第五章 櫻の樹の下には
「おはようございます」
すっかりなれた調子で龍一は事務所のドアを開ける。
「おはよ」
ゆるりと微笑んで迎えたのは円だけだった。
「すっかりなじんでるわね」
「それは、まぁ、毎日来てたら」
言いながら自分の名前の横にマグネットをかち、とつける。
「みんな外、なんですね」
ホワイトボードを眺めながら呟くと、円は一つ頷いた。
「残念ね、沙耶が居なくて」
「それは……まぁ、でも」
龍一はホワイトボードから円に視線を移すと真顔で言い切った。
「直純さんが居ないならなんでも有りです」
「……君もなかなかすごいわよね」
円が呆れたように口元を歪めた。
「あそこまで露骨に避けられたらもう」
龍一は首を横にふる。
「まぁね、」
円は呟き、煙草を一本引き抜いた。
「まぁ、アレは酷かったわよね」
煙草に火をつけながら円が答える。
「いっそ、清々しいともいえますけどね」
「その癖、沙耶が居るところでは調子よく振舞ってたしねぇ。まぁ、多分」
煙を吐き出す。
「あいつは認めたくないのよ。沙耶が、君を認めたことを。あの子が認めた人、君で三人目だから」
煙越しに、沙耶のデスクに座った龍一を見て微笑む。
「だから、あいつは嫉妬しているんでしょうね。一応ね、私たち、一海の人間は信頼してくれているみたいなの。でも、それがあいつは嫌なのよ。一海という姓の外で、あの子に認めてもらいたがってるの」
ロミオじゃあるまし、と笑う。
「だからね、嫉妬しているのよ」
もう一度呟くと、灰を灰皿に落とす。
「認めてくれているんですか?」
「ええ。じゃなかったら、もっと強引に君がここに来ることを反対したでしょうね。出会い方が特殊だった、ということを差し引いても、あの子が仕事にここまで深く他人を関わらせるなんて認めた証拠よ」
龍一はなんともいえない顔で円を見た。
それから一度視線をそらし、何かを思案してから呟いた。
「一人は、清澄ですよね?」
「沙耶が認めた人? ええ」
「それじゃぁ」
龍一は一度息を吸い込むと、顔をあげ、意を決して尋ねた。
「もう一人って誰なんですか?」
円はしばらく黙って煙草を吸っていた。龍一は黙ってそれを見ている。
「聞きたい?」
ゆっくりと円が呟く。
「はい」
煙草を灰皿の上で上下させると、
「あの子の、昔の恋人よ」
端的に告げた。
ああ、またこの桜か。
目の前の桜を見つめながら沙耶は思う。
少し前、梅が咲き出すころの話。周りが梅ばかりのこの丘に、ただ一本の桜は、梅が咲くころに焦って咲き出してしまった。本当はまだ、眠っていてもいいのに、周りの梅に置いていかれないようにと、焦って咲きだしてしまった。桜とも梅ともつかぬ、不恰好な花をもう一度休眠させる。それを担当したのは沙耶だった。
似ていると思った、その時の感情を今でも覚えている。その桜は自分に似ていると思った。置いていかれることを嘆く、どうにかして周りと同化したがる、その桜は自分にとても似ていると思った。
桜を見つめながら沙耶は思う。
でも、この桜と違い、何度も花を咲かせることはない。一度散ったら、死んだらそこで終わりだ。
「沙耶」
隣の清澄が少し心配そうにかけてきた言葉に、我にかえる。
「平気」
そう答えると、桜を見上げた。
№100326。桜の怪。櫻の樹の下には屍体が埋まっている。最近、連日この桜の木の下で死体が発見される。
「櫻の樹の下には屍体が埋まっている、か。梶井基次郎ね」
目立つ外傷もない、病死でもない、ただただ変死という言葉が似合うその死体。
ああ、この桜は一体なんなのだろう? どうしてこうも、縁があるのだろう。
そう思い、もう一度だけ桜を見つめた。
「やあ、沙耶、久しぶり」
声は唐突に、後ろからかけられた。
「……っ」
振り返らなくてもそれが誰なのかわかってしまった。耳に馴染む、男性の声。
「堂本……?」
隣で清澄が呟いた。
「その人、今は?」
