第二章 一海家の一族

 庭のハナミズキは満開だった。

 縁側に座り、円はそのハナミズキを睨んだ。入院中の母親の、好きな花だ。母がいなくてもいつも通り咲く、その花を僅かに恨めしく思う。

 それでも母が元気になるならば、写真でもとって持って行くべきだろうか、と悩む。

「円」

 後ろから声をかけられて振り返ると、従弟が困惑した顔で立っていた。

「直、何?」

「なんか、良くない事が起きるかも」

「ん? 占い?」

 尋ねると直純は小さく頷いた。

 理論ではなく感覚で突き進む円とは対象に、理論を重視する直純は、円が早々に投げた占いなどにも力を入れている。古きを尋ねて新しきを知る。陰陽寮時代の理論を現代に持ってこようとしている。

「悪かったの?」

「多分……」

「多分、ね」

 ただし、まだまだ始めたばかりで知識が浅いことや、昔と今との違いなどで確立されたものではないが。

「当たるも八卦、当たらぬも八卦」

 円が歌うように小さく呟いた。

「どちらにしろ、用心しておくに越したことはないでしょう」

 そうやっていうと、再びハナミズキを睨んだ。

「私にかかれば、大丈夫だろうけど」

 小さく付け足された言葉に、直純は背後で苦笑した。

 理論ではなく感覚で突き進む円は、確かに理論を必要としないぐらい力が強い。だからこそ、いつか自分の力を過信しすぎて傷つくのではないか、と密かに直純は一つ年上の従姉を心配していた。口にだしたら、殴られるだろうから言わないけど。

