第五章 両親もどき
「はよ」
沙耶が事務所のドアを開けると、円が軽く片手をあげて言った。その手には煙草が握られていて、
「……室内禁煙」
「いいでしょう? もう」
床に座ったまま円は微笑む。
机も何もかもなくなった事務所。
「……がらんと、してるね」
「そうねー。悪いわねー、紅茶の缶とか沙耶自身に片付けてもらった方がいいと思って」
「ううん」
首を横に振る。
「最後に、見ておきたかったから」
賢治のことがあってから数日、あっという間に事務所の明渡しの日がやってきた。今、事務所に残っているのは、沙耶の私物である紅茶用品だけだ。
「……円姉」
「んー」
かちゃかちゃと紅茶の缶を箱にしまいながら声をかける。
「ごめんなさい」
「何が? あんたに謝られるようなこと、結構あるんだけど?」
おどけたような言葉に、
「事務所のこと。せっかく、ここまでやってきたのに、あたしのせいで終わりになって……」
「ああ。まあ、あれは私達も悪いし、本当に元々試験的な機関だったし、丁度いいのよ。いずれ、一海に戻らなきゃいけないことは確定していたし。清澄もいつまでもここにおいておくわけにはいかなかったし」
「……清は、会計の事務所だっけ? 新しい職場」
「そう、直の友人のねー。いい人よ、あの人。直の昔からの友人で、こっちの世界にそれなりに理解もあって、でも適度に距離を保っていて」
だから、清澄のことは心配いらないんじゃない? と明るい声で言われる。気に病んでいたのは、気づかれていた。
振り回してしまった。本当はこっちの世界にくるはずもない普通の人間を、こんな変な仕事をさせてしまって、まきこんで、挙げ句こちらの都合で放り出して。でも、それでも今後、普通の世界でうまくやってくれるのならば、少しは安心出来る。
振り回してしまったのは清澄だけじゃない。榊原龍一。彼も、十分に振り回している。賢治のことがあってから、連絡をとっていないけれども、彼もさぞかし迷惑していることだろう。
最後にあったときの、一瞬歪められた顔を思い出す。沙耶自身は前向きに言ったつもりの言葉に、彼は痛そうな顔をした。
あの顔の意味は、あれから考えて考えて、もしかしたらという答えを自分ではだした。でも、それは、そうであったらいいという自分の願望以外の何者でもない答えだった。
「沙耶、私ねー」
「ん?」
思考が中断される。
「ふられたのー」
「またぁ!?」
思いがけない言葉に、思わず大きな声がでた。給湯室を離れて、円が座っている方に顔を出す。ふられたって何回目だ。
「価値観が合わないって。ばかみたいよねー。価値観とか考え方とか合うわけないのに」
あっけらかんと言われた言葉に、小さく眉をひそめる。考えていること、ばれてた?
「合わないことばっかりよ。私はさ、小さい頃から幽霊とかがいる生活は当たり前だったわけ」
「うん」
それを生業にしている家の跡取りなのだ。当たり前に決まっている。
「だから、わからないの。幽霊を怖いと思う人の気持ちも、突然幽霊が見えるようになった人の気持ちも。想像はできるけれども、それは理解ではない。だからね、沙耶が最初にうちにきたときもどうしようかと思ったのよ」
「……うん」
「でも、いまこうして普通に話しているじゃない?」
沙耶の方に視線を向けて、優しく微笑む。姉としての笑みを向ける。
「だから、価値観とか合わないのが当たり前で、大事なのはそれを知った上で自分がどうしたいか、だと思うわけ。価値観や考え方や、住む世界が違っていても、それでも一緒にいたいと思ったのならば、そんなものたいした問題じゃない、というか後天的にどうにか出来ることじゃない?」
でしょう? と首を傾げられる。
握ったままにしていた紅茶の丸い缶を両手で包み込む様にして持ち、なんとなくそれを見つめる。
「……この前、直兄に怒られたでしょ?」
「うん」
「あれ、驚いたの。あたし、直兄に怒られた記憶とか……なくて」
「そうねー、私も初めてみたー」
いつも怒るのは私だったものね、と円が呟く。
「あれで、反省したの」
「反省?」
「あたし、甘えていたなって。円姉にも直兄にも賢にも清澄にも、龍一君にも。あたしは化け物だってずっと思ってたし、だからあたしに関わらない方がいいって思ってたし、だけどそれって甘えなんだなって。自分で変わろうとしないで、化け物だからしょうがないって見限っていた。あたし自身を」
賢治にも言われたし、という言葉は飲み込んだ。それは自分への大切な言葉だから、例え円相手であっても言わない。
それから、円と直純の会話を聞いてしまったことも内緒だ。言えば絶対に、この実はとっても心優しい姉は気に病む。
「甘えていた。仕方ないって最初から望まなければ、何も手に入らなくても悔いることはないから。うらやむこともないから」
ゼロはどんなに何かをかけてもゼロだ。
「学校も小学校はまだしも、中高ってイマイチ居心地が悪かったのは、あたし自身のせいなのかなって。だって、円姉も直兄も、普通に学校通ってたでしょう?」
「まあ、そうねー」
「条件は一緒なのに、って思ったの。あたしに、龍のこと、があるにしても。円姉達は普通に、見えるのに学校に行っていたのに。あれは、あたしが勝手に見えるからって、化け物だからって、卑屈になって他人を寄せ付けないようにしてただけじゃないかって」
「……そうね。あのころのあんたは、今よりももっと、とっつきにくい子だったね」
懐かしむみたいに円が目を細める。
「それで、あたし、龍が憑いていて化け物かもしれないけど。それでも、あたしは……」
顔をあげ、円と視線を合わせる。
「あたしはやっぱり、いま、龍一君のことを大切にしたい、と思っている。あんなこと言ってしまって、散々傷つけて、もう、叶わないかもしれないけれども、それでも」
沙耶の言葉に、円は少しだけ目を見開き、
「それじゃあ、沙耶……」
言いかけた円に首を横にふって見せる。言葉を遮る。
「でもね。やっぱり何か足りない……」
小さく息を吐く。
あれから色々考えて、考えて、龍一のことが大切だというのは再確認したし、あの時彼が眉をひそめたの“一人で”生きていけると言った自分の言葉にだったらいいな、とは思っている。
そこまで思っていても、それでも、
「まだ、想いを彼に告げることはできない」
どんなに自分で自分のことを普通だと思っても、化け物のことに変わりはない。いつか彼を傷つけることに変わりはない。これ以上、さらに。そこまでするほど、この想いに価値があるとは思えない。
「普通に生きていこうとは思うけれども、普通って何かがわからない」
結局、あたしは変われていない。
ごめんなさい、と誰にともなく小さく謝った。
その日、龍一は、朝から図書館で数学の問題集を睨んでいた。
あれから、堂本賢治の一件から一カ月ほど経った。調律事務所はなくなり、あのビルの前を通ってももう看板は出ていなかった。あれから、沙耶とは連絡をとっていない。
それを寂しいとも思ったが、だからといって彼にはどうにもできなかった。
出来るのはただ、学校が休みの今日もこうして図書館で勉強することだけ。
正直、自分がなんで医学部を目指しているのかわからなくなりつつあった。沙耶の役に立ちたいという気持ちは、沙耶に拒否されてしまえばそれまでだ。それでもやっぱり、例えこの気持ちが報われることがなくても、彼女の役に立ちたいという気持ちは揺らがなかった。
それから、もしかしたら、こうして医者を目指すことでかろうじて沙耶と繋がっている気持ちでいたいのかもしれない。事務所がなくなって、連絡もとりにくい今、医者になって沙耶の龍を医学面からどうにかするというのが、沙耶へ近づける唯一の理由だ。
心のどこかでそう思いながらも、今更やめることなんてできなかった。やめる気もなかった。
「居たっ!」
小さくあげられた声に、顔をあげる。
「ここにいると思った」
珍しく慌てた様子で、駆け寄って来た巽翔に、
「どうした?」
小声で尋ねる。図書館で走るなんて真似をするなんて、いつも冷静沈着な彼らしくない。
「榊原、今日の新聞見たか!?」
小さい声で、それでも怒鳴るようにして言う。
「え、いや?」
龍一は首を傾げた。
翔は息を整えながら、
「大道寺修介が亡くなった」
「大道寺……?」
龍一は一瞬眉をひそめ、
「大道寺グループの!?」
叫んだ。
周りの視線が一瞬こちらに集まり、龍一は慌てて頭を下げた。
「ってことは、沙耶の……?」
「ああ」
翔が龍一の隣に腰を下ろす。
「沙耶さん、大丈夫かな?」
翔が呟いた。
父親が死んだ。
一海の宗主にそう告げられても、沙耶には実感が湧かなかった。そもそも、その人物を父親だと認識したことが、あまりなかった。
十数年前のあの日、自分のことを化け物だと罵った、その時、自分の中で一度何かが壊れた。それまでは、忙しくてあまりかまってくれなかった父親のことを、それでも尊敬していた。好きだった。
でも、そんな感情今はない。
楽しかった思い出も、よかった思い出も、何も残っていなかった。本当は息子が良かったのだろう、と子供心に思った事も一度や二度じゃなかった。
もしかしたら、楽しかった思い出も、良かった思い出も、優しくしてもらった思い出も、全部自分が忘れてしまっただけかもしれない。でも、それでもいいと思えた。それぐらいの気持ちしかなかった。
「そうですか」
自分でも冷淡だと思えるほど、あっさりとそう言った。
「母親が、会いにきているが……」
どうする? と宗主が目で訴えかけてくる。
後ろを振り返る。心配そうな顔でこちらを見てくる姉と兄がいた。
もう一度宗主を見る。
「会います」
例え何を言われても、今ならば自分の居場所がここにあることを知っているから平気だった。普通に生きて行くためにも、逃げるわけにはいかなかった。
一声かけて、ゆっくりと襖をあける。
正座していた中年女性が弾かれた様に顔をあげた。
「お久しぶりです」
声をかける。冷たい声だと、我ながら思った。
「……ごめんなさい」
母は小さい声でそう言った。
正面には座らない。少し離れた、襖に近い場所に座りながら、
「お葬式、あたしは出ない方がいいですよね?」
久しぶりに言う言葉がそれか、と自分でも笑えた。
「……ごめんなさいね」
「大道寺はどなたが継ぐんですか?」
「副社長の、息子さんが」
「ああ、養子にする、とおっしゃっていましたものね」
ごめんなさいね、と母が言う。
この人はこんなに小さかったろうか、と思う。背が高い方ではなかったが、もっと大きくて、包容力のある人だと思っていた。
ごめんなさい、と母はまた言う。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
母が首を傾げる。
「あの人は、あたしのこと、やっぱり嫌いだったんですか? その、龍の事がわかる、ずっとずっと前から」
それはずっと思っていたことだった。そして、出来るならいつか確認したいことだった。
「そんなこと!」
「やっぱり息子の方がよかった?」
「なんで、そんなこと」
母が唇を震わせる。
「じゃなかったら、三月八日生まれだから沙耶、なんて安直な名前、つけませんよね?」
産まれた瞬間から、投げられていた。諦められていた。ずっと思っていた。それならそれで構わない。それならそれで、この人たちを本当に切り離せる。
切り離して、新しく前に進める。すがらないですむ。
「違うっ! あの人は、誕生日を覚えてもらえるように、と」
片手を畳につき、母は沙耶の方に身を乗り出す。
「あの人は、自分が三月の末の生まれで、あまり友人に誕生日を祝ってもらえなかったから。春休みに入って忘れられることが多かったからって。だから、自分の子どもの名前は、誕生日に絡んだ名前にしようって」
「え?」
「だから、三月八日生まれで沙耶って。わたしは、語呂合わせみたいだって言ったけれども、あの人は誰にでも誕生日を祝ってもらえることが、名前を呼ぶたびに生まれて来たことを祝福される方が、この子にとって幸せだって言って!」
言葉が出ない。
生まれたときから諦められていたから、適当につけられたんじゃないの?
「だから! 確かに、確かにわたしたちはあなたに酷いことをした。だけど、そんなことだけは言わないで。あの人は、あなたが生まれた時、それはそれは喜んだのよ?」
本当だろうか。何も、覚えていないけれども。幼い時のことだから、当たり前だとしても。
身を乗り出し、早口でしゃべっていた母は、何かに気づいたかのようにはっと身を引いた。
「ごめんなさい。喋り過ぎました」
そしてまた、母は小さく縮こまる。
今の話は本当なのだろうか?
その後、宗主と母が極めて事務的な会話を終え、沙耶と母が直接喋ることはなかった。
帰宅する母を、一応玄関で見送る。
「それじゃあ」
母が靴を履いて、頭を下げる。
「二度と、お会いすることはないんでしょうね」
沙耶が呟くと、彼女はまた、ごめんなさいね、と言った。
小さく息を吐く。
「お母さん」
十数年ぶりに口に出した言葉に、母がはじかれたように顔を上げる。出来るだけ冷たく見えるように気をつけながら、
「産んでくれて、ありがとうございました」
それだけ言うと、頭を下げた。
小さく、息を飲む音がした。
「もう二度と、会う事はないだろうけど、それだけは言っておきたくて」
床を見たまま早口で言い切る。
「育ててあげられなくて、ごめんなさいね」
最後の瞬間まで母は謝り、そして扉が閉まる。
沙耶は、その瞬間まで顔をあげなかった。
ぴしゃり、
ドアのしまる音がして、十秒後、
「なんなのよ」
つぶやきながらしゃがみ込んだ。
突き放す覚悟を決めていた。救いなど必要なかった。
泣きそうになる。
「あたし、愛されていたんだ」
例え、ひとときであっても、産まれた時は喜ばれていたのだ。
覚えていない事を、残念に思えた。覚えてさえいれば、何か一つでも幸せなことが思い出せれば、もっと、上手く生きていけたかもしれなかった。普通に生きていけたかもしれなかった。
「それならそうと、はやく言ってよ」
誰にともなくつぶやき、しばらくその場所にしゃがみ続けた。
「沙耶ならきっと、大丈夫だよ」
龍一は小さく笑うと、もう一度問題集に視線を戻した。
「沙耶は一人でも生きて行く、とあの時言っていた。だから、大丈夫だよ。もし、だめでも」
そうして翔の方を見ると、笑いかける。
「沙耶には円さんも直純さんもいるから大丈夫だろう」
そうしてもう何も言わずに問題に集中し始めた。
翔は黙って、一瞬泣きそうな顔をした親友の顔を見つめた。
「榊原も、いるだろ?」
小さな小さな声で、呟かれたその言葉を、龍一は聞こえないふりをした。
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