「連絡、とってないみたいだけどね。別れてからは」
煙草を口元まで持っていき、結局、円はそれを灰皿に押し付けた。
「彼はね、堂本賢治君は……、耐えられなかったのよ。自分が見えないことに、沙耶を助けられないことに。あの子の抱えているものに気を使いすぎて、耐えられなくなったのよ」
とん、とん、と机を指で叩く。
「私たちは、何も出来なかった。しょうがないんだけどね。沙耶は……、そのことを未だに悔いてるわ。もっと上手いやり方があったんじゃないかって」
「円さんは、二の舞になると、お思いですか?」
「君が?」
「はい」
「さぁ……」
円はもう一本煙草を手にした。
「どうだろう」
ゆっくりと火をつける。左手に持った煙草を見つめながら円は呟いた。
「君はまだ知らないから。それから、かな」
「結局、俺はまだ何を知らないんですか?」
その言葉に円はゆるり、と微笑んだ。
「知らなくていいことよ」
「それは、」
「君が納得できなくても」
龍一の言葉をさえぎって、強い口調で言う。
「君が例え納得できなくても、そちらの方がいいのよ。もし、君がそれを知ることがあったならば、それは」
左手の煙草を睨んだ。
「あの子が辛い目にあう時だから」
「久しぶり」
手を広げて彼は笑った。昔と同じように。同じように、
「清澄も」
高校時代と何一つ変わっていない、堂本賢治を沙耶は睨みつけた。
おちゃらけた表情を浮かべて、学校指定の学ランを身に付けている。しょっちゅう生徒指導部に捕まっていた明るい茶色に染めた髪を、無造作に跳ねさせている。そんな二十四歳がいるというのか?
「貴方は何者?」
「何者って、ひどいなぁ沙耶。恋人の顔も忘れちゃったわけ?」
賢治が顔をゆがめる。
「貴方が本当に堂本賢治ならば、あたしに対して冗談でも忘れたのか? なんて聞かない」
片手で清澄に後ろにさがるように合図する。
「何で何で何で……、貴方、何よっ! なんで、なんで賢の姿をしているのよっ!」
こぶしを握りしめ、怒鳴った。
「何なのか、なんて関係ある?」
堂本賢治の姿をした何かは一歩足を踏み出す。
反射的に沙耶は一歩引いた。
「逃げるなんてひどいなぁ」
彼は傷ついたような顔をした。以前と何も変わっていない、その顔。ごめんなさい、と謝りそうになる。
「忘れていないんだろ?」
彼は沙耶の正面まで歩いてきた。今度は沙耶は逃げなかった。
「まだ、大事に持っているし」
そう言って手を伸ばし、沙耶が首にかけていたドッグタグに触れた。何の力を使ったのか、それは簡単に外れ、ちゃらん、と彼の手の中に納まった。
かぁっと、頭に血が上る。お揃い、と嬉しそうに差し出してきた、堂本賢治の顔が思い浮かぶ。彼はいつもそれをつけていた。制服の下にも。
沙耶は、それをつけておける勇気をもっていなかった。だから代わりに鞄の中にずっとしまって持ち歩いていた。たまに彼と外で会うときだけつけていた。
別れてからはずっとつけている。忘れたくなくて。
「っ! 返しなさい、それはあたしのよ」
片手を出す。
「それはあたしのよ。返しなさい」
もう一度繰り返す。
ずっと大切にしてきた、忘れたくなくて。忘れてしまった方が楽だと思うこともあったけれども、覚えている責め苦よりも、忘れてしまった喪失感の方が重いことを彼女は熟知していた。
「彼はまだ、同じものを持っているかな?」
そう言って堂本賢治の姿をした者は嗤った。
「知らないわ。そんなこと、もう関係ない」
吐き捨てるように呟く。別れる少し前から、彼はそのドッグタグをつけなくなっていた。そのことに気づいたとき、ああ終わりなのだな、と思った。だから、彼が捨ててしまっていても、しょうがないと思っている。思い込ませている。
「君を捨てたから?」
沙耶は答えなかった。答えられなかった。
別れを最初に切り出したのは沙耶のほうだった。けれども、それを言外に匂わせていたのは彼のほうだった。どちらが捨てたのだろう?
