七不思議の痕跡

六日野あやめ

プロローグ

終業式の幽霊

【うわさ①】


 終業式の日にでる幽霊の話、知ってる?

―ううん、知らない。

 去年の夏休みが始まってすぐにね、死んじゃった女の子がいたの。

―うちの学校?

 そう。その子、親が離婚しちゃって、夏休み中に引っ越すことになってたんだけど、その途中、電車の事故で死んじゃったんだって。

 だけどね、その子、本当は引っ越しなんてしたくなかったんだって。友達と別れたくないって、終業式の日に遅くまでこの教室に残ってたんだって。

―うちのクラスだったの?

 うん。その子のお母さん、カメラマンだったらしいんだけど、その子の誕生日に黒くてずっしりしたカメラをくれたの。その子、そのカメラを首からぶら下げて、思い出にクラスの写真を撮ってたんだって。

 だからね、一学期の終業式の日の夕方、この五年三組の教室にその子がカメラをぶら下げて戻ってくるの。もしその子に出会ってしまったら、必ず顔を隠さなきゃいけない。

―どうして?

 もしその子に写真を撮られてしまったら、その子の思い出にされちゃうんだって。思い出にされて、その子と一緒に〝あっちの世界〟に連れて行かれちゃうんだって―――。




がらんどうの校舎に、蝉の声だけが虚しく響いていた。

 一歩踏み出すとタイル張りの廊下に自分の上履きスニーカーがきゅっきゅとこすれる音が響き、やはり校内には私の他に誰も残っていないのだとわかった。

 子どもたちのうわさによると、この学校にはお化けがあふれていて迂闊に歩くことさえままならない。あんなつまらないうわさでも信じるなとは言わないのだが、今日が一学期の終業式であることを忘れてしまった生徒が一人くらいはいても良かったのではないだろうか。

 この市立槇志野小学校は山を削った小高い丘に立地する。暮れ時には赤々とした夕日が遮るものなく白亜の校舎へ差し込むために、校内は幻想的な橙色に支配され、それが時折不気味でもあった。たとえあんなうわさが無かったとしても強いて夕方まで残ろうという者はいないだろう。現にただ一人残された「先生」である私でさえ、戸締りと見回りの当番で嫌々残されているに過ぎない。

 私が担任を受け持つ五年三組では終業式が近づくにつれて欠席者が増え、この十日ほどは二十名程度の人数で授業を行っている。他のクラスでも欠席者は相次いでおり、特に低学年のクラスでは恐怖から泣きだす生徒や授業中突然嘔吐してしまう生徒も出ている。

 定例の職員会議において、いっそのこと終業式自体中止にしてしまおうという案も出されたのだが、結局その案は却下された。そしてその理由は「幽霊の存在自体が未確認であるため」という身も蓋もない間抜けなものであった。

 実はうわさの通り、本校には昨年の夏休み中に列車の脱線事故で亡くなった女子児童がおり、遺品の中から一眼レフカメラも見つかっている。その点が子どもたちの認める信憑性となっているのだが、大人の立場からすればそんなものは幽霊の出没する根拠になどなり得ない。

 第一少し考えればわかることで、〝昨年の夏休みに亡くなった少女の霊〟が〝一学期の終業式〟に出るといううわさは実はつじつまが合っていない。つまり彼女が亡くなった日から数えてまだ一度も行われていなかった〝一学期の終業式〟にでるお化けを見た者など論理的に考えて存在しない。したがって幽霊の存在自体が未確認であり、終業式は例年通りとりおこなわれてしかるべきなのである。

(これからでるとすれば、初目撃は俺ということになるのか)

 校舎の一棟一階、つきあたりの窓辺で西日に目を細めながら、私はぼんやりとそんなことを考えてニヤリとした。

 ふと背後できゅっきゅと上履きのこすれる音が響いた。くるりと振り返ると東側の職員玄関の方からこちらにかけよってくる小さな輪郭が見える。今時珍しい腰まである長い髪を揺らして走るので、それが誰なのかは大体の察しがついた。

「樫谷、帰れって言ったろ。昇降口もう閉めたぞ」

 息を切らせた少女が私のそばまでやって来て立ち止まる。

「だってね先生、ホントに幽霊見たらさあ、みんなに自慢できるんだよ」

「もう遅いから、明日にしなさい」

「明日は出ないんだよ~ん」

「…」

 樫谷かしや芽依めいは私のクラスに在籍する生徒で、お化けとか妖怪とか、とにかくそういう類のうわさが大好きな少女だった。

「今日またお前のことで油谷先生からお叱りを受けたよ」

「アブラゼミ?」

 アブラゼミが返事をするようにジージーうなり始める。

「油谷」

「あ、呼び捨てだ」

 私は無視して続ける。

「また低学年の子を泣かせたんだって?」

「いじめてないよ」

 泣かせたことを否定しないところがこの子らしい素直さだ。

「またおかしなうわさを広めているそうじゃないか。今度は何だ、例の〝交差点の幽霊〟か?」

「ううん。今度のはね、竹藪に出る幽霊なんだよ。えっとね、四中の裏門のところにお地蔵さまがあってね―」

「やめろやめろ、もう聞きたくない」

 私は翻り、東側に歩みを進める。

「ねぇ先生待ってよー」

 芽依はクラスで〝のろ子〟とか〝のろちゃん〟と呼ばれている。これは芽依がとろいとか、どんくさいからという理由でからかわれているのとは違う。

 のろ子の「のろ」は「呪われている」の「のろ」なのだ。

 うわさによると彼女の体のどこかに人の顔のようなあざがあり、二十歳までにそれが消えなければ呪い殺されるのだという。

 芽依を呪ったとされる幽霊は子どもたちの間で〝交差点の幽霊〟と呼ばれる幽霊で、いまやこの町で最もポピュラーなうわさの一つとなりつつある。あまり詳しくは知らないのだが、車にひかれて死んだ少女がどうのといううわさのようだ。

 とにかくそうした事情から芽依の話には妙な信憑性があり、どうやらそれがまんざらでもないらしい彼女は、生来の意地の悪さが手伝って嘘か本当かわからないうわさを校内で広めるようになってしまった。つまり全校生徒がお化け騒ぎに一喜一憂するというこの異常事態を招いた張本人こそ、この樫谷芽依という少女なのだ。

 こうした状況に陥った責任の一端はクラス担任である私にある、というのが五年生の学年主任である油谷あぶらたにしずか教諭の持論であり、彼女はことあるごとに私にくってかかってきた。彼女の半狂乱の言いがかりがこの数ヶ月間の私の悩みの種であり、私はその原因をつくった芽依のことが理不尽に腹立たしかった。

 「工」の字型の校舎は南の昇降口側から向かって正面に各階とも二棟に続く渡り廊下を構えている。渡り廊下の前まで来て私はもう一度体をひるがえした。後ろから鬱陶しくつきまとう少女に何かもっともらしいことを言って帰宅させようと思ったのだ。

「んん?」

 振り返る瞬間、北側の二棟のフロアを人影が通り過ぎるのが見えた。ある程度身長があったので高学年の女子だろう。

「まだ誰か残ってるのか」

「そんなわけないよ。放課後はみんな怖がって一目散に帰るんだもん」

 芽依は苛立ちで眉間にしわの寄った私に気おじせず言った。

「じゃあ今のは何だ」

「ゆ・う・れ・い」

 芽依が上目でにかっと笑って見せたので、私は腕を組んで彼女をじとっと見下ろした。

「よしわかった。そんなに言うなら本当に幽霊がいるか確かめに行くからな。お前、ついてこいよ」

「やった~!」

 二棟は一階と四階を家庭科室や音楽室、図書室などの特別教室に、二階と三階を五、六年生の教室にあててている。私たちはまよわず二階の五年生教室へと向かった。




 夕日の赤が次第に重くなるように暗く、濃くなっていく。

 教室は西から一、二、三、四組と並んでおり、四組の教室は理科室に隣接しているから、建物の構造上必ずそこを通過しなければならない。さすがに今時リアルな人体模型やホルマリン浸けなどは置かれていないが、水道の蛇口から水滴が滴るだけでも気味が悪い。

