第四章 有声慟哭
「……参考までに聞きますが、公にはなんていうんですか?」
円が運転する車の助手席に座った巽翔は尋ねた。
「竜巻」
前を見据えたまま、ただ一言だけ返す。
「……無理がありません?」
「嘘は言ってないじゃない。竜巻っていうのはね、龍が巻くって書くのよ?」
「……なんていうか、一生円さんには勝てない気がします」
その会話を後部座席で黙って龍一は聞いていた。膝の上の沙耶の頭をゆっくりと撫でる。涙のあとが残る頬。
「……、円さん」
ゆっくりと絞り出すようにして声をだす。
「なぁに?」
「沙耶、もう限界だって言っていたけど、ごめんって泣いていたけど、それって……、やっぱり……」
円は一度バックミラー越しに龍一の方を見た。
「……ごめんなさいね、龍一君」
「じゃあ……」
「ええ、多分、この子が次に目覚めたとき、覚えていることはだいぶ少ない」
「……そうですか」
つないだ右手をきつく握った。
たどり着いたのは大きな家、どちらかというとお屋敷だった。
「……ここは?」
「実家」
円が端的に答える。
日本家屋というのが相応しい、立派な豪邸。知ってはいたけれども、やはりお嬢様なんだなと思った。
「円っ!」
直純が駆け寄ってくる。円と直純と、他の人たちが話し合っているのを見ながら、龍一は後部座席から動けないでいた。
繋いだ右手に力を入れる。沙耶の目は開かない。
昨日、ちゃんと追いかければよかった。子どもじゃない、と言われた事に腹を立てたりしないで。ちゃんと後を追いかけて、円のところまで着いて行って、ちゃんと目の前で謝ればよかった。
なのに自分は暢気にメールが来ないことを憤ったりして。だから、子どもなんだ。
「龍一君」
ドアが開けられる。
「……直純さん」
「沙耶、いいかな?」
気遣う様に言われる。直純にこんな風に気遣われたのは初めてかもしれない。
小さく頷く。
直純は少しだけ微笑んでみせると、沙耶の体をそっと持ち上げた。
そのまま家の中に入って行くのを見送る。直純に抱えられた沙耶から黒髪が揺れる。それをぼーっと見守る。
「龍一君」
声をかけられる。横を見る。円が困ったような顔をして
「とりあえず、中、入って」
円の困ったような顔も初めて見た気がする。ゆっくりと車から降りた。
ばたばたと人が走り回る音がする。
改めて自分は役に立たないという事を思い知った。
邪魔にならないところを探して、結局縁側に腰を下ろした。目の前に大きな木がある。
少しずつ日が暮れて行く。
円や直純や、翔はどこにいるんだろう。
俺は役に立たない。
「龍一君」
呼ばれて、振り返る。
円が、やっぱり困ったような顔をしてこちらを見ていた。
「龍一君、何かあったら連絡するから、そろそろ……」
「泊まっていっちゃ、だめですか?」
咄嗟にそう答えていた。
円は黙って龍一の顔を眺め、小さく微笑んでみせた。
「ちゃんとお家に連絡しなさい」
「はい」
「何かあったらちゃんと言うから、ちゃんと休みなさい」
「……はい」
「それなら、いいわよ」
そういうと軽く龍一の頭を叩いた。そしてゆっくりと立ち去って行く。
その後ろ姿を見送り、もう一度外を見る。
そうだ、家に連絡しないと。そろそろ夕飯の準備をはじめるだろうし。
思って制服のポケットに手を伸ばし、
「あ、鞄……」
慌てて出てきたから学校においてきてしまった。ケータイもその中だ。
「榊原」
目の前に見慣れた鞄が差し出される。グリーンと灰色のメッセンジャーバック。
「巽」
「とってきた。先生には榊原が急に具合が悪くなった、ということにしておいた」
「ああ、うん、ありがとう」
受け取る。翔は何か言いたそうに龍一の横顔をみている。
「今日さ」
その視線を感じながら龍一は呟く。
「うん?」
「巽の家に泊まっていることにしていい?」
翔の方を見ないまま呟く。ふっと空気の漏れる音がした。笑ったようだ。
「うん。僕はちょっと向こう行っているけど、何かあったら呼べよ?」
言って翔は立ち上がる。
「うん、ありがとう」
ケータイを開く。家の番号を呼び出す。
『もしもしー?』
聞こえるのはいつもと同じ、少し能天気な母の声。
「あ、母さん」
『龍ちゃん? どうしたのー?』
「うん、急にごめん。今日巽の家に泊まるから、夕飯いいや」
『えー、今日はハンバーグにしたのにぃー』
「ごめん」
『……龍ちゃん、何かあったの?』
ゆっくりと、いつもより低いトーンで言われて驚く。
「なんで?」
『元気ないわね』
いつもふわふわしているくせに、何で今そんなこというんだろう。
『ふふ、お母さんにはわかるわよー、お母さんだもん』
ころころと笑う声がする。
何で今、そんなことを言うんだろう。
なんだか泣きそうになって目を閉じる。
「なんでもないよ、大丈夫」
『……そー? 何かあったらちゃんと言いなさいね』
「うん、ありがとう」
『龍ちゃんも年頃だから色々あるわよねー』
また能天気な声で言われる。
「母さん」
『うん?』
なんで俺の名前、龍一なんかにしたの?
