手を添え、悲惨な現場におどろおどろとする。

 そんな怯えるシスタを、爛狐がギロリと睨んだ。


「ケケケ……。次、会う時、おまえ、きっと死ぬ……。統治者様、裏切った……。その報い、受けねばならない……。世界、バランス、崩す、悪……。許されない――」


 またも不気味に笑ってみせたあと、爛狐は燃え盛る炎の内側へと潜り、姿を同化させた。

 その場に残ったのは炎の猛る勢いだけ。爛狐の気配は陽炎のように消え失せた。


「……逃げてくれたのか?」


 いや、それは間違いだ。

 爛狐は証拠を隠滅しにきたのだろう。シスタを襲うことに失敗した五人のハッカーを抹殺することが、爛狐に与えられた今回の任務だったのかもしれない。その任務に忠実だからこそ、今回は見逃してもらえたのだ。

 だとすれば、だ。

 この件に関しては、爛狐の宿主である統治者が、話に絡んでいるということになる。


「……おいおい、風呂敷広げすぎなんじゃねぇの?」


 蟲遣いは事の発端であるシスタを見た。今はただ恐れをなして、蟲遣いの背後に隠れている。

 この何の変哲もない幼女の仮想生物に、一体どんな秘密が隠されているのだろうか。


  

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