第四章 オドラデクの猫
「おはようございます」
「おはよ」
ゆっくりとドアを開けた龍一に円は、煙とともに笑いかけた。
「今、私しかいないのよ。学校帰り?」
「ええ、まぁ」
学ラン姿の龍一は肩をすくめて見せる。
「今日、終業式だったんで。明日から春休みです」
「あら、じゃあ、春休み中は午前中からお願いできる?」
「はい」
ばんっ!
大きな音とともにドアが開いて、近くにいた龍一は慌ててそこから離れた。
「あら、お帰り」
ドアを開けた人物に円は微笑みかける。
「あ、こんにちは」
龍一も一度頭を下げた。
けれども、入ってきた人物、直純はそんな二人を一瞥しただけで、自分のデスクに座った。
その後ろで渋い顔をしてみせる龍一に、円は苦笑して見せた。
書類をまとめている直純は龍一なんてまるでいないかのように扱う。なるほど、恋敵なのはよくわかったが、ここまで露骨に避けることはないだろう、子どもじゃないんだから。そう思って龍一は、軽く鼻で笑って見せた。
円がまるでチュシャ猫のように楽しそうに笑い、直純は眉をつりあげた。露骨な挑発に露骨にひっかかる彼をみて、ますます龍一は不愉快になり、
ばたん、
ドアが開いた。
「あら、早いじゃない」
ある意味争いの火種とも言える沙耶が入ってきた。
「直帰じゃなかったの?」
「もぉ、なんでそういうイジワル言うかなぁ、円姉は。出て行って十分で仕事終えて帰ってくるわけないでしょ。書類忘れたの。っていうか、だから室内禁煙だってば、円姉!」
はいはい、と円は煙草を灰皿に押し付けた。沙耶は円が煙草を吸うことを酷く嫌う。
沙耶は、円が煙草を消したことを横目で確認しながら、ばたばたと自分のデスクを漁る。
「清澄は?」
「下で待たせてる。もう、清澄ってばかんかん。あたしはてっきり清澄が持ってると思ったのに。っていうか、助手なんだから書類ぐらい持ってきてよね本当」
ぶつぶつ呟く。
龍一はそれを聞きながら、ホワイトボードを見た。沙耶と清澄の欄に「№100321」と書かれている。
いつの間にか同じように体を捻ってホワイトボードを見ていた円がよしっと呟いた。立ち上がって彼女はマーカーを手にとる。何をするのかと思ってみていると、龍一の欄にこう書いた。同上。
「同上って、円さん」
思わず、呆れて龍一は呟いた。
「沙耶、龍一君も連れて行って」
「はいっ?」
書類をあったあったと胸に抱えて喜んでいた沙耶は思いっきり眉をひそめた。
「なんで?」
「一度ぐらい現場を見せてあげた方がいいでしょう? この件は別に危険なところないし」
「だからって……、だって彼は見えないんでしょ?」
「別に平気でしょう。彼の面倒は清澄に見させておけばいい」
そう言って円は楽しそうに笑う。
「円」
黙ってみていた直純が呟いた。
「さすがにそれはないだろう」
「何故?」
「足手まといだろ?」
なぁ? と沙耶に同意を求めてみせる。沙耶はちらりと龍一を見て
「別に、あたしはそこまで言っていないけど……」
ぼそりと呟いた。意見を否定されたことに、直純は少なからずショックをうけたような顔をした。
「いや、円さん。別に俺もそんな迷惑になるようなことは……」
「あら、沙耶は別に迷惑だとは思ってないんでしょ?」
「それはそう、だけど」
思案するように沙耶は呟き、結局肩をすくめて見せた。
「じゃぁいいわよ。行きましょう。確かに、貴方には自分がどうやって助かったのか知った方がいいかもしれない。これからもここに来るつもりならば」
言葉の最後に妙な棘を残し、沙耶は言い放つ。そのまま書類を抱えてドアを開けた。
「来るんでしょ?」
ドアから一歩外に出たところで、振り返り龍一に尋ねる。龍一が頷くのを見ると、沙耶はそのまま出て行った。慌てて龍一がその後を追う。
足音を聞き、円はかすかに笑った。
「お前は俺のことがそんなに嫌いか?」
隣で直純が憎憎しげに呟いた。
「いえ、別に? 大事な大事な従弟のことを嫌いになるわけないじゃない、寧ろ好きよ?」
しれっと円は言い返す。