沙耶の後ろで事態をただ見守っていた清澄は、ゆっくりとジーパンの後ろのポケットからケータイを取り出した。ゆっくりとそれをひらく。体の後ろに隠すようにして、
「何をしてるのかな、清澄は」
「っ」
「清澄っ!」
清澄の背後でにたり、と嗤う。
いつの間に? ずっと見ていた二人にもわからなかった。
「駄目じゃないか、こんなものいじって」
清澄の手からケータイをするりと奪う。何の抵抗も出来なかった。
「なぁ、清澄」
ケータイを撫でる。
ぱきり、
音を立ててケータイが割れる。そのままゆっくりと、清澄に向かって手を伸ばす。
「だめ!」
沙耶は叫び、清澄の腕を掴む。そのままひっぱると、清澄を庇うようにして前にでて、
「賢」
無慈悲に自分へと腕を伸ばしてくる、堂本賢治の姿を受けとめる。
目を閉じる。
「沙耶っ!」
大きく沙耶の名前を呼ぶ声が聞こえて、
ばちっ、
静電気のような音がする。
「あーあ、また邪魔が入って」
左手を押さえながら、堂本賢治の姿をした者は嘆いた。
「こんにちは、直純さん」
「……どういうことだ?」
お札を片手に直純は尋ねる。
「直兄……」
清澄を庇ったままの体勢で、沙耶が呟く。
「朝の占いの結果がよくなかった。虫の知らせで、何だか心配で、だから、現場に行く前にこっちに来て見たんだ」
視線だけを沙耶に投げかける。
「どうなってる?」
「わからない」
呟く。はりつめていたものがどこかで切れる音がした。しゃがみこむと、頭を抱えた。
「わからないわからないわからない。あたしには何もわからない」
ただ、首を横に振る。何度も何度も。子どものように。
「沙耶?」
後ろで清澄が尋ねる。
「沙耶」
沙耶の右手を握る。安心させるように。
「清澄」
直純が堂本賢治の姿をした者を睨みながら言う。
「円には連絡した。あいつが来るまで沙耶を見張っていてくれ。あの状態にならないように」
清澄は大きく一つ頷いた。
あんなことになるのはもう、ごめんだった。
円は黙って煙草を吸う。龍一も黙って、そんな円を見た。
「でも、知らなければ探しようがないじゃないですか」
「あの子と付き合っていく方法?」
円の問いに頷く。
「冴えたやり方が、例えたった一つ……」
言いかけた龍一は、ぎょっとしてそこで口をつぐんだ。
「龍一君?」
円は振り返り、その視線を追う。
「……ウーヤ?」
『直純様からの伝言です』
ふわり、ふわり、と宙に浮きながら、まるっこい鳥のような生き物は告げる。
「直からの?」
「ちょ、円さん、それ、なんなんですか?」
「何って直純の式神……」
言いかけて、円は振り返り、龍一を見つめる。ばん、勢いよくデスクについた手の振動で、灰皿の灰が跳ねた。
「ちょっとまって、龍一君。ウーヤが見えるのっ?」
「え、ええ。……え、もしかして、見えちゃいけないものなんですか?」
円はそれには答えずに、灰皿に煙草を押し付けた。
「ウーヤ、伝言」
『はい、予想外のアクシデントが発生しました。沙耶様の龍の恐れがあります』
円が舌打した。
「円さん」
眉をひそめて龍一は問いかける。意味がわからない。でも、沙耶が無事ではないことだけはわかった。
『場所は』
「桜のところね? わかった。ありがとう」
円が答えると、ウーヤはぺこりとおじぎして、消えた。
「今のは直の式神。直の支配下にある霊の連絡係だとでも思って」
円は立ち上がると事務所のカギを手にとった。
「いつの間にか見えるようになっていたのね」
少し、残念そうな顔をして円は呟く。
「君が知りたがっていたこと、もし、本当に知る勇気があるのならばついてきなさい。ただし、命の保証はしないわよ」
龍一は迷わず立ち上がった。
「一海円に連絡したんだ」
