第六章 本当の空

「……おはようございます」

 翌日、そういって龍一がドアを開けたとき、そこにいたのは円だけだった。

「おはよう」

 どこか疲れたような顔で、それでも円は微笑んで迎えた。

「来ると思った。だから、ここで待っていた」

「……説明、してくれるんですね?」

 後ろ手でドアを閉めながら龍一が円を見据える。その視線をゆるり、と受け止めて円は一度頷いた。

「直たちは事後処理で走り回っているから、時間だけならたっぷりあるわ。とりあえず、座って」

 自分の向かいの椅子を指す。そこは、沙耶のデスクだった。

「昨日のアレを、貴方は見えていたのでしょう?」

「はい」

 一瞬円は顔をしかめた。

「じゃぁ、話は簡単ね。アレが、あの龍が沙耶の抱えている爆弾の正体よ。アレは沙耶の体に憑いているの、生まれたときからずっと。あの子の感情の高ぶりに反応して、あの子の意志に関わらず暴れだす、爆弾」

「なんで、そんなものが……?」

「……大道寺グループって知っている?」

 ここ十数年で急成長を遂げた、裏でも表でも活躍しているコングロマリットの名をあげる。

「ある一定の年齢に達した日本人が、知らないわけないと思いますが?」

 皮肉っぽく口元をゆがめてみせる。大道寺。つまりはそういうことなのだろう。

「よね。その大道寺グループのご令嬢なのよ、沙耶は、本当は」

 自分の予感が的中したことに、龍一は一度ため息に似た息を吐いた。なるほど、あまりにも身近すぎて二つの名前が結びつかなかった。

「色々とあくどいこともやっていたみたいでね、あそこは。それで他人から買った恨みがつもりつもって、あの子に憑いてしまった。それが龍というわかりやすい形をとった。それだけのこと。理論としてはわかるでしょう? 恨みつらみっていうのは何か明確な形をもつと、その力を増すのよ。それだけのこと。それだけのことなのにっ!」

 円は一度、手を横に払うようにして机を叩いた。がっしゃん、落ちた灰皿が派手な音を立てた。

「なんであの子があんな目に遭わなきゃいけないのよっ」

 白くなるまで強くこぶしを握り締める。唇をかんで机を睨んでいる円にかける言葉など、龍一は持ち合わせていなかった。

 代わりに彼女が落とした灰皿を拾い上げた。

「……ごめんなさい」

 しばらくの沈黙のあと小さく呟くと、円は顔をあげた。いつもと同じようなどこか不機嫌そうな顔で。

ゆっくりと煙草に火をつけて、一息つく。左手で、煙草を持っていた。

「小学生のころに、一度だけ学校であれを暴れさせてしまったことがあるの。というか、あれが最初ね。それまで誰も知らなかったんだから。公には原因不明の爆発事故ってことにしてあるけど、あれで何十人も怪我をして、三人死んだ」

「そんな……」

「沙耶は知らないわ。自分が起こしたあのことがどれだけの被害を出したのか、は。私たちのエゴよ。それで教えていない。多分、どこかで感じているんだろうけど。それで、大道寺側は沙耶を手放すことにした。笑っちゃうわよね、自分達のせいで娘が苦労しているのに、こんな化け物自分達の子じゃない、なんて。……まぁ、殴ってやったけどね。その時は。いい気味だわ。それが、私が中学生のとき。それ以来、沙耶はずっと一海が面倒を見ている。父様に沙耶の面倒を見るように言われて、仕方が無いから私と直で面倒を見ていて……。龍一君、私に聞いたでしょ? 次期宗主がそんなに嫌なのかって、最初に」

 一つ頷く。

 煙草の灰を落とす。

「嫌なのよ。とても。納得できない。自分が宗主の娘であることに、跡取だっていうことに。だって、私は、……沙耶ですら救えない」

 自嘲気味に嗤う。煙が揺れた。

「ごめん、話が横にそれた。大事なところはここからよ。沙耶の龍はあの子の意志では動かない。かろうじて、押し込めることは出来ているけれども、沙耶の龍が一度活性化してしまうと……、例え昨日みたいに具現化して暴れださなくても、あの子の中で少しでも活性化すると、それを押さえ込むのにある代価が必要となるのよ」

 一区切り。

「あの子の、記憶を」

「……記憶?」

「そう」

 一つ頷く。煙を吐き出し、睨む。

「龍は大人しくしている代わりに沙耶の記憶を喰らうの。このままいけば、いつかあの子は君との思い出も忘れるわ。もしかしたら、もう何か忘れているかも。……爆弾を抱えている、いつか忘れるかもしれない、それでも、」

 煙から正面の龍一へ視線を移した。

「龍一君はあのこと付き合っていけるって言える?」

 円の視線を受け止め、すぐに逸らす。机の上に置いてある、沙耶の丸っこい字が書かれた報告書を見つめながら、ぽつぽつと言葉を紡ぎだす。

「怖かった。あの龍を見たときはとても、怖かった」

「うん」

「でも、」

 顔を上げる。

「どこか綺麗だと思ったんです」

「?」

「こんなこと言ったら、怒られるかもしれないけれども、桜が舞い散る中であの龍は、俺には踊っているように見えた。だから……、とても神聖で、綺麗なものに、見えたんです」