「ただ、そうね。直と沙耶だったら沙耶の方が大事かもね、っていうだけ。それは直だって同じでしょう?」
「あれ、龍一」
階段を下りたところで待っていた清澄が、沙耶の後ろをついてくる龍一をみて驚きの声をあげた。
「連れて行けって円姉が。本当、あの人は何を考えているのかわからないわ」
ぶつぶつ言いながら沙耶は、行きましょうと歩き出す。その後を二人は追った。
「あの、どういう事件なんですか?」
「清澄」
前を歩く沙耶が清澄の名を呼ぶ。はいはい、と清澄は返事した。
「猫が悪戯をするらしいんだ」
「猫?」
「そう、よく猫が車に轢かれる場所があるんだけど、そこで死にきれていない猫が悪戯をする。それで交通事故が発生する。そこにまた猫も巻き込まれる。そういう悪循環が起きているらしい」
「それを直す、と」
「そう」
清澄は一つ頷き、
「円姉風に言うと、調律するってこと」
にやりと笑った。
「猫には何の非も無いからね。話し合って解決しないとね。それが、一海の方針だから……っていう話はしたっけ?」
沙耶が前を見たまま言う。
「ええっと、はい、聞きました。円さんからですけど」
「そう。貴方の時は力づくだったから違うんだけどね。今回は最も一海のスタンスに近いやり方よ」
かつかつ、と沙耶の五センチのヒールが音を立てる。華奢なヒール。
ふわり、とピンクのロングスカートが踊る。
後ろを歩きながら、龍一はそれを見ていた。
ふと、自分が着ているのが学ランだということを思い出す。隣を歩く清澄の茶色いジャケットを見る。勿論、私服。
自分がひどく、場違いな気がした。
「……失礼なこと聞きますけど、お二人ともいくつなんですか?」
「二十四」
清澄が端的に答えた。沙耶が頷く。ということは、七つ離れているのか。そう計算して、その年齢差に暗澹たる気持ちになる。
学ランと大人っぽい私服で颯爽と歩く彼女とでは大分隔たりがあるだろう。
「そういえば、沙耶」
そんな龍一に一度視線をやって、清澄が話しかける。
「昨日、龍一にスーサンのヅラの話をしたんだけど」
「……ああ、あの教え方の上手い数学教師ね。彼の作るテスト対策プリントはとてもわかりやすかったわ。特に微分積分」
一度思案するような顔をして、沙耶は頷く。
「……うーん、それについては一度議論したいところなんだけど、多分それ」
清澄は曖昧に頷いた。彼の記憶が確かならば、スーサンの授業はものすごく難解だった。
「そうね、彼はまったくもって自然な生え方だったわ」
しみじみと彼女は呟いた。
「なぁ。でさ、後、音楽の加島の猫の話。……加島ってまだ居る?」
清澄の問いかけに、龍一は一つ頷く。
「でも、選択は音楽じゃなくて、書道なんですよ」
「あ、じゃあ沙耶と一緒じゃん。俺は美術」
歌うようにして清澄が言う。
「猫の話ってあれでしょう? 加島が猫を学校に連れてきちゃったっていう」
「そんなことしたんですか?」
「連れてきちゃったっていうか鞄に入ってたらしいのよ。加島が裏庭で鞄を抱えてうろうろしているのを、ちぃちゃんが見つけちゃって。あ、ちぃちゃんっていうのは」
「学校に居る幽霊、ですよね?」
龍一が尋ねる。
「清澄から聞いた? そう、それでちぃちゃんが加島が抱えている鞄を払い落として、猫が逃げ出して校舎内を走り回るからさぁ大変、っていう話」
やれやれ、と沙耶は首をふる。ちぃちゃんの悪戯好きにも困ったものだ、と。
「加島、あんな怖い顔して猫にめろめろなんだよ」
体育会系のごつい音楽教師を龍一は思い出す。授業で関わりあいはないが、生徒指導部の人間なのでしょっちゅう朝会で生徒を叱りつけている。……ちょっと、想像できなかった。
「でも、あの猫可愛かったわよ。確かに」
「アメショーだったよな。でも、名前が凄かった」
「そうそう、ええっと……」
いいかけて、沙耶は口篭もる。
「……沙耶?」
足を止めて、口元に手をやったまま目を見開いている彼女に清澄が声をかける。
「……あれ?」
あの猫の名前は、なんだった?