にこにこと軽薄そうな笑みを浮かべる。何にも変わらない親友の笑みから清澄は目をそらした。
沙耶は頭を抱えたまま動かない。そんな沙耶の右手を握り、背中をさする。
「なら、円さんが来るまで話をしようか」
「聞くと思うのか?」
「聞かざるを得ないと思うけど?」
右手の人差し指にひっかけたドッグタグをくるくると回す。
「沙耶を守って、清澄を守って、一人で勝てると思うわけ? 一海直純」
直純は舌打した。それは事実だ。下手に動いて沙耶を刺激するとまずい。
「納得いただけてよかった」
慇懃無礼に、胸に手を当てて一礼する。もう一度舌打した。
「俺はこの」
そういって傍の桜の木を一度叩く。
「桜の木に封印されている、ぶっちゃけちゃえば悪霊でね。だんだん封印も弱まってきて、こうやって姿をあらわすことが出来るようになったんだけど、やっぱりまだまだ弱くて、この木から離れられない。だから、誰かに封印をといてもらおうと思ってさ」
けらけら笑いながら桜をもう一度叩く。
「大道寺沙耶のことは、この桜のおかげで知ったんだ。この桜が時期を間違えて咲きだした時に来ただろう? なぁ、沙耶」
優しい笑顔を顔に浮かべる。沙耶へ向けた視線をさえぎるように直純が立ち位置を変えた。
「相変わらず嫉妬深いね、直純さん」
嫌味に直純はふん、と鼻で笑った。
「人の心が読めるんだな」
「そう、心というか記憶だね。そこにもぐりこめる。大道寺沙耶のことはこの間のことで全て知ったよ。勿論、彼女が覚えていることだけだけどね」
そこで嗤う。
「忘れてない!」
沙耶が突然叫んだ。
「あたしは、まだ、忘れてない。賢のことは、まだ」
「そうだね」
もう一度優しく、堂本賢治の姿をした者は堂本賢治の笑みを浮かべる。
「沙耶は忘れていなかった。だから、利用させてもらったんだ。堂本賢治の姿を。君を利用すれば、この桜ごと封印をといてくれるだろうと思ったんだ。力もためられそうだしね」
「……最近発見されていた死体は」
低い声で直純が問う。
「うん、俺。大道寺沙耶の職業は知っていたからね。事件を起こせばきてくれるだろうと思って。人間の精気を奪えれば、力も蓄えられるしね。その人間の記憶に侵入して、その人間の最も大切な人間に姿を変え、油断させ、つけこむ。あくどいねぇ、我ながら」
くっくと、おかしそうに嗤う。
「本当ね」
相槌が聞こえた。
「遅いぞ」
安堵の息とともに、直純が呟いた。
「これでも急いだのよ。さて、うちのお姫様にちょっかいをだすなんて、いい度胸してるじゃないの」
一海の次期宗主、影で一海の女王と呼ばれている一海円が、太陽を背に不敵に微笑んだ。
「完璧ヒーローのタイミングだね、円さん」
「お褒めに預かって光栄だわ、偽者さん。趣味の悪い格好しているのね」
ゆっくりと微笑する。
「大道寺さん!」
その後ろにいた龍一が、蹲っている沙耶の方にかけていく。
「なるほど、君が榊原龍一か」
「だとしたら、何?」
「いや、別に」
堂本賢治の姿をした者は肩をすくめた。
「本物の堂本賢治がみたら、なんていうかなぁと思って」
「っ!」
沙耶がびくり、と顔をあげる。
「あ……」
「沙耶」
円はそちらに顔を向けずに告げた。
「聞き流しなさい。所詮、贋作の戯言よ」
堂本賢治。
龍一はその名前を口の中で唱えた。
それは、先ほどの話の中で円が告げた、大道寺沙耶が認めた人間の中の一人だった。
恋人だったというその人は、彼女にとっては今でもとても大切な人で、もっとも近い人間なのだろう。
贋作。円が言った言葉。事態はまったく理解できないが、今目の前で笑っている男がその堂本賢治の姿をした偽者だということだけはわかった。
それに、大道寺沙耶が惑わされているのも。
