第二章 いやなんです

「ごめんね、まさか昼前に席が満席になるとは思わなくって」

 言いながら龍一は沙耶に頭を下げる。

「ううん、あたしだって思ってなかったし」

 それに、と楽しそうに沙耶は笑った。

「遊園地って久しぶりだから、嬉しい」

 言いながら、その門扉を見上げた。

「遊園地、ってほどのもの、かなー」

 龍一も同じようにそれを見上げる。

 見る予定だった映画は、待ち合わせの時間には満席で、他に面白そうな映画もやってなくて、結局二人は少し郊外の遊園地にやってきていた。

「子ども騙し、な気もするけどなー」

 それでも意外とにぎわっていて入場券を買うのに並ぶ。

「昔ね、円姉達と来た事あるの」

「あ、そうだなんだ」

 もうすぐ二人の番が回ってくる、そのとき。

「あれー、榊原君?」

 甲高い声が聞こえて、龍一は一気に自分が不愉快そうな顔をしたのがわかった。振り返る。

「西園寺、さん」

 クラスメイトの西園寺杏子がそこにいた。なんか、他にも見知ったメンバーがちらほら。

「お友達?」

 隣で囁かれる。

「クラスメイト」

 訂正した。友達ではない。

 ちょっと退く? との沙耶の言葉で、仕方なく一旦列から離れる。龍一にしてみれば、さっさとチケットを買って中に入りたいところだが。

「龍一君、クラス会来ないんだもん」

 杏子が頬を膨らませる。

「あ、そんなのあったんだ、じゃあ今日じゃなくてもよかったのに」

 沙耶が困ったような顔をしていう。

「沙耶との約束が先だったから」

 仮に、後からだったとしても、こっちを優先させた自信がある。

「だいたい、ここじゃなかったよね、場所」

 思わず詰問するような口調になる。映画館から近い別の遊園地でクラス会は行われるはずだった。だから、それを避けてわざわざ遠いところに来たのに。

「うん、こっちのジェットコースター乗りたくて」

 さらり、と杏子が答える。後ろの何人かがため息をついた。

 新学期が始まって数週間、既にクラスは杏子のペースに乱されていた。天然というか、周りを顧みない杏子に。

 今回もそういうことなんだろうな、と思って龍一もため息。

「まあ、ともかく、俺はさ、先約あるし」

 デートだし、といえない自分の度胸のなさに少し笑う。

「その人誰?」

 空気を読まない杏子は、さらりと聞く。後ろのクラスメイト達も気になっていたらしい、誰もとめない。誰か、とめろよ。

 杏子のストッパー役、彼女の幼なじみ海藤こずもと目が合う。露骨に逸らされた。とめろ。

 沙耶が隣で困ったように笑いながら龍一を見る。なんて名乗るか迷っているようだった。

 龍一もなんて説明しようか悩みがながら口を開こうとすると、

「カノジョじゃないでしょ?」

 さらっと、杏子が空気の読まない発言をした。事実だけど。

「だって、年上でしょう? その服」

 と、沙耶を上から下までみて、

「JILLの新作ワンピ!」

「ええ、まあ……」

 言われて沙耶が首を傾げる。

「この前雑誌で見た! 高いのに。靴も鞄もmiumiuだし! いいなー! それが買えるってことは学生じゃないんでしょう。学生と社会人じゃ、ね? カノジョじゃないでしょ?」

