第五章 あなたをつくります

 日記の中の自分は、とても幸せそうだった。

 困惑したようなそぶりで書きながらも、言葉の端々に嬉しそうな自分が見えた。

 最後の日付には、見に行く映画を楽しみにしている自分がいた。映画のタイトルは書いていない。何を、見に行くつもりだったのだろう?

 彼の名前は、榊原龍一君。こっくりさんに憑かれたらしい。それを祓ったのも自分らしい。

 星を見に行ったらしい。わざわざ山口県にまで。

 全部、らしい、だ。

 そういうことがあった事実しかわからない。

 日記を閉じた。

 確かに覚えていることもあるのだ。

 優しい顔で笑う人がいたこと。その人の事を確かに大切に思っていた。

「なのに、どうして」

 一致しないのだろうか?

 とてもとても大切で、傷つけないようにしなくちゃと、焦っていた自分の気持ちも覚えている。

 なのに、

「どうして……」

 きっとあの榊原龍一君が、あの優しい笑顔の人なのだろう。それはわかる。なのに、記憶として一致しない。わからない。

「どうして……」

 喰われた記憶に、日記帳を抱えたまま一人涙した。


 どれだけ膝を抱えたままで居ただろうか。

「沙耶?」

 ためらいがちにかけられた声に顔をあげる。いつものように優しく微笑んだ兄の姿がそこにはあった。

「直、兄……」

 名前を呼ぶと、少しだけ安堵したように彼が息を吐いたのがわかった。

「おはよう」

 彼は笑うと、ゆっくりと近づいてきて、そして隣に腰を下ろした。

「円が今、宗主に呼ばれているから、代わりに」

「ん」

 直純から見えないように、こっそりと目元を拭う。

「ご飯、ちゃんと食べた?」

「……ちょっとだけ」

「そっか」

 偉い、と直純が笑った。

 そして黙ったまま、隣に座っている。

 また少し泣きそうになった。

 いつだって彼は、どんなに落ち込んだときもそばにいてくれて。何も言わないで隣にいてくれた。厳しい発破をかける言葉や優しい慰めの言葉も全部円の物で、その代わりに直純はいつだって、ただ黙って隣にいてくれた。

 それが、どんな時だったのか、もう殆ど思い出せないけど。

「直兄」

「ん?」

「直兄からみた、榊原龍一ってどんな人?」

 たてた膝に顔を埋めたまま尋ねる。

「いい子だよ」

 直純はそれだけ言った。

「……え、それだけ?」

 思わず重ねて問う。視線を彼に移す。

「他に言いようがないから」

 直純は困った様に笑う。

「敢えて言うなら」

 一つ呼吸をし、

「恋敵としては最高だね」

 言って微笑む。

「そう、恋敵なんだ。あのさ、沙耶。俺じゃ駄目かな?」

「……え?」

 小さく呟いた拍子に、沙耶の手から日記が落ちた。


 その日、三年三組の教室は驚く程静かだった。

 誰も気づいてはいないけれども、いつも教室に入り浸っている幽霊のちぃちゃんですら今日はいない。

 その理由は誰の目にも明らかだ。昼休み、おのおの過ごしながらもちらちらとそちらをみる。

 いつも五月蝿いぐらい騒いでいる西園寺杏子が、今日はちっとも喋らない。友人達とお弁当を食べながらも、杏子は視線を動かす。

 彼女の視線の先にいるのは、いつも彼女が五月蝿いぐらいつきまとっている榊原龍一。今朝から龍一は殆ど口をきかず、暗い空気をまき散らしている。さすがの杏子もそんな龍一には話しかけられない。