言いかけた言葉を、飲み込む。
それはただの八つ当たりだ。名前の由来は、龍のように強くかっこ良く、そして一番の男になって欲しいからだと昔から父が言っていた。正直、名前負けしているけれども、この名前は嫌いじゃない。
でも、龍という言葉が、彼女を苦しめている対象が、自分の名前に入っている事を疎ましく思う。特に今。彼女自身は気にしていないみたいだけど。
『龍ちゃん?』
だけど、それは八つ当たりだ。意味の無い八つ当たり。
「あのさ、勝手に進路変更してごめん」
代わりに違うことを言っていた。それも思っていないわけじゃないけど。
『ああ』
また笑い声がする。底抜けに明るい笑い声。
『別にいいわよー、龍ちゃんはずっと真面目にやってたんだし、それぐらい別に。急だったからびっくりしちゃったけど、お母さん、子どもが急に変な事言い出すのは雅ちゃんで慣れてるから』
笑う。明るく。
この笑い声を当たり前の物だと思っていたけれども、この笑い声が途絶えていたときも確かにあった。
「雅ほど、変な事はしないよ」
少しだけ苦笑いする。
大学卒業間際に妊娠して、周囲の反対を押し切って駆け落ちをした挙げ句、流産した。あの時は流石に母も笑っていなかった。
『まあ、雅ちゃんもね、あのあと信介さんにあって結婚出来てよかったんだけどね。孫の顔も見られたし』
「うん」
『龍ちゃんが選んだ事なら、応援するから』
「うん、ありがとう」
少し話をして、電話をきった。
沙耶は、龍一の家の事をいい家族ね、と言っていた。彼女の生い立ちは円から聞いて知っている。
自分の家だってずっといい事ばかりではなかった。それでもどうにかやってきた。そういう普通の幸せをもっと彼女に知って欲しいと、思っていた。普通の幸せを特別な物みたいに言って欲しくなかった。もっと家に連れてきて、母親の手料理を食べさせて、そういうことも本当はしたかった。
過去形で考えている自分に気づく。でも、もう過去の願いなのかもしれない。
沙耶が忘れていたら、自分に出来る事なんて、きっと、もう、ない。
「失礼しました」
言って襖を閉める。息を吐く。
「父様の馬鹿」
小さく舌打ちする。
「円さん」
横からためらいがちにかけられた言葉。
「巽のおぼっちゃま」
「……沙耶さんは?」
「ん、体は大丈夫。あとは、目を覚まして何を覚えているかだけど」
「そうですか」
ゆっくりと歩き出す。翔はそれについていく。
「明日、沙耶を連れて父様のところに連れてくるつもりだったの。なんか龍が不安定そうで。……今日にすればよかった、明日何て暢気なこと言ってないで。仕事だって別に急なものはなかったのに」
前を見たまま円は喋る。その背中を見ながら翔はついていく。
「どうしてこんなことになってしまったんだろう。もっとどうにか出来たはずなのに、なのにっ」
声が高くなる。
急に立ち止まった円に、慌てて翔は足を止めた。
「分かっていたのにっ! どうしてこんなことになるのよっ!」
体全体で叫ぶ。そのまましゃがみ込み。顔を覆って。
声をかけられない。
彼女が小さく見える。
静かに、静かに、彼女は泣いていた。
ひとつ、しずくが床に落ちた。
初めて見た。
円は泣いたりなんかしないと思っていた。
「どうしよう……」
小さい声が聞こえる。
「沙耶がもし龍一君のことを忘れていたら、どうしよう……」
「円さん……」
「好きって言ってたのに……、あの子があんなに前向きになったの久しぶりに見たのに……、なのに忘れてしまったらっ」
言葉に詰まる。
「円さんっ」
たまらず隣に座り込む。
直後、腕を引かれて転びそうになる。慌てて、バランスを保つ。
円が翔の右腕を引き寄せ、右肩に額を付ける。どうしたらいいか分からなくて固まる。
「あのっ……」
「ごめん……、二分だけ」
二分という極めて短い時間が、彼女らしくて少しだけ安心する。
「はい」
腕をまわすこともせず、翔は円から視線を逸らした。
彼女にとってはきっと、人前で、それも年下の自分の前で泣いた事は不本意だろうから。
自分はただの、壁とでも思ってもらえればそれでいい。
嗚咽はもう聞こえない。ただ静かに目を閉じていた。
小さい足音。翔がそちらに目を向けると直純が歩いてきていた。二人の姿を見つけると、一度目を見開き、薄く微笑んで後退した。
円がゆっくりと息を吐く。
「二分」
小さく呟くと、円は顔をあげた。
少しだけ目元が赤い他は、いつも通りの不敵な笑みを浮かべていた。それに安堵する。
「ありがとう」
「いいえ。なんのことですか?」
微笑むと、円も唇の端をあげる。
「後悔をするのは終わりよ。次の手を、探さないと」
言って立ち上がったのはいつもの円だった。影で一海の女王と呼ばれている、不敵な女性そのものだった。
「はい」
その姿をまぶしく思いながら、翔は頷いた。
縁側に座ったまま、黙って外を見ていた。
「龍一君」
声をかけられて我に返った。
「直純さん」
直純は少しだけ微笑むと
「はい、少しでもとりあえず食べな」
お皿にのったおにぎりを手渡された。
「……ありがとうございます」
欠片も食欲はなかったが素直にそれを受け取る。外はすっかり暗くなっていた。
「……すみません、俺、役にも立たないのにここにいて」
受け取った皿を膝の上で抱える。
「龍一君のおかげで、龍がとまったんだろう?」
「別に俺がなにかしたわけじゃ……」
「君がいてくれることで大分助かってるんだ、こっちは」
一呼吸置き、
「忌々しいけどな」
直純は吐き捨てる様に付け加えた。
驚いて顔を見る。
「忘れた訳じゃないだろう? 君と俺は言わばライバルなわけだ。なのにライバルの方がどう見ても、明らかに、はっきりと、先を進んでるんだ。しかもそのライバルの力を借りなきゃ、彼女を助けられないなんて、終わってる」
「……それは、俺だって同じです」
現に、自分は今ここにいて何の役にも立っていない。
「だから、直純さん、俺」
「あのな、」
龍一の台詞を遮り、直純は一つ押し殺したような息を吐く。
「君が霊的なことについてまでどうにかできるようになったら、俺は一体どうすればいいんだ。意味なくなるだろうが」
直純は切れ長の目を不機嫌そうに細める。勢い良く告げる。
「こっちは、生まれてから二十八年間一海の人間としてやってるんだ。専門なんだよ。ふらっと現れた素人にほいほい手伝われたら立つ瀬がないだろうが。君はそこでおにぎりたべて、部屋用意してあるからとりあえず寝てろ。何かあったらちゃんと起こすから。ちょっとは専門家信じて、黙って寝ていろ」
勢いに呑まれてあっけにとられている龍一に
「わかったな!」
人差し指をつきつけ、もう一度念を押すと足音も荒く立ちさる。
「……慰めて、くれたのか?」
その後ろ姿を見ながら小さく呟く。
手に持ったおにぎりをみる。食欲はわかなかったけれども、強引に飲み込む。
「言えなかったな」
本当は直純でも円でも翔でもいい、誰かにあったら頼もうと思っていた。
沙耶がもし、自分のことを忘れていたらそのときは榊原龍一という人間は大道寺沙耶に会ったことがない、そういう風にして欲しかった。
それが正しいのかどうかはわからない。それでも、それが一番沙耶を傷つけない方法な気がするのだ。居なかった人間は忘れようがないのだから。
でも、言えなかった。それに少し安堵している自分もいる。
どうしたらいいのか、やっぱりわからない。
失敗した失敗した失敗した。
なんていうおとなげない対応をとってしまったのか。あほか、俺は。
心の中で自分を罵倒しながら歩く。
「直、足音うるさい」
廊下の角を曲がったところにいた円が、不機嫌そうに言った。
「何? 龍一君慰めにいって喧嘩でもしたの?」
口角をあげて告げる。いくら憎まれ口を叩かれても、瞳が心配そうに歪められているのは分かっている。生まれたときからの付き合いだ。
「ほっとけ」
泣いていたくせに。
言いかけてやめた。言う必要は無い。
「父様と直次叔父様が沙耶の龍を封印し直した。暴れる事は無いって」
「……わかった」
「あとは沙耶が目覚めるまで、出来る事は無いわ」
髪をかきあげる。
「神にでも祈っておくか」
苦笑すると、
「祈ってどうにかなるのかしら?」
冷たく呟かれた。
それでも、祈らずにはいられない。目が覚めた彼女に少しでも世界が優しければいい。
夢を見ていた。
優しい顔で微笑む人がいた。
見ていて安心出来る笑い方だった。
綺麗な星空の下、その人が何かを言った。
何を言っていたのだろう。
何かとっても、嬉しい事を言ってもらえたのに。
言葉も、優しい笑顔も、黒い影が飲み込んだ。