「杏子!」

 さすがにまずいと思ったのか、こずもが杏子の腕をひっぱる。

「え、なにー?」

 わかっていないような声を杏子はあげる。

 前から思っていたんだけど、わざとじゃないか、こいつ。頭の回転だけは異様に早いし、学校の成績も実はいいし。

 ちらり、とおそるおそる沙耶の伺うと、軽く唇を噛んで他所を向いていた。

「沙耶」

「せっかくなんだから、こっちに参加したら? 映画、駄目になっちゃったんだし」

 声をかけるとゆっくりと微笑んで、言われる。微笑み方が完璧に営業モードだ。

「え?」

 慌てる。せっかくの貴重な休日をなんで。

「だって、沙耶の約束の方が」

「映画、また別の日に行こう?」

 微笑んだまま、まるで、子どもをあやすかのような声色で。

 その声に、顔に、カチンと来る。そんなに子どもか、俺は。それを黙って飲み込む。口に出せば、さらに子どもだ。

「じゃあ、榊原君も一緒に遊ぼうよ」

 杏子が楽しそうな声をあげる。

「杏子。あんた、調子乗り過ぎ」

 こずもがその頭を一度叩くと、

「誰かこれ、どっかに連れてって」

 後ろのメンバーに告げる。こずもと仲のいい女子数人が

「杏子ちゃん、あっちの売店行かない?」

「え、でも」

「まあまあ、可愛いチケットホルダーがあってね」

 杏子の両脇を固めて連れて行く。数ヶ月で女子は女子で、杏子の扱いを見つけたらしい。

「ごめんなさい、あの子、空気読まないから」

 こずもが沙耶に向き直る。

「アレのことは気にしなくていいので」

 沙耶は微笑んだまま、上品に首を横に振った。

「榊原、逃げるなら今」

 こずもは龍一をみると真顔で言った。

「ああ、うん」

 本気で頷く。

「沙耶、どっか別のとこ行こう。連れ回して悪いけど」

「でも」

 腕をひいても、彼女はその場から動かない。

「悪いんじゃないかしら?」

「これがいなくても何ら問題ありません」

 こずもが即答する。

 酷い扱いだが、今回は我慢する。

「そうね、」

 一瞬、悩むように視線を動かしたが、すぐに微笑み、

「じゃあ、ここで失礼して」

 言いかけた言葉を、鈍い音が遮る。ケータイのバイブレーション。

 鞄の中のそれをちらっと見ると、沙耶は

「ごめんなさい、ちょっと」

 ケータイを耳に当てて、その場を離れる。

 それを見ながら、

「ごめん、中入ってどうぞ?」

 クラスメイト達に告げる。龍一達が話している間にも、全員分の入場券は購入されていた。

「言われなくても」

 こずもが言う。なんで、こう、好戦的なんだろう?