 今は昼ご飯も食べず、机に突っ伏している。

「杏子、こぼしそうだよ」

 友人の海藤こずもに指摘されて、慌てて杏子は前を向き直る。

 入れ替わりにこずもが龍一の方を見る。小さく舌打ちした。


 廊下で今日何度目かわからない電話を終えると、翔はケータイを閉じた。業務連絡だ。

 教室に戻ろうと振り返ると、

「海藤さん」

 こずもがドアに寄りかかっていた。不機嫌そうに。

「巽、榊原に一体なにがあったの?」

 睨みつけるような目。

「迷惑なのよ。何があったのか知らないけどあんな風に落ち込んで。おかげで杏子までなんか調子悪いし、クラス全体の雰囲気も悪いし」

 舌打ち。

「言っとくけど、榊原のことを心配しているわけじゃないから。ただ、クラス全体の空気が悪くなるのはHR委員としては許せないのよ」

 めちゃくちゃな論理に少し驚いて、少し笑う。

「何笑ってんのよ」

 睨まれる。

「海藤さん」

 自分達が何を言っても、多分龍一は動けない。翔も一海の人間も、龍一のことを気遣うからだ。

 でも、こずもの強引さと勢いがあれば、もしかしたら。

「ここじゃあれだから、別の場所で説明するよ」


 今日の授業が終わった。

 正直、何が行われていたのか全く覚えてなかった。確か、今日は体育もあったはずなのに。

 龍一はのろのろと立ち上がる。

 それをみて杏子が口を開きかけ、

「榊原、ちょっと顔貸しなさい」

 それを遮ってこずもが言った。

「……今?」

「今に決まってんでしょ。来なさい」

 強引に龍一の右手を取ると歩き出す。ずるずるとひきずられるようにそれについて行く。杏子ですら驚いたような顔でそれを見ていた。

 人通りの少ない、屋上に続く階段前の廊下。

 龍一はこずもから少し視線を逸らし、こずもはそんな龍一を、腕を組んで睨みつけていた。

「巽から聞いた」

「え?」

「あんたの好きな人が治る見込みの薄い病気で、あんたは自分が役立たずだと嘆いている」

 言われた言葉あまり間違っていなかった。

「うん、まあ……」

「あのさ、あんたがそんなに落ち込んでいてどうするの? 今、一番つらいのはあんたじゃないでしょう?」

 そんなこと分かっている。言われなくたってわかっている。だけど、

「海藤さんに言われることじゃない」

 言った言葉は、自分が思ったよりも弱々しかった。

「あのね、うざいのよ」

 ため息まじりに言葉を吐き出す。

「あんたが落ち込んでるでしょ、それで杏子も落ち込んでるでしょ、周りがあんたらを気遣ってるでしょ、もうね、今日一日教室の空気最悪なのよ!」

 早口にまくしたてる。

「こっちとしてはね、快適な教室環境を望む権利があるのよ。なんか文句ある?」

 挑む様に言われる。何かが間違っている気がしたが、何も言えなかった。黙って首を横に振る。

 こずもが小さくため息をつき、少しだけ微笑んだ。

「榊原、急に医学部に行くとか言い出して、担任ともめてたでしょ?」

「なんで、それ」

「知ってるわよ。HR委員をなめんじゃないわよ」

 言ってこずもは小さく笑った。

「それ、その人のためなんでしょう?」

「……ためっていうか、役に立ちたいっていう自分のためだけど」

「そういう細かいとこはどうでもいいのよ」

 みみっちい男ねー、とこずもは眉根を寄せた。

「ともかく、あんたはその人のこと大切なんでしょう? だったら、どんな理由があろうとも、こんなところで油売ってる場合じゃないんじゃないの?」

 それは、そうかもしれない。でも、

「俺が行ったところで役に立つ訳じゃないし」

 寧ろ、行かない方がいいのかもしれない。思い出せないと、苦しめるよりは。

「役に立つ立たないじゃないでしょ! じゃああんたはその人が自分に何かをしてくれることを求めてる訳? 違うでしょ? 居てくれるだけで嬉しいっていうのもあるでしょう?」

「それは……」

「あんた、結局甘えてんのよ。直接その人から役立たずって言われるのが嫌で、逃げてるだけでしょう。役に立たないって思うならどうにかしなさいよ、逃げてないで」

 吐き捨てるように言われる。

 言葉を返せない。言い返したい事は沢山あった。でも、それよりも納得してしまった自分が居る。確かに、逃げているのかもしれない。

 こずもの挑むような視線を感じながら、何も言えないでいると、

「わっ」

 こずもが珍しく高い声を発する。どん、と彼女の背中に何かが体当たりした。

 こんなことをするのが誰なのかは、考えるまでもなくわかる。

「杏子、ちょっと今大事な話を……」

 振り返ったこずもは、幼なじみのいつもと違う様子に眉をひそめた。

「杏子?」

「榊原君、はやく行きなよ」

 こずもの背中に顔を埋めるような形のまま、杏子は言う。

「その人、榊原君のこと待ってるんでしょ? はやく行ってあげなよ」

「西園寺さん?」

「杏子……」

「それで明日は、元気な顔を見せてよ」

 こずもの背後から少しだけ顔を出すと、早口でそう言い切った。

 龍一はしばらく黙ってそれを見ていたが、少しだけ口角をあげ、

「ありがとう、西園寺さん、海藤さん」

 ゆっくりと歩き出した。


 沈黙。

 杏子はこずもの背中に額を押し付けたままだ。

「杏子?」

「こずちゃん」

 発した声には涙が含まれていた。

「キョウちゃん、あきらめたわけじゃないもん。ただ、榊原君が悩んでるの可哀想だから言っただけだもん」

「うん」

 わかってるよ、とこずもは笑った。そうして振り返ると、いつも一生懸命なこの幼なじみの頭を撫でた。

「元気になったらまだまだアタックするもん」

「うん」

 すん、と鼻をすする音に小さく微笑む。

 正直以外だった。いつもつっぱしるだけの杏子がそんなことを言うなんて。いつもなら、これ幸いとばかりにアタックをかけて疎ましがられるのに。

 いつも一生懸命なこの幼なじみの、いつもと少しだけ毛色の違う恋愛模様を、今回は応援してあげよう、と素直に思えた。

「杏子、ケーキでも食べて帰ろっか」

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