第一章 不可解な夢に就て
迫ってくる。
黒い影が。
追いつかれる。
飲み込まれる。
「ひっ」
喉の奥であがった自分の悲鳴で沙耶は目を覚ました。布団をはねのけ、ベッドの上で上半身を起こす。
あれが夢だったことを理解し、安堵のため息を一つつくと枕元の時計をのぞき込む。午前5時前。まだ起きて活動するのには少し早く、だからといってもう一度枕に頭を埋める気にはとてもじゃないがなれなかった。
思い出す。あれは、あの黒い影は、あれをあたしはよく知っている。
喉の奥がひっついて息苦しさを覚える。知らず知らずのうちにきつく握っていた掌をなんとか開き、ベッドから降りた。
赤いスリッパを履いて、台所へと移動する。
やかんに水を入れ、火にかける。お気に入りのティーカップを出し、朝のティータイムに洒落込むことにした。たくさん並べてある紅茶の缶の中からお気に入りの一つをとり、カウンターの上に置く。
カウンターに寄りかかるようにして、ただひたすらにお湯が沸くのを待つ。
火の音と、それに揺れる水の音と、時計の音と。小さな音がやけに大きく聞こえる。1DKの小さな家がなんだかやけに広く感じられる。
思い出す。
あれは、あの黒い影は、あれはあたしの……、あたしの龍だった。
ずるずると床に座り込む。襲ってきた吐き気に、口元を押さえる。
「……最低」
小さく呟くと膝に顔を埋める。
沸騰し始めた水が、特有の音を立てる。時計の針が動く。
なんでもいいからこのまま、早く朝が来てくれないかと願う。
でも、願っても願いを聞いてくれる人は誰もいないことを知っている。
お湯が沸いた。聞き慣れたその音に、立ち上がり、火を止める。
ゆっくりと、だけど慣れた手つきで紅茶を入れる。
タイマーをセットし、残ったお湯をポットにいれる。
する事が無くなり、待つだけになった。思考が勝手に走り出す。
あたしの龍はあたしを喰らう? それでもいい。自業自得だ。だけど、だけども……。
暴走しかけた思考を停めたのは、タイマーの音だった。我に返り、慌ててそれとめ、紅茶をカップに注ぐ。紅茶の香りに少し微笑む。
それをもって、ダイニングに移る。椅子に座り、一口飲む。温かい。
小さく息を吐く。
だけどあたしの龍は、それまでに何人喰らうのだろう?
再開された思考に、カップを持つ手に力が入る。慌ててカップをテーブルの上に置く。
時々、自分が今までどうやって息をしてきたのかわからなくなる。そんな頼りなさを感じて、誰もいいから会いたくなった。声が聞きたくなった。誰もいいから、でも出来れば……。
カップを再び手に取り、ゆっくりとそれを飲む。
ちらりと時計に目をやる。きっとまだ眠っているだろうから、電話なんてしたら迷惑だろうから。これから会えるのだから。だから、電話なんてやめておこう。
必死に自分に言い聞かせる。
ふと、テーブルの上に昨日使った鞄が置きっぱなしなことに気づいた。今日はこれから出かけるのだ。前から楽しみにしていた映画に、龍一と一緒に。
そのことを思い返し、笑みを深くする。
別の鞄に中身を入れ替えようと、一旦中身を出す。お財布、ポーチ、手帳、ケータイ。
そこまで出したところで、手をとめた。
「メール受信一件」
液晶画面がそう告げる。開く。
「差出人 榊原龍一」
その文字を見て、慌てて中を読む。その前に、受信時間を確認した。昨日の夜から置きっぱなしだったから。もし昨日送られてきたメールだったらどうしよう?
