第一章 小さな町
世の中には優先順位というものがある。
受験生の彼には、それもいきなり理転した彼には、勉強が最優先だということは疑いようのない事実だった。
だから榊原龍一は、大道寺沙耶のことが気になりながらも問題集とにらめっこする日々を続けていた。
沙耶が記憶を失って、やり直しを誓ったあの時から、数ヶ月がたった。
最初の頃は、割と頻繁にメールしていた。以前はそんなにメールしなかったのに、なんとなく気になってメールしてしまった。まったくもって、今までどおりにできていない。
度重なるメールはもしかしたら重荷になっているかもしれない、と気づいたのは沙耶からの返信が少なくなったからだ。それ以来、基本的にメールは控えている。
そして、いずれにしても、現在の彼はそれどころではなかった。最後の文化祭も終わり、あとは試験へ、大学入試へ向けて邁進するのみだった。
最後に顔をみたのはいつだろう。ふっと、思った。
端的に言うと自宅謹慎というものだ。
自宅のベッドの上で、天井をただ見つめる日々は、もうどれぐらいになるだろう。沙耶はぼんやりと思った。
でも、それも当たり前だ、と我ながら思う。
龍が暴れたことによって、巽や他の一族からの反発が大きいらしい。けが人こそ居なかったものの、次に何かがあったら、一海全体として沙耶を庇う事は出来ないだろう。それはずっと前から覚悟していたことだ。
実際、この間だって覚悟していた。誰かを傷つけるぐらいなら、殺されても構わないと思っていた。だから、円に「お願い」をした。もっとも、それはそれで円を傷つけることになるのは分かっていた。どちらに転んでも、誰かを傷つけないといけないのだ。
ぎゅっと一度目を閉じる。
そんな不安定な人間を現場に出す事はできない、と判断された。当たり前だ。
それに、どちらにしても、自分だって外に出たくなかった。
もう一度、ぼーっと天井を見上げる。
落ち着いてみたら、毎日忘れている何かに出くわした。
仕事も無くて暇だから、近所のお気に入りの紅茶屋さんに行こう、と思った。美味しい紅茶を飲もう、と。
でも、行けなかった。
その店がどこにあるのかがわからなかった。
週1で通っていたのに。
高校を卒業してからずっと住んでいる町なのに、知らない町のような気がした。
これ以上知らないものに遭うのが怖くて、すぐに引っ越した。
本でも読もうと思った。大好きな本でも読もうと思った。
ぼろぼろになるぐらい読み込んだ文庫本を取り出す。ぼろぼろになるぐらい読み込んだ本のはずなのに、展開を全然覚えていなかった。
怖くなって閉じた。
新しい本を読もうにも、本当にそれが読んだ事がない本なのか、自分の記憶に自信がもてなくなった。
枕元においたケータイに手を伸ばす。
最初の頃は頻繁に届いていた龍一からのメールも、最近ではたまに届く様になった。以前の自分がどういうテンションでメールをしていたのかがわからなくて、また失望させるのが怖くて、返信が滞ったことが原因だと思う。結局、失望させたのだろう。
ケータイを閉じる。
本当のことを言うと、もう何を忘れたのかも覚えていない。
きつく目を閉じた。
彼が現れたのは、そんなときだった。
「沙耶?」
聞き覚えのある声。夕飯の買い物にでた先で、背中にかけられた言葉。
一つゆっくり息を吐き、ゆっくりと振り返る。
「あ、やっぱり沙耶だー、久しぶりー」
右手をひらひらさせて、屈託なく彼は笑う。柔らかそうなパーマのかかった茶色い髪。記憶にあるのよりも、大人びた顔。
「……賢?」
小さく小さく唇からこぼれた名前に、堂本賢治はにこやかに頷いた。
一海直純は、一仕事を終えて事務所に戻るところだった。今日の報告書を仕上げればあとの予定はないから、久しぶりに皆を食事にでも誘おうかと頭の中で計画をたてる。清澄は今日風邪で休みだから、円と沙耶と三人で。あの時以来、ひきこもりがちになった沙耶を誘い出す意味でも。
これは兄の範疇だよな、と自分に確認する。だから二人で食事ではなく、みんなで食事なのだ、と。
口元が思わず自嘲気味に歪んだ。長い間抱えてきた思いは、そうそう綺麗に払拭はされない。いずれにしても、可愛い妹の心配をして何が悪い。
調律事務所の入っているビルまで戻ってくる。古い階段をのぼる。きしんだ音をたてる。
とりあえず、沙耶に電話でもしてみようかな、とケータイをとりだして、
「いい加減にしてっ!」
甲高い、女性の声が聞こえた。
取り出したケータイを再びしまい、階段をかけあがる。この上にあるのは調律事務所だけで、その声に僅かながら聞き覚えがあった。