 それじゃあ、と片手を上げかけたところで

「龍一」

 電話を終えた沙耶が戻ってくる。無表情なのが怖い。

「ん?」

「ごめん、仕事になっちゃった」

「えっ!?」

 結構本気で大きい声がでた。恨むぞ、円さん。

「ごめんね」

 両手を合わせて拝まれる。

「いや、いいけど、そっか」

 歩きかけた足を止めて、それでも少し離れてこずもは二人を見守る。

「うん、ごめん。せっかくだから、学校の子と仲良くね」

 微笑まれる。

「それじゃあ」

 沙耶はいい、こずも達に向けても頭を下げる。

「あ、じゃあ、駅まで送る」

「大丈夫、円姉が迎えにくるから」

「でも、」

 歩き出そうとする彼女の右手をつかむ。

「大丈夫だって」

 振り返って、その手を払われた。

「あたしは、子どもじゃないから」

 それだけ吐き捨てるように言うと、その場を走りさった。

 咄嗟に追いかける事もできなくて、龍一はただ、空になった右手を見つめた。


「馬に蹴られて死にたくないんでしょ?」

 目の前に止まった見慣れた車に乗り込んだ途端、低い声色で沙耶は言った。

「ごめん、本当に悪いと思ってる」

 運転席の円が両手を合わせて頭を下げる。

「でも、直も私も別件入ってるし。うちの人には頼めないし」

 ごめんね? ともう一度。

「……いいよ、もう」

 ため息をつきながらシートベルトを締める。

「仕事だもんね」

 円に悪気がないこともわかっている。この仕事は仕事がないときはとことんないが、あるときは八割方急を要する物だ。

 それに実際あの場所は居心地が悪くて抜け出せた事に感謝していないわけではない。

「ありがと。夕飯おごる」

「それはどうも」

 車が動き出す。

「そこにあるのが資料。FAXだし、手書きだし、読みにくいだろうけど、一応」

 無造作に放り出してある、バインダーを手に取る。

「啓之さんのとこか」

「そう。病院で降ろすから。私、ちょっと遠出するけど、終わったら連絡する。だから、夕飯何食べたいか考えて……っと、終わったら龍一君と合流する?」

「しない」

 自分でも思ったより強い口調だった。円は少しだけ驚いたような顔をしたけれども、

「そ、じゃあ何食べたいか考えておいて」

 深くつっこまずに告げた。

「ん」

 短く答えながら、資料をめくった。今は、何も聞かないでくれる彼女の優しさが嬉しかった。


「沙耶ちゃん、ごめんね」

 病院のロビーで、一海啓之は、相変わらずのうさんくさいぐらいの笑みで言った。

「いいえ。急患、ですもんね」

 言って、少しだけ悪戯っぽく笑う。

「うん、そう急患」

 啓之も笑った。

 啓之とやるいつものやりとり。そういえば、龍一のときも同じことをやったな、と思い出す。思い出して小さく唇を噛んだ。今はそんなこと、忘れなくちゃいけない。

「交通事故。カップルで運ばれてきたんだけど、怪我はしたけど命には別状はない。でも目を覚まさない」

 こっち、と歩きながら啓之は小声で早口に告げる。

「脳には異常がない、なかった。なのに、段々衰弱してる」

 そっと病室のドアをあける。すっと体を滑り込ませる。

「これは……」

 ベッドに横たわる男女を見て、沙耶は眉をひそめた。

「急患でしょ?」

 口先だけはひょうひょうと啓之が言う。

「事故の場所は?」

「最近ニュース見た? 2日前に父親が家に火つけて無理心中図ったとこ。その家の前」

 ベッドに横たわる男女を恨めしそうに見つめる、黒い四つの影。

「四人家族でしたっけ?」

「五人。父親、助かっちゃったから。どっちにしろ、父親はここにはいないんじゃん?」

「ああ、そっか……」

 一つ大きいのが母親で、あとが子供?

「……お願いして、大丈夫?」

 耳元で尋ねられた言葉に頷く。

「そのために来ましたから」

 告げると髪を片手で払ってベッドに近づく。

「気をつけてね」

 啓之は後ろに下がり、ドアを押さえながら片手を振った。

 無責任にも見えるけど、何もできない自分に啓之が内心で腹を立てているのを知っている。それは彼のせいではないけれども、一海の名を持つ彼には辛いことなのだろう。一海の名を持たない、大道寺沙耶がこの仕事をしているのと同程度には外から見るとおかしなことだ。それでも、与えられた役割を出来るだけ平気な顔をして行うしかない。

 そうしないと自分の居場所がなくなってしまう。

 ゆっくりと口元を笑みの形にする。

「こんにちは、はじめまして」

 できるだけ柔らかい声色で話しかける。

「あたしの名前は大道寺沙耶。調律事務所の事務員で、一海の実質、養子です」

 聞こえているのかいないのか、影は動かない。もともと、本体はこちらではないのだろう。

「うちの事務所のスタンスとして自主的にもしあなたがこのままここから立ち去ってくれるならばあなたに危害は加えないけど、まぁ無理か」

 動かない影。ベッドの横にまで近づいた。

 一番小さい影は、沙耶の腰ぐらいの高さしかなかった。

「何があったらこうなるのかしらね?」

 小さく呟いて、鞄から出した札を寝ている男女の上にそっと載せる。影が一瞬動いたような気がした。

「ごめんなさいね。でも、生きている人たちを連れて行くことは許されない」

 囁く様に告げると、小さく祝詞を唱える。

 影は動かないまま、崩れる様にして、消えた。

 ふぅ、っと一つ息を吐く。

「ありがと」

 啓之が背後から声をかける。

「いいえ」

 振り返ると小さく微笑む。

「こっちにいたのは本人達ではないみたいなので、現場に行ってきます。元から断たないとまた同じことがあると思うので」

 そして連鎖が連鎖をうみ、沙耶ではどうにも出来なくなる前に。

 啓之が一度頷く。

「うん、お願いします」

 軽い結界を念のためにはり、二人は病室を後にした。

「ごめんね、日曜日なのに」

「いいえ」

 首を横に振って、微笑む。

「そういえばさ、彼とはどう?」

「彼?」

 首を傾げて啓之を見る。

「ええっと、榊原龍一くん?」

「どうって……」

 眉をひそめる。

「あれ、まだ付き合ってないんだー」

 のーんびりと言われた。

「まだって」

「彼、いい子だよ」

「それは、知ってますけど……」

 そんなこと、痛い程良く知っている。榊原龍一は、沙耶の龍のことも受け止めて、龍の事を知っても沙耶から離れて行かず、好意を持ってくれている。気を使ってくれる。優しい人だ。

