第四章 まだ、人間じゃない?

 夢を、見た。

「あなた、だれ?」

 呟かれた、言葉。よく知っている唇が、紡ぐ言葉。

 世界が、揺らぐ。

 飛び起きるようにして、目が、醒める。

「くそったれ」

 見慣れた天井に向かって吐き捨てた。

 龍が、彼女を喰らうのだ。


「おはよう、龍ちゃん」

 一階のダイニングにおりて行くと、いつもの様に声をかけられる。

「龍一」

 母親の言葉をいつものように訂正する。

「もう、龍ちゃん、最近冷たいわね」

 反抗期? と首を傾げる母親。年の割に若々しくて、その分天然な母親を思い小さくため息をついた。

 名前でも、渾名でも、イヤなものは嫌なのだ。彼女を苦しめている存在が自分の名前に入っていることが。どうしようもないことだとわかっていても。

 ましてや、それだけを縮めて呼ばれるなんて。

 男の子だもんねー、なんて呟いている母親の背中にもう一度小さくため息をついてみせると、食卓のみそ汁に手を伸ばし、

「おはよう、龍」

「だから!」

 後ろからかけられた声に条件反射的に言葉を返して、

「なんで雅がここに?」

 目の前にいる、意外な人物に眉をあげた。

「信介さんが出張なんだ」

「旦那が出張のたびにかえってくんなよ」

 結婚して出て行ったはずの、それでも月一で会う姉に、もう一度ため息。今度こそ、朝食に向き直る。

「寂しいじゃないか」

 当たり前のように雅がいう。

「優がいるじゃないか」

「言葉もしゃべれない赤ん坊と二人でいて何が楽しい?」

「……母親だろ」

「全ての女性に母性があると思ったら、間違いだぞ、龍。優の事は可愛いが、それとこれとは別だ。私が育児ノイローゼになって優を虐待したら、大変じゃないか」

 よく分からない理論武装。昔から変わらないその物言いには、何をいても無駄だと龍一は悟っていた。

 そもそも、姉が結婚して何が嫌だったかって、高校生にして叔父になったことだ。確かに甥っ子の優は可愛いけど。

「それはそうと、龍」

 雅は勝手に、龍一の隣の席に腰を下ろす。

「お前、彼女が出来たそうじゃないか。それも年上の」

「彼女じゃないよ」

 自分で言って少しだけ自分に傷つく。

「でも、泊まりで旅行に行ったんだろう?」

「ばあちゃん家に、星を見に、な。母さん、雅に余計なこというなよ」

 文句を投げかけても母親はあらあら、だめだった? とのほほんと笑うばかり。

「騙されているんじゃないのか? 年上だし」

「雅だって、信介さん、十も年上じゃないか」

「それはそれ、これはこれ」

 あっさりと言われる。

「可愛い可愛い、弟が心配なんだ。というわけで、その人を今夜家につれてこい」

「は?」

 意味不明な言葉に飲んでいたみそ汁を吹き出しそうになる。

「なんだ、それ?」

「母さんとも話合ったんだが、どちらにしろ可愛い弟がお世話になっているんだ、一回ぐらい夕食に招待しても罰はあたらないだろう」

「いや、絶対、面白そうだと思ってるだろ!」

 声をあらげる。

 絶対無理だ、何をバカなことを言っているのか、付き合ってもいない人間に急に家族で夕飯をどうぞ、と言われて誰が来るか、付き合っていたって高すぎる壁だろう。

「まぁ、任せろ」

 雅は龍一の肩に片手をおくと、胸をはった。その笑顔に騙された事、数知れず。

「いや、絶対、いやだからな!」

 龍一の声を遮るように、赤ん坊の泣き声。

「ああ、龍が五月蝿いから優が起きちゃったじゃないか」

 そんなことをいいながら、まだ文句を言う弟を残して雅は奥の部屋にひっこむ。

「いや、無理だろ」

 目の前の焼き鮭を睨みながら呟いた。

 でも、無理でもなんでもとりあえず沙耶をつれてこないことには、ろくなことにならないのは目に見えていた。連れてきてもろくなことにならないような気がするけど。

「そうそう、優ちゃん大分おおきくなったのよー。あとで龍ちゃんと一緒に写真撮りましょうねー」

 ずれたことをのほほんと言う母親。そのくせ、

「そうそう、彼女さんが苦手な食べ物があったら言ってねー」

 などという。

 ため息を一つついた。


「おはよう、榊原君」

 ハートマークがたくさんついた声で話しかけられ、龍一はもう一度ため息をついた。

 何も、下駄箱の前で捕まらなくても、どうせ席隣なのに。

「おはようございます、西園寺さん」

「やん、杏子って呼んで」

 誰が呼ぶか。

『おー、今朝もモテモテだなー、少年』

 どこから現れたのか、ちぃちゃんがにやにや笑う。それを睨みつけた。

『おお、怖っ』

 言葉と顔が一致していない。

 隣で杏子はマシンガントークを続ける。

 ため息。

 昨日の翔ではないが、こんなことをしていては沙耶に認めてもらうとか、追いつくとか、そういうことは出来ない気がする。ただでさえ、年齢っていう差があるのに。

「おはよう」

 教室に入ると、本を読んでいた翔が、何故か仏頂面で言った。その仏頂面が昨日の気まずさを隠そうとするものだと思うと、少し笑えた。

「おはよう」

「ふーん、争うのはやめたの?」

 後ろから声をかけられる。

「あ、こずちゃん、おはよー!」

 隣で杏子が高い声をあげる。

「争いって」

 振り返ると、海藤こずもが何故か挑むようにこちらを見ていた。

「てっきり仲が悪いのかと思ってた」

 唇を小さく歪め、それだけ言うとこずもは自席へ向かう。

 なんか、嫌われている気がする。彼女の親友に対して冷たい態度をとっているからだろうか、と、相変わらず隣ではしゃいでいる杏子を見る。

 目が合った。

 ものすごく嬉しそうな顔をされた。

 慌てて視線をそらすと、自分の席につく。席についたところで、隣には杏子がいるのだけれども。

 隣で一生懸命話しかけてくる杏子の話に、かなり適当な相槌をうちつつ、ケータイを取り出す。

 本日最大の懸案事項。

 メール作成画面を出す。宛先選択、大道寺沙耶。件名は、とりあえず「おはようございます」とかで。

 何て打とうか悩んで、打ったり消したり。

「榊原君、誰にメール?」

「ちょっと」

 ここで嘘でもカノジョ、とか言えたらこの状況は変わるのか、と一瞬思う。でも、それは彼女に失礼だ。

 最終的に出来た文章は、「今晩、なんか予定ある?」になってしまった。なんか、ストレート過ぎる気もする。出来れば出張とかであればいいのに、円さんとかと食事でもいい。この際、ライバルであるところの一海直純とでも構わない。と思いながら、送信。

「ほれ、席付けー」

 ちょうどいいタイミングで、担任が入ってくる。ケータイをポケットにしまう。

 担任が教壇で今日の予定を説明する。新学期二日目は、まだ授業というような、授業はない。

「そうそう、進路希望調査表、配るから書けよー」

 藁半紙が配られる。

「進路かー、榊原君はどうするの? どこ行くの? 何学部?」

 杏子が隣で話しかけてくる。

 その、紙を睨む。

 進路。昨日、一晩考えた。

 ボールペンをとると、迷う事なくその進路を書き込み、ついでに杏子に見られないように裏返した。

 決めたから、もう、迷わない。


「榊原」

 帰りのSHR終了後、担任が手招きする。

 なぜ呼ばれるのか、分かっていたから迷わず向かう。

 廊下の端で担任が示したのは、案の定先ほどの藁半紙だった。

「お前、これ本気か?」

「本気ですよ」

「だって、お前、文系だろう?」

「そうですね」

 反対されるだろう、とは思っていた。三年の四月に、180度志望学部を変更するなんて、そんなこと。

「確か、去年までは文学部って言ってなかったか?」

「言いました」

「お前、それは、なんていうか……。私立だって試験科目違うだろう? 今から?」

「今からです。不可能ではないと思います」

「ちゃんと調べたのかよ?」

「調べました。昨日本屋で参考書も買ってきました。無理でも何でも、もう決めたので」

 決然と、担任の顔をみる。

「決めたんです。俺は、どうしても」

 そういって、藁半紙を指差す。

「ここに、行きます」

 浪人してでも、絶対に。そうやって続けると、担任は困ったような息を吐いた。

「せめて大学のレベルを落とすとか」

「ここじゃないと駄目なんです。ここに、どうしても学びたい教授がいるんです」

「なんでまた、急に」

 少し嘆くように呟かれたその言葉は、微笑んでかわした。

「大丈夫、がんばりますから」

 そうして、一度頭を下げると、教室へ戻る。担任が諦めに似たため息をついたのを、背中で感じた。

 ケータイが震える。

 取り出すとメール。「遅くなってごめん。今日は何もないけど、どうしたの? なんかあったの?」最後の畳み掛けるような問いかけに警戒されているかな、と苦笑した。

 何もないならしょうがない、律儀に誘いに出かけよう。断られたらそれはそれで。

 掃除当番には当たっていないので、鞄をとると教室を出た。


「やべ、どうしよう」

 龍一が、事務所のドアを開けたとき、彼を迎えたのは彼の心を代弁するような清澄の言葉だった。

「あ、龍一君、おはよう」

 面白そうに清澄を見ていた円が微笑む。

「清澄、どうしたの?」

「カノジョに会うんだそうだ」

 このまえの事件以来、なんとか普通の会話ぐらいは出来るようになった直純が言う。でも、お互いあまり深くは立ち入らない。それでもやっぱり、ライバルなわけだし、恋の。

「それの何が問題なわけ?」

「嫌味っぽいわよねー」

 と円が笑う。

「違うって、ケータイ」

「ケータイ?」

「壊れちゃったろ、ほら、この前の……」

「ああ」

 この前の事件で、清澄のケータイは、櫻に閉じ込められた悪霊によって壊された。その悪霊の姿を思い出して、一瞬不愉快になる。

「買い替えたんだけど、カノジョに問いつめられて。連絡とれなくなってたから、無理もないだけど。普通、ケータイ壊れないでしょ!? って」

 苦笑い。

「ん? 清澄のカノジョさんは知ってるの?」

 清澄の仕事とか、幽霊とかのこととか。口には出さなかったけれども、伝わったらしい。

「まあ、大まかには説明してある」

「反対、されているからねー」

 まあ、当然よね、と円はつまらなさそうに言う。

「私が、あんたのカノジョちゃんの立場でも、とめるわ」

 直純も苦々しい顔をして頷いた。

「嫌なら、いつでもやめていいんだからね?」

 はがれかけたネイルを気にしながら、円が言う。

「……やめないから」

 清澄は、そちらを見ずにそれだけ言いきった。

「まあ、で、そのケータイ買い替えてから初めて会うんだ、今日。いやだなあー、と思って」

 龍一の方を見ると、困ったように笑う。

 以前、清澄は贖罪だと言っていた。自分がここで働く事は贖罪なのだ、と。事情を知らずに、沙耶のことを避けていたことや、それにも関わらず自分の妹を助けてもらったことに対する贖罪だ、と。

 でも、それだけで“見えない”彼が、この事務所でカノジョに怒られながらも働く理由になっているだろうか、と龍一は内心で首を傾げる。きっと、聞いてはいけないことなのだろうし、聞いてもはぐらかされる気がするから直接は聞かないけれども。

 まだまだ、自分の知らないことだらけだ。

「あんまり、心配かけるもんじゃないわよ?」

 言いながら円は立ち上がる。

「龍一君、緑茶でいい? 沙耶、今いないから」

「あ、おかまいなく」

 沙耶がいれるのは、当然紅茶。円は緑茶で、直純と清澄なら珈琲。そういう分担が自然にできてるようだった。

 座れば? と示された椅子に大人しく座る。春休み中、彼がバイトしているときに、一脚増やされた椅子。いわば、彼の定位置に。

「さて、俺はそろそろ行くから」

 直純は立ち上がると、ホワイトボードからマグネットをはがす。

「龍一君、ごゆっくり」

 と、早く帰れよ? とでも言いたげな顔で言われて、苦笑いする。これでも、大分進歩した関係だ。

「駄目な大人ねー」

「ほっとけ」

 楽しそうに円がいい、それに少し笑って言葉を返すと、直純はでていった。

「はい、どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 湯のみを受け取る。ふーっとそこに息をふきかけた。

「沙耶、もうすぐ帰ってくると思うけど?」

「あ、はい」

「あら、素直」

 くす、っと笑われる。

「いや、今日は本当に用があって来たんで」

「沙耶に?」

 頷く。

「何の用が?」

 清澄の言葉に返事をしようとしたとき、

「ただいま」

 沙耶が戻ってくる。

「あら、いいタイミング」

 円が微笑む。

「あ、龍一来てた。なに、あのメール」

 出来るだけ警戒されないように微笑むと、

「姉が、帰ってきてるんだけど」

「あれ? お姉さん居たの?」

「うん、結婚して家出て行っているんだけど」

「結婚、おいくつ?」

「二十六歳」

「ふーん」

 自分の席に荷物を置きながら、沙耶が相槌を打つ。

「へー、二十六、そう……」

 その向かいで円が低く、低く呟いた。一海円、もうすぐ三十路。

「ええっと……」

「円姉の結婚事情は放っておいていいから。それで?」

 その様子に鬼気迫るもの感じたが、あっさりと沙耶に先を促される。

「ああ、うん。それで、姉が良かったら、うちに晩ご飯と食べにこないか、と……。日頃お世話になっているならお礼をするべきだ、って。母もなんか、乗り気になっていて。断ってくれて、いいんだけど」

 そこまで言いきると、首を傾げる。

「どう、かな?」

 沙耶は黙ったまま。断るなら、さくっと断ってくれた方がいい。無理な願いだというのは分かっているんだから。

「行けば?」

 そうやって言ったのは、意外にも清澄だった。龍一は驚いて隣の清澄を見る。

「一家団欒っていうの、見た方がいいよ」

「そう?」

 清澄の方を見ないまま、沙耶は尋ねる。

「一人で食事は寂しいしなー」

「そうね」

「誰かさんはカノジョがいるからいいわよねー」

 円が囃し立てると、清澄は思い出したかのようにため息をついた。

「そう、ね」

 沙耶は何かを断ち切るかのように少し唇を噛み、

「お邪魔じゃなければ」

 龍一の方を見て微笑んだ。

「ああ、うん、そう」

 断られる事を前提としていたので、その反応に驚く。

「あ、じゃあ、うん、親に連絡する」

 言いながらケータイを取り出し、事務所の外にでる。

 おかしい、なぜ、こうなった?

 そう思いながらも、この状況を喜んでいる自分もいて、そんな自分を嗤った。


 それじゃあ、と沙耶を連れて事務所を辞する。

 気をつけてね、と円が含みのある笑顔で手を振ってきた。どういう意味だ。

「沙耶、本当にいいの?」

 歩きながら尋ねる。今ならまだ、平気だ。

「だって、せっかくご招待されたんだし」

 言ってから、あっ、と口元に手をやる。

「龍一、あたしのことご家族にはなんて説明しているの?」

「え、前沙耶が言っていた、文化祭で出会ったっていう……」

「ああ、そう。どうしよう、大丈夫かな」

「何が?」

「龍一のお母様とは一回お会いしているのよ、ほら、病院で」

 ああ、と思い出す。

 最初、沙耶に出会ったきっかけ。龍一がこっくりさんに憑かれたとき。

「大丈夫だと、思うよ。うちの母親は、その、なんていうか、ぬけてるから」

 一度しか会ってない他人の顔を覚えているわけがない。

「そう? まあ、そうね、お母様、あのとき龍一の事で精一杯だったみたいだし」

 言ってゆっくり微笑んだ。

「大事にしなさいね?」

 それは年長者が年下にする笑みで。実際その通りなのだが、すこぅし胸が痛んだ。

「ん」

 適当に相槌を打った。


「ただいまー」

 と、ドアをあけると

「おかえり」

 ドアの前で姉が仁王立ちしていた。

「雅……」

 言いたい事はたくさんあったが、脱力して名前だけ呼ぶ。

 何も、ここにいなくても……。

「こんばんは、大道寺沙耶です」

 後ろの沙耶がにこやかに微笑みながら会釈する。

「急にお邪魔してしまって、申し訳ありません」

「こちらこそ、急にお呼びだてしてしまって」

 雅も微笑んだ。

 十七年間、彼女の弟をやってきたが、初めて見る顔だった。大人の女の人、の顔。

 なんとなく居心地が悪い。

「あがって」

 靴を脱ぎながら、沙耶を急かす。

「お邪魔します」

 もう一度沙耶は頭を下げる。

 きちんと靴を揃えて、微笑む彼女は、そういえばいいところのお嬢様だった、ということを龍一に思いださせた。

 完全によそ行きの顔をしている。

「あらあら、ごめんなさいねー」

 ぱたぱたと走りながら母親が、台所から現れる。エプロンで手を拭きながら。我が家はスーパー庶民だ。

「こんばんは。大道寺沙耶です。本日はお招き頂いてありがとうございます」

 微笑む。

「あらあら、綺麗なお嬢さんねー。うふふ、龍ちゃんには勿体ないわねー」

「母さん!」

 抜けている抜けているとは、思っていたけど、まさかここまでとは。雅は雅でなんか偉そうだし。

「龍一さんにはいつもお世話になっています」

「ごめんなさいねー、うちの子が迷惑かけて」

 今ひとつ噛み合ない会話な気がして龍一はため息をついた。やっぱり、馬鹿正直に沙耶の事を誘わないで、この話を握りつぶすべきだった。

「お夕飯、もうすぐできるから待っててね。龍ちゃんのお部屋でいいかしらねー」

 そしてそこでナチュラルに息子の部屋を出すな。すたすたと母親は、階段に向かって歩き出す。

「ありがとうございます。あ、これよかったら皆さんでどうぞ」

 言いながら沙耶は、先ほど駅で買ったロールケーキを差し出す。

「お口に合うといいんですけど」

「あらあら、わざわざありがとうございます。ご丁寧にねー」

 受け取ってそのまま階段を上ろうとする母親をとめ、

「いや、母さんは料理しなよ、ね?」

「あらそうー?」

 残念そうに言いながら、母親は台所に引き換えす。夕飯出来るまで待っててねー、ってあんたが夕飯を作るんだぞ?

 ため息。

「紅茶と珈琲、どちらがいいですか?」

 成り行きを見守っていた雅がいう。

「ありがとうございます、紅茶でお願いします」

 沙耶は微笑んだまま告げる。雅は一つ頷くと、台所に向かう。

 その背中を見送ると、沙耶はくすり、と笑った。楽しそうに。

「素敵なご家族ね」

 龍一に言う。素敵?

「いや、うん、まあ」

 恥ずかしくてしょうがない。言葉を濁しながら、こっちと二階の自室へと案内する。

 そうしながら、部屋の状況を思い起こす。ええっと、見られてまずいものとかおいてない、よな? 

 脳内トレース終了後、大丈夫だろう、という結論に達し、

「ここ」

 言いながら部屋のドアをあけ、慌ててしめた。

「ちょ、ごめん、散らかって、ええっとちょっとまってて!」

 勢い良くそれだけいうと慌てて部屋の中に入る。

 机の上におきっぱなしだった本を手にとると、どこにしまうか悩み、定番だがベッドの下に押し込んだ。

「ごめん、どうぞ?」

 再びドアをあけると、楽しそうに笑った沙耶がいた。そんなに楽しそうな顔をしてもらえるなら、こっちも嬉しいんだけど。

「どうぞ」

 勉強机の椅子を明渡し、自分は床に座る。

「ありがと」

 言いながら沙耶は部屋をくるり、と見回し

「綺麗にしてるじゃない」

「ん、」

 沈黙。

 この状況下って、あんまり健全じゃないよなー、等と思ってしまう自分の脳内が恨めしい。

「あの、」

 何か話しかけようとした時、

 どんっ!

「龍一、開けろ」

 雅の声がする。その前のどん、という音はきっと、ノックではなく扉を蹴った音だ。

 ドアを開けると、二つのティーカップを載せたトレーを抱えた雅がそこに立っていた。

「ごくろう」

 何故か偉そうに言う。

 そうして、沙耶に笑いかけ

「どうぞ」

 勉強机の上に紅茶を置いた。

「ありがとうございます」

「いいえ。龍一」

「ん?」

「母さんが呼んでた、行って来い」

「はぁ?」

 雅は持ってきた紅茶のもう一つは自分で飲みながら、

「いいから。十分ぐらい戻ってくるな」

 言うと乱暴に龍一を閉め出し、あまつさえ、ドアに鍵をかけた。

「え、ちょっと!」

 龍一はドアを叩く。返答はない。

「あー、もう! 沙耶、ごめん!」

 怒鳴るようにして部屋の中にいうと、素直に階下に降りて行った。

 母親のところにいっても、どうせ、「どうしたの?」と言われるだろうと分かっていながら。


「あたしに、何のお話ですか?」

 龍一の階段を下りる足音が消えると、沙耶は微笑んだまま、雅に尋ねる。

 雅は、ベッドサイドの上に腰を下ろし、

「大道寺沙耶さん?」

「ええ」

「瀧沢出身の、二十四歳」

「ええ」

「もしかして」

 雅はティーカップを床においたトレーの上に載せ、指先をくんだ。

「巫女姫様?」

 すぅ、っと沙耶の顔色が変わる。微笑みだけは強固に保たれていているけれども。

「……貴女は?」

 細い声で雅に尋ねる。

「ん? わたしも瀧沢だから。貴女の二個上」

 そうして微笑み、組んだ指先を見つめた。

「あのさ、貴女が一年のときの事、覚えている?」

「え?」

 沙耶は口元に手をやる。覚えている、だろうか?

 雅は指先だけを見つめたまま、続ける。

「卒業式の日、仲良しグループの女の子四人組。そのうちの一人は、半年前に交通事故で亡くなっていた」

 卒業式。四人組の女の子。

「……ああ」

 記憶の中にその情報が残っていたことに安堵する。

「ええっと、ちえみさん」

「そう」

 その名前に、はじかれたように雅は顔をあげる。

「やっぱり、巫女姫様」

「その呼び名は、その、あんまり好きじゃないんです」

 苦笑しながら首を傾げる。

「ああ、ごめんなさい」

「それじゃあ、貴女は、もしかして……」

「うん、あの時の、一人」

 言って雅は困ったような顔をした。

「あの時は、その、ありがとう」

 ゆっくりと、微笑もうとする。

「ちゃんと、お礼言ってなかった、と思って。ただ、その……」

 言い淀む。

「見えていましたよ、あたしには、本当に。そういうことが、お聞きになりたいのでしょう?」

 沙耶は笑ったまま、首を傾げた。

「ちえみさん、皆さんが帰った後、ちゃんと笑って逝かれました」

 雅は困ったような顔をしたまま、組んだ指先を睨んだ。


 沙耶が、高校一年生の年の、卒業式。

 廊下で沙耶がすれ違ったのは、四人組の上級生。胸元に花のブローチを付けた、卒業生。

 ただ、一人だけ、この世の人ではなかった。

 どうしようか、とその時の沙耶は一瞬悩んだ。あの頃の沙耶は、堂本賢治と付き合いだしたばかりのころで、賢治は沙耶が学校内で幽霊などに関わるのを極端に嫌がっていた。

 その悩んだのがよくなかった。

 沙耶が、一度すれ違った彼女達を再び見つけたときには、その幽霊の彼女が、他の子をとり殺そうとしているところだった。

 自分が、死んだ事に気づいていなかった彼女は、あの日突然自分が死んだことに気づいた。卒業式によって学校の空間から皆が離脱してしまうことが問題だったのだろう。

 事態を受け入れ等ない彼女は、友達を連れて逝こうとした。

 それを、沙耶が間に入って仲介した、それだけのこと。幽霊の子に体を貸して、他の子達と話ができるようにした、それだけのこと。

 それで、また少し何かを失ったけど、そんなこと瑣末だった。

 普段は、幽霊が見えるだとか、そういった噂は否定していたが、彼女達はもう卒業して二度と会わないだろうからいいだろう、と思って見えることを話していた。


「まさか、またお会いするなんて思いませんでした」

 それも、龍一の姉なんて。少しだけ、苦笑い。

「わたしも、よ」

 雅も顔をあげると、弱々しく笑う。

「もう二度と会わないと思っていたから、不思議な事で片付けていたけど。そう……」

 ため息。

「ちえみは、笑ってた?」

「ええ」

「そう、なら、いいんだけど……」

 もう一度ため息。

 沙耶は両手で抱えるようにして持っていたティーカップをおく。姿勢を正す。

「雅、さん?」

「ん?」

「知られているなら仕方がないので。あたしは、今、そういった幽霊とか物の怪とか、まあそういったものに関わる仕事をしています」

「関わる?」

「ええ。あたしの仕事は、ちえみさんのように死んでいる事を気づけなかったり、認められなかったりする人にそれを気づかせて見送ることや、人に害を為すものを力づくで排除するのではなく、説得すること、です」

 だから、と沙耶は出来るだけ微笑んだ。感情を隠すために、微笑んだ。

「もしも、龍一とあたしが一緒にいるのが、不愉快だったり龍一のためにならないと思うのでしたら、遠慮なくおっしゃってください。そういうものだ、と、あたしはわかっていますから」

 そう、清澄のカノジョのように。

 得体の知れないものは、怖いのだから。

 たとえ、龍一本人がそれでいい、と言っても、ご家族の反対を押し切ってまでいることはないのだから。

「それは、別にいいのよ」

 雅はさらり、と言葉をかえした。

「え?」

 あまりにも軽く言われたので、逆に慌てる。

「え、だって」

「他の人がそんなこと言ったら、あんた頭大丈夫? って思ったけど、巫女姫様なら。巫女姫様が本物で、あのとき私たちを助けてくれた事を知っているから、別に」

 そういうと、微笑まれた。

「ふつつかな弟ですけど、どうぞよろしく」

 頭を下げられて、慌てて沙耶も頭を下げた。

「あいつ、へたれだから。嫌になったらいつでも棄ててやっていいからね。堂本君には全然及ばないし」

 突然出された堂本賢治の名前に思わず顔が強張る。気づかれないようにそっと視線を伏せた。

「それでも、うちの弟を選んでくれてありがとう」

 雅はにやり、と笑うと立ち上がった。

「名前を聞いて、今日顔を見て、そうじゃないかなーって思ってたの。確認出来て良かった。それだけだから」

 じゃあ、このことは龍一に秘密ね? と微笑んで、沙耶の返事も待たずに雅は部屋を出て行った。

 しまったドアをみて、ふーっとため息。

 世間は狭いなーと思う。

 あの三人組の誰だったのだろう。思い返しても顔は出てこない。

 もう一つため息。

 こんなに世間が狭いのに、どうして今まで上手く生きて来られたのだろう。そのうち、知りたくない事を知るはめになったり、知って欲しくない事をまで知られてしまったりしてしまいそう。いつか、どこかから。

「いつまで、このままでいられるのかしらね」


「龍」

 階段下に腰掛けていると、後ろから声をかけられた。

「待たせた」

「沙耶に変な事を吹き込んでないよな」

 睨みつける。

 雅は何故か楽しそうに笑った。

「あの人を、不幸にするなよ」

 何故かとても上から目線で言ってのけると、すたすたと階段を下りて行く。

 相変わらず、自己中で意味のわからない姉の後ろ姿をみてため息を一つ。自室に戻るために立ち上がった。


「沙耶、ごめん、雅がー」

 言いながら龍一はドアをあけて、

「沙耶?」

 一瞬、息を飲んだ。

「ああ、ごめんね、懐かしくて」

 言いながら沙耶が見ていたのは数学ⅢCの問題集。

「数学、好きだったから」

「それ、机の上にだしっぱなしだった、りした?」

「うん?」

 首を傾げられて、いや、全然いいんだけど、とごまかした。全部しまったはずなのに。

「懐かしいなー」

「沙耶、雅なんの話だったの?」

 沙耶は顔をあげ、

「内緒」

 悪戯っぽく笑った。

「内緒って。どうせ俺の悪口だろ?」

「そんなわけないじゃない。いい、お姉さんね」

 微笑む。

「……いいお姉さん?」

「円姉に似ている」

「横暴で傍若無人なところ?」

「だからこそ、優しいところ」

 ぱたり、と問題集を膝の上で閉じる。

「とっても、優しい人ね」

 思わず首を傾げる。

 それを見て、沙耶はくすりとわらった。

「これ、ありがとう」

 そのまま膝の上の問題集を机の上に置こうとし、

「あれ?」

 龍一を振り返る。

「でも、数ⅢCって龍一確か文系じゃ……?」

「龍ちゃーん!」

 沙耶の言葉を母の能天気な声が遮った。

「ごはんできたわよー!」

「わかったー」

 階下から響く声に、ドアを開けて返事をする。

「なんか、落ち着きなくてごめんね」

「ううん」

 沙耶は椅子から立ち上がり、スカートの裾を揃えながら

「楽しい」

 端的に答えた。

 部屋をでて、ドアを閉めながら小さく龍一は息を吐いた。

 たまにはタイミングのいいことをするのだ、うちの母親は。


 リビングに用意されていたのは、唐揚げと麻婆豆腐とごはんとみそ汁とエビルフライだった。なんという組み合わせ!

 これは昔、姉が友人を呼んでお誕生日会をやっていた時と変わらない。麻婆豆腐は母の得意料理で、唐揚げとエビフライは母の描くパーティ料理なのだ。しかし、それにしてもみそ汁はいらんだろ。

「どうぞ、ここ座って」

「ありがとうございます。何かお手伝いすることは?」

「いいのよー、気にしないでー」

 無意味に楽しそうに母が言う。

「こんばんは」

「お邪魔しています」

 いつもは帰りが遅い父も何故かいた。

 ため息をつきながら、沙耶の隣、いつもの自分の席に座る。

「それじゃあ、頂きましょう」

 語尾にハートがつきそうな勢いで母が言う。

「いただきます」

 微笑みながら沙耶が手を合わせた。

 麻婆豆腐を口に運ぶ。

「あ、美味しい」

「でしょうー?」

 でしょうー、じゃないだろ。自分で言うなよ。と内心で呆れながらも食事をする。

「美味しいです」

「遠慮しないで食べていいからねー」

「母さん、はりきりすぎじゃないか?」

 父が言う。思わず力強く龍一は頷いた。

「あら、だって龍ちゃんが女の子連れてきたのよー? 中学生以来じゃない。ええっと、恵美ちゃんだっけ?」

「母さんっ!」

 その話は今必要ないだろうっ!

「へー」

 隣で沙耶が小さく呟いて、唐揚げに手を伸ばす。

「カノジョさん? 唐揚げもおいしいです」

 小さく龍一に尋ねてから、微笑む。

「ありがとう。海老フライはそのタルタルソースかけてね」

「これも手作りですか?」

「ええ」

「凄い。揚げ物とか、苦手なんですよね」

 母と和やかに会話する沙耶を見る。

「いや、あのさ、沙耶。さっきの話だけど」

「二ヶ月でふられたよな、お前。その、恵美って子に」

「雅っ!」

 どうしてうちの家族は言わなくてもいい事をいちいち。

「龍一、行儀が悪いぞ」

 父が言う。

「え、俺? 俺が悪いの?」

「そうだな、龍が悪いな」

「そうねー、お客様が来ているからって肩肘はりすぎじゃないかしら、龍ちゃん」

「なんでだよ」

 妙な結束感で自分を責め立て来る家族にため息をつく。

「ごめん、沙耶なんか、騒がしくて」

 言いながら隣の彼女に視線を移し

「沙耶……?」

 箸をおいて、両手で顔を覆っていた。泣いている?

「あらやだ、何か嫌いなものが入ってた?」

「母さんはちょっと黙ってて」

 子どもじゃないんだから、そんなことで泣かないだろう。

「沙耶?」

「ごめんなさい」

 顔をあげた彼女は、少し潤んだ瞳で微笑んだ。

「その、あたしあんまり家族との折り合いが良くなくて。こんな風に家族団らんで食事した記憶ってあんまりなくて、だからちょっと」

 困ったように微笑みながら

「ごめんなさい、空気を壊してしまって。ご飯もおいしいし、とっても楽しいです」

 やっと理解した。清澄が今日のこの話を後押しした理由が。円から聞いた話を思い出す。ほとんど一海で育った彼女には、当たり前の食事風景というものがあまりなかったのだろう。

 気づかなかったことを、悔やむ。小さく唇を噛み締めた龍一の耳に、

「私のことお母さんだと思ってくれていいのよ!」

 何故か母が勢い込んで告げた言葉が飛び込んでくる。

「は?」

「龍ちゃんと結婚すれば、本当に義母さんになるわけだし!」

「そうだな」

 雅は腕を組み、

「私の事はお姉様とお呼び!」

 何故か女王様言葉で告げる。

「はい?」

 アホな自分の女家族を見遣り、頼みの綱に父親に視線を移す。

「榊原沙耶。ちょっと、ゴロが悪いかなー」

 頼みの綱の父親もアホなことを言い放った。

 頭いてー、と呟くと龍一はアホな家族を呪う。そして、ちらりとおそるおそる隣の沙耶に視線を移す。

 沙耶は少しだけ困ったように眉を下げ、それでも楽しそうに笑っていた。絶対に困っているか、ひいているかしているだろうと思った龍一は少しだけそれを意外に思う。

 楽しんでくれているのなら、いいんだけれども。何かが違う気もした。

 

 家を辞した沙耶を送って行く。

「なんか、五月蝿くてごめんね」

「ううん、楽しかった」

 微笑む彼女の横顔をそっと見る。

 楽しかった、という割には表情が硬い。

「龍一は、愛されて育ったんだね」

 表情を変えないまま沙耶は言う。それはいつもの彼女の顔で、無理に微笑まれるよりは安心する。笑っている方が、好きだけど。

「あたしの名前の由来ね、」

「うん」

「三月八日生まれだから、三八で沙耶。産まれたときからなげられていたんだね」

「そんなこと」

 ゆっくりと沙耶が首を横に振る。

「父は、男の子が欲しかったのよ。跡継ぎになるような。女の子じゃなくて、しかもこんな、化け物じゃなくて」

「沙耶っ!」

 咄嗟に出た大声に、沙耶が驚いたように足を止める。

「ごめん、でも」

 一度息を整えてから

「自分を化け物とか、言うなよ。悲しくなるだろ」

 沙耶は視線を龍一から逸らす。

「それに、円さん達だって聞いたら怒るよ」

 沈黙。

 龍一は黙って沙耶の横顔を見つめる。

「……、うん、ごめん」

 沙耶は視線を龍一に向けると、一度頷いた。

「今日はありがとう。みなさんにもよろしく言っておいて」

 そうして沙耶は、笑みを浮かべて早口で告げる。

「ここで大丈夫。もう遅いし、明日も学校だから龍一は帰って。気をつけてね」

 それじゃあね。と微笑んで片手をあげる。

「え」

 この空気のまま別れるなんて、出来ない。何か言わなくては。何か、何か、何か。

「待って」

 歩き出したその手を慌ててつかむ。驚いたように振り返った顔は、すぐに笑顔を浮かべた。

 こんな時に笑うなんて、彼女らしくない。

「どうしたの?」

 そっと振りほどくように片手を動かされて、おとなしく離す。

「誕生日、」

 一度息を吸って、勢い良く、

「誕生日、何がいい?」

「え?」

「忘れないから、絶対。三月八日、覚えた」

 出来るだけ微笑んでそういうと、彼女は少し目を細めた。

「ありがとう。龍一は、いつ?」

「二月十四日」

 あれ、っと沙耶の丸くて黒い瞳がさらに丸くなる。その顔が可愛らしくて、くすりと笑う。

「バレンタイン?」

「そう、誕生日プレゼントは義理チョコなんだ、いつも」

「じゃあ、チョコ以外の物を用意しておくね」

 本当の意味で楽しそうに笑うと、それじゃあね、と再び沙耶は歩き出した。

 今度はひきとめずに、その後ろ姿を見送る。

「チョコでも、いいんだけどな」

 義理じゃなければ。そんなことを思う自分に呆れる。次の誕生日まで、彼女の近くにいられれば、それで構わない。

 沙耶が角を曲がって、その背中が見えなくなるまで、龍一はその場で見送り続けた。

 沙耶は、振り返らなかった。

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