自問自答する。
何かの名前と一緒で、内心驚いていたのでよく覚えている、はずだ。あの猫の姿も、慌てていた加島の顔も、してやったりという顔をしていたちぃちゃんの顔も、名前を聞いた時の自分の驚愕も、何もかも覚えているのに、猫の名前だけが思い出せない。そこの記憶だけ、まるで虫食いのように穴があいている。
「……やだ、忘れちゃったみたい」
前を向いたまま沙耶が呟く。
「なんだっけ?」
振り返って清澄に尋ねた。どことなく、強張った表情で。
「……ええっと、確か……オドなんとか。ええっと、オドラーク、だったかな」
清澄は一拍の間のあとそう答えた。
「わかった、オドラデク。父の気がかり」
「そう、それ!」
何かの名前だと思ったのは、カフカの父の気がかりだったのか、と思う。でも、思い出したわけじゃない。推論から理解しただけ。
高校生だった当時はカフカが好きだった。だから、何かの名前だと記憶していたのだろう。それでも、オドラデクが名前だということにやはり確信は抱けない。
「父の気がかり?」
龍一の問いかけに頷く。
「フランツ・カフカの、短編。それにでてくる謎の生き物の名前がオドラデク。好きだったのよ、そのころ。カフカが。きっと加島も好きだったんでしょうね」
淡々とそれだけ告げる。
「……行きましょう」
前を向くと歩きだす。清澄もまた、黙ってその後に続いた。龍一はそんな二人を黙って見つめ、ゆっくりとその後に続いた。
何かの名前を忘れることぐらい、よくあることだろう。なのに、何故、あんな切なそうな顔をしたのだろう?
何故、あんなに唇をかみ締めたのだろう?
そんなこと、忘れること、当たり前のはずなのに。
すたすたと歩いていく彼女を見ながら、そう思った。ほんの少しの距離が、とても長いものに感じた。
そこから目的地まで、たいして話も弾まないまま、黙々と三人で歩いていった。たまに、龍一と清澄で話が盛り上がるが、沙耶に言葉を投げかけても曖昧に頷かれて終わるだけ。
途中でバスに乗り、国道沿いの公園前のバス停で沙耶は降りた。
「ここ」
そう言って公園沿いの歩道を指差す。まっすぐな一本道のそこには、確かに花束と目撃情報を求める看板が立っていた。
この道を龍一はよく知っている。しばらく歩いて、何度か細い道を折れ曲がっていくと出る住宅街。そこに、榊原龍一の家があるからだ。
「まっすぐで見晴らしもいいはずなのにね。何故か車は事故を起こすのよ」
沙耶が呟く。
ここで起きる事故は地元だから知っている。
この近くのスーパーで働いている母親がパート仲間から色々と噂を聞き、それを楽しそうに龍一にも話していた。確かに、ここで事故が起きるのは不自然で、怪談のネタになっていた。
龍一は唇を軽く噛んだ。事実なのに笑っていた自分が、ひどく滑稽に思えた。
「見えないだろうけど、猫がいるわ」
二人に向かってそう告げた。
龍一は目を細めてみるが、やはり彼の目には何も映らない。そのことで自分に軽い失望を感じた。まったく、役に立たない。
「ちょっと、その辺に立ってなさい、二人とも」
言われた通り、適当に電信柱の横辺りに立つ。
沙耶はスカートの裾を気にしながら、花束の傍にしゃがみこんだ。
ビュン、と車が次から次へと通り過ぎる。
「痛かったね」
沙耶が呟いた。
「ねぇ、でもね、痛かったのであって、今は痛くないはずなのよ?」
見えない何かに手を伸ばす。ゆっくりとその手を動かした。撫でるように。
「そうでしょ? ねぇ、あなたは気づいていないけれども、あなたはもう死んでしまったの」
