第三章 永訣の夜
「沙耶」
首に回した手は離したものの、両手は握ったまま離せなかった。そんな沙耶に、賢治が声をかける。
「俺のこと、もう、気にしなくてもいいんだよ」
「え?」
首を傾げる。不安が胸をよぎる。
彼は、何を、言い出す気だろう。
「大丈夫。ちゃんと自分のことは自分でけりをつけるから。ただ、言いたいことがあってここに来ただけだから」
「賢、何を……」
「思い出したから、俺は」
「賢!」
それ以上、言わないで。
遮る様に出した大きな声を彼は無視し、
「もう、死んでるんだよね」
少し悲しそうに微笑んだ。
「っ」
言わないで、欲しかったのに。
握った手に力を込める。大丈夫、まだ触れていられる。消えていない。
「ごめんね、今さらこんな風に現れたら、沙耶に心配かけるだけだよね」
「違う、違う。そんなことは」
この手を離さなければ、まだ。
「沙耶のことだから、自分のせいで俺がまだ成仏出来てないとか、思ったんじゃない?」
「それは……」
図星だった。
「だって、あたし、お葬式も行ってないから……」
幽霊がここに留まっていることが、良いことではないことぐらい、わかっている。大事な人だからこそ、もっとはやくにちゃんと見送ってあげるべきだったのだ。そうしたら、彼はこんな、何年もここに留まっていなくて済んだのに。
それが、仕事のはずなのに。
「あたしが、ちゃんとしていれば……」
「わかってるから、大丈夫」
「大丈夫じゃないっ」
「留まっているんじゃない。遣り残したこと、思い出したから、戻って来ただけ。もう、すぐ、またいくよ」
「だめっ」
行かないで。
「もう、あたしを捨てないで。置いて行かないで」
すがりつく。
「駄目だよ。沙耶を連れて行ったら、円さん達に怒られちゃう」
「でもっ」
「ごめんね。話、聞いてくれる?」
首を横に振る。何度も、何度も。
話を聞かなければ、まだ、彼はここにいてくれるはずだ。
賢治は困った様に笑い、
「ごめんね」
それを気にすることなく、話始めた。
「あのさ、俺、なんで見えないんだろうって悩んだりもしたけど、今なら思えるよ、見えなくてよかった。普通のカップルになれたもん。短い間だったけど、楽しかった」
首を横に振る。何度も、何度も。そうすれば聞かなくてすむ。こんな、終わりみたいな言葉。
「ずっとさ、思ってたんだ。沙耶は見えることに、疎まれることに慣れ過ぎだよ。そうやって慣れないで、沙耶から距離を置かなければきっと、もっと味方はいるはずだよ? 例えば、七組の井上って知ってる? あいつ、オカルト好きでさ、本当は一度沙耶と話してみたかったんだって。沙耶はそういう興味本位嫌いかもしれないけど」
「味方なんて……。円姉と直兄と、清と、……それから賢がいてくれればいいのっ」
「さっきの、男の子は?」
呆れた様に言われて、言葉につまる。
「恋人じゃないけど、大切な人なんでしょ?」
「なんで……」
「違うの?」
「……違わないけれども」
「じゃあ、大切にしなきゃ。いなくなってから悔いても、仕方ないよ」
ね? と子どもに言い聞かせるように。
「だって、だって、あたし、忘れてしまったんだもん、龍一君のことっ」
「しかたないよ」
あっさりと言われた言葉に、思わず彼を睨みつける。
「しかたないって、何っ」
「誰だって、いつかは忘れるんだよ。俺だって、いろんな事忘れてきたんだから。俺の忘物率の高さとか、約束すっぽかし具合とか知ってるでしょ?」
「だって、それとこれとは」
「違わないよ。同じことだ」
賢治はゆっくりと、柔らかく微笑んだ。
「同じことだよ」
じわり、と視界が滲む。今、自分は酷い顔をしている。
「ああ、もう、だから、そんなに泣かないで」
焦ったような声に、さらに涙があふれてくる。
「沙耶……」
ぐいっと腕を引かれ、抱きしめられる。
「泣かないで」
耳元で言われ、さらに泣きそうになる。
スーツの胸元に額を押し付ける。こんなにも確かにここに存在しているのに、存在していないなんて。そんなこと、認められない。
何度も、何度も、頭を撫でられ、その度にまた涙があふれてくる。
「沙耶」
そっと肩を押され、彼から少し離れる。慌ててもう一度手を握る。きつく。
「これだけは忘れないで欲しい」
真面目な顔で、それでも微笑みながら彼は言った。
「これからはもっと自分を特別視しないで、普通だって顔して生きてよ」
言われて、目の前に夕焼けの空が浮かんだ。
あの日、別れのあの日、窓からみた風景。夕焼け空で、そこにまっすぐ伸びる飛行機雲が見えた、あの日。
思い出した。
教室から立ち去ろうとした賢治が、ドアを閉める前に呟いた言葉。
「沙耶」
もう二度と、思い出せないと思っていた言葉。
「もっと普通に生きても、いいと思うよ」
ああ、あの記憶は喰われたわけじゃなかったんだ。ただただ、忘れていただけなんだ。
ずっとずっと、喰われた記憶だと思っていた。
「……思い出した」
小さく呟くと、賢治は
「うん」
微笑む。
「忘れてた、だけだった……」
「だから言ったじゃん、普通だよって」
頭を撫でられる。
駄目だ、涙が止まらない。
「沙耶が普通だって思っていれば、それで平気だから。沙耶から突き放しさえしなければ、もっと受け入れてくれる人がいるはずだよ」
頷く。
どうしてこんな大事なこと、忘れていたのだろう。
「それだけ、言いたかったんだ。だから、ここに戻って来た。大丈夫だよね? 自分からもう、捨てたりしないでね」
「待ってっ」
慌てて腕を掴む。
賢治は駄々っ子を見るような顔をして、
「駄目だよ、もう戻らなきゃ。沙耶だって、わかっているでしょう?」
「分からない。分からない!」
他にどんなに味方がいても、うけいれてくれる人がいても、貴方がいなくちゃだめなのだ。堂本賢治の代わりなんて、いるわけがない。
「大事にしてあげて。さっきの男の子。ね?」
「だけどっ」
「沙耶、そんな顔したら連れて行きたくなるじゃん」
「だったら連れてって」
「沙耶!」
一瞬怒ったような顔をして、
「後悔するよ、そんなこと言ったら、すぐに」
呆れた様に笑う。
「一時の感情で、本当に大事なもの、見失わないで。沙耶はまだ、こっちにきたら駄目」
「あたしは、半分はそっちの人間だもの」
「またそういうこと言う……。普通に生きろって言ったじゃん」
はぁ、とわざとらしく賢治はため息をつく。
「まあ、すぐに前向きになる沙耶も怖いんだけどさ。半分も何も、沙耶は生きてるんだから諦めたら駄目だってば」
さてっと、と賢治は立ち上がる。
握った手が離れない様に力を込めて
「あ……」
力を込めたはずのその手は、宙を切った。
「ごめんね。あんまり長居して悪霊とかになっても困るでしょ?」
おどけて笑う。
「いやっ、駄目っ」
手を伸ばす。
その手は、賢治の体をすり抜けた。
「ごめん。急に現れて、急に消えて。本当に、ごめんね」
消えかかっている体を、どうにかして引き止めようと手を伸ばす。
「だけど、本当に、もっと普通に生きてね?」
消えかかっている指で、沙耶の頬を拭う。感触のない掌に、さらに涙があふれる。
「いかないで……」
「また、そのうち。すぐじゃないよ。そのうち、会おうね」
賢治は微笑み、唇が触れた、ような気がした。
何も、残らなかった唇を押さえる。
「ばいばい」
小さく右手を振って、いつも帰り際別れるときのように微笑んで、
「まっ……」
堂本賢治は消えた。
階段をかけあがる。
ぱたぱたと、肩にかけた鞄が動くのを邪魔だと龍一は思った。
四階まで一気にのぼり、肩で息をする。
円が合鍵でドアをあけた。
「沙耶っ」
怒鳴る様にして円が沙耶の部屋にあがりこむのに、慌ててついて行く。
部屋の中から大きな物音がして、少なくとも沙耶がこの部屋にいることに安堵した。
「おいていかれた!」
もっとも、安堵したのは一瞬だった。
沙耶が叫ぶ。彼女が投げつけた本が電気スタンドをなぎ倒した。あたりに散乱している服や本に、龍一は既視感を覚えた。
「連れて行ってくれなかった! おいていかれた!」
頬をぬらして彼女が叫ぶ。
「沙耶!」
円が服を踏みつけながら近づくと、その手をつかんだ。
「どうして一人でいってしまうの?」
彼女が放り投げた本が龍一の足下にとんできた。ゆっくりと視線をうつす。
「あたしに一緒にいけって、そう頼んでよ! そういってくれさえすれば、あたしは!」
「沙耶!」
斬りつけるように円が叫ぶ。
その手を振り払うように両手を振り回す。
「っ!」
小さく円が叫ぶ。何かを引っ掻いた感触に沙耶の手がとまる。
「あ……」
小さく呟くと、ゆっくりと両手をおろした。
「ごめんなさい、あたし……」
「大丈夫」
少し血がにじみだした頬を、片手でぞんざいに触れると円は笑った。
「大丈夫」
ゆっくりとしゃがみこんだ沙耶の頭を抱く。沙耶は円にしがみつくように腕を伸ばした。
「おいていかれた」
「うん」
「また捨てられた」
「うん」
「連れて行って、欲しかったのに」
小さく小さく呟かれた言葉に、円は一つずつ丁寧に頷く。
龍一は、ただただ黙ってそれを見ていた。荒れ放題の部屋の中、枕元に置かれた熊のぬいぐるみがじっと彼を見ていた。その首に巻かれた、見覚えのあるドッグタグに、そこだけがまるで聖域のように守られている理由が合致して、天井を見上げて泣きそうになるのを、堪えた。
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