「ハナミズキ、咲いたね」

 代わりにそう口にした。

「そうね。母様に見せてあげたい」

 ハナミズキを睨んだまま呟いた円が、なんだか泣いているような気がした。肺癌で入院した伯母が、この縁側でハナミズキを見られる可能性は、殆ど、ない。

 なんて声をかけるか思案し、直純は円の隣に腰をかけようとして、

 はじかれたように、二人同時に東の方角を見た。

「何、今の」

 直純が呟く。円は裸足のまま庭に飛び降りると、東の方へ駆け出し、塀に飛び乗った。

「“見え”ないわ、ね」

 苦々しく呟くと、塀から飛び降りる。

「何か大きなものが、現れた?」

 縁側まで戻ると、直純が呟くように尋ねる。

「そんな感じね」

 直純の肩を借り、手のひらで汚れた足の裏を払うと、円は縁側に戻る。

「宗主は?」

「母様のお見舞い。何か問題があったら、すぐに戻ってくるでしょう。直次叔父様は?」

「母屋のどこかにいるはず」

「じゃあ、とりあえず叔父様のとこに行きましょう」

「ん」

「あんたの占い、あたったみたいじゃない」

 円は小さく唇をゆがめる。

「外れた方がよかったな」

 直純は肩をすくめた。

 そうして、二人はハナミズキに背を向けて部屋の中へ入って行った。


「直次叔父様!」

 廊下の隅で数人と話し込んでいる直次に声をかける。二人に気づくと、一海直次は軽く左手を挙げた。

 話し合いが済み、各々がそれぞれの場所に散って行くのを見計らって、二人は直次の元へ駆け寄って行く。

「父さん、今のは?」

「龍が現れたらしい」

「龍?」

「ああ、場所はそこにあるだろ、付属小。あそこら辺らしい」

 円は脳内に地図を思い浮かべ、

「じゃあ、場所的には巽の管轄?」

 姪の言葉に直次は一度頷くと、

「ああ。だが、まだ事態がよくわからん。二人ともとりあえず動けるようにはしておいてくれ」

「はい」

「わかりました」

 二人は頷くと、一度自室に戻ろうと歩き出し、

「円」

 かけられた声に振り返る。

「兄さんは、義姉さんのところか?」

「はい」

 そうか、と直次は呟き、

「しょうがない、兄さんが帰ってくるまでは仕切るか」

 心底面倒そうに呟くと、部屋の中に入って行く。

 その後ろ姿を見届けると、円は隣の従弟に

「直次叔父様は、なんであんなにリーダーシップをとるの嫌がるのかしら?」

「俺は厭だからわかるけどなー」

「何言っているの、次期宗主」

「いや、それは円だろ」

「あのね」

 暢気なことを言う従弟に、宗主の愛娘は左手の人差し指を突きつけた。

「女が宗主になるなんて、爺様達が許す訳ないじゃない」

 保守的な老人衆の事を思い浮かべ、ふんっと不満そうに鼻を鳴らすと、円は歩き出した。そんな従姉の後ろ姿を見つめ、ふぅと直純はため息をついた。

 どう考えても、リーダーシップをとる適正は自分よりも従姉の方にあるし、人望だって彼女の方に分がある。

「性別とか、くだらないの」

 彼にしては珍しく、冷たい声で吐き捨てると従姉の後を追った。


「円、直純」

 着替えて広間にあつまった二人を一海の宗主、直一が呼んだのは、事態が起きてから二時間近くたってからだった。

「ちょっといいか?」

 一海の宗主の言葉に、直純はすくっと立ち上がる。怠惰な猫のように寝転がっていた円も、すぐに立ち上がった。

 広間を出て、廊下を歩く。

「悪いが、二人とも一緒に巽まで付いてきて欲しい」

「巽に?」

「ああ」

「なんで」

「ちょっと、厄介なことになった」

 苦々しく呟く宗主に、背後で二人は顔を見合わせた。


「つまり」

 巽の宗主、巽祥太郎の説明を聞き終わり、円は虚空を睨みながら話をまとめる。

「さっきの騒動は、小学生の女の子に取り憑いている龍の仕業だ、と」

 巽の宗主は重々しく一つ頷く。

「で、その子に憑いている龍は祓えないらしい、と」

 もう一度頷く。

「で、巽は基本的に祓うことを生業にしているから、どっちかっていうと共存を目的としている一海に頼みたい、と」

「円、言葉遣い」

 あまりにざっくりと、フレンドリーに話す円に直純が横から声をかける。律儀な従弟に小声で、小姑か、と返しておいた。

 巽とは家同士の仲が悪いながらも、巽の宗主個人はとてもざっくりとしていてフレンドリーで、かつちょっと変人だった。これぐらいで怒るような人間ではない。

「そういうことでよろしいのですか?」

「ああ」

 巽の宗主は重々しく頷いた。

「いや、しかし一海の姫直々に来て頂けるとはありがたい」

 誰もが影で口にするけれども、本人を目の前にしては誰も口にしない「姫」という言葉。それを、本人を目の前にして、なんのためらいもなく言えるのが、巽の宗主である。

「なぜですか?」

 円の問いかけに、後ろにいた直一が言葉を発する。

「あのな、二人にその子の面倒をみてもらいたいんだ」

「なぜですか?」

 聞き返したのは直純。円は露骨に不機嫌そうな顔をした。

 そういう面倒なことを嫌う娘の性格を重々承知していながら、直一は続ける。ああ、うちの娘はこれ言ったら怒るだろうなー、とか思いながら。

「お前らが一海で一番年が近くて適任だ。さすがに、二人よりも年下の分家には頼めないしな」

「何よ、それ!」

 案の定、噛み付く円。それだけの理由なわけ?

「お言葉ですが、宗主。いくらなんでも荷が重過ぎます」

「全部見ろ、と言っているわけじゃない。一応、主体となってその子の相手をしてやれ、ということだ。小学生を大人の中に放り込むわけにはいかないだろ」

 言われて、中学生の二人は顔を見合わせる。小学生と同一視されるのは少々心外な年頃だった。

「一海を継ぐのは二人のうちどちらか、だ。おそらくな。一人で、とは言わないが、そろそろ二人で一つの案件ぐらいこなしてみせろ」

 文句を言おうにも、そうやって畳み掛けられると上手い言葉が返せない。それでもなお、口を開こうとした円を、

「私の家で、一海の次期宗主の話をされるのは、いささか心外なのだが」

 のんびりとした巽の宗主の言葉が遮った。確かに、一海本家の人間として見苦しいところを見せた。それぐらいの分別はある円は、おとなしく口を閉じ、座り直した。

「ともかく、お二人にお任せしたい。姫さんなんかは、他人に尻拭いをさせるはプロとしてどうなんだ、とか思っていそうだが、まあそれは適材適所、ということで。身内の恥をばらすようだが、巽にはあの子は荷が重い。口には出さなくとも祓えないならば殺してしまえ、などという物騒なやからがいるかもしれないからな」

 恐ろしいな、と小さく付け加える。宗主といえども個人の意思で簡単に方針が変えられる程、根付いた思想は脆くない。

 わかりました、と円は答えた。

 腰まである長い髪を左手で払うと、微笑んでわざとらしく三つ指をついた。

「その件は、一海でしっかり預からせて頂きます」


 大道寺沙耶。

 それが、龍憑き少女の名前だった。

「裏でも表でも活躍しているって評判の、最近急成長の大道寺グループ」

 手元の資料を見ながら、直純が言う。

「そりゃー、恨みつらみを買ってるだろうな」

「それが子どもにいく、っていうのは正直最低だけどね」

 少女についていた龍は、大道寺グループやその社長に向けられた恨みつらみなどが具現化して形を得たものだった。

 発現したのは今回が初めてだが、恐らく生まれた時からある程度の形はあったのだろう、というのが巽も一海も共通した読みだった。

 最初は小さな形だったものが、グループの成長に伴う恨みやつらみ、そして大道寺沙耶自身の不の感情に反応して成長した。

 良家の子息が通う私立大附属小学校。無邪気な子どもほど残酷で、両親の日々の愚痴や顔色など、酷い場合には直接的な示唆から自分が仲良くすべき子とそうではない子を見極める。

 大道寺家は、「成金」と呼ばれていたらしい。強引な方法で唐突に大きくなったグループに対してのいい評判はなく、知らず知らずにはじまった子ども達の大道寺沙耶へのイジメ。