「贋作なんてひどいなぁ、円さん。仮に俺が贋作だったとして、そんなこと関係ある? 大道寺沙耶は堂本賢治に会いたがっている。そのことに間違いはない。だったら、偽者だろと本物だろうと、関係ないんじゃない?」
嗤う。円も笑った。
「ああ、やっぱり君は偽者ね。賢治君はそんな後ろ向きな笑顔を望む子じゃなかったわ」
とりだしたお札を構える。たん、と地面を蹴った。
「よくもまぁ、その格好でうちのお姫様を傷つけてくれたわね」
堂本賢治の贋作の前までかけていく。
「消えなさい」
突き出したお札から贋作は身をよじってよける。
次の瞬間には円の後ろにいた。
左足で後方に円は蹴りをだす。それに贋作は間合いを取り直した。もう一度円は駆け出す。
高校時代で唯一楽しかった思い出だった。
初めて、失いたくないと思った記憶だった。
消えてもいいと、投げやりに考えていた自分の記憶を、初めて心から失いたくないと思った。
記憶が消えることに本気で涙した。
そんなこと、初めてだった。
堂本賢治。大道寺沙耶の最初で、そしてきっと最後の恋人。彼と別れたときに、もう二度と恋などしないと誓った。
そんな堂本賢治と姉のように慕っている一海円が争っている。
あの堂本賢治は偽者だ。そんなこと、理解している。でも、頭で理解していても感情が欠片もついていかない。
やばい。肩を強く握った。このままだと、きっと……。
なぎ倒される机と椅子。それからクラスメイトの悲鳴と。そしてその中心でただ呆然と事態を見つめていた自分。
あんなことは、もう、嫌だ。
「円!」
円の背後についた贋作に、直純がお札を投げつける。贋作は慌ててそれを避ける。その隙を逃さず、円は贋作の足をはらい、倒れたその上にのった。
そのまま持っていたお札を向ける。
「消えなさい」
底冷えする声で呟いた。
消えてしまう。彼が。いなくなる。
「っ、駄目、円姉!」
咄嗟に沙耶が叫ぶ。
「!」
その声に驚いて円は一瞬動作を止める。その隙をついて、贋作は円を振り払い立ち上がった。
どん、飛ばされて思いっきり円は桜の幹に叩きつけられた。
「ぐ……」
「円!」
直純が駆け寄る。
「円さんはひどいなぁ、ねぇ、沙耶」
乱れた髪を直しながら、微笑む。ゆっくりと近づいていく。
「話し合いで平和的に解決するのが一海なんじゃないっけ?」
龍一が沙耶を庇うように両手を広げて、二人の間に割って入った。
「へぇ、姫様を守る騎士気取りかい? 榊原龍一」
睨む。龍一に出来るのはただ、それだけだった。本当は逃げ出したかった。でも、彼は二人の間に割って入り、贋作を睨んでいた。
「でも、邪魔だよ」
突き飛ばす。
「うわっ」
「龍一君!」
三メートルほど先の地面に叩きつけられる。動かない。
「龍一君!」
もう一度沙耶は叫んだ。
「沙耶沙耶」
その視線に割り込むようにして贋作はしゃがみこむ。拗ねたような顔をしてみせる。
「どうしてそこで他の男をみるかなぁ。堂本賢治はどう思うと思うの?」
嗤う。
ひっ、と沙耶は喉の奥で悲鳴をあげた。
「沙耶」
握っていた沙耶の手を引き寄せ、清澄が名前を呼んだ。
「聞くことはない」
「清澄までそういうこというんだ。親友なのに」
きっ、と清澄は贋作を睨む。
かぁっと、頭に血が上っているのがわかる。冷静に考えられない。理解が出来ない。
顔をしかめている円。
倒れている龍一。
全部、彼がやったこと。
目の前の贋作はただ、嗤う。
「ねぇ沙耶。沙耶は今どちらが大切?」
そういうと、ゆっくりと倒れている龍一に近づく。
「どちらが大切? 堂本賢治と、榊原龍一」
嗤う。
違う、堂本賢治は、賢はそんな笑い方はしない。だから、あれは偽者でそんな、心を乱される理由はない。あたしの大好きな彼はそんな嗤い方はしない。
「ねぇ、どっち?」
そして、贋作は龍一に向かって手を伸ばした。ゆっくりと。