「受信時間 05:40」
今の時刻は、5時46分。つい先ほどきたメールだということにひとまず安堵の息を吐く。
中を読む。
読み終わり、立ち上がるとカーテンを開けた。
真っ暗とは言わないが、暗い中、ただ、満月だけが光っている。少しずつ朝に浸食されていく、そんな月。
そして、空の端から少しずつ、朝の色になっていく。
「おはよう。まだ寝てたらごめん。ただ、空がとても綺麗だから、気が向いたら見てみて。多分、沙耶は気に入ると思うから」
そんな彼からのメールを思い出し、微笑む。それから、少し悩んで通話ボタンを押した。
『沙耶?』
聞き慣れた声に、聞きたかった声に微笑む。
「おはよう、龍一」
『おはよう。……もしかして、起こしちゃったか?』
「ううん。丁度、目が覚めていたから。龍一こそ、こんな朝早くから受験勉強?」
『いや、……目が覚めただけ。そっか、勉強すればいいのか』
受験生としてあるまじき言葉に沙耶は喉をふるわせる。
「メール、ありがとう。……綺麗だね」
夜が朝に浸食されていく。そんな時間。
『気に入ってもらえたみたいでよかった』
「うん。気に入った。とても綺麗で、でも……」
浸食されていく。
「なんだか切ない」
浸食されていく。
夜が朝に。
あたしが龍に。
『……沙耶?』
電話の向こうの心配そうな声色に我に返る。
「え、ああ。ただ、……なんだかこういう時間ってセンチメンタルになるじゃない?」
電話の声はそれについては何も返してこなかった。
「……龍一」
『ん?』
「今日の映画、楽しみにしてるから」
『ああ』
「……それじゃぁ、また後で」
『うん』
通話を終えると、何も言わなくなったそれをテーブルの上に放り出す。冷めかけた紅茶を飲む。
あたしはいつまで、
「いつまで龍一に甘えてるつもりなんだろう」
どこかで縁を、切らなくちゃいけない。龍が彼を襲う前に。
残った紅茶を飲み干し、テレビのスイッチを入れる。ブラウン管を通して聞こえてくる声を聞きながら、椅子にうずくまる。
朝が来たら来たでこんなに切ないなら、いっそ望まなければ良かったのに。
電子音。先ほど切れたばかりのケータイを手に取る。ディスプレイ表示は着信、発信者は一海円。
「……もしもし?」
『おはよう』
声は低血圧の彼女らしく、なんだか不機嫌そうだった。
「……何? 仕事?」
『わたしはまだ馬に蹴られて死にたくないから安心しなさい』
煙草に火をつけたのだろう。そんな音がした。
「いつも急に仕事だって言うくせに」
そういうと彼女は小さく笑った。
『あんた、今日デートなんでしょ?』
「……デートじゃない」
『なんだっていいけどね。……行くなら笑って行きなさい。どうせ行くなら余計なことを考えてないで、楽しみなさいよ?』
電話の向こうで、煙草を片手に笑う彼女が容易に思い浮かぶ。
「そんなこと、言われなくても……」
『沙耶』
声がなんだか急に優しい感じを帯びてきた。
『楽しんできなさいよ』
「……うん」
いつも聞かない優しい声に、やっぱりこの人は優しい人なのだと再確認する。そうしたらやけに素直に頷いてしまった。泣きそうになって慌てて目元を押さえる。
『龍一君がね、こんな朝早くから電話してきたのよ。沙耶の様子がなんだか変だって。あんたの様子が変なのなんて、いつものことだから気にすることはないと思ったんだけどね』
相手は笑う。つられて小さく笑う。
『自分じゃどうしていいのかわからないからって。だから、わたしになんとかして欲しいって。……あんた、愛されてるんだから、もうちょっと自覚を持ちなさい。カノジョが心配だからってその知り合いにこんな朝早くから電話してくる人、そうそう居ないわよ』
その台詞の所々に突っ込みたい部分はあったけれども、素直に謝る。
「……ごめん、朝早くから」
『もういいけどね』
息を吐く音がする。煙草の煙が目に浮かぶ。
『沙耶』
「……何?」
『大丈夫、なんて無責任なこと、言うつもりはないけどね。でも、……今日ぐらいは彼に答えてあげてもばちは当たらないんじゃない?』
「うん」
『いいお返事』
二人同時に笑う。
『それじゃぁ』
「うん。わざわざありがとう」
『まったくね。これから寝直すわ』
いつもの少し棘のある言い方。それさえも今は耳に心地いい。
通話を切る。
気がつくと太陽がほとんど顔を出していた。
息を吐く。
立ち上がると、窓を開けた。
「……おはよう」
空に向かって告げ、出来るだけ微笑んだ。
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