 円はしばらく、龍一を見つめ、それからふっと笑った。煙草を灰皿に押し付ける。

「そっか。……君なら、大丈夫ね」

 そういうとメモをとって、ペンを動かし、それを龍一に渡した。

「沙耶の家の住所と、簡単な地図。……行ってあげて、多分、あの子が今一番待っているのは君だから」


 ばたばた、と龍一が階段を駆け下りていく音がする。その音が聞こえなくなってからきっかり十秒後、

「悪かったわね」

 椅子に腰をかけ、まっすぐと窓を見つめたまま円はそう呟いた。

「まったくだな」

 応接とを仕切る衝立のさらに奥、仮眠室のドアをあけて、直純が出てきた。

「あんたが居るって言ったら、龍一君も話にくいでしょうから」

「そうだな」

 ぼさぼさの頭を片手でなおしながら円の隣、自分のデスクに座る。

「あと、十分。それだけ休んだら、また一海に戻る」

「わかった。次、清澄に仮眠をとるように言って。彼は普通の人間だから、そこまでタフじゃないしね」

「ああ。その次はお前な」

 正面を向いたまま、目だけを右に動かし、ちらりと直純を見る。

「別に、私は平気よ」

「三十路を前にして強がるなよ。もう若くないんだから」

「殴るわよ」

 そう言いながら徹夜明けの目元を円は片手で揉む。

「でも、本当に私は平気。それよりも沙耶が心配。あそこまで暴走させるのなんて、それこそ最初の一回以来だしね」

「大丈夫だろう」

 正面の窓ガラスに映る従姉に向かって、直純は断言した。

「……何故?」

「大丈夫だと思ったから託したんだろう?」

 そこで直純は横を向き、円を見た。

「榊原龍一に」

 円は直純を見つめ、それから意外そうに眉をあげて見せた。

「初めてね、直が龍一君の名前を呼ぶの」

「ああ。だって認めざるを得ないだろう」

 もう一度正面を見つめなおす。円も同じように正面の窓ガラスを見た。

「そうね。彼が居なかったら、龍がとまったかどうか、怪しいところよね。最悪、私たちが沙耶を……」

 そこまで言って、円はあきれた、とため息をついた。

「男が泣くんじゃないわよ、情けないわね」

 そういって苦笑してみせる。

「泣くか、バカ。諦めたわけじゃない」

 顔を逸らしながら直純が怒鳴ってみせる。

「へぇ、往生際が悪い男もなっさけないと思うけどねぇ」

「うるさい」

 窓ガラスに映る、顔を背けた従弟をしばらく笑っていたが、顔を下に向けるとぽつりと呟いた。

「……本当、敵わない。私たちの方があんなに長く、ずっとあの子と一緒にいたのに」

「……まったくだ。なんで……、俺じゃないんだよ」

 ずっとずっと、子供の頃から見てきた。直純の中でそれが恋心に変わってからも、ずっと。

 困惑させたくないから気持ちを告げない、と直純は言っていた。それを円は思い出す。三人でずっと、事務所を立ち上げてからは清澄も一緒に。微妙なバランスの関係は、榊原龍一の存在で崩れたといえる。

 強制的に封じ込めている龍を、榊原龍一はわずかながらも沙耶にコントロールさせた。

 円や直純には、何も出来なかったのに。そんなこと出来なかったのに。ふらっと現れた少年が、素人の少年が、沙耶に自分を取り戻させるほどの力を与えた。

 それは多分、沙耶が龍一に対して、他の人とは違うレベルの気持ちを持っていたのだろう。

最初からずっと見ていた。彼の思いは、多分誰よりもよく知っている。そう考えて、ふっと笑った。だからってこればっかりは何ができるわけじゃない。沙耶が誰を好きになっても、円には何も言うことはできない。

机の上に放り出していた箱から煙草を一本引き抜いた。ゆっくりと火をつける。

「これでお相子ね」

「何が?」

「私は直純が泣いているのなんてみてないし」

「……俺は円が煙草を吸っているのなんて見ていない」

 円が言いたいことを察して直純が呟く。

「ええ、私は何も見ていないから」

「……泣いてないからな」

「ええ、知ってる」

 そして円は、優しく微笑んだ。何も出来ないけれども、せめてこれぐらいはやろうと思う。沙耶を守りきれなかったという気持ちは、同じなわけだし。

 煙草をくわえたまま、正面の窓ガラスを見つめたまま、彼女は優しく微笑んだ。

 直純は窓ガラスに映るそんな従姉をちらりとみてから、天井を仰いで、きつく目を閉じた。影で一海の騎士と呼ばれている、騎士になりきれなかった男は、きつく目を閉じていた。


いつも自分が乗るのと違う電車に乗ってここまで来た。龍一はメモを頼りに歩いていく。

本当はわからないことだらけだった。龍のことだってあの説明で全てわかったわけじゃない。彼女が怖くないわけじゃない。

それでも彼は進んでいた。他に出来ることがないから。

せめて、好きな人が落ち込んでいるときにそばに居られるぐらい、近い存在でありたいと、願った。

地図にあった通りのマンションの四階。表札に「大道寺」の文字がローマ字で書かれているのを確認しながら、恐る恐るチャイムを鳴らした。

ばたばた、とドアの向こうで音がする。

「はい?」

 インターフォンから聞こえてきた少しいつもよりも低い言葉に慌てて告げる。

「あ、龍一です」

「そう……。待ってて」

 しばらくの間の後、ゆっくりとドアが開く。

 もつれた長い黒い髪をかきあげ沙耶が尋ねる。憔悴しきった顔は化粧をしていないようだった。

「……何?」

「円さんが様子を見て来いって」

 出来るだけ落ち着いて答える。

「そう……。あがって」

 沙耶はそういうと、扉を大きく開き龍一を招きいれた。

「お茶淹れるから、そこ座って」

 キッチンに向かう沙耶を見ながら、龍一は素直に座卓の前に腰を下ろす。

1DKの部屋。奥にある寝室と思われる部屋のドアが少し開いていた。ちらりと視線を移すと、本や洋服や小物などが、まるで誰かが投げつけたかのように散らかっていた。そっと視線を逸らし、見なかったことにした。

「円姉なんだって?」

 かちゃかちゃと、カップをいじる音がする。

「好きなだけ休んでいいって。有給消費することになるけどって」

「ふふっ、円姉らしいわね」

 微笑み、沙耶はお盆を抱えて戻ってくる。

「はい、空茶でごめんなさい」

 そう言ってカップを置いた。

「あ、ありがとう」

 華奢なデザインのそれを手にとり、ゆっくりと一口飲む。

 沙耶はそれを頬杖をついて見ていた。

「ねぇ、龍一君。貴方、見えるようになったんでしょ」

 ゆっくりと紡いだ言葉は、問いかけというよりも確認だった。

「……うん」

 頷く。そっか、と沙耶は呟いた。頬杖をついた方の手をそのままずらし、頭を抱えるようにする。

「それじゃぁ、見えていたんでしょう? 昨日のアレも。あたしの、」

 言葉を一度詰まらせる。

「龍」

 龍一が代わりに呟いた。

 沙耶は机の端を見つめた。そこに答えがあるかのように。

 沈黙。

 龍一は紅茶をもう一口飲んだ。

沙耶もカップを手にとる。けれども飲まないまま、中を見つめた。紅茶に映った自分がとても情けない顔をしていることに、沙耶は気づいた。

対照的に目の前の榊原龍一は、今まであったよそよそしさや気兼ね、そういったものがなくて、自分自身に確固たる自信を持っているかのように見えた。

「円姉から……、聞いた?」

 紅茶を見つめたまま呟く。

「はい。大道寺グループのこと、龍のこと、記憶のこと、全部聞きました」

 よどみなく、龍一は言い切る。そう、と沙耶は呟く。

「それでも、ここに来たの?」

「はい」

 かちゃり、結局口をつけないまま、沙耶はカップをソーサーに戻した。

「あたしは貴方を傷つけるわ。いつか、きっと確実に」

 最初はゆっくりと話していた。けれども、次第に感情が入り、早口になっていく。

「昨日だってそうだわ。あたしのせいで、貴方は危険な目にあった。怪我だって、したでしょう?」

 龍一のテーブルの上に置かれた、大きなバンドエイドの貼られた手のひらを見て、呟く。

「腕のはかすり傷。背中もただの打撲」

 静かに龍一は答える。

「それはだって、運が良かったから。あたしが、龍を暴走させなければ……」

「沙耶さんのせいじゃない。あれは、俺がそうしたいからそうしただけです」

 沙耶は顔を上げて、龍一の目を見た。本気だった。

「行く前に円さんに命の保証はしないと言われた。その上でついていった。あの時駆け寄った時だって、命の保証しなくていいなんていい放っていた。非日常的な出来事における言葉なので信憑性は少ないかもしれませんけど、あれは俺が決めたことです。それを自分のせいだ、と言い切るなんて随分と傲慢なんじゃありませんか? 俺の行動の責任を沙耶さんに取ってもらおうなんて欠片も思っていない」

 きっぱりと言い切る。寧ろ、沙耶に対して幾分かの嘲笑が込められているようだった。

「何故? 何故そこまで言い切れるの?」

「何故?」

 龍一はふっと鼻で笑った。露骨な動作に沙耶が軽く眉根を寄せる。

「円さんから聞いてません? 俺は大道寺沙耶という人間に好意を抱いているから、それだけです」

 ためらいもなく言い切った。言い終わってから、それをよどみなく告げることの出来た自分に龍一は内心で手を叩いた。

「……何故?」

 沙耶から返ってきた言葉があまりに予想外で、龍一は思わず吹き出した。

「人の告白聞いて、何故? はないでしょう」

 くすくすと笑う。

「本気で聞いてるの」

 けれども、その笑いにはとりあえず、沙耶はまっすぐに目を見つめてもう一度、重ねて問いかけた。

「何故?」

 それをみて、龍一は笑みをひっこめ、一度息を吐いた。

「一目ぼれ。最初は、顔にね。最初に沙耶さんが病室に来たとき、なんだこの人は、と思ったね。まったくの無表情で、そこから最初に見せたのは嘲るような顔。でも、病室を出て行くとき、沙耶さんは笑ったから」

「……それは、龍一君があたしなんかにお礼を言うから」

「理由なんてどうでもいい。ただ、その時の笑顔に一目ぼれってわけ」

 こう見えてなかなか面食いでね、とおどけて肩をすくめる。

「でも、それは最初だけ。猫を送ってあげた時」

「うん」

「あの時に綺麗だと思った。容姿もね、もちろんあるんだけど、それ以前に猫に対して話しかける言葉や態度が。そういうものが綺麗だってことは、優しい人なんだろうなぁと。そして、あの龍の時」

「うん」

 沙耶は目を閉じた。

「こんなに重いものを背負っているのかと思った。あの時に思ったんだ。代わってあげることは出来ないけれども、その荷物を後ろから支えるぐらいはしたいって」

「……後ろから?」

 目を開ける。

「そう。半分背負うなんてかっこいいこといえなくて悪いけど」

 おどけたように笑う彼に、ううんと沙耶は首を横に振った。

「ありがとう。それが一番、嬉しい」

 代わりに背負おうとしてくれた堂本賢治とは破綻したことを思いながら呟く。

 沙耶の言葉に龍一はにっこり微笑んだ。

「だから、今日も来たし、これからも事務所には行くつもり。例え、沙耶さんがなんと言おうとね。別に、答えてもらおうとか思ってないから、そこら辺は安心して。ただ、理由は述べておきたくって」

 龍一はそこまで言うと、少し澄ました顔で紅茶を飲み干した。

「今日来たのはそれを言いたかったのと、」

 ちゃらん、

 ポケットからドッグタグを取り出す。

「あ」

 沙耶は慌ててテーブルに置かれたそれを手にとる。

「大事なもの、なんでしょ?」

 龍一は微笑んでみせる。大道寺沙耶と堂本賢治の名前が書かれたそれを、沙耶に返すことは胸に痛みを覚える作業だったけれども、それでも微笑んでみせる。

 それが自分の選んだ道なのだから。

「あ、ありがとう……」

「どういたしまして」

 そして、今度は一つの封筒を渡した。

「……これは?」

「あけて」

 沙耶は素直にそれを受け取り、開ける。

「っ、これ!」

「四月一日、十時十三分東京発のぞみ四十九号」

 沙耶が持っている新幹線のチケットに書かれたものを龍一は告げる。

「行き先は、山口県」

 そして、にやりと笑った。

「星、見に行く約束、したろ? 残念ながら皆でっていうわけにはいかないけど」

「でも!」

 沙耶はそこまで言って、後に続く言葉が出てこなかった。そこまでする彼に、何を言えるのだろう?

「明後日、四月一日に東京駅の山陽新幹線の改札のところに、九時四十五分に。待っているから」

 龍一はそれだけ告げると、立ち上がった。

「それじゃぁ、お邪魔しました」

「え、あ……」

 咄嗟に沙耶も立ち上がる。何を言えばいいのかわからぬまま。

 玄関へ向かう龍一の後についていく。

「紅茶、ごちそうさま」

 ドアを開けながら龍一は微笑した。

「え、あ、おそまつさまでした」

 沙耶の言葉に龍一は、何故か驚いたかのように目を見開き、笑った。

「それじゃあ、明後日」

 そう言って手を振ると、階段を下りていく。そんな彼を見送り、ドアを閉める。がちゃり。

 部屋に戻り、もう一度そのチケットを見つめた。

 思い出して、すっかりぬるくなった紅茶に口をつける。

「!」

 吹きそうになった。

「やだ、何これ、苦いじゃない……」

 自分が淹れたとは到底思えない、ただただ苦いだけのそれを見つめる。なるほど、おそまつさまでした、と言ったときの龍一の表情の意味がやっとわかった。

 でも、

「っ。なんでこんな苦いの全部飲んじゃうのよ」

 空になったカップに、吐き出すように告げる。

 そのまま、チケットを額に当てて目を閉じた。


「星を見に行くんでしょ?」

 夕方にそう言いながらやってきた円は、何故か片手に旅行鞄を持っていた。

「あんたは旅行とか行かないから持っていないだろうと思って、貸してあげようとわざわざ持ってきたの。聞いて驚きなさい、この私がわざわざ一海の自室まで取りに行ったのよ。こんなときでもないと帰ってこないって、父様に怒られてまでね、まったく」