 それが、龍の形成に拍車をかけた。

 そして今日、いつもと同じと言えば同じの、何かが違うとしたら口だけではなく手が出てしまった子ども同士の喧嘩によって、龍は確実な形を得て、具現化し、暴れた。

「……まあ、わかんなくもないわね。女の子のイジメって陰湿だし」

 思うところがあるのか、円が唇を歪める。

「ああ。だれも、こんなことになるとは思わなかったろうな」

 現れた龍は一通り暴れ、まだ不安定だったことが幸いし、自然に大道寺沙耶の体内に戻っていた。

 生まれてから数年かけて完成した龍は、もはや彼女の体の一部となり、祓ってしまうことは不可能で。

 それはつまり

「これから先の長い人生、これを負うのは大変だな」

 直純が呟いた。

 暴れた龍は、小学校を半壊させ、数十人に重軽傷を、そしてイジメの主犯格をふくむ三人を死亡させた。

「これを、ね」

 報告書の該当部分を指で軽く叩くと円も頷いた。

「覚えていたら、最悪よね」

「覚えていなかったら?」

「それも、最悪」

 横から覗き込んでくる直純に報告書を手渡すと、

「覚えていなかったら、あの子が起きた後、誰がどうやって説明するの? どこまで?」

 円の言葉に、直純は渋い顔をした。


 結論からいうと、二人の心配は危惧に終わった。

 大道寺沙耶が目覚めた、という知らせを聞いて重い腰をあげて二人が向かった先で見たものは、

「うふふ、みてー、可愛いでしょー」

「佐知代叔母様」

「母さん」

 ふりふりのワンピースを着せられて目を白黒させている沙耶の肩に両手を置いて、笑う一海佐知代。直次の妻、直純の母である。

「だってー、円ちゃん、こういう服着てくれなかったじゃない。直、男の子だし」

 女の子が欲しかったのよー、ふりふりワンピ、と歌うようにいいながら、佐知代は沙耶の髪の毛をとかしつける。

「母さん、困ってるじゃないか」

 息子の言葉に、あら、と声をあげ

「あら、迷惑だった? ごめんね、沙耶ちゃん」

 沙耶を自分の方に向かせ、顔を覗き込む。沙耶はうつむいたまま首を傾げた。

「沙耶ちゃん、あのね、私の名前は一海佐知代」

 自分の鼻を指でさす。

「それで、あっちが私の息子の直純と、姪の円」

 紹介された二人は慌てて一度頭を下げる。

「沙耶ちゃんね、今日から、うーん、とりあえずしばらくうちにお泊まりすることになるんだけど、大丈夫?」

「……はい」

 小さな声の返事に、佐知代は微笑む。

「直と円ちゃんが沙耶ちゃんのお世話してくれるから、何かあったら二人に言ってね」

「……はい」

 佐知代は沙耶の頭を撫で、

「とりあえず、お部屋に行きましょうか。円ちゃん、貴女のお部屋の隣に案内してあげて」

「あ、はい」

 佐知代のペースに流されそうになりながらも、沙耶を手招きする。

「おいで」

「……はい」

 沙耶はゆっくりと、円の後をついていく。

 その後ろ姿を見送ると、

「母さん、あの子、記憶は?」

「わからない」

 ゆっくりと首を振る。

「起きた瞬間に取り乱しはしなかったし、着替えましょうかーっていうのにもはいって答えたし。完璧に記憶が残っていたらああはいかないと思うけど。でも」

 そして息子を見つめ、

「あの子、寝ている時うなされていた。ちゃんと、見てあげてね?」

 母の言葉に一つ頷いた。


 気まずい。

 無言で後ろをついてくる沙耶の気配を感じながら、円は前だけを見て歩いた。

 そもそも、小さい子どもの扱いには慣れていなかった。一つ屋根の下に暮らしている分家の年下の子ども達もいることにはいるが、彼らはみな、宗主の娘である円を崇拝の目で見ていた。したがって、子ども達の方が円に気を使うような関係で、

「恨むわよ、父様」

 小さく唇だけで呟く。

 こんな無口な、それも厄介なことになっている子どもの扱いなんて無理だ。どうしたらいいかわからない。何か話しかけてあげるべきなんだろうか。佐知代叔母様ってすごい。

 などと思っている間に、目的の部屋につく。

「どうぞ」

 襖をあけて促すと、沙耶はおっかなびっくり足を踏み入れた。

 普段使われていなかったその部屋は、綺麗に掃除され、布団と折りたたみ式の小さな机がおいてあった。さすが、うちの人は仕事がはやい。

「ここ、使って」

「……はい」

「なんかあったら、適当に外に出れば多分、誰か居るから」

「……はい」

「隣、私の部屋だし」

「……はい」

「なんか、ある?」

 無言で首を傾げる。

 元来、さばさばした性格の円には、この手の会話はつらかった。うじうじするな! と言いたくなる。実際、この子がなんでもない、ただのクラスメイトだったら言っていた。

「うん、じゃあ、まあ、そんな感じで」

 そうして逃げるように襖を閉めると、直純たちのところへ戻った。


「円ちゃん、ちゃんとお話した?」

「怒ったりしてないだろうな?」

 戻った円に向けられたのは、叔母と従弟のあからさまな疑いの眼差しだった。

「なんだと思ってるのよ、私のこと」

 言いながらも、図星なので肩をすくめる。

「はい、しか言わないんだもん。どうやってコミュニケーションとればいいのか」

「混乱してるのよ」

「それはわかるけど」

 頭で理解しているのと、感じることができるのは違う。一般人が、なんらオカルト的なことに関わりのない生活を送ってきた人々が、突如それに巻き込まれる。その時の心情を感じることはできない。生まれてきたときから、人ならざるものがいるのは、当たり前で、そしてそれは彼女にとってたいした脅威ではなかったから。