 私は目をそむけて足早に通り過ぎると、ガランと思い切りよく五年四組の入り口の引き戸を引いた。誰もいない。締め切られた教室にたまった熱気だけが廊下へと流れ出し、私のこめかみからは汗の雫が一滴タイル張りの廊下へと流れ落ちた。

「なんかドキドキするよね」

 急に早足になった私の背中に追い付いて、芽依は不敵に微笑んだ。はしゃぐ自分とは裏腹に私が内心びくついていることを彼女は知っているのだ。

「何が?」

「だって次、三組だよ」

「…」

 私は黙ってしまった。幽霊なんているはずないと言うのは簡単だったし、自分が子どもたちを指導する立場にあることを加味すればそう言うべきだったのかもしれない。しかしそのときなぜだかその言葉が出てこなかった。

「どうしたの?」

「いや…」

 本当に三組の教室に幽霊がいるかもしれない。不思議とそんな気がして真横に伸びた廊下の直線を見やる。しかしすぐにそんなはずはないのだと思い返し、自分のプライドを守ろうと精一杯の虚勢を張ってみせる。

「もし三組の教室に幽霊がいなかったらお前が証人だからな。責任もってうわさを撤回するんだぞ」

「え~、フェアじゃないよ~」

「適当な交換条件だと思うが?」

「幽霊なんて本当にいるわけないじゃん」

「知ってる」

 私は芽依の言葉を聞いて少し安心し、ゆっくりと三組の教室の前まで足を進める。

 よくよく考えてみれば小学校の高学年にもなって本気で幽霊がいると信じている方がどうかしている。大人が変に抑圧してしまったから子どもたちの方も高揚してしまっただけで、この扉の向こうに実際に幽霊がいるなんてことを本気で考えたのは私が初めてだっただろう。

 そう考えると恥ずかしいというよりもむしろばかばかしく思えてきて、教室の扉にも気楽に手を伸ばせるというものだ。私はおもむろに引き戸を引いた。


 カシャッ。


 突然シャッター音と共に暗がりの教室から人工的な閃光が走った。

「わっ」

 私はのけぞって、とっさに左手の甲で顔を隠した。その瞬間、チラリと教室内に立っている人影が視界をよぎる。

 心臓の鼓動はリズムを変え、ばくんばくんという音の響いている頭の中には、子どもたちのうわさの文句がよぎっていた。


―五年三組の教室にその子がカメラをぶら下げて戻ってくるの。もしその子に出会ってしまったら、必ず顔を隠さなきゃいけない。

―もしその子に写真を撮られてしまったら、その子の思い出にされちゃうんだって。思い出にされて、その子と一緒に〝あっちの世界〟に連れて行かれちゃうんだって―――。


(馬鹿らしい。きっと誰かが悪ふざけで幽霊の振りをしているに決まっている、みんなを驚かせようとして。それに写真を取られていたとしても俺はいま咄嗟に顔を隠したじゃないか。いや、そもそも幽霊なんているわけがないんだから顔を隠す必要も―)

 私が混乱していると、隣で芽依がつぶやいた。

「あれ、みづきちゃん。まだ残ってたんだ」

 みづき―。みづきとは誰だろう。私のクラスにはそんな名前の生徒はいないから、他のクラスかそうでなければ他学年だ。だが私にはその名前にもう一つ心当たりがあった。

 去年の夏休みが始まってすぐ、我々教職員一同はその名前のもと、急遽研修の日程を中断してまで学校の職員室へと招集された。そして教頭から詳しい事情を聞き、手を合わせたり、黙禱したりしたのだった。