ばんっ、とドアを開け放つ。
そこに広がっていた、思ったとおりの光景に唇を歪めた。
「これ以上、清澄に関わらないで。本当に、あんた達なんなのよっ!」
ヒステリックな声。清澄の恋人である桜庭祐子のもの。入って来た直純には気をとめない
それを優雅に微笑みながら、一海円がうけとめていた。こちらはちらり、と直純を一瞥した。
後ろ手でドアをしめる。
清澄の姿がないことから察するに、単身乗り込んで来たのだろう。彼女が調律事務所のことをよく思っていないことは知っているし、その心情も理解できる。
沙耶もいないし、円に勝手にやらせとけばいいか。思って腕を組み、ドアに寄りかかる。
祐子の言葉がヒートアップしていく。
しかし、まぁ、
「あいつ、煽ってるだろ」
小さく呟き、小さくため息。
祐子の暴言にも顔色一つ変えずに、円は優雅に微笑んでいる。手応えのない態度に、神経を逆撫でするような笑顔に、祐子がさらに声を荒げる。
しかし、今日はどうしたのだろう。
祐子が調律事務所を変な団体だと思っていることも知っているし、こうやって怒鳴り込んでくることも一度や二度じゃない。それでも、怒鳴り込まれるのは、清澄が大けがをするなどそれなりに理由があったときだけだ。
最近は、清澄を現場に出すことも控えているのに。
悩んだ末に、もう一度事務所の外へでて、ケータイを取り出し、
『直さん?』
清澄にかける。
「桜庭さんが来ているんだが」
『ええっ!』
端的に告げると、電話の向こうで悲鳴のような声があがった。
『ちょ、ごめんなさい! ええっと、じゃあ、今から行くから……』
「いい、いい。風邪ひいてんだろ。大人しく寝とけ」
『でも』
「電話したのは責めたいからじゃなくて、確認したくて。理由は?」
『あー、この前からちょっと喧嘩してて。その、結婚関係の話とかで』
ごにょごにょっとごまかされる。
「ああ。親に紹介出来ない仕事、とかそういう」
『そういうあれ……』
まあ、紹介できないもんなーと思う。
「幽霊だの化け物だの、いるわけないじゃないのっ! 気持ち悪いのよ、あんた達!」
ヒステリックな声が外へ響いてくる。
祐子の言っていることは、普通の感覚だと思う。そして、少なくとも佐野清澄はそちら側の人間なのだ。
「わかった。理由がわかれば対処のしようもある。多分、円が負かすだろうからその……、あとでフォローしとけ」
『ああ、はい』
「あと、……言うからな、あれ」
『……ん』
曇った声。
「清澄、悪いな」
『ううん。……今日、休ませてもらったおかげで風邪殆どよくなったし、明日、行きます。祐子のこと、お願いします』
「ああ、それじゃあ」
ケータイを閉じると、小さくため息をついた。
ゆっくりと、音を立てないようにして事務所の中へ入る。そろそろ、円が終わらせようとしているところだろう。
「お話はよくわかりました」
直純が戻ると、案の定、祐子の言葉が切れるのを待って、円が言ったところだった。微笑んだまま。
「つまり、貴女は、幽霊だの化け物だの本来存在するはずのないものを相手にする商売なんてばかばかしいからやめろ、と。少なくとも清澄を巻き込むな、ということですね。でも、少なくとも清澄の自由意思でこの仕事をしているんだと思いますけど」
「だから、煽るなよ」
小さく直純は呟いた。
「ねぇ、でも本当に幽霊はいないのですか? それはどうやって証明してくださるのですか? 私には見えているのに」
円が一歩、祐子に近づく。祐子が反射的に後ずさる。
「幽霊って霊感がないと見えないと思っている方、結構いらっしゃるようですけど、世の中には霊感がない人にも見える幽霊ってたくさんいるんですよ。そうじゃないと怪談ってなりたちませんしね。まるで実際に存在する人間のように生活する幽霊がいるんです」
切れ長の瞳を細める。
「何を言って……」
円は少し低い声で、囁く様に尋ねた。
「貴女自身が幽霊じゃない、という保証はどこにあるの? 貴女は本当に、存在しているの?」
綺麗に整った唇が、魅力的な弧を描く。少し首を傾けて、笑う。一海の女王が、笑った。
「円、いい加減にしろ」
気迫に押されて、青い顔をしている祐子をみて、さすがに直純は間に入る。
「お前、素人相手になんて顔するんだよ」
小さく耳元で囁くと、
「ちょっとからかっただけじゃない」
円は、肩を竦めて自席に座った。
「失礼しました」
青い顔をしたままの祐子に出来るだけ柔らかく微笑む。
「貴女は少なくとも正真正銘の生きている人間です」