 自慢気に言い放つ。

「……あれは、円姉の差し金?」

 思わず呟いた沙耶を、円はあっけらかんと笑い飛ばした。

「まさか。龍一君が言い出したのよ。あの子ね、バイト代を前借して行ったの。チケット代って。しばらくただ働きね」

 ふぅ、とため息にも似た吐息を吐き出しながら呟く。

「そんな、だって」

「それぐらい本気だってことでしょう?」

 言いながら円は、はいっと鞄を沙耶の手に握らせた。

「とりあえず、行ってきなさい。どちらにしろ、今の貴女には休みが必要だし」

「でも」

「心配?」

 沙耶の正面に座り、左手で沙耶の髪の毛を綺麗に整える。そして右手のひらを額にあてる。子どものとき、眠れないとぐずる沙耶に円がよくした仕草。

「彼、告白したんでしょう?」

「……うん」

「気づいていた?」

「……うん。自分の、勘違いだって言い聞かせてたけど」

「そっか」

 円は優しく微笑んだ。

「そっくりよね、賢治君に」

 ぴくり、と沙耶の肩が強張る。それに気づきながらも、円は気づかないフリをする。

「彼も、最初あんな感じじゃなかった? 何度も何度も、沙耶が近づくなって言うのに、彼は近づいてきて。あのころの沙耶、外では平静を装ってたのに、家に帰ってくるとものすごく困惑した顔で私に全部話してくれた」

「………そうだね」

 沙耶は力なく微笑む。

「……あのね」

 そしてゆっくりと囁くように言葉を紡ぐ。

「なぁに?」

 円は優しく微笑む。

「あのね、龍一君、あたしが最初に見せた笑顔に一目ぼれしたって、言ってたの」

「うん」

 たどたどしく言葉を紡ぐ、自分がまるで子どもに戻ったようだ。

「それ、賢と一緒だと思ったの。彼も、あたしが最初に笑ったのに惚れたんだって、よく言ってた」

「うん」

「……だからね、怖いの」

 こつん、と円は手の上から沙耶と額をくっつける。

「繰り返しそうで?」

「そう。だって一緒なんだもん。賢と」

「うん」

「嫌なの、もう。そういうの……」

「別にね、恋愛だって構えなくてもいいと思うの」

 円は目を閉じた。

「貴女のことを全て知って、受け止めて、逃げ出さない人がもう一人いた。それだけでいいんじゃない?」

「でも……、賢だって最初そうだったけど、賢は途中で……、耐えられなくなってた」

「そうね。龍一君もそうかもしれない。でも、」

 円は目を開けた。至近距離から沙耶の瞳を捉える。

「龍一君は違うと、どこかで思ってるでしょ?」

「それは……」

 今度は沙耶が瞳を閉じた。

「龍一君は、あたしの背負っているものを後ろから支えるって言ってくれたの。賢は、隣で背負おうとしてくれてたんだけど。そこが違うなって、でも……」

「信じたいんでしょ?」

「……うん」

 だったら、と円は微笑んだ。

「今回ぐらい、信じてあげなさい。龍一君、何も沙耶のために出かけようなんて思ってないわよ? ただ彼は、自分がそうしたいからそうしているだけなの。……それでも、そのチケットは重い?」

 一拍の間。

「重いよぉ」

 殆ど泣き出しそうな声で沙耶は言った。

「だって、いつかあたし、それすらも忘れちゃうかもしれないのに……」

 よしよし、と円は額を離して沙耶の頭を撫でる。

 その感覚に、沙耶は昨日自分が感じた心地よさを思い出した。大丈夫だから。何度も何度も耳元で囁いてくれていた、彼の声。

「……重い、けど」

 ぎゅっと目を閉じたまま、告げる。

「行って来る」

「うん」

「本当は怖いけど、彼の気持ちも重いけど、でも、今のあたしにはそれが必要なんだと思う」

「うん」

「認めたくないけど、あたし……」

 沙耶は目を開けて、微笑んだ。

「彼のことならもう少し、信じてもいいと思ってる」

「でしょ?」

 円はいつものにやりとした笑みを浮かべた。

「だって、私が認めた男よ?」

 そんな円を沙耶は見つめる。しばらく二人で見つめ合う。そして、あははと二人で笑いだした。

「そうね、円姉のお墨付だもんね」

「そうよ、だから」

 円はゆっくりと笑みを作った。

「いってらっしゃい」


 四月一日午前九時四十五分、龍一は二十分も前からそこに立っていた。

 肩からかけた鞄は重いし、人は多い。そして、沙耶が来るかわからない。

 一昨日来た円からのメールには、行くつもりになったから沙耶のことをよろしく、とあったけれども、気が変わったかもしれない。

 そわそわと、視線を動かす。

 やがて、彼の視界が黒い長い髪の毛を捉えた。そこに視線を合わせると、人込みの中からゆっくりと沙耶が出てくる。

 安堵のため息をつき、龍一は片手を大きく振った。それに気づき、沙耶の視線が龍一を捉える。少し力ないながらも、笑みを沙耶は作った。

 がらがら、と鞄を引っ張りながらやってくる沙耶に、龍一は満面の笑みを浮かべる。

「おはよう」

「……おはよう」

「行こっか」

 沙耶は頷く。沙耶の鞄を持っている方の手から鞄を奪い取る。

「あ」

 小さく呟いた沙耶のその手を握ると、ひっぱって歩き出した。

「新幹線、初めてなんだって?」

 斜め前を歩く龍一の横顔を見ながら、沙耶は頷いた。

「まぁ、普通の電車と変わりないよ。乗ってる時間長いけど」

 苦笑。つられて沙耶も少し笑った。

「乗車券と特急券を一緒にお入れください」

 改札の前で駅員が呼びかけている。

「だって」

 龍一は振り返り、沙耶に告げる。沙耶は慌てて斜めがけの白い鞄からその二つを取り出す。それを確認すると、龍一は改札を通る。

 少しびくびくしながらも、沙耶はそれに習った。

「……緊張」

 通り抜けた後にぼそりと沙耶が呟いた。

「そっか、緊張か」

 龍一はそれを聞いて笑った。


 十二号車十番E席D席。その指定席を確認すると、龍一は沙耶を窓側に座らせる。

 荷物を棚にあげる。

 窓際の席で、おろおろと辺りを見回す沙耶がとても可愛らしく思えて、そんな自分にあきれ果てて笑う。

「沙耶さん」

 縋るような目で見てくる彼女に、龍一は笑顔で告げた。

「ここでちょっと待ってて」

「え……」

 それだけ言うと、財布を持って出て行く。

「ちょと、龍一君」

 沙耶の静止の声も聞かずにすたすた降りていってしまった。

 一人残された沙耶は、ふぅっとため息をつきシートに寄りかかる。

 見慣れないチケット、知らない座席、見たことのない車内の様子に視線をやる。今ならまだ、引き返せる。今なら、まだ。

うじうじと後ろ向きなことを考え出す。そんな自分に気づき、沙耶はぱんぱん、と両頬を叩いた。

ここまで来て、逃げ出すなんてことは出来ない。そうした時に自分に向けられるかもしれない、龍一や円の失望の視線が怖かった。

 そして、それをしたら自分はもう二度と、何かを決断することが出来なくなりそうで、それが怖かった。

隣の空いている座席に目をやる。そっと、その座席を撫でた。

ここに座る彼が、今後自分にとってどんな存在になるのかわからない。ただ、今の時点で言えることがあるとするならば、この間の龍の件は彼のおかげで上手く納まったのだ。そのことは、感謝しなくては。

隣を向いていた体を、正面に戻す。きっと前を見据える。大丈夫。

「何、真剣に車内案内図見てるの?」

 ふいに横から声をかけられて、じっくりと自分に活を入れていた沙耶は飛び上がらんばかりに驚いた。

「そんな、驚かなくても」

 少し傷ついたような顔をして、龍一は沙耶の視線の先にあった案内図を倒し、テーブルにした。その上に、はいっと箱を置く。

 説明を求めるように沙耶は龍一を見る。

「カツサンド。小さいころから何故かばあちゃん家行く時はこれでさ……」

 言ってから、自分に向けられる沙耶の視線に慌てた。

「え、もしかして、カツ嫌い?」

 慌てたような龍一の言葉に、くすりと思わず笑って首を左右に振った。

「好きよ」

 よかった、と龍一が笑う。

 それから今度はテーブルの上にペットボトルを置いた。

「紅茶の方がいいのかなぁと思ったんだけど、いっぱい種類があってわからないから、お茶」

 ごめん、と謝る龍一。それを聞いて沙耶はペットボトルの蓋をあけ、口をつけた。ごくり、緊張して乾いた喉に心地よい。

「ペットボトルとかの紅茶って好きじゃないの」

 蓋を閉めながら沙耶は言う。

「あれは紅茶じゃないわ。紅茶っぽく味をつけた何かよ」

 そして、龍一をみて微笑む。

「ありがとう。わざわざ買ってきてくれて」

「どういたしまして」

 龍一は満足そうに笑い、沙耶の隣に腰を降ろした。


 降り立った広島駅のホームで、龍一は一つ伸びをした。

「やっと広島だ」

 がらがら。東京駅から変わらない、龍一が二人分の鞄を持ち、沙耶の手を引いていくそのスタイルで、龍一は歩いていく。鞄は自分で持てるし、手を引いてもらうほど子どもじゃないとわかっていても、沙耶は何も言い出せなかった。

「もしもし、ばあちゃん? 今、広島」

 祖母に電話している龍一の横顔をそっと見る。

 初めて病室でみた、あのあどけない寝顔よりも、なんだか大人びているような気がして、なんだか悔しかった。たった数日で彼は成長したのに、自分は何も変わらない。

「沙耶さん、大丈夫?」

 ぐっと唇を噛み締めた沙耶の動作をどうとったのか、龍一が振り返って心配そうな顔で尋ねてくる。

 沙耶は慌てて微笑んだ。

「平気」

「そう。あともう一時間ぐらいだから」

 そういって迷わずに歩いていく。そのしっかりした足取りを頼もしいと思った。

 本当は沢山の人の気に少し酔っていたけれども、そんなことは口には出さない。本当は人が多いところは苦手だけれども、今はなんだか平気な気がした。

 聞いたこともない電車に乗る。ボックス席に進行方向を向いたまま。人が少ないので正面には他の人は座っていない。そのことに少なからず安堵していた。

 本当はとても心細い。一海の人が近くに居ない状況というのは初めてだった。もし万が一、を考えると、とても心細い。この間派手に暴れさせてしまったことや自分の情緒不安定さも手伝って龍の安定が悪い。肩を握る。

「簡単な、さ」

 突然、龍一が話始めた。

「うん?」

 沙耶は彼の横顔を見る。通路側の肘掛に頬杖をつくようにして座りながら彼は続けた。

「円さんに習ったんだ。簡単な、龍の封印の仕方」

「え?」

「直純さんが作ってくれた、俺でも使えるお札と祝詞っていうの? それ」

 それを渡した直純は、いつもの通り龍一に対しては怒ったような顔をしていた。

「沙耶に何かあったらお前を呪い殺す」

 お札を渡しながら、直純は低く押し殺した声で告げた。円が直、と小さくたしなめた。

「呪い殺されなくても、そんなことになったら自分の不甲斐なさを恥じて憤死しますので、お気遣いなく」

 にっこり微笑みながら告げた龍一に、直純はあっけに取られたような顔をして、一拍置いたあと円が派手に笑った。

 事務所を出て行くとき、直純が後ろで呟いていた。勝てないな、という言葉が耳を離れない。勝てないのはこちらだ。恋敵の力を借りないと、彼女を守れない、

 そんなことを思い返し、一人でふっと笑う。

「だから、心配ないよ」

 そういうと、沙耶はまったくもう、皆して……となんだか泣きそうな顔で呟いた。

 結局、と窓の外を見ながら沙耶は思う。結局、あたしは皆に守られているのだと痛感した。こんな知らない土地に来ても。

 隣の龍一の袖をぎゅっと握った。

 驚いたように龍一がこちらを見てくるのがわかる。なんだか気恥ずかしくて、そちらは見られなかった。

「ありがと」

 小さく呟くと、

「どういたしまして」

 龍一も同じように小さく呟き返してきた。

 どうか、あたしをこんな知らない土地で一人にしないでください。そう思うと、沙耶は袖を握った手を離せなかった。


 大畠というまったく知らない小さな駅に二人は降り立った。二人分の鞄を持って、沙耶の手を引いて、龍一は階段を上がっていく。

 自動改札もない、小さな駅。駅員に乗車券を渡す。

 そんなことが、違う場所に来たのだと沙耶に実感させる。握った手をに力を込めた。

「あ、いたいた」

 駅を出たところで龍一が片手を振る。

「きたきた、いらっしゃい、龍ちゃん」

 一人の老婦人が龍一に向かって手を振り返しながら、微笑んだ。その隣の夫らしき人も同じように笑う。

「沙耶さん」

 龍一は振り返る。手を、離した。

「じいちゃんとばあちゃん」

 離した手で二人を指し示す。

「こんにちは」

 離れてしまった手に心細さを感じながらも、沙耶は笑顔で挨拶する。

「大道寺沙耶さん」

 龍一の祖父母も笑って会釈した。

 そのしわくちゃな笑顔を見て、少しだけ沙耶は泣きそうになった。ああ、あたしは、あんな風にしわくちゃなおばあちゃんになっても、笑っていられるのだろうか? そんな考えが頭をよぎった。


 祖父の運転する車に乗って、走り出す。

「お刺身用意したから」

「やった」

 助手席に座った祖母と会話をする龍一の声を聞きながら、沙耶は黙って窓の外を見ていた。

 先ほどの電車の中からも、何回か見えていた海。それを見つめる。東京湾と違って綺麗ね、と電車の中で沙耶は龍一に言った。

「かもね」

 と龍一は笑った。

 そんな海を忘れないように、しっかり見つめた。自分からは忘れたくなかった。

「大道寺さんは」

「はい?」

 前からかかった言葉に慌てて視線をそちらに向ける。

「龍ちゃんとはどういうお知り合い? いい人?」

「いい人って、ばあちゃん」

 あきれたような困惑したような、なんともいえない表情で龍一がつっこむ。

「龍一君の高校の卒業生なんです、あたし。だから、その関係で文化祭に行った時にあって」

 突然そんなことを言い出した沙耶を、ぎょっとして龍一は見た。沙耶が文化祭に来た事もなければ、そこで沙耶とあったことなんてない。

「あたし、お財布を落としちゃって、困っていたところに龍一君が拾って届けてくれたんです。本当、あの時は助かりました」

 ぎょっとしている龍一に気づいたのか、沙耶はひじで軽く龍一をつっついた。話をあわせろ、ということか、と気づくと龍一は頷いた。

「そうそう、それでお礼にってアイスおごってもらっちゃって」

「そしたら話が弾んでしまって。本の趣味とか合うみたいなんです。それから、あたしが勉強見てあげたりとかして、なんとなく友達として付き合うようになったんです」

 沙耶は微笑んだ。

「龍ちゃん、いいことしたねぇ」

「いいことをすると、自分に帰ってくるから」

 前で祖父母が言うのを、龍一は笑って聞いていた。

 本当は、そうやってすらすらとうそを並べていく彼女の口を塞いでしまいたくて、しょうがなかった。それがこの場合は最善の行動だとわかっている。本当の出会い方を説明できるわけがないことも理解していた。

 それでも、その嘘で自分と彼女の間に深い溝を作られている気がしてならなかった。


「お邪魔します」

「どうぞどうぞ」

 沙耶はゆっくりと、その家に足を踏み入れた。駅から車で橋を渡った先にある、小さな島だというその場所。周りを山と海に囲まれている。

「二階、使っていいって。行こう」

 龍一が手招きするのに、慌てて沙耶はついていく。少し急な階段を上る。ぎし、ぎしと音がする。

 二階にある二部屋のうち、片方は半分物置のようになっていた。ふすまで仕切られているものの、それを開ければ一部屋になる構造。

「沙耶さん、そっちどうぞ」

 ふすまを開けながら、物置になっていない方の部屋を指す。

「え、でも」

「沙耶さん、お客様だから」

 そう言って龍一は笑う。

「……ありがとう」

 沙耶は素直に頷いた。

 荷物を置き、コートを脱ぎながら、ポケットからケータイを取り出した。

「……ここ、圏外なのね」

 そのケータイをじっとみて、呟く。

「え? ああ、そうそう」

 龍一も自分のケータイを取り出した。彼のケータイは一本だけ立っている。

「山だから。庭に出たら通じるんだけど。あ、円さんに連絡? だったら、外に行く?」

 龍一の問いかけに、沙耶はしばらく圏外と表示されたケータイを見つめていたが、

「ううん、いいや」

 ゆっくりと首を横に振った。

 

 ぽつり、ぽつり、

 外では雨が降り出していた。


「連絡遅れてすみません」

 夕食後、台所にある固定電話で龍一は円に電話していた。

『いいえ。心配してないから』

 電話の向こうの円は、そう言いながらも少し安心したようだった。

『ところで龍一君、心配はしてないけれども』

 そこで言葉を切る。

『手を出しちゃ駄目よ』

 一拍の間を取った後、そう告げた。

「……出しませんよ」

 呆れて龍一は返す。酷く真面目な声色でいうから、何か大事な話かと思って構えた自分が馬鹿みたいだ。

「そんな度胸はありません」

 告げると、

『あら、残念』

 と、然して残念そうに聞こえない言葉が返って来た。

『沙耶は?』

「寝てます。疲れちゃったみたいで」

 龍一は天井を見上げた。二階に居る彼女は、夜ご飯を食べたあとばたん、とベッドの上に倒れこんだ。そのまま、眠っている。

 ベッドがある方の部屋は物置になっている方の部屋なので、そっちは俺の部屋なんだけどなぁ……なんて、龍一は内心で思っていた。

 手を出すつもりなんてないんだから、頼むからすみわけはきちんとして欲しい。

『そう』

 円が呟いた。

『疲れちゃったのね。遠出なんかしたことない子だし、人ごみ嫌いだし』

 龍一は黙った。人ごみが嫌いなのに、無理に連れ出して申し訳ないと少しだけ思った。

『それで、星は見れそうなの?』

 明るい声で円が尋ねてくる。

「いいえ」

 龍一は即答し、電話なのに首を横に振った。

 ざぁざぁ、夕方から降りだした雨は、雨足を強くしていた。

「雨です。明日も、みたいなんですよねぇ」

 はぁ、とため息をつく。何のためにきたのかわかったものじゃない。

四日に帰ってくるつもりなんでしょ?』

「はい。……学校も始まるんであんまり長居も出来なくって。それまでに星見れなかったら、もう少しいるつもりなんですけどね」

 そう、と電話の向こうの円は呟いた。

 ざぁ、ざぁ。

『なら』

 円はやけに明るい声を出す。電話なのに、彼女がにやりと楽しそうに笑うのが見えた木がした。

『照る照る坊主作ってあげる』

 龍一はそれを聞き、一瞬黙り、次に笑い出した。電話の向こうの円と一緒に仲良く笑う。

「名案ですね」

『でしょ?』

「それじゃ、俺も作ろうかなぁ」

 そしてまた二人で笑う。

『とにかく、沙耶のことお願いします』

 まだくすくす笑いながら円は告げた。

「はい」

『それじゃ……、おやすみ』

「はい、おやすみなさい……」

 がちゃり、受話器を置く。

 ふぅ、とため息をついてざぁざぁと雨が降る外を見た。

 止む気配は、ない。

「龍ちゃん、お風呂どうぞ」

「はーい」

 祖母の声には、明るく返事を返した。


「沙耶さーん」

 二階に戻り、ベッドの上の沙耶をつっつく。

「沙耶さん、お風呂」

「うー」

 彼女は龍一の手を払いのけ、くるりとまるまってしまう。

「いいの? 入らなくて」

「うー」

「返事になってないし」

 呆れて龍一は呟いた。

 ベッドの上で膝を抱えるようにして、まるまっている沙耶。長い黒い髪がベッドの上に広がっている。

「化粧とか、落とさなくていいの?」

「んー」

 ぎゅっと顔を枕に埋めてしまう。

「まぁ、いっか。おやすみなさい」

 やれやれ、とため息をつくと、龍一は布団をかけなおし、その場を後にした。


 ぎぃ、と床がきしむ音が離れていく。それを確認して、沙耶は顔を上に向けた。

「……ごめんなさい」

 優しさが嬉しくて、温かくて、痛くて、自分でも明確に言葉に出来ない感情に涙がとまらない。

 天井を向いたまま、両手で顔を覆った。

「ごめんなさい」

 もう一度、呟いた。

 

 翌日も雨は降ったままだった。

「今日も止まなかったね、雨」

 結局、自分が使うと占領したベッドの上で、クッションを抱えて沙耶は呟いた。

 窓の外でびしょぬれになった照る照る坊主が申し訳なさそうに揺れていた。 

「うん」

 隣の部屋で、二つの部屋を仕切るふすまに寄りかかりながら、龍一は頷いた。

「でも、明日は晴れるって。二十九日が新月だったから、まだそんなに月も大きいわけじゃないし、きっとよく見えるよ」

「そう、満月だとあまりよく見えないものね」

 呟く。

「……退屈?」

 龍一は首を捻って、沙耶を見る。少し笑いを含んだ声で問うた。

「いいえ。何故?」

「今日は雨が降ってたし、何も出来なくて一日中家にいたからさ」

 沙耶は微笑んで首を横に振った。

「こういうのもいいかもね」

 クッションを抱えた、自分の指先を見ながら呟く。

「こういうの?」

「あまり誰も来ない山の中で、ただただ、終わるのを待つの。ケータイも繋がらない、ある程度世間から隔離された場所で」

 龍一はコメントを控えた。

「そしたら、もう、おびえなくてすむもの」

「……でもそれは、寂しいよ」

 沙耶の少しだけ、満足そうな言葉に龍一は小さく呟いた。

「……そうかしら?」

「うん」

 首を傾げる沙耶に龍一は頷いて見せた。

「少なくとも、俺がね。沙耶さんが居ないと」

「それは……」

 真摯な態度で見つめてくる瞳から目をそらす。

「それは貴方の都合だわ」

 早口で言い切る。

「そうだよ」

 龍一は微笑しながら頷いた。

「これは俺の勝手。我が儘。知ってるよ、そんなこと。でも、沙耶さんも沙耶さんの都合で物を言ってる、違う?」

 にこっと微笑む龍一をちらりと見ると、沙耶は抱えたクッションに顔を埋めた。

「……円姉に似てきたね」

 くぐもった声と内容に、思わず龍一は笑う。

「明日、晴れるといいね」

 顔を埋めたままの沙耶に笑いかける。

「ん」

 クッションごと、沙耶は頷いた。


「ほらほら」

 雨が過ぎ去り、快晴。雲ひとつない空を、龍一は二階の窓から指差した。

「いい天気」

 微笑む。

「そうね」

 けれども、窓越しだとよく外は見えない。目に映るのは窓に映った情けない顔をした自分だけ。

 水性ペンで書かれた目が涙をこぼしながらも、照る照る坊主は昨日よりも満足そうに揺れている。

 それをみて龍一は、よし! と楽しそうに気合を入れた。

「よし?」

「行こう」

「え、どこへ」

「ほらほら、上着着て」

 沙耶の問いかけを全て無視し、ジャケットを沙耶の肩にかける。素直にそれに袖を通す沙耶の腕を引いて、龍一はきしむ階段を下りていく。

「ばあちゃん、星見てくる」

「気をつけんしゃい」

「うん」

 玄関で、台所に向かってそう告げると、龍一は靴を履く。

「ほら」

 言われて沙耶もしぶしぶ靴を履いた。そんな沙耶を見届けると、龍一は沙耶の手を握ったまま外へ出た。

「うわぁぁ」

 空を見上げ、沙耶が子どものような感嘆の声を上げる。さらり、と髪の毛が背中から腰へと落ちる。

 そんな沙耶から一度手を離すと、龍一は庭の奥の方へかけていく。

 少し息苦しいと感じながらも、限界まで上を見上げる。

 一つ、二つ、見えていた星が、目が慣れてくると更に増えていく。三つ、四つ……。数多くの星が目に飛び込んでくる。

「沙耶さん」

 龍一に声をかけられる。

「なぁに?」

 上を見上げたまま答える。

「首、疲れるでしょ。こっち来て」

 そういって龍一が手招きしている。口調がなんだか笑っているようで、沙耶は少しだけむっとした。確かに自分の対応は子どもっぽかったが、何も笑うことはないじゃないか。

そう思いながらも、素直にそちらへかけていく。

「上って」

 かけていった先では龍一がはしごを屋根に立てかけていた。建物の半分が一階だて、半分が二階だての家の、一階部分へ上れるはしごになっている。

「上ってって……」

「屋根の上からだとよく見えるんだ。小さいころからよくやってて」

 はい、どうぞ、とはしごをしめしながら龍一が微笑む。

 沙耶は自分の足元に視線を落とすと、

「スカートなんだけど」

 ぼそり、と呟いた。龍一も沙耶の黒いロングスカートを見た。

 一拍の沈黙のあと、

「見ないし、見えないし、暗いから」

 龍一が呟いた。

 沈黙。

 ぎろっと沙耶が睨んでくるので、降参っと龍一は両手を挙げた。

「本当に下で支えておこうってだけなのに。まぁいいや、先に上るんで」

 そういって、すたすたと屋根にはしごを上っていく。

「どうぞ」

 屋根の上に腰をかけ、龍一ははしごを押さえた。

 よし、っと自分に気合をいれて、沙耶は足をかけた。はしごを上るなんていう経験、初めてかもしれない。

 一歩一歩上っていく。

 それを上で龍一は微笑みながら見ていた。

 最後の一段に足をかけた。

「お手をどうぞ」

 龍一はそういうと右手を差し出す。素直にそこに自分の手を重ねた。ぎゅ、っと握られる。

 この辺だと座るのが丁度いいんだ、なんていいながら龍一はそこから少し上に上る。沙耶は慌てて、その手にしがみつき、あとに続く。

 一階と二階の境目の場所。そこの二階の壁の隣に沙耶を座らせ、その隣に龍一は腰をおろした。

「壁に寄りかかると落ちないよ」

 微笑む。沙耶はこくこく、と頷くと壁に寄りかかるというか、へばりついた。

 それを見て、龍一がくすりと笑った。

「笑わないでよ」

「ごめんごめん」

 それでもまだ笑いながら、龍一は手を離そうとする。

「あ、待って!」

 言いながら沙耶は、握った手に力をこめる。龍一が驚いた顔をして沙耶を見る。

「手、離さないで。お願い」

 そんな言葉を紡いだ沙耶を意外そうに見つめたあと、龍一は微笑んだ。

「それは願ったり叶ったりです」

 そして彼は空を見る。沙耶も同じように空を見た。

「あ……」

「ね、見やすいでしょ」

 隣の龍一が楽しそうに言う。首をあげなくても、正面に星空が見えた。

「綺麗ね……」

 小さく呟き、それっきり黙る。

小さく口を開き、ただただじっと星空に見入る沙耶の横顔を、ちらりと龍一は見た。少しだけ眉を寄せて空を見る彼女は、空を慈しんでいるようにも切望しているようにも見えた。

そっと視線を逸らす。

「気に入った?」

 代わりに呟く。

「ええ、とても」

 空を見たまま、彼女は言葉を返してきた。

「来てよかった」

「……ならよかった」

 龍一は微笑んだ。そういってもらえれば、これ以上嬉しいことはない。

「あたし」

 やはり空を見たまま沙耶が呟く。

「うん?」

「日記に書くわ、今日のこと」

「日記?」

「ええ」

 沙耶は一つ頷いた。

「日記、つけているの。ずっとずっと、小学生のころから。自分に龍が憑いていると知った時から」

 龍一は沙耶の横顔に視線を移した。

「忘れたくないこと、たくさんたくさんあるの。あたしが忘れたこと、誰かが話しているの聞くの、嫌なの。ああ、忘れちゃったのね、って言われるのが嫌なの。だから、日記をつけているの」

 はらり、と沙耶の右目から涙が一つ、落ちた。

「でも、結局駄目なのよ。日記を読んでもそのことは思い出せない。ただ、そういうことがあったという事実を知るだけ。そのたびに自分自身に失望する。それでも」

 瞳を閉じる。たまっていた涙が、零れ落ちた。

「やめられないの、日記を書くこと」

 何も言えずに、龍一は沙耶の横顔をじっと見ていた。沙耶は瞳を閉じたままうつむいた。

さらり、長い髪が彼女の横顔を隠す。

 龍一は視線を空へ向けた。握った手に力をこめる。ゆっくりと、躊躇いがちに、言葉を紡ぎだす。

「例え過去を沙耶が忘れても、過去は沙耶を忘れない」

 敬称をつけずに呼ばれた下の名前に、沙耶の肩がぴくり、と動いた。そうやって呼ぶのは、あの龍の時以来だということを、彼女も気づいたのだろう。

 それに気づかないふりをして、続ける。

「例え俺を沙耶が忘れても、俺は沙耶を忘れない」

 OK? と軽い調子で尋ねる。瞳を閉じた沙耶は、抱えた膝に顔を埋めながらも頷いた。

「日記をつけてるって言ったじゃん。今はもう一つ日記があるんだよ」

 ふぅ、っと龍一は鼻から抜けるように息を吐いた。告白したあのときよりも緊張している。

「俺も、忘れないから。覚えているから。もし、沙耶が忘れてしまっても、俺のことを知らないという日がきても、俺は覚えている。沙耶が嫌だと泣いて喚いても、今まであったこと全部説明してやる。もう一度、記憶を埋め込む。沙耶が忘れるたびに、同じことを繰り返すよ。何度忘れても、何度でもそれを教える」

 ぐすっと、沙耶が鼻をすすった。

「それじゃ、駄目かな?」

 沈黙。

 龍一は黙って沙耶に視線を移す。彼女はゆっくりと、首を横に振った。

「……だめじゃ、ない」

 ぐすり、ぐすりと涙声だったけれども、彼女は告げた。

「……ありがとう」

 握っていた右手に左手を添えた。

「ありがとう」

 顔をあげてもう一度、龍一の目をみて告げる。

 両手で握った龍一の手を、自分の額に祈るようにつける。

「龍一を信じて、来てよかった」

 その台詞に龍一は一度大きく目を見開き、最上級の笑顔を浮かべた。

「こちらこそ」

 彼女が敬称なしで呼んでくれた下の名前の響を、心地よいと思いながら。

 東京では見られない、本当の空に瞬く星が二人を黙って見下ろしていた。


 沙耶は新幹線の窓枠に頬杖をついて流れていく景色を見つめていた。

 昨日の夜のことを思い出す。結局、子どものように泣き出してしまった自分を、龍一は黙って泣き止むまで待っていてくれた。そのことをありがたいと思うと同時に、恥かしくてしょうがない。

 泣きはらした、腫れぼったい自分の顔を今朝、鏡で見たときは、もう一度泣くかと思った。なんて情けないんだろう。

 龍一の祖父母にきちんとお礼の挨拶が出来たことが、奇跡に近い。

 ことり、

 肩に置かれた重みに驚いて、そちらを見る。いつの間に眠ってしまった龍一の頭が肩の上にあった。

 すぅすぅと、少し口をあけて寝ている彼の顔を、可愛いと思った。あまりにしっかりしているので忘れていたが彼は自分よりも年下なのだ。

「まったく、たいした高校生もいたものよね」

年相応のあどけない寝顔を見ながら、沙耶はくすりと微笑んだ。

そしてまた、頬杖をついて外を見つめた。

自分の中で、榊原龍一という人間がただの依頼人から変わっていることを意識した。でも、その気持ちには気づかないふりをして、そっと蓋をする。そちらの方がいいのだろう。

ただ、今は……。

流れていく景色が、突然黒一色になる。トンネルに入った新幹線の窓には、困惑気味に微笑む自分の顔が映った。

ただ、今は……、

トンネルをでて、また景色が流れていく。

眠っている龍一の重みを、忘れないようにしようと思った。


 東京駅、山手線のホームで龍一は沙耶に鞄を手渡した。

「気をつけて」

「うん。ありがと」

 それを受け取る。

「ごめんね、反対方向なのにここまで来てもらっちゃって」

 沙耶の視界の端で、龍一が乗るべき電車が出て行く。

「いやいや、寧ろ家まで送っていきたいぐらいだよ」

 おどけて笑う。それに沙耶もくすり、と笑った。

 電車が来ることを告げるアナウンス。独特の空気の流れと音を伴って電車がホームへ滑り込んだ。

「それじゃぁ、また明日。事務所で」

 ドアが開く。

 龍一は沙耶の顔を見つめ、真摯な口調で告げた。

「ん」

 沙耶が頷く。電車へ乗り込んだ。

 アナウンスの後、音を立ててドアが閉まる。

「明日」

 もう一度、唇だけでそう告げる。沙耶がもう一度、頷いた。

「待ってるから」

 呟いた龍一をホームに残して、電車は駅を離れた。

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