「ほら私、夏休み中に引っ越しちゃうから、教室とか校舎とか、記念に写真撮っておきたくて」

 みづきと呼ばれた少女が答える。これもどこかで聞いたような話だ。

「そんなの携帯で撮ればいいじゃん。すごく高そうなカメラだけど」

「これ、お母さんにもらったものだから。特別っていうか―」

 私は息をのんだ。そしてようやく自分の顔を隠している左手をどけ、教室内に立っている少女に目を向ける。

 そこに立っていたのはやはりというべきか、昨年の夏休みに亡くなった女子児童で間違いなかった。一連の幽霊騒動対策の職員会議で何度か写真付きの資料を見せられたからよく覚えている。名前は確か―。

花谷はなたにみづき…さん?」

 みづきと芽依は同時に私の方に顔を向け、怪訝そうな表情をつくった。

「先生、どうしたの?気持ち悪いよ。いつもは名字で呼び捨てのくせに」

 芽依がそう言うとみづきは控えめにクスクスと笑った。

 しかしこのやり取りはどうも妙である。それというのは、私がその少女と面と向かって話すのはこれが初めてのことだったからだ。したがって私はこの少女を名字で呼び捨てにしたことなどありはしない。だが芽依の口ぶりは、まるでこの「みづき」という少女が私たちにとってお馴染みのメンバーであるような錯覚を私に与えた。彼女がこの教室にいることなど当たり前で、もっと言えば彼女がずっとこのクラスに在籍していたような、そんな印象を私は受けた。


―もしその子に写真を撮られてしまったら、その子の思い出にされちゃうんだって。


 〝思い出〟にされる――まさかこれがそういうことだとでもいうのか。知らず知らずのうちに私も相当子どもたちの影響を受けてしまっていたようで、これまでの情報が頭の中で信じられないくらいに一直線につながった。

 私がおかしくなったのではなく、仮に目の前の少女が本物の幽霊であったとしよう。つい先ほど私たちは彼女に写真を撮られた。私は顔を隠したが、一緒にいた芽依の方はどうだったのだろう。

芽依は彼女に写真を撮られ、彼女の〝思い出〟にされてしまったのではないか。にわかには信じがたいことだが、もう私にはそうとしか考えられなかった。

 そしてうわさがすべて真実であるなら、芽依はこれから〝あっちの世界〟とやらに連れて行かれてしまうことになる。

「ところで二人とも何でこんなところにいるの?」

 みづきは私に向かって問いかけてきたが、まさか本物の幽霊を前に幽霊を探しに来たなどとは言えまい。

「誰かまだ残ってるのが見えたから。ほら先生が早く帰れってうるさくて」

 答えない私に代わって芽依が答えた。だがその返答は素直なこの子らしくない、事実とは若干異なる内容のものだった。記憶が都合よく書き換えられているらしい。

 恐怖と混乱で私は完全に固まってしまっていた。見かねて芽依が切り出す。

「私たちもう帰るところだけど、もうちょっと時間かかる?」

「ううん。私も今終わったところだから、一緒に帰ろ」

 それから私は芽依に手をひかれて唯一鍵の空いている職員玄関へと向かった。そして私は二人にちぐはぐな口調で別れを告げ、芽依が終業式の幽霊に連れて行かれるのを黙って見ていた。

 すでにあたりはすっかり暗かったが、電信柱に付属した蛍光灯が10mか20mおきに周囲を照らすので私の視界は保たれていた。校門を出た二人の背中は一ブロックほどのところで角を折れるまではっきり見えており、それまで私の緊張は解けなかった。

 そして私は二人が姿を消してはじめて、自分が芽依を見殺しにしてしまったかもしれないことに気付いた。

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