「わかっているわよっ」
悲鳴のように言われた。
「わたしたちのことを貴女が怪しむのも無理はありません。変な宗教団体みたいですしね。清澄の自由意思とはいえ、わたしたちが拒めばこんなことにはなっていなかったのですから、それはお詫びします」
頭をさげる。
「でも、心配しなくても、この事務所はもう無くなります」
祐子が目を見開く。
直純は一度円に視線を向ける。円は軽く肩をすくめてみせた。
「え?」
「清澄には既に伝えてあるし、了解もとってあります。清澄の次の就職先についても、わたしの友人がやっている会計事務所、本当にごくごく普通のそちら側の事務所で雇ってもらえるようになっています」
だから、と様子をうかがう様にしていた祐子に笑いかける。
「心配しなくても君の言う通りになるよ」
と、下がった眉で直純は諦めたように笑った。
「ただいまー」
龍一は玄関のドアを開け
「龍」
「……だからなんでいるんだよ」
すぐの場所で仁王立ちしている姉にため息をつく。
「そんなにしょっちゅう帰ってくるなって。俺、勉強で忙しいんだけど」
「龍」
遮られる。靴を脱ぎながら姉を見上げると
「お前、ふられたのか?」
「はぁ?」
帰って来ていきなり、何を言ってるんだこの姉は。睨みつけるように見上げる。
「何言ってんだ?」
「さっき、巫女姫様が堂本君と歩いているの見かけたけど?」
言いながら少しだけ雅が眉をひそめた。
「……堂本、賢治?」
雅が頷く。
「……どこで?」
脱ぎかけの靴をそのまま、足を床におろす。
「うちの方にあるスーパーの近く」
買い物に行って沙耶の姿をみつけ、声をかけようとして隣にいる堂本賢治に気づいた、と雅は言った。
「……それを言いに来てくれたんだ?」
「ああ、まあ。龍?」
珍しく、こちらを伺うような、気遣うような姉に、微笑みかける。
「わかった、ありがとう」
言って、今度こそちゃんと靴を脱ぎ、二階の自室へ向かう。
「龍」
呼び止められる。
「大丈夫?」
「……うん」
振り返らないで答えた。
姉の珍しく、心配するような視線を背中に感じる。
それを振り切るように階段をかけあがった。
勢いよく自室のドアをあけ、音を立てて閉める。
ずるずるとドアに背中を預け、床に座り込む。
自分が今、何を思っているのかがわからない。
いつ、再会したんだろう? 最近、連絡がなかったのは再会したから? 俺が邪魔だから? やっぱりまだ好きなんだろうか? 堂本賢治には結局勝てない?
ケータイを取り出し、沙耶のアドレスを呼び出し、そのままケータイを放り投げた。
床を滑ったケータイが、ベッドの脚に当たり、にぶい音を立てる。
連絡して何になる?
ゆっくりを息を吐く。
沙耶は、堂本賢治のことは、覚えていたのだろうか?
ソファーに膝を抱えて座り、沙耶は名刺を見つめた。
名前だけは知っている会社と肩書きと、それから堂本賢治の名前が入った名刺。裏返す。ケータイ番号とメールアドレスが走り書きされている。
今はちょっと時間ないからまた今度ゆっくり! 賢治はそう言って立ち去った。
驚いて、特に何も言えないまま、この名刺を受けとってしまったけれども、
「どうして、今……」
こんな時に現れるんだろう。あの底抜けに明るい笑顔を浮かべて。
机の上においたケータイを見る。
どんな顔で連絡すればいいんだろう。
賢治はまるで何事もなかったかのような顔で声をかけてきたけれども、そんな風にはできない。
悩みながらもケータイに手を伸ばし、
着信音。
指先が触れたところで鳴ったそれに驚きながらも、慌てて耳にあてる。
「もしもし?」
『沙耶ー、直がご飯食べに行こうってー』
「……円姉」
名乗ることもなく、いきなり用件を切り出す、聞き慣れた声。その声に少し安心する。
『んー? どうした? なんかあった?』
相変わらず勘のするどい円が、伺うような声を出す。
「なんにもないよ。あたし、中華が食べたい」
『おっけーおっけー、直のおごりだからなんでも!』
『え、俺おごるとか言ってないよな!?』
『誘ったのはあんたでしょー? すぐ出て来られる?』
「うん」
『じゃあ、事務所で待ってるから、おいで』
少しだけ、優しい声で言われる。
「うん、すぐ行く」
言って、電話を切った。
帰って来てそのままにしていた鞄を肩にかける。
少し悩んで、名刺は本に挟んでテーブルに置いた。
賢治に会ったことは、二人には言わない。
言っては、いけない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます