第二章 かつての恋人へのささやかな贈り物
『もっしもーし』
受話器の向こうで明るい声がする。
「賢、今、平気?」
『うん、電話、ありがとー』
電話越しに、笑顔が見える。
夕飯を食べて円達と別れた後、思い切ってかけた電話。こちらはどういう対応をしたらいいか悩んでかけたにも関わらず、賢治は普通に笑ってでた。少し、拍子抜けするぐらいに。
『今日はびっくりした。あの辺り住んでるの? 今』
「うん」
『そっかそっかー。ね、明日の夜時間ある? ご飯でもいかない?』
「うん」
『よかったー、断られたらどうしようかと思った』
約束を確定し、それじゃあ、また明日ね、と電話を切った。
涙がこみあげてきて慌ててきつく目を閉じた。なんで泣きそうなのか、自分でもよくわからない。
本当はわかっている。でも、わからない。
昨日から引き続き、重い気分を抱えたまま、龍一は帰りの電車に乗っていた。
昨日の雅の言葉が耳から離れない。だけれども、どうしたらいいかわからない。
付き合ってもいないのに、わざわざ沙耶に連絡するのも気が引ける。堂本賢治とよりを戻したのか、なんて。大体、面と向かって肯定されたら、自分はどうしたらいいのだろうか。
ため息。
友人の巽翔にも、学校の幽霊ちぃちゃんにも、様子が変だ、どうした? と心配されたけれども、笑ってごまかした。どうやって相談すればいいのかわからない。
もう一度ため息をついたところで、地元の駅につく。
重い足を引きずる様にして改札をでたところで
「……沙耶?」
見慣れた姿をみかけ、思わず声をかける。
「龍一君。今、帰り?」
声をかけられた沙耶が、ゆっくり微笑む。君付けの呼び方は未だに慣れなくて、少し眉をひそめた。
「うん。沙耶は?」
「ちょっと、人と待ち合わせ」
少しはにかんだように笑う。その姿に、待ち合わせ相手が誰だかわかったような気がした。
声はかけたものの、どうしようかと思いながら口を開き、
「そっか。あのさ……ええっと、ご飯、ちゃんと食べてる?」
また少し、やつれたような気がしてそう聞いてみる。
「ええ、まあ」
「母さんが心配してた。一人のご飯は淋しいし、またいつもで遊びに来て頂戴ねーって」
おせっかいだよなーと、龍一は笑う。
沙耶が強張った顔をした。それで悟る。覚えていないのだ。
「……ごめん」
「……ごめんなさい」
沙耶は顔を伏せる。
謝らせたいわけじゃないのに。
「あの、それで、それはいいんだけど、聞きたいことがあって」
「えっと、なあに?」
顔をあげて、取り繕うように、沙耶が笑う。
「あ、いや、そのたいしたことじゃないんだけど。雅……姉が、見かけたって」
「見かけた?」
「その、沙耶が」
「おまたせー」
龍一の言葉を、声が遮った。沙耶の目が見開かれる。
嫌な予感。ゆっくりと振り返る。
見たことのある男性が、片手を振る。
「賢……」
「あれ、お取り込み中?」
「え、ええ」
「じゃあ、ちょっと待ってるねー」
男性は微笑み、少し離れた柱にもたれかかる。
「ごめんなさい、龍一君」
微笑む。
龍一君、の呼び方が癇に障る。
「堂本賢治、本物の?」
「……ええ」
小さく頷く。
もう一度ちらりと視線を後ろに向ける。
春に見た化け物を同じような柔らかそうな茶色い髪。明るい笑顔。でも、あの化け物はもっと幼く、そして自分と同じ学生服を着ていた。
あそこでケータイを片手に柱に寄りかかっているのは、もっと大人びた、スーツ姿の男性だ。
「あの、それで聞きたいこと、って?」
おずおずと沙耶が尋ねる。
「いい。大体解決した」
自分の声色が酷く冷たいものに感じられた。でも、言葉が止まらない。
「え?」
「雅が言ってた。見かけたって、二人がいるのを。より戻したの?」
「そんなんじゃ……。たまたま昨日、会って。声、かけられて」
「たまたま昨日?」
「本当に」
「たまたま昨日、声かけられてわかったんだ。堂本賢治だって」
皮肉っぽく口元が歪む。
「俺の事は覚えてなかったのに、あの人のことは覚えてるんだ」
言った瞬間、自分で自分の顔が強張るのが分かった。今、取り返しのつかないことを言った気がする。
沙耶に目があわせられない。
「それは……、ごめんなさい」
小さく囁く様な声。
「……ごめん」
床を見つめ、呟く。
「あの、龍一君……」
その呼び方に、居たたまれなくて、逃げ出した。反射的に振り返り、来た道を戻る。堂本賢治の横をすり抜けて、再び改札の中へ滑り込む。
沙耶は追いかけて来ない。声すらも。
最低だ。
言ってはいけないことなのに。
でも、覚えていたんだ。
俺のことは忘れていたのに。堂本賢治のことは。
ホームにいた電車に、行く先も確認せず飛び乗る。
駆け込み乗車を注意するアナウンスを聞きながら、立っていられなくてそのまま床に座り込んだ。膝に顔を埋める。
あのスーツ姿の大人の男性に、高校生の自分が勝てる訳がない。彼女に忘れられた自分が勝てる訳がない。彼女はなにも悪くないのに、傷つけた自分が勝てる訳がない。
周りの視線を痛い程感じながら、それでも立てなかった。
泣いている顔をあげることは出来なかった。
遠ざかる、足音。
本当は、呼び止めてなにか言うべきだったのはわかった。それでも、沙耶は動けなかった。
事実だったからだ。龍一のことは忘れて傷つけたのに、賢治のことは覚えていた。
「……いいの?」
賢治が近づいて来て、顔を覗き込む様に尋ねる。
「うん、ごめん、待たせて」
「それは、いいけど」
言いながら、なんだか呆れたように笑う。賢治の昔と同じ笑顔に安心する。そして、それを覚えていたことに、やはり安堵した。
同時に、ちくりと胸を痛みが走る。龍一に対する罪悪感。
彼のことは忘れ、賢治のことは覚えていた。彼を放置して、賢治に会っている。酷いことをしている自覚はあった。
「何食べるー? ってか、まだ早いかー」
時計を見ながら言う賢治の顔を見つめる。なんにも変わっていない。少し、大人っぽくはなったけれども。
「何? 照れるじゃん」
「スーツ、似合うね」
「そりゃー、大人ですからー。もう高校生じゃないしー」
けらけらと賢治は笑った。
喉の奥がぎゅっとしまって苦しくなる。
「沙耶?」
「ううん、なんでもない」
泣きそうになる。喉の奥の、涙の固まりを飲み込む様に深く息を吐く。
ぽんぽん、っと頭を軽く叩かれた。
「なんでもなくはないでしょー」
「なんでもないの」
見上げると、賢治は困ったような顔をして笑っていた。
「変わらないなー」
「お互い様」
小さく笑う。どうやって話したらいいか悩んでいたのに、以前と変わらず話せたことが嬉しい。
嬉しい、と思ってしまった。
「とりあえずどっか行こうかー」
歩き出そうとした賢治に、
「ね、うちに来ない?」
思わず、そう言った。
「おー、このクッションまだ持ってたんだー」
沙耶のお気に入りの大きめなクッションに賢治がダイブする。
「これこれ、この感触が好きなんだよなー」
そうだったっけ? と思う。覚えていない。
「でさ、いいの?」
「何が?」
「さっきの彼。沙耶の今の彼氏じゃないの?」
賢治が微笑んで首をかしげる。
「……そんなんじゃないよ」
そ、と賢治が小さく言った。
「でも、もう後悔しないようにね」
「……うん」
含みを持たせた言い方に、素直に頷く。後悔は何度もしてきた。
「賢」
「うん?」
隣に座り、その右手に抱きつく様にしがみつく。
「お願い、もうひとりにしないで」
「沙耶?」
賢治が首を傾げる。
その首筋に腕をまわす。抱きつく。
「沙耶っ」
慌てたような彼の声を聞きながら、ぐっと腕に力を込めた。堂本賢治がどこかにいかないように。
宙をさまよっていた賢治の手が背中に回されるのを感じながら、きつく目を閉じた。
後悔なら、今、している。
堂本賢治が大道寺沙耶の存在を認識したのは、高校一年の六月頃だった。
「あ、あれ巫女姫様じゃん?」
三限目の自習時間。そうそうにプリントを解くことを放棄した賢治たちは、自習監督が居ないのをいいことに無駄話に花を咲かせていた。
友人の一人が校庭を見ながら言う。校庭では、どこかのクラスが体育の授業中だった。ジャージの色で同じ学年だとわかる。
「巫女姫様?」
聞き覚えの無い固有名詞に問い掛ける。
「あれ、知らん? 1組の大道寺沙耶。なんかいろいろ変な噂があってさ」
「そうそう。ええっと、実はあの大道寺財閥の令嬢だとか」
「化け物が憑いていて勘当されたとかっていうのもあるよな?」
「幽霊が見えるとか」
のりのりで言い合う三人を見つめながら、一言、呟く。
「……嘘くさ」
途端に目の前の三人は白けた顔をした。
「……賢治、おまえのりが悪いぞ」
「別に普通だろ。で、なんで巫女姫様なんだよ」
「巫女っぽいだろ、姫っぽいだろうが。噂が」
「……あー、はいはい。で、どれ」
くだらないとは思いつつも、そんなに知れ渡っている人の顔がわからないのも悔しい。開いている窓から身を乗り出すようにして外を見る。
「ほれ、あの髪の長いの」
「こっからじゃ見えないけど、可愛いんだぜ、なぁ」
「ああ、顔は」
「……うん、顔は。愛想はないんだよなぁ。だから巫女姫様なんだが」
「ふーん」
髪が長いことしか認識できなかったが、その髪の長さが
「まぁ、確かに巫女っぽいわな」
賢治にそういう感想を抱かせた。
実際に顔を確認したのは、それから二週間ぐらい後のことだった。
沙耶のいる1組と、賢治の8組とでは教室の階がそもそも違う。合同授業があるわけでもない。
その間にも沙耶に関する噂はそれなりに賢治の耳に入ってきていた。曰く、彼女が何も無い空間と話しているのをみた。曰く、彼女は今、謎の美女と二人暮しらしい。曰く、その美女の実家は名のある名家だ。などなど。よくもまぁ、そこまでまことしやかに流れていると思ったものだ。
体が弱いとかで学校を休みがち。それと噂のせいも、あって、クラスにはなじめていないらしい。そんな噂なんて気にしないでつきあってやれよ、とその時は思っていた。
五階から見下ろした状態ではなく、ちゃんと顔が見える場所で会うまで。
賢治が沙耶の顔を確認する機会を得たのは、図書室だった。
勿論というかなんというか、賢治はレポートを書く資料を探すためだけに図書室に来ていた。
全クラス、ほぼいっせいに課されたレポートだから、遅れた賢治に残されていた資料は何も無かった。そのまま帰るのも癪なので、適当に雑誌でも読もうかとあたりをみまわしていると、沙耶は入ってきた。
たった一度、遠くから見ただけなのに沙耶と認識できたのは、あの長い黒髪もあったけれども、それよりもなによりも、存在感とかオーラとか、そういうものだった。
沙耶が入ってきた瞬間、一瞬、空気が凍った。そう思った。
沙耶は部屋の中を気にかけることなく、カウンターに向かい、本の返却手続きをしていた。司書の先生と談笑してはいるものの、なんていったらいいか、彼女はどこか近寄りがたい雰囲気だった。
一人で借りる本を選びはじめたとき、特にそれが顕著になった。まるで睨むようにして本棚の上で視線を動かす。どこか怒っているかのように感じさせる空気を持っていた。
確かにこれでは、彼女を疎ましく思うクラスの連中の気持ちもわかる。彼女から近づけないようにしているのでは、近づこうとも思えない。
なんだか居づらくなって、結局逃げるようにして図書室をでた。
階段を下りながら思う。
でも確かに、噂どおり顔はとても可愛かった、と。
でもすぐに、頭はレポートをどうするかに切り替わった。
その後、彼女とは廊下ですれ違うことが二、三度あった。
そのときも近寄りがたい空気をだしていて、あいつらではないが顔は可愛いのに……とか思った。
決定的な出来事が起きたのは、最初に彼女の事を知ってから一ヵ月後ぐらいだった。
人もまばらになった放課後。部活が終わった後に、忘れていた荷物を教室にとりに行き、帰りに階段を下りていたときだ。
二階まで降りたところで、前を長い黒髪の女の子が歩いていた。
後ろ姿でも彼女だとわかった。
巫女姫様は、どこかふらついているように感じられて、少し目が離せなかった。あぶなっかしいなぁとは思いつつ、でも近づきたくは無くて少し距離を置いていた。
「あ」
小さい声が聞こえたかと思ったら、視界から黒髪が消えた。
どんっ、
何かが地面に落下する音に、事態を悟り、慌てて視線をうつす。視界から消えた黒髪は、階段の一番下にいた。ふらついているなとは思ったが、どうやら階段から落ちたらしい。
「うわっ、だいじょ……うわわっ!」
間抜けとしか言いようが無い。
駆け寄ろうと、慌てて階段を下りて、賢治自身も階段から落ちたからだ。しかも、巫女姫様はまだ滑り落ちたというか、可愛げのある落ち方だったが、賢治はもう思いっきり転がり落ちたという表現がぴったりだった。
思いっきり床に背中を打つ。下に居た巫女姫様にぶつからなかったのは幸いといえる。
「……え。……あの、大丈夫ですか?」
巫女姫様が恐る恐るといった様子で声をかけてきた。
「え、ああ……うん、大丈夫」
起き上がりながら片手を振る。本当は背中がとても痛かったけど。
「びっくりさせたよね、あははは、ごめん」
馬鹿みたいに笑ってその場を切り抜けようとする。
「……そうですか、よかった」
巫女姫様は、そう言った。そう言って、
笑った。
「……。あ、ええっと、みこ……大道寺さんは?」
見惚れていたことに気付き、慌てて声をかける。
慌てすぎていた。巫女姫様と呼びそうになったことは、大失態だった。
彼女はすぐにその笑顔を引っ込めて、いつもの無表情に戻った。
「大丈夫です」
そういって鞄を拾い、立ち上がってスカートのひだをなおすと、
「それじゃぁ、お騒がせしました」
そういって立ち去ろうとする。
「え、ちょっとまって。顔色悪いけど大丈夫?」
慌てて聞いても
「問題ありません」
彼女はこちらを見ることもなく答えた。
「でも」
「放っておいてください」
そこまで言って彼女は肩越しにこちらを一瞥した。
「あなたのためにも、あたしのためにも」
そう言って再び歩き出した。
今度は引き止めることが出来なかった。
最後の彼女の言葉にものすごく深い意味が込められていたこととか、流れていた噂が、なんとなく違うものの大体あっていたこととか、そういうことを堂本賢治が知るのはもっと後になる。
けれども、これが最初だった。
あのときの笑みに魅せられた。あんなに最初は仏頂面だったのに、最後に
「あんな風に笑うなんて反則だ」
階段の踊り場で、ぼけっと座りながら賢治は呟いた。
そこから堂本賢治の猛烈なアタックが始まった。
傷ついたことは一度や二度じゃない。それでも、どうしても、沙耶が笑っている顔がもう一度見たかった。
どう考えても沙耶が賢治の勢いに折れた形だったけれども、晴れて付き合える事になって本当に嬉しかった。
付き合う様になって、ちゃんと向き合ってみた彼女は、ただただ普通の優しい子だった。
彼女の生い立ちとか、龍のこととかも聞いたけれども、だからといって気持ちは揺らがなかった。沙耶が賢治に心を開いてくれているのが嬉しかった。
あの日までは。
あの日、清澄を庇おうとして沙耶の龍が暴れたらしい。そして、沙耶はデートの日の記憶を失った。
「じゃ、また行こうか」
泣きそうな顔をしている清澄と沙耶を前にして、けろっと賢治は言った。
でも、誰にも言っていないけれども、沙耶が記憶を失った日、賢治は初めて沙耶とキスをした。照れた様に笑う彼女の顔を覚えているのに、彼女は覚えていない。あんなに勇気を出したのに。
あのときはじめて、彼女が背負っているものの意味が分かった。見えなかったから理解できなかった。目に見える物以外はわからない。当事者になってみなければ、わからない。想像だけでは補えない。
記憶を失うという事は、そういうことなのだ。
あの日から、徐々に齟齬がでてきた気がする。
その後も数ヶ月間普通に付き合っていた。デートのやり直しも、ファーストキスのやり直しも、した。
でも、やり直しはやり直し、最初のそれとは意味が異なる。やり直しなんて、もう一度なんて、最初から出来るわけなかった。
やっぱり少しだけ彼女の存在が怖かった。
そして、相変わらず巫女姫様として皆に距離を置かれている彼女と、他のクラスメイト達の間に挟まれて生活することも苦しかった。普通の高校生活も、沙耶の彼氏としての立場も、どっちも大切だったけれども、両方持ったままの生活は宙ぶらりんだった。
敏感な彼女はどうしたらいいかわからない賢治の困惑を読み取り、少しずつ距離を置く様になっていった。
子どもだったのだ、と今なら思える。
仕方が無い、子どもだったのだ。受け入れられなかった。色々なことが。
亀裂はゆっくりとひろがっていき、やがて取り返しがつかなくなった。
あの日、夕日の綺麗な放課後の教室で、
「別れましょう」
微笑んで言ったのは彼女の方だった。
でも、別れを切り出したのは確かに彼女の方だったけれども、そうさせたのは賢治だ。賢治からは切り出せなかった。彼が離れると、本当に沙耶は巫女姫様として一人になってしまう。そう思って切り出せなかった。
それを察した彼女は、綺麗に微笑んで言った。
「その方がお互いのためにいいわ。ごめんなさいね」
謝るのはこちらの方なのに。
眉根を寄せる。どうしてこんなことになったのかわからなくて、泣きそうだった。
不用意に近づいたせいで、浅はかな子どもがかき乱したせいで、余計彼女を苦しめた。あのときはそう思っていた。
「賢……」
「……うん?」
「今まで、ありがとう」
「……こちらこそ」
「倖せに」
「沙耶も」
「ごめんなさい」
「俺の方こそ……」
「さよなら」
そういってもう一度沙耶は微笑む。
「ばいばい」
これ以上いられなくて、そう呟いて鞄を持つと、教室を出て行く。
「沙耶」
ドアから一歩外にでたところで振り返る。沙耶は頬杖をついていた。その背中に、どうしても伝えたかった言葉をかけた。
ああ、そうだ。
再会した沙耶の、なんだか泣き出しそうな沙耶の、髪を撫でながら思う。
思い出した。
彼女に言いたい事があったんだ。
だからここに来たんだ。
「沙耶」
名前を呼ぶと、彼女が少し体をはなし、顔を上げた。
「今でも好きだよ」
驚いたような顔をして、はにかんだ様に笑う。
懐かしいと思った。でも、以前とはやはり違う。
今でも好きだから、彼女に伝えなくちゃいけないことがある。
どうしたらいいかわからないまま、気がついたら龍一は調律事務所の前に立っていた。
事務所に灯がついているのを確認すると、ゆっくりと階段をあがる。相変わらず、きしんだ音を立てる階段に眉をひそめる。
もう、どれぐらいこの階段をのぼっていなかったのだろうか。階段を睨みつける。
「龍一君?」
上からふってきた声に顔をあげた。
「円さん……」
一海円が大きなゴミ袋片手に、事務所から出て来たところだった。
「どうしたの? 珍しいじゃない。……何かあった?」
「いえ……」
心配そうに言われた声に、慌てて顔を背ける。自分の目が赤くはれているであろうことは、鏡を見なくてもわかる。
「入って」
促されるままに中に入り、
「……どうしたんですか?」
中の光景に、思わず尋ねた。
部屋中に置いてあるダンボール。中身が入った物と、まだ組み立てる前のものと。円が片手にもったゴミ袋といい、これじゃあまるで、
「引っ越しみたい……」
「事務所、なくなるの」
「え?」
振り返る。円が珍しく困ったような顔で笑っていた。
「まあ、一海で同じことを今後も続けて行くだけなんだけれども。調律事務所自体はここでおしまい」
座ったら? と言われ、以前と同じようにおかれていた自分用の椅子に腰掛ける。
「無くなるって……」
「まあ、もともと試験的な組織だから。一応、この前の沙耶の龍が暴れたことの責任をとるってことで」
「そんな……」
「龍一君にも連絡しなきゃな、と思っていたんだけど、なかなかしにくくて。ごめんね」
首を横に振る。
なくなってしまうのか、と思った。
「まあ、今やってることをこの後、一海でやるだけだから」
円がいつものように微笑んで言う。
「だって私、次期宗主だし?」
おどけていうから、出来るだけ笑って返す。
そんなにここにずっといたわけじゃなかった。春休みに少しバイトして、たまに遊びに来て。それだけだった。特に何をしたわけでもないし、円達に比べたら自分がここが無くなることで傷つくような立場じゃないことはわかっていた。それでも、
「さみしいですね」
ここが無くなってしまったら、もう、円や清澄や直純や、それから沙耶とのつながりも本当に消えてしまう気がした。
もっとも、もうないも同然なのかもしれないけれども。
「……どうしたの?」
円が顔をのぞきこむようにして、尋ねてくる。ずっと黙っていたのが、耐え切られなくなったような口ぶりで。
「いえ……」
首を横に振る。
なんとなく来てしまったのはいいものの、円に相談していいことなのかもよくわからなかった。
「あれ、龍一? どーした?」
隣室、仮眠室として使われている部屋のドアが空き、清澄が顔を出す。
「声がするから何かと思ったら」
よいしょ、と抱えていたダンボールを床に置き、龍一の顔をまじまじと見て、
「……マジでどーした? 泣いた?」
ストレートに聞いてきた。
「うわ、あんたそれ直球……」
円がつっこみ、
「え、あれ、ごめん」
清澄が慌てて両手をあわせる。
それを見ていたら、もう一度涙がこみあげてきて、慌てて袖口で目元を拭う。
「コーヒー、飲む?」
清澄の言葉に小さく頷く。
「ん、待ってて」
こんなにいい人達なのに、この人達とのつながりも、もう切れてしまうのだろうか。こんなにいい場所なのに。思わず来てしまうような場所なのに、ここもなくなってしまったら、次から自分はどうしたらいいのだろうか。
「……どうしたの? 沙耶のこと?」
机に頬杖をつき、優しい声で円が言う。
頷く。
「喧嘩でもしたの?」
首を横に振る。
喧嘩なんて、そんないいものじゃない。ただ、一方的に傷つけた。沙耶は、何も悪くないのに。
「……俺、酷いこと言いました」
こみ上げて来た涙をぐっと堪える。
「酷いこと?」
「言ったらいけなかったのに」
どうして、あんなこと。
「俺の、ことは忘れたのに、あの人のことは覚えてるんだな、なんて……」
「……あの人?」
円が小さく眉をひそめて尋ねる。
「……堂本賢治」
「……それは」
珍しく、彼女が口ごもった。
「沙耶は何も悪くないのに。失う記憶を、沙耶が選んでいるわけじゃないのに。それは、わかっているのにっ」
言葉が半分嗚咽になる。
「でも、耐えられなかった。俺のことは龍一君って呼ぶのに、あの人のことは賢って呼ぶし。大体、そもそも、俺が、ただの高校生の俺が、スーツが似合う大人の男性に勝てるわけなくて」
自分でも何を言っているかわからなくなってきた。
「賢治君に会ったの?」
問われて、頷く。
「さっき、駅で……」
がしゃん、っと何かが割れる大きな音がして、顔をあげた。
「そんなはずないっ!」
清澄が足元で割れたコーヒーカップに目をやることもなく、大声をだす。
「ちょ、どうしたの、清?」
「そんなはずないんだ、だって堂本は」
顔色が真っ青だ。
「大学の時に死んだんだから」
空気が止まる。
「なによ、それ?」
円が小さく呟き、
「いや、そんな……。だって雅が、姉が見たって言ったんだから、そんなわけ……」
龍一は思わず笑ってしまった。そうだ、あの姉に霊感なんてないんだから、そんな話は聞かないんだから、もう生きていないなんてそんなこと。
「円姉、場合によっては人間と見間違うぐらいの霊だっているって、昔言ってたよな?」
真顔で問われて、円は一つ頷き、
「それはそうなんだけど。でもちょっとまってよ、私そんなこと聞いてないっ!」
声を荒げる。
「だって、沙耶、賢治君のことなんて一言も……。清澄、あんただって何も言ってなかったじゃない! この前の、春の時だって!」
「沙耶が言うなって言うから……」
「あーもう、言いなさいよ、そういうことはちゃんとっ!」
髪をかきむしり、鞄を掴む。椅子を蹴飛ばす様にして、立ち上がる。
「直に連絡しておいてっ!」
「どこに?」
「沙耶のとこに決まってるでしょっ!」
悲鳴のような言葉に、龍一もわれにかえる。
「円さん、俺も行きますっ!」
慌てて立ち上がるとその後を追う。
分からなかった。気づかなかった。どう見ても、普通の人間にしか見えなかったのに。
沙耶の言葉を思い出す。生きている人間を連れていきたがるものだと、だから気をつけろ、と何度か言われた。見えるだけの人間は引きずられやすいから、と。
もし、堂本賢治が沙耶を連れて行きたがっているとしたら?
そして今の沙耶ならば、ついていってしまうかもしれない。
転げ落ちそうになるのを必死に保ちながら階段を駆け下りる。
ただでさえ、最近落ち込んでいたのに、さっき自分がとどめをさした。傷つけた。唇を噛む。
「なんで気がつかないのよ、私の馬鹿」
円が小さく呟く。悲壮感漂う言葉。
彼女も思っているのだ。もしかしたら、沙耶は。
そんなこと、させるわけにはいかない。
たとえ、もうこれ以上傍にいられなくても、失う訳にはいかない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます