第三章 龍と一人の女
翌朝。
「二日酔いね」
円は、さくっと切り捨てた。
「うー」
ベッドの上で枕を抱えたまま沙耶がうなる。それを呆れて円は見下ろす。
「まぁ、昨日は煽った私が悪いし。昨日、休日出勤してもらっちゃったし。そこでうだうだしてなさい。治ったら来ればいいから。合鍵、持ってるでしょ」
言って立ち上がる。
「何……、その気遣い?」
「別に? いつも優しいでしょ、私は」
言うとさっさと部屋を出て行く。
その後ろ姿を見送り、鍵がしまる音が部屋に響く。
ため息をつき、枕元のケータイを引き寄せる。
龍一から謝罪のメールが来ていた。返信しようと画面を開くけど、やっぱり頭が痛くてそれを閉じる。
「あたしの倍以上飲んで平気とか、本当円姉ってばけもの」
代わりに小さく呟いて、瞳を閉じた。
「沙耶は!?」
事務所に来てそうそう、清澄がそう言った。
「二日酔いで私の部屋で行き倒れてる」
書類を見たまま、背を向けたまま、円が答えた。
「二日酔い? 沙耶が二日酔いになるまで飲んだ訳? なんで?」
「どうせ円が煽ったんだろう」
給湯室からコーヒーカップを二つ持って出てきた直純が言う。
「失礼ねー、まあ、そうだけどね」
「清澄もいる?」
「あ、うん、もらう」
言いながら自分の席に座る。
「何? なんか沙耶に用でもあったの? 直、このコーヒー苦くない?」
「普通だろ。はい」
「ありがとう」
清澄は渡されたコーヒーを一口飲み
「いや、昨日ここに祐子が来ちゃって」
「カノジョちゃんが?」
「うん、それで沙耶に会っちゃったから……、大丈夫かなっと思って。もしかして、それで自棄酒だったりとか、しない?」
直純が切れ長の眼を細めた。
「清澄は平気なのか?」
「え?」
「また喧嘩になったりとかは……」
「あ、うん、それは、大丈夫。俺が選んだ仕事だから」
左手をぱたぱたとふり、微笑む。
「あんまり、カノジョに心配かけないようにね」
書類に眼を落としながら円が言った。
「うん、わかってる」
円は書き上げた書類を封筒に入れると
「それで、来たばっかりで悪いけどお使いお願い」
それを清澄に渡す。
「それ、啓之のとこ持って行って。で、代わりに書類渡されると思うから持ってきて」
「病院?」
「うん」
「わかった」
清澄は残ったコーヒーを一気に飲み干す。
「直さん、やっぱりコーヒーちょっと苦いと思う」
「ほらー、やっぱりー」
清澄の言葉に円が嬉しそうに笑い、直純が眉をひそめる。
「普通だってば」
それを見て清澄は笑うと、
「それじゃ、行ってきます」
鞄を持って立ち上がった。
ドアが閉まり、足音が消えてからたっぷり三十秒後、
「円」
「直」
お互い同時に名前を呼び、顔を見る。
「沙耶、大丈夫なのか?」
「微妙。これ見て」
言ってケータイを手渡す。
「啓之からのメール」
読み終えて、
「目眩で倒れかけたって、これ」
「うん、本当に体調不良だったのかもしれないけど、微妙よね」
桜色した爪で机の上を何度も叩く。
「龍だったらどうしよう」
「でも、何もないのに?」
「何も無いから危なくない?」
「それは、なー」
お互いに小さくため息。
「明日にでも、沙耶連れて父様のところいくわ」
「うん、頼むわ」
「龍を抑えてる力が弱くなってるとか、そういうんじゃないといいけど」
言ってコーヒーカップに口をつけると、その苦さに眉をひそめた。
『よぉ、龍一』
頭上から聞こえてくる明るい声に眉をひそめた。
『りゅーいちー、きーいーてーるーのーかー』
学校にいる幽霊のちぃちゃんだ。答える代わりに右手をあげた。
テンションがあがらない。
昨日の遊園地の一件から、沙耶からメールが返ってこない。やっぱり、怒らせたのだろうか。それとも他の何かだろうか。
「榊原」
かけられた声に振り返る。
「おはよう」
「ん、おはよ」
巽翔だった。
「暗いな……。沙耶さんから連絡がない?」
「ああ。何か聞いた?」
「いいや、悪い」
「そっか」
ため息をつきながら、教室のドアをあける。
「おはよー、榊原くーん」
甲高い杏子の声にもう一度ため息をついた。
目が覚めた。
頭痛は少し和らいだ。
沙耶はゆっくりと体を起こした。
正午過ぎ。
「仕事、行かなきゃ」
立ち上がる。
その前にシャワーを浴びて……。円の部屋にはいくつか服を置いている。化粧品も少し借りよう。
「よし、大丈夫」
微笑んだ。
鏡の中の自分はちゃんと笑っていた。
「沙耶、今から来るって」
ケータイを閉じながら円が言った。
「そっか」
「んー」
少し宙を見て、
「心配だからちょっと迎えに行ってくるわ。うちからだと交通の便悪いし」
言って円は立ち上がった。
「なんだかんだで円は俺より心配性だよな」
直純が小さく呟いて笑った。
「それでねー榊原君」
杏子の話を聞き流す。英単語帳をぺらぺらとめくる。
はやく帰りのSHR終わらないだろうか。
単語は頭に入らない。いつまでもメールを待つなんて女々しいな。本当にただ単に、仕事が忙しいのかもしれないのに。社会人だから。
自分で考えたその言葉に、自分で傷ついた。何にしても傷つくのか。
「それで昨日ねー」
どんっ
杏子の声を遮る様に、突然大きな音が響いた。
枝が一つ、窓に当たった。
教室にいた全員が窓の方を見る。遠くの方で枝葉が風に舞う。
「何ー?」
杏子が呟く。教室がざわめく。
「え、台風?」
「こんな急に?」
だんっ
「榊原君!?」
机を蹴飛ばす様にして立ち上がると、龍一は教室を飛び出す。
今、見えたのは! 今のはっ。
「榊原っ!」
『龍一!』
後ろから声をかけられる。翔とちぃちゃんだ。
「巽っ、今のはっ」
頷かれる。
呼吸が、止まるような気がした。
あの、窓の外に見えた黒い影は。
「沙耶さんの、龍だ」
どうして? どうしてどうしてどうしてどうして。
ぐっと左肩を抑え込む。
普通に事務所に向かっているだけだった。普通に歩いているだけだった。それなのに、なんで。
「とまりなさい」
呟く。
突然現れた龍は辺りを暴れる。
「とまりなさいっ」
殆ど悲鳴のような声がもれる。
どうしてなんでどうして。どうしてこんなことに。
また、目眩がした.昨日のよりも強力な揺れ。
住宅街から、人の少ない公園にまで来ることができたのは幸いだった。
見えない人からしたら、突然木々が折れ出したように見えるだろう。逃げ出した子連れの親子は大丈夫だったろうか。怪我をしていないだろうか。
意識があるのに龍を抑えることが出来ない。意識が飛ばされているのとは違う。
「沙耶っ!」
声がする。悲鳴のような声で一瞬だれだかわからなかった。見慣れた顔。
「円姉……」
「なんでっ」
とまらない。どうしよう。誰か助けて。これ以上、何かを壊す前に。
「円姉」
かすれた声しかでない。
「ごめん、お願い……」
意味を悟って、いつも冷静な円の顔が歪む。必死に首を横に振る。
「待ちなさい。大丈夫だから、どうにかするから、だから」
言って近づこうとするのを、龍が阻む。
「ごめんなさい、もう、いいから」
だから、
ぐっと肩をにぎって、
「沙耶っ!!!」
叫ばれた声は、円の物ではなかった。
「りゅう、いち……」
「龍一君」
一瞬、龍の動きが鈍る。
瞬間、円が沙耶の元まで近づく。
「沙耶っ」
再び円を阻もうとする龍。
「円さん、はやくっ」
それを翔が庇う。一部だけ龍の動きを止める。
「まどかねえ……」
「大丈夫」
近づいて唱える。龍を封じ込める祝詞。
何度も何度も。
ゆっくりと、龍が消えて戻って行く。
「沙耶っ!!」
龍一が走って近づいてくる。
学校だったのに、ごめんね。そんなことをふっと思う。
「沙耶、大丈夫?」
「ごめん」
横に片膝をついた龍一の首筋にしがみつく。慌てて龍一はその背を受け止めた。
「ごめんなさい、あたし、もう限界だ」
声がかすれる。
どうして。こんなことになるならば、ちゃんと謝ればよかった……。
「え?」
「せめて、龍一のことは覚えていたかったのに」
小さく小さく呟くと、腕の力が抜けて沙耶の手が首筋から離れる。慌てて龍一はその体を受け止めた。
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