 同じように、感じ取ることができない直純も困ったような顔をする。

「それはもう、経験ね。二人とも、次代の一海を背負って行くのだから、ここできちんと彼女と向き合うことね」

 そういって、佐知代は微笑んだ。

 二人はただ顔を見合わせた。


 結局、その後お茶に誘った時も、夕飯の時も、入浴の時も、寝るまで沙耶の語彙には「はい」しか現れなかった。

 そして、今回のことをどうやって説明するか、は一日放っておかれた。彼女自身が覚えているのかどうかが確認がとれないままだったから。

「覚えてる? って聞く?」

「はい、って言われても、首傾げられても困るだろ」

 本当にまるまる全権を委任された二人は、廊下の端で会議をする。それを、通りすがる大人達が、どことなく微笑ましそうに見ているのがしゃくだった。

「最終的にはちゃんとフォローできるだけの算段があるのよ。私たちが間違った方に進もうとしたらちゃんとただすつもりなのよ。性格悪い」

「しょうがないだろう。あの子を危険な目に遭わせるわけにはいかないし、仮にも預かってるんだし」

「違うわよ」

 当たり前のことを呟く直純に

「わかってないの? どうせ失敗するんじゃないかって思われてるのよ? 私たち、見くびられてるのよ」

 もう、サイテー、と髪を払う強気な従姉に思わず苦笑する。実際問題、何一つ出来ていなかった。何一つ役に立っていないことをわかっていないような愚鈍な円ではなく、分かった上でのサイテー発言に苦笑する。そうやって強気な従姉は自分を追いつめて行くのだ。突っ走って行く彼女は強いけれども、その分自分は冷静でなければならない。

「ぎゃふん、って言わせないとな」

 分かった上で台詞にのっかると

「直、あんたそれ、死語」

 冷たく言葉を返された。


 深夜。

 何かの気配に、いつもと違う気配に、円は目を醒ました。

 辺りを伺い、身構える。

 そしてそれが、隣の部屋からの気配であることに気づくと緊張を解いた。

 そっと、音を立てないようにして廊下にでると、

「円」

 困ったような顔の直純がいた。

 念のため、ということで沙耶の隣、円とは反対側を寝室として使っていた。

「あけていいもんだと思う?」

 直純のためらいがちな台詞に、返事を返さず、それでもそっとゆっくりふすまをあける。

 少しの月明かりと、他の人よりも少しだけ暗闇に慣れた瞳は、中の様子をきちんと捉えた。

 ふとんからはみでた長い黒い髪が揺れ動く。顔は布団に埋まっていて見えない。声も、聞こえない。押し殺されて吐かれる息のみ。

 それでも、泣いていることだけがわかった。

 動きかねている円の代わりに、直純が部屋に入る。

 畳のきしむ音に、近寄ってくる気配に、はじかれたように沙耶が顔をあげた。

「あ、」

 涙でぬれた顔で何かを言おうと、弁明するかのように口を動かす。それでも言葉にならない。

 直純は枕元に座ると、軽く頭を撫でた。

「どうかした?」

 首を横に振る。がむしゃらに。

「怖い夢でも、見た?」

 夢のせいにする。そうすると、一瞬のためらいのあと小さく頷いた。

「そっか。慣れないおうちだから、怖いよね。うち、広いし」

 そういって、頭を撫でる。

「大丈夫、もう、怖いものは来ないから」

 その言葉に小さく肩が一度震える。その挙動に一瞬、小さく眉をひそめる。

「大丈夫。眠れるまで、隣に居ようか? それとも、邪魔?」

 後半、おどけたようにつけたす。

 少しの間のあと、沙耶は直純の手を握った。

「ん、わかった。眠れるまでここにいる。また怖い夢みたら隣にいるから、一人で泣かないで呼んでね」

 そういって柔らかく微笑む。母親と同じ人当たりのいい笑み。

 それにつられて、沙耶も少しだけ表情を柔らかくすると、布団にもぐりこんだ。

 彼女の背中を優しく、一定のリズムで叩く直純を見ながら、円はただ、入り口で立ち尽くすだけだった。

 優しく微笑む、そんな自分にはとてもできないことが出来る従弟に、不謹慎ながらも劣等感を覚える。ああ、やっぱり次期宗主は直純だ。厳しいだけの自分に、誰もきっとついてこない。

 心の中では望んでいたその座を、あきらめて手放した。

 きっと、あの子も無口で無愛想だった自分よりも、優しい直純を慕うだろう。

 その光景に背を向けて、外の月明かりを睨んだ。

 そして、あの子はきっと、本当は覚えているのだ。どこまで具体的にかはわからないけれども、自分に何か怖いものが憑いていることは知ってるのだ。何か、怖いものが。夜中に思い出して、一人で声を押し殺して泣くような、そんな怖いものが。

 でも、その気持ちは、円には感じることができない。きっと、一生。

 背後から、かすかに子守唄が聞こえてきて、そんなものまで歌える直純を羨ましいとさえ、思った。敵わない。


「寝たよ」

 直純は、ふすまに背を預けて腰を下ろしていた円に声をかける。

「そう」

 返ってきた言葉の、いつもよりも低いテンションとしめっぽさに首を傾げる。

「どうかした?」

「別に」

 円の視線が直純に向けられた。

「あの子、覚えてるね」

「うん」

 頷くと、円の隣に腰を下ろす。

「化け物、って小さく呟いてた」

「ん」

「声、押し殺して泣くんだね」

「子どものくせにね」

「ね」

「子どもなんだから大声で泣けばいいのに」

 そうしたら、もっと楽にみんなが慰めてくれるのに。自分が化け物だと思うから、それが出来ないんだろう。

「言わなくても、いいよね」

「うん?」

 隣の円を見る。

「被害状況。少なくとも今は」

 わざわざ言って傷つけなくてもいいよね、と続ける。それを、エゴだけど、と苦笑する円に

「そうだな。宗主に相談するけど」

 一つ、頷いた。出来ることならば自分も伝えたくなかった。

「明日は、もっとちゃんと、少なくとも笑ってるようにがんばる」

 いつになくしおらしい円の言葉に、やはり一度首を傾げてから

「そうだね」

 微笑んだ。

 そうして、二人並んで膝を抱えて座ったまま、一晩過ごした。


「円、直純、ちょっといいか?」

 宗主に呼ばれたのは、沙耶が来てから三日後だった。沙耶も返事だけではなく、少しだけ会話をするようになったころ。

 二人は顔を見合わせて、

「待ってて」

 一緒にケーキを食べていた沙耶に告げる。小さく、心細そうに沙耶は頷いた。

 部屋を出て,廊下を歩く。

「仲良く、してるみたいだな」

「ええ、まあ」

「一緒に寝ているらしいじゃないか」

「そっちの方が楽だからね」

 毎晩聞こえてくる隣室からの泣きの気配に、毎回起き上がって隣室に行くのもためらわれ、二人は布団を沙耶の部屋に運び込んで隣で寝るようになっていた。それでも、少しのすすり泣きは聞こえてきて、それはできるだけ二人は聞いていないふりをした。

 泣くことを我慢させるのもよくない、と思って。

「そんなときにあれなんだがな、大道寺修介が来ているんだ」

 やっとこさな、と付け加える。

「沙耶ちゃんの、父親?」

 頷く。

「ああ、全ての根源ね」

 さらり、と円は言うと髪を払いのける。

「会え、と?」

「二人の担当だしな。一応、わたしが相手をするが、二人にも同席してもらいたい」

「わかりました」

 直純は、そう返事をし

「はい」

 珍しく円も素直な返事をした。

 

「お待たせしました」

 部屋に入ると、部屋の真ん中であぐらをかいた中年の男性が座っていた。少し頭頂部が気になるものの、体型的にも崩れが無い。これ見よがしに時計を見たのは、遅いことへのアピールか。

「二十点」

 隣の直純にだけ聞こえるように呟く。

「意外と高いな」

「見た目だけ」

 正面を見たまま、不毛なやりとりをする。

「こちらは娘の円と、甥の直純です。」

 微笑みながら告げる宗主。

 男は二人を値踏みするかのように、上から下まで見る。二人とも微動だにしなかった。

 視線が離れ、唇だけで、こどもじゃないか、と呟く。

「訂正、0点。見る目なしは最悪ね」

 座布団に座る直前、円が告げた。

「さて、ご息女のことなのですが」

 宗主が告げた瞬間。

「あんな化け物! わたしの娘などではない!!」

 男は吐き捨てるように叫んだ。

「あんな化け物を産んだ覚えは無いんだ! 何なんだ一体? 龍がついているだと? ばかばかしい、それで人を殺すなんて! あいつの存在がばれたら大道寺グループはおしまいだ。あんなやつ、娘じゃない!」

 怒鳴るようにまくしたてる。

 直一は眉を軽くひそめ、隣の娘が立ち上がろうとしているのに気づき、慌てて彼女の手をつかむ。よくないことが起きる気がした。

「円」

「お父様」

 愛娘は振り返るとゆっくりと微笑んだ。一海の姫は、ゆるやかに微笑んだ。とても、綺麗に。唇が計算された角度で上がる。

 その顔をみて、これは駄目だな、と悟る。この顔は感情を隠したときにする笑い方で、その笑顔の下にはきっと般若の顔がある。

「私がこういう娘に育ってしまったのは、お父様の教育の賜物です」

 ね? と首を傾げると、父親の手を払って男の正面にたった。

「とめなくて、いいんですか」

 反対側の隣にいた直純が宗主の耳元でささやく。

「とめてくれるのか?」

「いや、無理です」

「だろ?」

 ため息をついて、宗主は愛娘の動向をうかがった。

「なんだ?」

 空気を読めない男は、目の前に立つ円に不遜にもそう尋ねた。

 円はにっこり微笑むと、握った左手を男の頬に叩き付けた。

 派手に男は畳に倒れ込む。

「あーあ」

 直純が小さく呟いた。

「化け物はあなたのことだ。自分のせいで娘が傷ついているのにその心配もしない。化け物に育てられるなんてあの子がかわいそうだから、だから。私があの子の面倒を見ます。あなたは金輪際、うちの敷居をまたがないで頂戴」

 そうやって言い切ると、口をわなわなさせながら床に倒れる男を一度だけ、汚いものでも見るように見た。

 そして、ふすまをあけて部屋をでる。廊下にいた女性に塩をまくように頼むのは忘れなかった。

「直純」

 しまったふすまをみて、直一は一度そういった。

「はい」

 それだけで直純は立ち上がると、円を追う。

 幾分冷静さを取り戻し、頭に血が上り始めた男をみた。

「まぁ、親の責任だもんな」

 そういって唇をゆがめた。


 どすどす、と必要以上に足音をたてて歩く円の、数歩後ろをついて歩く。静かに歩け、と注意する人間は今は、居ない。

「円」

 部屋から大分離れたところで声をかけると、

「何?」

 ぎすぎすした声が返ってくる。足はとめても、振り向かない。

「やり過ぎだって言いたいの? 冷静になれっていうの?」

「違う」

「じゃあ、何よ」

「よくやったな、って思ってる」

 少しだけ視線を動かす。直純は微笑んで続ける。

「俺なら殴れない」

「やっぱり馬鹿にしてない?」

「してない。尊敬してる」

 あそこで殴るという選択肢がでてくる彼女は、やっぱり凄い。

 冷静な部分は自分が担う。だから円には、思う存分つっぱしって欲しかった。それが彼女の持ち味なのだから。ためらいで鈍る刃は要らない。必要ならば自分が止める、だから彼女は突き進んで欲しいのだ。

「だってあれは、ないだろう?」

 続けると、円は完全に振り向いた。

「あの場のみんなが、あいつにはむかついていたんだ。円が殴ってくれて、感謝している」

 できれば、俺の分ももう一発ぐらい殴ってくれても良かったのに、というとあきれたように笑った。

「私のこの美しい手は、あんな下衆野郎を二度も殴るためには存在していないの」

 言ってから、一度殴ったのだって不本意なんだから、と不服そうに殴った左手を見る。

「手、洗ってこようかしら?」

 呟いた言葉は結構本気だった。


「ごめんねー、沙耶」

 さっきまでケーキを食べていた部屋に戻る。

「あれ?」

 そこには食べかけのケーキだけが残されていた。

「どこ行ったー?」

 言いながら円はテーブルクロスをあげ机の下をのぞく。

「そこにはいないと思う、よ?」

 思わずつっこむと、

「いや、子どもの考えることってわかんないから」

 真顔で返された。やっぱり多少はためらって欲しいような気がしてきた。

「あ、ちょっと」

 廊下の使用人をつかまえる。

「沙耶、知らない?」

「先ほどあちらで」

 そういって二人が歩いてきた方を指差す。

「お見かけしましたが、大道寺様と」

「あんなのに様は要らない!」

 円が大声をあげる。

「えっと……」

「ごめんなさい、続けて」

 円を一歩下がらせて、続きを促す。

「その、お会いしていたのではないのですが?」

「沙耶ちゃんも?」

「ええ、てっきりそうなのだとばかり……」

 小首を傾げる。

「ありがとう、お仕事に戻ってください」

 使用人は一度頭を下げると歩いて行く。

「廊下で、見かけたって、あの子、まさかさっきの聞いていたんじゃ?」

 円が血相を変えて、叫ぶ。

「いや、それはまずいだろ」

 大道寺の言葉を思い出す。

「あの……」

「何っ!?」

 かけられた声に慌てて振り返る。さきほどの使用人が

「玄関に、沙耶様の靴がなかったんですが……」

「私、外探してくる!」

 怒鳴るようにして言い残し、円は外にかけて行く。

「あ、ちょ」

 直純の静止の声も届かずに。

「どっちにいったかの予測ぐらいたててからにすればいいのに」

 直純は無鉄砲で、だからこそ優しい従姉を思い、小さく笑う。

「宗主と父に連絡をお願いしていいですか? あと、手の空いている人間で家の中を一応探してください」

 かしこまりました、と一礼し、使用人は早足で去って行く。

「さてっと、冷静な部分はちゃんとフォローしないとな」

 と、自分の式神を呼びだした。


 怯えていた。

 あの子はずっと。

 自分自身に。

 そんな状態で化け物なんて聞かされたら、自分だったら死にたくなる。

「どっちが、化け物よ」

 走りながら小声で吐き捨てる。

 自分の娘ではない、と言っていた。それなら結構だと思った。

 あんなやつには渡さない。頼まれたって渡さない。

「あの子は、私の、」

 ぐっと唇を噛むと、勢い良く地面を蹴った。

 子どもの足でそんなに遠くに行ける訳がない。時間にしたらほんの少しの出来事だったのだから。

 はやく見つけないと。はやく会って、そして……、

 

 化け物、化け物、化け物、化け物、化け物。そんなこと、わかっていた。

 そんなこと、自分が一番よく知っていた。

 知っていたけど、わかっていたけど。

 沙耶は唇を噛んで、歩く。

 父親が来ている。

 円と直純が立ち去ったときに寂しくなって、不安になって、ふすまを小さくあけて外の音に聞き耳を立てていた。

 そこで知った。父親が来ている。

 会いたい、と思った。一海の人たちは皆いい人だったけれども、父に会いたいと思った。

 だから、廊下を歩いて父を捜した。

 すぐに見つかった。

 怒鳴り声がしたからだ、父の。

「娘じゃない……」

 呟く。

 咄嗟に逃げ出した。あの家の中に居られなかった。

 確かに自分は化け物だ。覚えている。割れた窓ガラス。血の色。なぎ倒される机と椅子。それからクラスメイトの悲鳴と。

 そしてその中心でただ呆然と事態を見つめていた自分。

 覚えている。分かっている。知っている。

 自分からでた何かが、とんでもないことをしたのを。黒い影を。

 化け物だ。

 それでも、

「っ……」

 腕で目元を拭う。泣く資格なんて持っていない。

 それでも、化け物でも。

「パパ……」

 信じて欲しかった。慰めて欲しかった。あんまり忙しくて会うことのない父親だったけれども、たまの休みに会った時のように、笑って迎えて欲しかった。抱きしめて大丈夫だよ、もう平気だよって言って欲しかった。

 名前を、呼んで、欲しかった。

 あんなやつ、ではなくて、名前を。

 立ち止まるのが怖くて、ただ歩く。立ち止まったら何かに捕まる気がして、ただ。

 滲んだ視界で前がよく見えない。

 どこか、誰も見つからないところに。


『円様』

 どこにもいない、と毒づいた円は後ろからかけられた声に慌てて振り返る。

 まるっこい鳥のような生き物が宙に浮いていた。生き物?

「あ、あんた、直の」

 確か以前、見せてもらった。式神。式札を用いる、使い魔。最近では使う人が少なくなったそれを直純は習得していた。その方面の才があまりないのでよくわらかないけど。

「えっと、確かウーヤ」

 確か語源は鴉。まるっこくて、色も黄土色に近くて、とても鴉には見えない、とからかった。

『はい。直純様からの伝言です。大道寺沙耶様の居場所について』

「続けて」

 さすがだ、と思った。

 闇雲に走りだした自分とは違って、きちんと調べたらしい。冷静で、羨ましい。

 それでも、私は一刻でも早く彼女の元に行きたいのだ。そして、

「ありがとう」

 伝言を聞くと再び走り出した。彼女に会って、そして


 沙耶がその場所を選んだのは、学校で噂になっていたからだ。

 大きめのマンション。なのに今は誰も住んでいない。出来たばかりだったのに。

 そこは幽霊屋敷と噂されていて、肝試しの場所として使われていた。お化けをみた、という話をよく聞いた。

 お似合いだ。自分には。

 誰もいない、化け物屋敷。

 鼻をすすりながらエレベーターのボタンを押した。電気がなくて薄暗い。エレベーターが下に降りてくる。

 とりあえず、一番上まで行こうと思った。乗り込んで最上階の十二階のボタンを押す。

 文字盤を睨む。

 化け物は、いるのだろうか? 居たら、あたしはこちらの仲間になるのだろうか?