「知ってますけど、だから、巻き込めません」 

 啓之の方を見ずに告げる。

 巻き込めない。

 今日、あの場から逃げ出したのは、子供だの大人だの社会人だの、そんなことじゃない。ただ、沙耶は学生時代にクラス会としてクラスの事遊園地に遊びにくることも、あんな風にクラスメイトとおしゃべりすることもなかった。それを普通に行う龍一が、まぶしかったのだ。居たたまれなかった。彼は普通の、高校生の男の子だということを認識させられた、改めて。

 これ以上巻き込めない、と本気で思った。これ以上深く関わって嫌われるのは怖い。嫌われた時の事を考えると怖い。

 でも、それよりも、これ以上自分と一緒に居ると、また幽霊や化け物と関わってしまう事になる。

 高校時代のクラスメイトで、事務所で働いている佐野清澄。見えない彼が、事務所で働いている理由は明確だ。自分が巻き込んでしまったからだ、こっちの世界に。自分と関わらなければ、清澄だって今頃は普通の会社に就職して、普通の人生を歩んでいたのだろう。こんな人様に説明できない仕事じゃなくて。

 生きている人たちを連れて行くことは許されない。それは、自分自身にそのまま返ってくる言葉だ。違う世界に生きている人たちをこちらの世界に連れ込むことは許されない。

「……そっか」

 啓之が呟いたのが聞こえた。いつもよりも、落ち着いた声だった。

「はい」

 小さく頷くと、出来るだけ微笑んで顔をあげた。

 啓之はいつも通りのうさんくさい笑顔を浮かべて頷いた。

「ありがとね、沙耶ちゃん」

 うさんくさい笑顔のまま、啓之は一度沙耶の頭を軽く叩いた。子どもをあやすように。

 沙耶は苦笑いをしたまま、首を傾げた。

「あれ、でも、啓之さんって龍一と……」

 最後まで言えなかった。ゆらり、と視界が揺らめく。足がもつれる。

「沙耶ちゃんっ」

 隣の啓之が支えてくれたから、地面にぶつかることだけは避けられた。

「大丈夫?」

「ごめんなさい、ちょっと目眩が……、貧血気味みたい」

 顔を上げて微笑む。

「大丈夫です」

「本当?」

 疑うような目つきに、もう一度頷いてみせる。ちゃんと笑えているだろうか。

 啓之と別れ、外を歩きながら思う。

 今の目眩、あれはただの目眩なんかではなかった。自分が一番よくわかる。あれは、暴れかけた龍を押し込める感覚だ。沙耶の中にいる、沙耶の記憶を喰らっている龍。

 でも、そんなはずはない。仕事は普通に終わったし、龍が暴れる要素はどこにもなかった。

「早起きしたからね」

 小さく呟く。ただの目眩だ、立ちくらみだ。そうじゃなくちゃおかしい。

 自分に言い聞かせると、気持ちを切り替えて事故現場に向かって歩き出した。


「榊原。そういう顔を、こういうところでするな。と僕に言われるようでどうする」

 不愉快さを隠しもせずフードコートの椅子に座ってコーラのストローを何度も弾いていた龍一が顔あげると、そこにはアイスコーヒーを片手にもった巽翔が、呆れたような顔をして立っていた。

「意外だな、巽がいるなんて」

 クラス会に来るようなキャラじゃないと思っていた。

「……円さんが、」

「ああ、押し切ったんだ」

「もっと子どもらしいことをしなさい、と。まったく、人の気も知らないで」

 その気持ちは分かる気がした。相手に子ども扱いされたくなくて、相手に釣り合う人間になりたくて、必死にあがいているのに、なのに向こうはこちらの気も知らないで、容易に子ども扱いする。

「子どもじゃない、か」

 先ほどの言葉を思い出し、小さく呟く。

「痛いな、お互い」

 翔がいたわるように微笑む。

「だけど、君がそんなんでどうするんだ?」

「わかってる。沙耶には悪気はないんだろうし。……だから、困るだろうが」

 机の上に肘をつき、額に手をあてる。

 言った瞬間、一瞬だけ、彼女の表情が歪んだ。多分、自分でも何を言っているかわかったのだろう。気持ちを察するのは敏感な人だから。

「悪い」

 素直に翔は謝った。

「いや」

 龍一は額に手を当てたまま首を横に振った。

「巽が悪いんじゃない」

 じゃあ、誰が悪いのか? 沙耶は悪くない。じゃあ、自分が悪いのか? でも、今高校生なのは決して龍一のせいでもない。

「誰も悪くないって最悪だな」

 小さく呟くと、向かいの席に腰掛けた翔が頷いた。

 こんなところで、こんな風に、遊んでいる場合ではないのに。早くはやく、追いつかなくちゃ。

 でも、どうやったら追いつくのか、彼女と釣り合うのかがわからない。

「榊原くーん」

 杏子の甲高い声と足音が、近寄ってくるのを背中で感じた。


 調律師事務所の自分の席で、沙耶はぼーっと壁を眺めていた。

 さっきの一家はちゃんと納得して旅立って行った、と思う。少なくとも、沙耶に出来る限りのことはしてあげられたと思う。みんな、死を受け入れられていなかったけれども、父親のことは大好きだった。それが羨ましい。

 父親とのいい思い出なんて、何かあっただろうか。あの人はあたしを化け物と言い、捨てた。

 心中の原因は借金だったらしい。借金なんて生きていればどうにでもなったのに、と母親が最後に呟いたのが忘れられない。私たちはそんなに頼りにならなかったのか、と。

 あんなに優しい人たちこそ、家族皆で生きるべきだったのに。

 この前お邪魔した龍一の家も、皆優しかった。ああいう家で生まれれば何かが違ったのだろうか。ああいう優しい家族なら、こんなあたしでも認めてくれたのだろうか。それとも、やっぱり化け物として捨てられたのだろうか。

 ためいき。

 どうでもいいことばっかり考えている。

 一応、報告書を作らなくてはと事務所に来たのに。一人だからいけない。日曜日だし、仕方がないのだけれども。

 机に広げたまま手つかずの用紙に一度目を落とし、気分を変えるために給湯室に向かった。紅茶でも飲もう。

 紅茶をいれる準備をしていると、外で何か話し声と古い階段がきしむ音がする。この古いビルは、一階の花屋以外日曜日はどこも休みのはずだ。事務所の誰かが来たのかと思ったが、それにしては話し声が甲高い。それに、二人?

 準備の手を止め、ドアの方に向かうと、直前でドアが勢い良く開け放たれた。

「あ……」

 知っている人物に足が止まる。

 入ってきた人物は沙耶をぎろりと睨みつけ

「ちょっとあんた、いい加減にしなさいよっ!」

 にじりよると勢い良くまくしたてる。沙耶より小柄なその女性は、顔を真っ赤にしてまくしたてる。

「幽霊だの妖怪だのあんた達が勝手に信じている分にはいいけれども、これ以上清澄を巻き込まないでよっ! 高校の同級生だかなんだか知らないけど、いい加減にしてっ! 何が幽霊よ、妖怪よ、化け物よっ! どうやったら携帯電話が壊れる訳? どうやったら」

「祐子っ!!」

 大声が言葉を遮る。

 声の主が勢いにのまれて固まっている沙耶と女性の間に体を滑り込ませる。

「清澄、どきなさい!」

「祐子、頼むからいい加減にしてくれっ」

 我に返る。

「沙耶、ごめん」

 事務所の人間、佐野清澄とその恋人だ。名前は確か、桜庭祐子。

「あのね、清澄。今日という今日は」

「あーもー、わかったから」

 どうしたらいいのかわからず二人を交互に見る事しかできない。

 清澄の恋人が沙耶達の存在を怪しんでいて、疎ましく思っていて、嫌っている事は知っている。こうやって事務所で怒鳴られるのも初めてじゃない。ただ、いつもは円と直純がいた。円が冷たく切り捨て、直純がそれをフォローしていた。一人で対応したことがない。

「ごめんね、沙耶!」

 困っている間にも祐子をなだめすかし、外に出す事に成功した清澄が言う。

「ちょっと今日、喧嘩しちゃって。この前、ケータイ壊した事とかまたひっぱりだされちゃって。あの通りキレちゃって。日曜なら誰もいないからいいかなって思ったんだけど」

「あ、うん、ごめん……」

「仕事だった?」

「ちょっとね。ごめんね」

「なんで沙耶が謝るのさ」

 清澄が呆れた様に笑う。

「ごめん、祐子が怒るから。明日またちゃんと説明する。ごめんね」

 早口で言うと事務所を出て行く。

 手近な椅子に座りこむ。

 謝らなければいけないのはこっちの方だ。桜庭祐子の言う通りだ。清澄をこっちの世界に引きずり込んだのは、あたし自身だ。何一つ上手く対応出来ないくせに、彼をこちらに引きずり込んだ。

 ため息をつく。

「仕事、しなきゃね」

 立ち上がりかけ、また歪んだ視界に慌てて机に手をつく。

「やだっ、もう、なんで……」

 立ちくらみだ、ただの立ちくらみだ。必死に言い聞かせる。右手で肩を強く握る。

 だから大丈夫。もう一度腰を下ろす。

 だから、だいじょうぶ。

 そのまま机に頭を預けた。

 

「ただいまー」

 ちっとも楽しめないまま終わった遊園地から逃れ、龍一は玄関のドアをあける。

「おかえり」

「……雅」

 ため息。何故か玄関で姉が仁王立ちしていた。

「今日はなんだよ。また信介さんが出張なのか、日曜日なのに」

 結婚して家を出て行った筈なのに、ことあるごと帰ってくる姉に呆れる。靴を脱ぎながらそういうと、

「お前は馬鹿か。龍に話が合ってきたんだ」

「え?」

 話?

「いいから来い」

 言ってすたすたと歩きだす。慌ててその後を追った。

 龍一の部屋に迷わず入ると、雅は椅子に腰掛ける。

「ほら、そこに座れ」

 言われたのは床で、でも大人しく正座する。いつも怒ったような態度をとるけれども、今日に関しては本気で怒っている気がする。俺、なんかしたっけ?

「龍一、お前、今年に入って急に進路希望変更したらしいな」

「あー、うん」

 確かに、三年になっていきなり文学部志望から医学部に変えた。

「何故」

「雅には、関係ないだろ」

「関係ない?」

 子どもが居るとは思えない、我が姉ながら抜群のスタイル。その長い足をゆっくりと組み替える。威圧的に。

「お前、それ本当に言っているのか? 学費を出すのは誰だと思ってるんだ? 私にはともかく、母さん達に説明する義務は当然あるだろう。医学部になったら学費もかかるんだろうし」

 正論だ。それは薄々思っていた。それを避けていたのは、どうやって説明すればいいかわからなかったからに他ならない。

 医者になって少しでも沙耶の助けになればいい。そう思っている。彼女の龍をどうにかすることができればいい、と。でもそんなこと、どうやって説明すればいいのか。

「……やっぱり、巫女姫様か」

 雅が小さく言う。どこかで聞いたような単語に顔をあげる。

「大道寺さん絡みか?」

 問われて、頷く。

「そうか、わかった。それだけわかればいい」

 言って一人で納得して、立ち上がる。

「雅」

 慌てて呼び止める。勝手に納得されても困る。

「ん、彼女には口止めしておいて自分で言うのもどうかと思うが、大道寺さんとは元々面識があるんだ」

「え?」

「高校の時に」

 言われて考える。姉も沙耶も同じ高校で、姉が3年の時に沙耶が1年。ならば、会う可能性も無いとは言えない。

「幽霊が見える巫女姫様、って呼ばれていたんだ、彼女。それで一度、助けられた」

「それはどんな?」

 聞いたら睨まれた。

「なんでもないです」

「だから、そういうことなんだろう? 母さん達に説明できないのは」

 頷く。

「私から母さん達には説明しておく。龍がなんで急に志望を変更したのかわからないって言われてな。兄弟の方が話しやすい事もあるからって言ったんだ。適当に色恋沙汰とでも言っとけば、母さんのことだから納得するだろう」

「……それもどうかと」

「文句あるの?」

「ありません」

 慌てて首を横に振ると、ゆっくりと雅が微笑む。

「わかればいい」

 沙耶は、雅の事を優しい人ね、と言っていた。確かにまあ、優しいときがないわけでもないが。

「ありがとう」

「貸し一な」

 いや、優しくないな。思い直す。

「……巫女姫様、じゃない。大道寺さんが病気とか、そういうことじゃないよな?」

 ドアノブに手をかけたところで、雅が振り返る。

 言葉に詰まる。病気、ではないけれども。龍が憑いて、記憶を失うんだなんてこと、勝手に言っていいものではない。

「言えないか」

 雅がため息をつく。弟の浅はかさをたしなめるように。

「龍、答えられないってことは、答えたのと殆ど一緒だ」

「あー、いや、うん。病気って言うわけじゃないけど、うん、まあ」

「わかったわかった。そういうことな」

 諦めたように、それでいて納得したようにいい、挨拶もなしに部屋を出て行く。

 ため息をついて、立ち上がると

「あ、そうそう、龍」

 戻ってきた雅が顔だけのぞかせて言った。

「医者を目指すのもいいが、その前に捨てられない様にな、お前」

「余計なお世話だーっ!」

 反射的に鞄を投げつけるが、鞄は閉められたドアに当たっただけだった。

「余計なお世話だ」

 人が気にしていることをずけずけと。どこが優しいだ、どこが。


 テーブルの上に並んだ料理の数々に、沈んでいた心が弾む。

「円姉の料理とか久しぶりなんだけど」

「そこまで喜んでもらえれば嬉しいわねー」

 まんざらでもなさそうに円は微笑んだ。

 夕飯は円の部屋で食べる事になった。どこかに外でご飯を食べる気分には、さっきの沙耶はとてもじゃないがなれなかった。

「それより、具合大丈夫?」

「うん」

 微笑む。本当にさっきのは気のせいだったと思えた。今はとても気分がいい。

「ごめんね、我が侭で」

「それはいいけど」

 まだ疑ったような顔をして、円が呟く。それを急かす。

「食べよう」

「はいはい」

「いただきます」

 言って頬張る。パエリア。

「ん、美味しい」

「そ? よかった」

「急にご飯食べにきたのにパエリア作れるって円姉すごいよねー、あたし絶対無理」

「でしょ?」

 にやりと笑う円に、微笑む。そういうところが、好きだ。

「高校の時は毎日こういうご飯食べてたとか、あたし贅沢だったよねー」

 高校のときは一緒に住んでいた。卒業と同時に引っ越しをしたけれども。

「何? 可愛い事言うわねーどうしたの、今日」

「別に?」

 首を傾げる。

「いつも通りだけど?」

「そう?」

 円は変な物を見るような眼で一瞬沙耶を見て、

「まあ、本人みたいだし、何にも憑いてないみたいだし、いいけど」

 言ってスープを飲み、

「んー、沙耶さ、本当に体調平気?」

「何? しつこいなー、平気だってば」

「違うそうじゃなくて……」

 スプーンを置き、真面目な顔をして

「お酒、飲まない?」

「ああ、そういう……s」

 笑う。

「ちょっとだけなら」

 答えると、嬉しそうに笑った。円の酒好きは周知の事実だ。

 一緒に住んでいたときも、やたらとお酒を勧めてきた。未成年だから断っていたけれども。

 赤ワインを出してきて、嬉しそうにあける。

「また、無駄に高そうな……」

「いい物食べないとねー」

 なんだかんだいって、業務に従事出来る人間が少ないお祓い系の仕事は儲かる。そしてそれを代々生業としてきた一家の宗主の娘、次期宗主はそれなりにお金持ちなお嬢様だ。それは別に、悪い意味ではない。

 今ではいなかったことにされているけれども、沙耶自身社長令嬢だったわけだし。

 生まれたときの環境というのは、やっぱり人を縛るのだろうか。

 それだったら、普通に、普通の家庭に、生まれたかった。

「そういえばさー」

 円は楽しそうにご飯を食べながら

「龍一君と喧嘩したの?」

 口に含んだワインを吹きそうになった。

「え?」

「急に呼び出したのは悪かったと思ってる。けど、それにしては対応が変じゃない、あんた」

 食事を続けたまま円は言う。綺麗な黄色をしたパプリカが口に運ばれる。

「……別に、ただ」

 お行儀悪くスプーンでパエリアをつっつきながら、

「住む世界が違うな、って思っただけ」

 円がワインを飲みながら首を傾げた。

「世界ねー」

 沈黙。それっきり円は何も言わない。

 口に運んだスープも、パエリアも、サラダも、全部美味しい。このまま味わって食事を終わりにして家に帰ることもできる。

 でも、それは沙耶も円も望んでいない。

「……円姉、ビールない?」

 小さい声での言葉に、円はにっこりと微笑み、

「あるわよ、冷蔵庫に沢山」

 冷蔵庫から出してきたビールをその場でぐっと飲む。

「私にもちょうだーい」

「はいはい」

「さんきゅー」

 手渡された缶を円は勢いよくあける。

「あのね」

「うん?」

「あたしは子どもじゃない、とか言っちゃった」

 苦笑い。

「龍一、怒っただろうなー」

 彼が年の差を気にしている事は薄々気づいている。それなのに、子どもじゃない、なんて。

「……ものすごく、基本的なこと聞いていい?」

「うん?」

「あんた、結局龍一君のこと好きなのよね?」

「直球」

 笑う。膝を抱えるようにして座り直す。

「今日だけの、ここだけの話ね、……好きだよ」

 このワンピースだって、今日のためにわくわくしながら買った。会えるのをいつも楽しみにしていた。だけど、

「でも、あたし、賢と別れた時にもう恋をしないって決めたんだもの」

 別れたあの日、泣いて帰ってきたことを円は知っている。

「あたし、絶対にいつか龍一のことを傷つける。今後も事件に巻き込んでしまうかもしれないし、忘れてしまうかもしれない。だから、」

 顔を上げる。円は何も言わないで、切れ長の眼を少しだけ細めてこちらを見ていた。

「だから、今日だけの、ここだけの話。龍一には普通の、もっと可愛い子が似合うよ」

「でも、その顔は、後悔してる顔」

「ん。……でもやっぱりこれでいいんだとは思うんだ。後悔は、してないっていったら嘘になるけど」

 怒らせてしまった、とは思う。それでも、これでよかったとも思っている。

「もう、あたしから離れた方がいい」

 言って微笑むと、缶に口付けて傾けた。苦い。

「私は、あんたの味方だからね」

 円は小さくそれだけ呟くと、

「よし、飲むか!」

 言って残ったビールを一気に飲み干す。

「飲みたいだけでしょー」

 明るい言い方に感謝して、昔と同じ様に茶化した。

 住む世界が違うのだ、きっと、最初から。あたしはこっちから抜け出せない。だから、

「ごめんね、龍一」

 円が冷蔵庫に向かって歩いて行く。彼女に聞こえない様に小さく呟いた。


 眠っている沙耶に寝室からとってきた毛布をかける。眉間にしわを寄せて寝ているから、とりあえず指でそのしわをのばしておいた。

 何があったのか知らないけれども、今日は一段と荒れていた。

 小さくため息をついて、円はテーブルを片付けようと立ち上がった。

 背後で小さな電子音。

 振り返ると、ソファーの上に放り出された沙耶のケータイが音を立てていた。着信表示は榊原龍一。

 一瞬ためらってから、その小さな機械を耳にあてた。

『あ、沙耶』

「こんばんは、龍一君」

『え、あれ? 円さん?』

 裏返った声に笑う。

「ごめんね、沙耶今寝てて……」

『そうですか………』

 小さなため息が聞こえる。

「ごめんね」

『いえ……、あの、沙耶、大丈夫ですか?』

「……うん」

 黙っていた方がいいことも多分ある。

『ならいいんですけど。今日、クラスで遊園地に行くっていう企画があって、それとばったり会っちゃったんで』

「巽のおぼっちゃまが言ってたやつね。今日だったんだ。そっか、それで……」

 急に世界が違うとか言い出したのか。

『怒ってませんでしたか?』

「寧ろ龍一君が怒ってないか気にしてたけど?」

『俺は、別に……』

「大丈夫、いつも通り」

『なら、いいんですけど……』

「龍一君」

『はい?』

「いつも、ありがとね」

『え?』

 電話の向こうで龍一が笑ったのがわかった。

『どうしたんですか? 急に』

「んー、なんとなく。あの子気まぐれで大変でしょう?」

『確かに沙耶の発言ぶれることが多いですけど、俺の事気遣ってくれているの分かるから、別に気まぐれなんて思いませんよ』

 そして、小さなため息。

『別に、気遣って欲しいとは思ってないんですけどね……。そんなに頼りないかな、俺』

 付け足される様に呟かれた言葉。かける言葉が特に思いつかなくて、円はただ黙っていた。

『すみません、円さんに言ってもしょうがないですよね。それじゃあ、また』

「あ、うん。またね」

 言って電話を切る。それをテーブルの上に置く。

 上手くいって欲しいと思っている。龍一が沙耶の龍のことを知っても離れて行かなかった、恐れなかった。あの時、彼となら状況は改善すると思った。

「高校生に頼り過ぎ、かな」

 お互いに仲良くすればするほど、遠ざかっている気がする。どうすればいいのかがわからない。

 小さく息を吐くと、ショートの髪をかきあげる。こればかりはどうしようもないことだ。

 食器を持って立ち上がる。ここを片付けて、もう寝よう。

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