「沙耶?」
眠っていた沙耶の目蓋がうっすらとひらく。
「まどか、ねえ……?」
かすれた声で呟かれた言葉に息をのむ。
「沙耶……」
覚えていて、くれた。
「……あれ?」
目を開けた沙耶が小さく視線を動かす。
「……あたし、どうしたんだっけ?」
呟く。
「龍が暴れたの」
出来るだけ冷静に、端的に答える。
沙耶の動きが止まる。沈黙。
円は、ただ黙っていた。
「……そう」
呟いた沙耶は諦めたうぴに頷いた。
「父様と直次叔父様が龍を封印し直した」
「……うん」
「誰も怪我とかしてないから、安心しなさい」
「……うん」
ゆっくりと、細く息を吐き出す。
「そっか」
もう一度呟いた。
眠れなかった。
用意してもらった部屋で、座ったまま待っていた。
「龍一」
襖をあけて声をかけてきたのは翔だった。光が差し込む。もう、朝になったのか、と思った。
「沙耶さん、目を覚ましたみたいだけど、どうする?」
黙って立ち上がった。
悩んでも答えは出なかった。
とりあえず今は、会いたい。
「……沙耶?」
ためらいがちに声をかける。
布団の上で上半身を起こした沙耶は、小さく首を傾げた。長い髪が揺れる。
「……だれ?」
かすかに、かすかに聞こえる程度の声。それでも、その場を凍り付かせるには十分だった。
「ちょっと沙耶何をいって!」
慌てたのは龍一よりも円だった。その声に沙耶の肩がおびえたようにぴくりと震える。
「円さん」
呼ばれて振り返る。龍一はゆっくりと首をふった。
「円さん、いいんです」
龍一は小さく微笑むと、
「榊原龍一、です」
小さく名乗った。それから、
「それじゃあ、俺、学校あるんで帰ります」
早口に言い切ると逃げるようにして部屋を出る。
「あ、ちょっと龍一君!」
円が慌てて立ち上がり、
「沙耶?」
その隣を転げるようにして走りながら沙耶が通り抜けた。
「待って」
廊下にでたところで、沙耶が叫ぶようにして呼び止める。龍一は立ち止まって、それでも振り返らなかった。
「あたし、あたし、ちゃんと思い出すから。忘れてないから、だから。また、来て……?」
最後の方はかすれ声で呟かれた言葉に龍一はゆっくり振り返る。そうして、ゆっくりと強引に唇の端をあげてみせた。
「言われなくても」
それだけ口にすると再び歩き出す。
すとん、と沙耶は、力が抜けたように廊下に座り込んだ。
「沙耶」
慌てて円が隣でその肩を支え、
「ちょっと、龍一君!」
すたすたと歩いて行く龍一の背中に声をかけ、
「僕が行くんで大丈夫です」
その横を翔が早足で通り抜けた。
「榊原のことは心配しないでください」
一度振り返り、二人に笑いかける。
「榊原ー、こっからだと道わからないだろ? 案内するからちょっと待てよ、榊原!」
小走りにその場を立ち去る。沙耶は廊下に座り込んだまま、遠くなる背中を見つめた。
「沙耶? 大丈夫?」
いつもよりも優しい円の声。
「円姉」
珍しく困ったような顔をした姉を見上げる。
「お願いがあるんだけど」
「これが、あんたの部屋にあったあんたの日記」
ピンクの鍵のついたノートを渡す。
「それからこっちが、龍一君の事件の時の記録」
ファイルされた書類を渡す。
沙耶は静かにそれを受け取った。
「ありがとう」
「沙耶? 大丈夫?」
円は隣に座ると、沙耶の額にかかった髪を右手でそっとかきあげた。
「無理しなくて、いいのよ?」
「ううん」
ピンクの表紙を撫でながら、沙耶はゆっくりと首を振った。
「あたし、あの人のこと、誰だかわからなかった。でも、あたし」
顔をあげて円を見つめる。
「あたし、すごく大切な人がいるの。それだけは、覚えている」
そうして、強引に笑ってみせた。
「だからあたしは、思い出さなくちゃいけない。あたし、あの人の悲しむ顔だけは、見たくない」
そう、と円は下がった眉で笑う。
そうして、ゆっくりと沙耶の頭を撫でた。
あの人は、ものすごく傷ついた顔をした。それでも小さく微笑んだのはきっと、自分のことを気遣ってくれたからだ。忘れた事なんて気にしてない、とでも言いたげに。
だから、思い出さなくては。彼がまたくる前に。
そして、日記の表紙を開いた。
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