「う……」
龍一が一度うめいて、顔をあげる。
「よかった、まだ生きてたよ」
そう言いながら、贋作は彼に近づいて、
沙耶の中で何かがぷちり、と切れた。
「やめてっー!」
沙耶が叫ぶ。
「っ、清澄! 離れろ!」
直純が怒鳴る。咄嗟に、清澄は声に従って沙耶の手を離し駆け出した。
贋作は足を止めてそれを見ていた。にやり、と笑って。
円が一つ舌打した。
「ふざけんじゃないわよ!」
どん、と幹を殴った。
「ああ、これだよ」
贋作が嗤う。
見上げた空には黒い龍がいた。
「龍一」
清澄が駆け寄り、助け起こす。
「……あれは?」
「! 龍一、見えてるのか?」
龍一が一つ頷く。
「……俺には見えないよ」
清澄は小さく呟いた。先ほどまで沙耶の手を握っていた自分の手のひらをみつめた。
黒龍が暴れる。
その中心で沙耶がうつろな目をして桜を見上げていた。
「直」
直純に肩を借りて立ち上がりながら、円は呟く。
「最悪ね」
「まったくだな」
「これだよ」
もう一度贋作が呟いた。
黒龍が暴れる。桜の枝が折れる。何本も、何本も。
「もう少し」
彼は固唾を飲んでそれを見守っていた。あの桜が全て、破壊されればそのときは。嬉々として眺めていた。
「え?」
でも、それは一瞬のことだった。突如として黒龍は方向を変え、贋作に向かって口を開いた。
「嘘だろ?」
呟く。
それが最後だった。
次の瞬間には、贋作は黒龍に飲み込まれた。
かしゃん、最後まで贋作が持っていたドッグタグが地面に落ちた。
「二人とも、こちらに来なさい」
円の言葉に慌てて、龍一と清澄が二人の傍へ行く。
「ここなら結界がはってあるから大丈夫」
飲み込まれた贋作に眉根をひそめながら直純が言った。
「まったく、厄介なことになったわね」
残りのお札の数を確認しながら円が呟く。
「これが、爆弾ですか?」
龍一が呟いた。
「ええ、そうよ」
円が頷き返す。
桜の枝が折れる。
はらはら、と花びらが舞い落ちる。
中心で、ただそれを見上げている沙耶の目から涙が落ちた。
はらり、と。
ぐっ、と唇をかみ締めると龍一は立ち上がった。
「龍一君?」
円が訝しげに尋ねる。
「命の保証、してくれなくていいんで」
告げると龍一は、走りだした。沙耶に向かって。
「あんのガキ」
直純も後を追おうと立ち上がって、
「まって」
それを円は引きとめた。
「円」
「彼に任せましょう」
「円! あいつはただ、見えるだけの人間だ。何ができるわけじゃない。あいつじゃ、沙耶を守れない。それこそ、堂本賢治の二の舞になるぞ!」
「直」
円は悲しそうに微笑んだ。
「私たちだって守れないわ。私たちが最悪、選ばなければならない方法を……、あの子を傷つけることを考えるならば、彼に少しぐらい託してもいいでしょう?」
直純はじっと従姉を見る。円も見つめ返した。
「今回だけだ」
一つ舌打して、直純は了承した。
「ただし、危なくなったらいつでも動けるようにしておくからな」
「もちろん。死なせるわけにはいかないのよ、二人とも」
「泣くからな、沙耶が」
直純の言葉に円が少し笑った。
「ええ、沙耶が泣くからね」
「大道寺さん!」
ばしんっ!
地面に叩きつけられる龍の尻尾を避け、桜の根に足をとられそうになりながらも走る。
「大道寺さん!」
はらり、また落ちる。
「うわ」
近づいてきた黒龍を慌てて避ける。これ以上は近づけない。
「っ、沙耶っ!」
怒鳴った。
ああ、まただ。また、あたしは馬鹿をした。また、暴れさせてしまった。
思い出す。割れた窓ガラス。血の色。断片的な記憶の中で、鮮明に思い出すのは、両親の自分への拒絶。嫌悪。化け物。化け物。だって、あたしは、あたしは……、
「大道寺さん!」
声が聞こえる。誰?
「大道寺さん!」
出来る限り視線をそちらに向けようとする。必死の形相で叫んでいる誰かが見えた。
「っ、沙耶!」
「……りゅういち、くん?」
呟く。少し、意識が自分に戻るのを感じた。
「沙耶」
龍の動きが鈍くなる。その隙をついて、龍一は沙耶の隣へ駆け寄った。
「沙耶!」
正面に回りこみ、肩を揺する。
「沙耶、沙耶、」
何度も名前を呼ぶ。
「りゅういち、くん」
その言葉に一度頷く。
「沙耶」
龍一は微笑んで見せた。
「……龍一君」
さまよっていたうつろな視線が、龍一の顔にピントが合う。
ぼきっ、
「龍一君!」
枝が折れ、二人の上に降ってくる。叫ばれた円の言葉に、反射的に龍一は沙耶の頭を守るように体を丸めた。
「いっ……」
顔をゆがめる。
「龍一君!」
大きな声を出す。ああ、またあたしは誰かを傷つけて……。
「大丈夫」
沙耶の頭を抱えたまま龍一は答えた。しっかりとした声で。その声に沙耶の思考はさえぎられる。
「大丈夫だから」
ひらり、ひらり、と桜が舞う。
「っ……」
はらり、はらり、と沙耶は涙をこぼした。龍一にしがみつく。
「大丈夫、大丈夫。何もないんだ。もう、何も。沙耶を傷つけるものなんて、何もないから。だから」
「うん」
「だから、大丈夫だから。何もないから」
沙耶の頭を撫でながら、龍一は何度も何度も繰り返す。
沙耶は黙って、しがみつく。
この大丈夫だといってくれる声が、頭を撫でてくれる手が、腕が、自分にとってかけがえのないものに変化していることに気づいていた。
「龍一君!」
突如として円の叫ぶ声が聞こえる。
「!」
振り返った龍一が息を呑む音がした。
沙耶は慌てて顔をあげ、龍一の肩越しに、彼に向かって口を開く龍が見る。直純が走ってきているけれども、間に合わない。
それだけは、駄目だ。
「だめ!」
咄嗟に沙耶は叫んだ。
「……とまった」
円が呟く。
動きを止められた黒龍は、口をあけたまま、龍一の鼻先で停止している。
龍一は、目を見開いてそれを見たまま、固まっている。
「だめ、それだけは」
黒龍を見つめる。
「お願い。もう、やめて。もう帰って。あげるから。あたしの記憶、あげるから。だから」
懇願するように、すがりつくように呟く。
「お願いだから彼には手を出さないで」
龍一の肩越しに黒龍と見つめあう。
「帰って。帰りなさい」
最後は怒鳴った。
「記憶ならばいくらでもくれてやる。だから、帰りなさい!」
そして、今度は黒龍を睨んだ。
「……沙耶」
直純が小さく呟いた。
榊原龍一の存在が彼女に意志を取り戻させたことを、彼女に龍を止めるぐらいの力を取り戻させたことを憎憎しく思いながら、直純は少しずつ拡散し始めている龍に近づいた。
「直兄」
名前を呼ばれて沙耶を見る。
「お願い」
涙目でのお願いに彼は微笑んで答えた。それ以外に彼に出来ることはなかった。
持っていたお札を龍に突きつける。龍の封印のためだけにつくった、祝詞を唱える。
それを聞きながら、沙耶はもう一度、しっかりと龍一にしがみついた。顔をうずめる。
今日のことだけは忘れてはいけない。
ゆっくりと、龍が消えていく。否、沙耶の中に戻っていく。
暴れたりない黒龍が、体の中で暴れる感覚に眉をひそめ、沙耶は肩を強く握った。
それも収まると、ゆっくりと龍一から離れた。
状況についていっていない龍一の困ったような顔から視線を逸らす。
直純は何も言わないで二人を見ていた。
ゆっくりと円が近づいてくる。
それらに気をとめず、沙耶は桜を見た。
たくさんの枝を折られた桜は、もう殆ど原型を留めていなかった。振動で散った花びらが、ひらひらと未だに降ってくる。
「桜、枯れてしまったね……」
沙耶は呟いた。
「あんなに見事な桜だったのに。あたしが、枯らしてしまった……」
龍一は何も言えずに、ただ彼女を見ていた。
沙耶はしばらく、その枯れ果てた桜をみていたが、やがて、ゆっくりと目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます