第三章 宗教風の恋

「そんな感じよ」

 小さな小さな昔話を語り終え、円はストレッチをするように腕を伸ばしながら龍一に告げた。

「……そう、ですか」

 以前、うっすらと聞いた話。事態は龍一が思っていたよりも、重くて大きいものだった。

 実の親に化け物、だ、なんて。

 なんだか勝手に泣きそうになった自分の目元を、慌てて片手で押さえる。泣く、だなんてそんなこと、卑怯で出来なかった。かわいそうだ、なんて哀れむのは自分が高見にいるようなものだ、と思えた。

 同情ではない、憐れみではない。

 それでも今、彼女に会いたかった。会って、何が出来るかはわからなくても。

 つまりそれは、

「そうですか」

 もう一度、小さい声で呟く。

 つまりそれは、やっぱり自分は大道寺沙耶という人間を心の底から愛しく思っているということだろう。

「お茶でもいれるね」

 そんな龍一の様子に気づいていないはずはないのに、円はいつものように軽い調子でいうと席をたった。

 その背中を見送りながら、少しだけいるかわからない神様に感謝した。

 円と直純が沙耶の傍にいたことに。優しい姉と兄が彼女をここまで守ってきたことに。


 ふぅ、と沙耶は一つ息を吐いた。黒い髪がふわり、と肩に落ちる。

 沈黙。

 振り返ると、ゆるりと笑う。

「おつかれさま、翔君」

「いえ」

 首を横に振る。事実、合同調査などといいながら翔は何もしていない。

 一海の、それも円率いる調律事務所は、人ならざぬものとの共存を行動理念としている。人にも、それ意外にも、すべてに平等で優しい世界を。

 その理念が翔には全く理解できない。翔だけではないだろう。おそらく、巽の人間のすべてが。

 いや、巽の宗主、翔の父親は少なくとも理解しているようだが。だから、こうやって一海との合同捜査を必要以上に執り行っている。父が何を考えているのか、翔には昔からわからない。

「ごめんなさいね、またこちらで勝手に行ってしまって」

 沙耶は微笑む。

「いいえ」

 首を横に振る。

 合同捜査で翔が何かをしたことなんて、一体どれぐらいあるのだろうか。気がついたら、いつも終わっている。

 この調律事務所の面々は、基本は話し合いで、と人間同士でも難しいことをいともあっさりとやってのける。たいした才能だとは思う。けれども、人に仇をなしたものに情けをかけてどうする? 人以外のものの為にわざわざスペースを用意する程、地球は広くないだろうに。

「帰りましょうか」

 微笑んだまま、沙耶が歩き出した。

 数歩おくれてその背を追う。

 ポルターガイスト現象が起きるという、この廃工場には、今はもう何もない。

 ため息を一つ。

 分かり合えるわけがない。問答無用で祓った方が、絶対に早いのに。


「沙耶さん」

 背中に声をかけると、歩の速度が緩み、少しだけ顔が振り返る。隣に並ぶ。

「聞きたいことがあるんですけど」

「うん?」

「ちぃちゃんって名乗っている、幽霊について」

「ああ、ちぃちゃん」

 少しだけ嬉しそうな顔をする。

「元気?」

 幽霊に元気も何もないだろうに。

「ええ、まあ、今日も五月蝿かったんですけど」

 嬉しそうに笑う。どうしてたかが幽霊にそんなに肩入れをするのだろう。


 実際、入学してすぐ、翔はちぃちゃんを祓おうとした。それでなくとも、悪戯好きのちぃちゃんは、決して人と共存できるとは思えなかった。

『うわっ、お前なんだよっ!?』

 放課後、人気のなくなった校内で追いかける。悲鳴が上がる。

 名乗る必要性は感じない。

 ちぃちゃんが逃げ込んだのは図書室だった。

 追いかける。追いつめる。

 一番奥の棚、そこで半分体を本棚につっこみながら、ちぃちゃんはこちらを睨んできた。

『お前なんだよ? 新入生?』

 答える必要はないと、思った。

 黙って手を伸ばし、祓おうとする。

 ちぃちゃんが頭まで本棚の中にはいる。そんなことをしても無駄だと思った。嘲笑う。

 けれども、失敗したのは翔の方だった。

 祓おうとした瞬間、本棚から出てきた何かにはじかれる。

「わっ」

 後ろに数歩、押される。

 本棚の周りに、結界?

『うわー、危ねー』

 本棚から少しだけ顔をだし、ちぃちゃんが呟く。

『お前、なんなんだよ』

「お前こそなんだ、これは」

 結界に守られる学校の幽霊? 意味がわからない。

『人の質問に答えろよな、むっつりめ』

 警戒しながらちぃちゃんが答える。

『お前、一海って知ってるか?』

「ああ」

『そこの、沙耶のねーちゃんは?』

「……知っているが?」

『沙耶のねーちゃんがつくってくれたんだよ、お前みたいなのから身を守るために』

 相変わらず、無駄な事ばかりしているのだな、あの人たちは。というのが、翔の感想だった。

 ただ、一海が関わっている以上、勝手なことは出来ない、と思った。家同士の争いに万が一発展してしまっては困る。

「なんのために?」

『おれがいい奴だからさ!』

 思いっきり不愉快な顔をする。

『冗談だよ』

 ため息。

 幽霊にため息をつかれるなんて心外だ。

『あのさ、お前俺が誰かに害悪を加えるっていうの、気にしてるだろう? まあ、確かに俺は色々やるけど、あくまでも悪戯程度であってだな。それで俺の存在を否定される程のこともないだろう』

「あの人たちなら言いそうなことだな。共存、か」

 鼻で笑う。

『お前、いけすかないなー。気にすんなよ、どっちにしろ約束してるんだから』

 そうして、本棚から体全体を出すと、幼い顔に似合わない、諦観したような笑みを浮かべて幽霊は告げた。

『俺が万が一、人に怪我を負わせたり、殺したりしたら、沙耶のねーちゃんが祓ってくれる約束になってるんだからさ』

 だから、と幽霊は笑っていた。

『俺の存在を否定していいのは、沙耶のねーちゃんだけなんだ』

 一体、どこでそんな信頼関係を得たのか。

 翔には全くわからなかった。それでも、今日まで見逃してきた。

 ちぃちゃんは、今日も相変わらず夜中に黒板におどろどろしい落書きをするとか、ドアに黒板消しを挟むとか、人体模型を動かしてみるとか、そういう悪戯をしている。それでも、誰も怪我をしたり、ましてや死んだりしていない。

 だから、今日まで見逃していた。


 あんなに仲良くなっていて、本当に祓えるのだろうか、というのが翔の常日頃からの疑問だった。

 今日も五月蝿かったし、聞いてみよう、と軽い気持ちで思っていた。だから、

「あの、聞いていいのかわかりませんけど。沙耶さん、約束、覚えていますか?」

 瞬間、沙耶の表情が凍り付いた。足が止まる。

 すぅっと息を吸い込んだところで、動きが止まる。

 すぐに失態を悟る。忘れるや覚えている、は大道寺沙耶には禁句なことぐらい、翔でも知っていた。

 彼女に憑いている龍は、大人しくする代わりに彼女の記憶を喰らう。

 彼女が人一倍、忘れることを怖がっているのは、知っていたのに。

 唇を噛む。

「約束って、なんの?」

「あ、いや」

 具体的な内容を告げて、彼女が覚えていたならばなんのことはない。それでも、万が一忘れていたら? 彼女の記憶が失われていたら?

 どうやってフォローするか悩んで口を開き、

「あれ、沙耶ちゃん?」

 かけられた声に振り向く。

 グレーのスーツ姿の、長身の男性が立っていた。

「あ、……新堂さん」

 一瞬のタイムラグのあと沙耶が微笑んだ。

「ん? 彼氏?」

 隣の翔を指差して問う。

「いいえ。知り合いの息子さんです」

「ああ、そうなんだ。こんにちは」

 微笑まれて、一応翔も頭を下げる。

「あ、沙耶ちゃんさ、ここだけの話、あの後、円、俺のことなんか言ってた?」

 内緒話でもするかのように、男性は少し身を屈める。

「なにかっていうのは……?」

「いや、……親に紹介するって話、なんか立ち消えた気がして。うーん、俺って親に紹介出来ないような男?」

「そんな。ちょっと今、仕事が忙しいんですよ。それだけだと思いますよ」

 沙耶が微笑む。そうかなー? と首を傾げる。

「まあ、いいや。うん、ありがとう。時間取らせてごめんね、それじゃ」

 そういって片手をあげて去って行く。

 その後ろ姿を見送って、沙耶は一度ため息。

「誰ですか?」

「円姉の今の彼氏」

 ごめんね? と翔を見る。

「見えるんですか?」

 ひょろり、とした後ろ姿を見ながら尋ねる。対象は勿論、幽霊などが。

「見えない、と思うけど」

「じゃあ、ダメじゃないですか。大体、あんな道ばたで軽々しく、話しかけてきて馴れ馴れしい。親に紹介するって、いつから付き合っているんですか? ちゃらちゃらして、円さんはあんなののどこがいいんですか?」

 早口で言いきる。

 沙耶は、翔の珍しい長い言葉に顔色をうかがうようにして、顔をのぞきこむ。顔にあるのは、いつもの冷静さではなく、少しの苛立ち。

 ああ、そういうことか。と少し微笑む。

「翔くん、円姉のこと好きなの?」

 さらっと聞かれ、巽翔は動きをとめ、そして

「なっ!」

 一瞬にして真っ赤になった。

「納得」

 にっこり、と沙耶が笑う。

「いや、何言っているんですか!」

 噛み付く。

「え、違うの?」

 心底不思議そうに首を傾げられる。

 違うかと聞かれたら、

「いや、違う訳じゃ……」

 ないけれども、でも、と口元だけで呟く。

 それをみて、楽しそうに沙耶は笑った。

「円姉は、家のことを考えて結婚しないの。出来ていないの。巽と一海で色々有るみたいだけど、翔君だったら言う事ないのにね」

 そうして、せっかくだから事務所でお茶飲んで行けば? と沙耶は歩きだした。

 慌ててその後追った。


「おかえりなさーい」

 二人が扉を開けると、円が軽い調子で言う。

 沙耶の隣にいる翔に龍一は一瞬眉をひそめ、翔もやはり不機嫌そうな顔をした。

「ただいま。いらっしゃい、龍一」

 そんな龍一に沙耶は笑いかけ、

「巽のおぼっちゃま、龍一君とクラスメイトなんですって?」

 円は翔に話しかける。

「ええ」

「あんまり意地悪しちゃだめよ? なんたって、うちのお姫様のナイトなんだから」

 ね? と邪気のない笑みを浮かべ、龍一の両肩を叩く。

「円さん」

「円姉」

 あきれたような口ぶりに少しの照れを交えて、龍一と沙耶が突っ込む。

「あら、息ぴったり」

 さらにおどける円に、二人はため息をつき、

「え、沙耶さん?」

 翔が一人で変な声をあげる。

「ん? どうした?」

 円に、なんでもないですと首をふり、翔は龍一と円と沙耶をそれぞれ見比べる。そんな翔を見て、龍一はなんとなく何かを理解した。

「あー、巽、ちょっと話が」

「奇遇だな、僕もだ」

 初対面のときにようににらみ合う訳にもいかず、二人で変な顔をしながら頷き合った。


 それじゃあ、とそそくさと事務所を辞したあと、二人は近くのファーストフードで向かい合っていた。

「あー、単刀直入に聞くけど」

 しばらくの沈黙のあと、龍一は口を開き

「ぶっちゃけ、巽が言う“彼女”っていうのは、もしかして、円さん?」

 いまいち歯切れの悪い言葉で言うと、正面の翔は頷いた。

「あー、そう」

「そっちは、沙耶さん」

「まぁ、うん」

 そして、沈黙。

 別段どこにも敵対する理由がないことに気づき、二人は苦々しい笑みを曖昧に浮かべた。朝のあのやりとりは一体なんだったのだろうか。

「その、ごめん、朝は」

 途方にくれて、とりあえず龍一は朝の非礼を詫びた。

「いや、けしかけたのはこっちだから」

 同じように翔も謝る。

「いや、でも、そっか。円さん、か」

 完璧予想していなかった解答。龍一の価値観では年上過ぎる。沙耶だって、沙耶じゃなかったら正直ギリアウトだ。

「なんでまた……。やっぱり仕事絡みとかで?」

「巽のおぼっちゃま」

「ん?」

「あの人は巽のおぼっちゃま、って人の事を呼ぶんだ。こっちは一応巽の跡取りのつもりで、その自負もあるのに」

 そう、飄々としていて何を考えているのかわからない。でも、別に馬鹿にしているわけでも見下しているわけでもなく、ただの渾名として彼女は呼ぶ、巽のおぼっちゃま。

「一年のとき、クラスメイトが物の怪を飼っていたことがある」

「飼っていた?」

「あまり、害のなさそうな小さいピンクのまるっこい物の怪だ。害のなさそうっていったって、物の怪は物の怪だろう?」

 龍一は首を傾げる。

「だから、祓おうとした。それでもめたんだよ、クラスメイトと」

 こんなに小さい子なのに、なんてことするの! 悲鳴のように上げられた声が耳障りだった。

「あの人は、その現場にふらりとあらわれた。別件で近くまで来ていたらしいんだが」

 いつものようにどこかやる気なさそうな顔で、彼女は声をかけてきた。

「あら、巽のおぼっちゃま。相変わらず無駄に冷静なことやっているのね、楽しい?」

 ため息を一つ。

「あの、別になんの感慨もこめない声で言われたんだよ。楽しい? って楽しい訳ないだろうに」

「……俺、今どうして巽が円さんのこと好きなのか、っていう話を聞いてると思ってたんだけど、違うのか?」

「好きだなんて言ってないだろう」

 不思議そうな顔をして翔は、アイスコーヒーをすする。

「え?」

 話が噛み合ない。

「さっき沙耶さんにも言われたけどな。いや、好きじゃないのか? って聞かれたらそれも違うんだけど、恋愛感情なんていうものが自分にあるとは到底思えないし、そもそも一海と巽の関係を考えたら叶う筈もない」

「仲悪いんだ?」

「よくはないな。お互い、跡取りだし」

「ああ、なるほど」

「ただ」

 気に入らなかったのか、顔をしかめるとブラックのアイスコーヒーにミルクとガムシロを足す。

「認めさせたい」

 真っ黒に白が混ざっていくのを見つめながら、

「巽のおぼっちゃま、なんて言わせない。一海のやり方は確かに一つのやり方ではあるのかもしれない、けれども巽のやり方を否定はさせない。だから、多分」

 クリーム色になったコーヒーを一口、

「認めてもらいたいんだ、あの人に」

 ゆっくりと、微笑む。

「それが恋愛感情なのかは、僕は知らない。ただ、正直円さんが榊原のことを見所がある、とか、面白い子、だとか、楽しそうに話しているのがなんていうか、そう、むかついたんだ」

「ああ、だから今朝の……」

「そう、僕が認めて欲しい人なのに、と思って。まあ、うん、本当に悪い」

「それは、俺も悪いし……」

 少し首を傾げて、甘くなったコーヒーを飲む翔を見る。

 巽翔の言うように、確かにそれが恋愛感情なのか龍一にはわからなかった。でも、あんなに怒っていた事が嫉妬だけだったとは思えない。足手まといになる、と言われたのはそれでは説明がつかない、そんな気がした。

 小さく微笑むと、コーラを飲む。

 なかなかに面白いクラスメイトのようだ。

 思っている事が顔に出ていたのか、そのクラスメイトは不愉快そうな顔をした。それがおかしくてさらに口元が緩み、

「巽」

 ふっと思い出してクラスメイトの名前を呼ぶ。

「なんだ?」

「あ、いや」

 少しためらった後、、目の前のクラスメイトに問う。彼は、そちら側の人間だから。

「沙耶の、龍は……、どうにもならないのか?」

 率直な質問に、巽翔は彼にしては珍しく、一度龍一から視線をそらした。

「僕は、一海の人間じゃないから詳しい事は聞かされていないんだが……、祓ってしまうことは無理らしい」

 龍一をまっすぐに見据える。

「ただ、円さんが言っていたんだけれども、もっと別な分野と、例えば医学的な方面と協力して動けるようになったら事態は変わるかもしれない」

「医学?」

 おおよそ似つかわしくない単語に小さく呟く。

「ああ、今の僕たちは祓いに特化してしまって、生活に僕らの力が馴染んでいない。円さんの調律師、という言い分ならわかりやすいかな。共存を目指していないんだ、今は」

「もし、医学の分野とうまく組み合わせる事ができたら、沙耶の龍もどうにかすることが、できる?」

「可能性はある」

「そっか」

 龍一は小さく呟いた。

「まぁ、だから、今は無理だけれども、これから先はどうなるかわからない。いい方法が見つかるかもしれない。だから、あんまり重く考えすぎるな」

 出来るだけ明るい調子で翔は言った。龍一はその心遣いに小さく笑い、

「そっか」

 と目の前のコーラを睨みながらもう一度呟いた。


「榊原は、駅?」

 店を出たところで翔が尋ねる。

「ん。でも、今日はちょっと本屋に寄りたいから」

「ああ、そっか。じゃあ、ここで」

 一緒に行こうか、などとは当然言わないドライな性格の翔は右手を軽く挙げた。

「ああ。また明日」

 龍一もそれに習う。それっきり二人背を向けて歩き出す。

 数歩歩いたところで、龍一は振り返る。

「巽」

 ゆっくりと翔が振り返る。

「言い忘れた。これから宜しく」

 翔は一瞬眼を見開くと、小さく笑った。

「こちらこそ」

 そうしてもう一度手を振ると、今度こそお互いに自分の進む道へ歩き出した。

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