 文字盤が階数を表示していく。一〇、十一、十二。沙耶は一歩前に足を踏み出した。扉が開くと、思った。

 けれども、扉は開かない。エレベーターは止まらない。

 首を傾げてボタンを見る。十二階までしか、確かに存在しなかった。

 踏み出した足を再び後ろに戻す。

 十三階。そこで、エレベーターは停止する。

 そして、ゆっくりとエレベーターのドアが開き、沙耶は視線を下に落とし、ひっとのどの奥で張り付くような悲鳴をあげた。思わず後ろへ下がる。背中が壁に当たる。

 そこに”いた”のは、頭から直接手足がはえたような、子供が描くグロテスクな絵のような、明らかに人間ではないのに人間であると認めざるを得ないような”もの”で……、

 そしてそれは、こちらをみてにやりと笑った。

 その、妙な手足を使ってエレベーターの中へ入ってこようとする。

 沙耶は無意識に首を横にふった。

 視線をそれからはずせない。

 あと数歩、にやりとそれは笑い……、


 動きを止めた。


 否、とめられた。

 視線を、顔を、あげる。

「……まどかおねえちゃん」

 札を片手に、額に汗を浮かべた円がきっと沙耶をにらみつけた。

「なにやってんのよ、あんた!」

 ぐしゃり、

 "それ”をなんの躊躇いもなく踏みつけると沙耶の右手を取った。怒鳴り声に沙耶は身をすくめる。

「ここは本物の幽霊屋敷なのよ!? もう、ばっかじゃないの!? あんたに何かあったら怒られるのは私なんだからね!?」

 一方的にそう、まくし立てる。同時に黒いスニーカーで足元の“それ”をぐりぐりと踏みつける。

「あー、もう!!」

 だんだん、と地団太を踏むと“それ”は砂になった。

「で、大丈夫なんでしょうね!?」

 事態を理解できない沙耶は、円の怒鳴りつけるような言葉に何度か瞬きをしながら首をかしげる。

「だから! けがとかしてない!?」

「あ、はい」

 こくこくと何度か頷くと、円は小さく息を吐いた。少しだけ、彼女が笑ったように見えた。

「帰るわよ」

 そして円は、半ば強引に手を引いて走り出した。


 幽霊屋敷から転げるようにして出ると、近くの公園まで円は何も言わずに沙耶の手を引いて歩く。

 公園のベンチまで来ると、円は沙耶をそこに座らせた。自分は沙耶の向かいにしゃがみ込む。目線を合わせる。従弟がよくそうするように。

 怯えた顔をしたままの沙耶に向かって、出来るだけ上手く微笑もうとする。出来るだけ、優しく。

 よく大人達と対応するときに浮かべる、感情を隠すためではない笑みを。

「沙耶」

 手を伸ばすと彼女はびくっと身体を堅くした。

 殴ったり叩いたり拒絶したりなんか、しないよ? 走っている間ずっと思っていた。

 はやく、はやく、沙耶に会って、抱きしめてあげたい。

 ぎゅっと、目の前の小さい小さい体を抱きしめる。

「あんたは化け物なんかじゃない。ただの大道寺沙耶っていう人間よ。こんな可愛い化け物なんていない。居る訳がない」

 力加減が分からなくて、沙耶が小さく咳き込んで慌てて緩める。

「大道寺の娘でも、そうじゃなくても」

 大道寺には返さない。だって、彼女は

「あんたは私の妹になるの」

 そこまで言って円は体を離し、小さな小さな妹の方をみた。

「それでいいじゃない」

 微笑む。努力しなくても、微笑めた。

 一拍の間のあと、

「……ふぇ」

 沙耶の黒くて丸い瞳にどんどん溜まった水が、溢れ出る。声を押し殺すようにして泣く、妹の頭を円は優しく撫でた。

「泣きたいなら、ちゃんと泣きなさい?」

 姉の言葉に、沙耶は彼女にしがみつくと、声をあげて泣き出した。

 その背中をゆっくりと撫でる。

「ありがとぉ」

 承認された。認められた。本当はそれが欲しかった。ただ、ここに居ていいと、言って欲しかった。

 かすれた声で呟かれた言葉に、円は笑って返した。

「こちらこそ」

 ぎゅっともう一度抱きしめる。

 沙耶が来て、自分に足りない能力がわかった。それは要らないと思っていたものだった。でもやっぱり欲しい。優しさとか、そういったもの。

「ありがとう、うちに来てくれて」

 聞こえないぐらいの声で呟いた。

 宗主になれないのならば意味がないと思っていた。それでも、直純にその座をあけわたして、自分はこの小さな妹を守りながら、直純の補佐でもいいと、素直に思えた。


「お帰り、円。いや、次期宗主というべきかな?」

 玄関を開けた円を迎えたのは、父親のそんな言葉だった。

「父様、耄碌するには早すぎるわよ?」

 沙耶を玄関に招き入れながらそう言う。

 次期宗主だなんて、だってさっき諦めたばかりなのに。どう考えても直純の方が向いている。

「いや、今さっき正式に決定した」

「は?」

 慌てて父親の顔を見る。そうして、その隣の従弟と叔父の顔も見た。二人も、うんうん、と頷いている。

「何それ、聞いてないんだけど?」

「急な話だったからな。直純とどっちがなるか、っていう話だっただろう? さっき、今回の件を片付けた方が宗主、っていうことにしようという話になった」

「なんで!? 大体、そんなこと爺様達が許すわけ……」

「会議にはかけたよ」

 そうして一海の宗主は飄々と笑った。

「今回の件は冷静な思考、行動力、まあその他いろいろ試されるからちょうどいいんじゃないかってことになってな」

「でも、俺はちょっと別件で手が離せなかったんだけど」

 にやり、と直純が笑う。

「父様達、みんな、グルになって爺様達を騙したの!? 直、あんた、確かにやりたくないって言ってたけどだからって、こんな……」

 めまいがする。

「そんなの、爺様達があとで難癖つけてくるに決まっているじゃない」

「知らん」

 宗主は言い放ち、

「それは今後のお前次第だよ、円」

 優しく笑った。

 円があきれた、と呟いた。そうして自分の右手を小さく引く感触に気づく。視線を向けると、小さな小さな妹が不思議そうに首を傾げていた。

「父様達、私に一海の一番偉い人になれ、だって」

 簡潔にそうやって説明する。

「……すごい」

 沙耶が小さく呟く。

「すごくはないでしょ」

 もう一度ため息。

 今さっき、諦めたのに、手放したのに。自分よりも直純が向いていると思うのに。それでも、彼らは自分にならできると思ってくれているのだろうか? 爺様達をも納得させられると?

 もし、そう思ってもらえているのならば、

「あのね、父様、叔父様、直純」

 円は、狸どもの名を順番に呼ぶ。

 そうして、腰まである長い髪を左手で払うと、彼らを睨みつけるようにして告げた。

 睨まれながらも三匹の狸は似たような笑みを浮かべていた。

「選んだからには、きちんと私と心中しなさいよ」

「もちろん」

 その場を代表して、直純が微笑みながら答えた。

「ま、後悔は、絶対にさせないけどね」

 いつもの不敵な笑みを浮かべ、不思議そうな顔をする出来たばかりの小さな妹の頭を撫でた。

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