通りがかりのベビーカーを押した女性が少し怪訝そうな顔をした。それを見て、清澄が花束に向かって手を合わせる。ひじでつっつかれて慌てて龍一もそれに習った。
それをみて女性は何かを納得したような顔をして、また歩き出す。
なるほど、こうやっていれば事故で亡くなった人を悼んでいるように見えるのだろう。
「かなしいよね。終わるのは悲しい。なんだって、終わるのは、悲しい。それにあなたは悪くないもの。そう、いけないのは人間だわ。あの走る箱」
そんな様子も気にとめず、沙耶は撫でるように手を動かす。
「ね、もう痛くないでしょ。痛くない……」
慈しむかのような、慈愛に満ちた表情で微笑む彼女。はじめてみる表情に、龍一は目を逸らせなかった。自分に向けてくれたあの微笑とは性質の異なるそれを、じっと見つめた。
「もう、大丈夫でしょう?」
伏せられた長い睫の作る影が綺麗だと思う自分にやばいな、と内心で呆れて笑う。すっかり首っ丈だ。
不謹慎だとはわかっていた。それでも、彼女の表情に魅せられていた。
「うん。そうね。でも、復讐して生まれ変われないよりも、生まれ変わった方がよっぽど健全だわ。復讐をしたところで、人間は懲りたりしないのよ」
一瞬、慈愛に満ちた表情を嫌悪感があふれる顔に変える。けれども、またすぐに微笑んだ。
「ね、あなたも」
別のところへ手を伸ばす。
「あなたも、皆、無駄なことはやめましょうよ……。あなたたちがここに縛り付けられるのを見るのは、あたしも寂しいわ」
撫でるように動かしていた手を止める。
「わかってくれてありがとう。うん、それじゃあ」
彼女は両手を合わせて目を閉じた。
「おやすみなさい」
彼女が呟く。
その瞬間、龍一には、にゃぁと猫が鳴く声がした気がした。そんなわけないのに、見えないのに、幻聴なのに。
しばらくそのままでいた彼女は、目を開けると立ち上がる。
「終わり」
振り返り、二人に告げた。先ほどの表情は消え去って、いつものような特に何もうつしていない表情だった。そのことを龍一は残念に思った。
「直帰でいいんだろ?」
「そう」
沙耶は頷く。腕時計に目をやると、彼女は苦笑した。
「思ってたより、早かったわね。皆、いい子だったから」
時計の針は、四時五分前を指していた。
「でもいっか」
これから帰るのも面倒だし、と沙耶は呟く。
「ここでお開き、で」
ぽん、と沙耶が手を叩く。
「あー、じゃぁ俺はあのバス乗るから」
先ほど降りたバス停に近づいてくるバスを清澄は指す。
「これ、家の近くにとまるんだ」
「そう、おつかれ」
「おつかれさまです」
二人の挨拶に手を振り、清澄は止まったバスに乗り込んだ。
ぷしゅー、と音を立ててドアが閉まる。窓際に座った彼が手を振ってきた。それに龍一は答えた。
「龍一君は?」
そのバスを見送って沙耶が尋ねる。
「あたしは駅まで行くんだけど」
そういって、言葉をきると辺りを見回した。
「それでね、もし、駅がどっちなのか知ってたら教えてくれる?」
そういうと、珍しく肩をすくめて苦笑してみせた。
「地図、清澄に渡しちゃったから、道がわからないの」
それを聞いて龍一は微笑む。
「あっちです。送りますよ、駅まで」
「え、でも道さえ教えてくれれば……」
「どうせ通り道ですから」
そういって歩き出す。正確に言うと、家には近づくが通り道ではなかった。けれども、そんなことは、この場合問題ではない。
「この近所なの?」
すたすたと歩く龍一に小走りで追いついて、沙耶が尋ねる。
「はい」
「そう」
二人で歩く。
「今日は大変だったわね」
「あ、いいえ。なんていうか……、」
言葉を選ぶ。まさか沙耶の表情に見とれていたなんて言える訳がないし。
「滅多にないものを見させてもらいましたから」
「そう? ならいいけど、見えないんでしょ?」
「え、ええ」
「なのになんで円姉は連れて行け、なんていったのかしらね。……あ、別に貴方のことを足手まといだって、言っているわけじゃないのよ?」
慌てて手を振り、訂正する。
「ただ、そこにどんな意味があるのかしら、っと思って」
「何を考えているのかよくわからない人ですよね、円さんって」
「本当。最高の愉快犯だということだけは、確かなんだけど」
そういって沙耶はくすり、と笑う。
「いつも不機嫌そうな顔をしているか、にやりと何かを企んで笑っているかのどちらかだから、表情も読めなくって」
それは沙耶がいう台詞かなぁとも思ったけれども、龍一はコメントは控えた。
「……でもね、円姉はいつもぶっきらぼうだけれども、確かに優しい人ではあるのよ」
ぽつりと呟く。
「はい」
「あんな風に何かに怒っているような態度もとるけどね、あの人が他人に対して怒ることってないから」
龍一をみて微笑む。
「あの人、あたしがどんなミスをしてもあたしに対して怒ったりしないのよ。もちろん、それは怒られた方が楽だから怒らないっていうのもあるんだろうけど。あの人は代わりに自分を責めるの。自分の仕事の振り分けや後方支援が上手く出来ていなかったからそういうミスを生んだんだって。そういうところは、とても好き。尊敬している」
ぽつり、ぽつり、と言葉を紡ぐ沙耶を龍一は黙って聞いていた。
「……いいこと教えてあげる。円姉はね、本当に苛立っているときは煙草の消費量が増えるの。それも、左手で煙草を吸う」
そういって沙耶は左手をひらひらさせる。
「もともとへヴィスモーカーだけどね。そういうときはもっと量が増える。普段は右手を使うのに、そう言うときは左手を使うの。本人は無意識なんだろうけど」
「……よく見てるんですね」
沙耶の言葉に呟く。沙耶は龍一をみると微笑んで、頷いた。
「姉みたいなものだから、円姉は」
そこで黙る。赤信号に二人でとまった。信号を見つめながら沙耶はぽつりと、尋ねる。
「ねぇ、あたしのこと、どこまで聞いた?」
龍一も信号を見たまま答えた。
「一海の、円さんの家の養子みたいなものだっていうことと、それから」
反対側の信号が黄色に変わる。
「爆弾を背負っているっていう話を」
反対側の信号が消え、赤に変わる。
「爆弾、ね」
沙耶が呟いた。
目の前の信号が青に変わる。ゆっくりと歩き出す。
「言い得て妙かもね。……こういうこと聞きたくないかもしれないけど、あたし、龍一君に言っておきたいことがあるの」
「はい」
沙耶は視線を龍一にうつす。
「あたしはいつか、貴方を傷つける。それが肉体的になのか精神的になのか、もしかしたら両方か、それはわからない。でも、だから、」
沙耶は微笑した。眉を下げて、力なく。
「出来たら、もう離れた方がいいわ。あたしから」
龍一は黙って沙耶を見つめる。その後視線をまた前に戻し、少し歩く速度を速めた。
「そんなことを言って、俺がはい、わかりました、っていうと思いますか」
「全然」
沙耶は首を横に振った。
「もうすでに、事務所には来ない方がいいって告げたもの。無駄なのは知ってる。ただ、これはあたしの気持ちの問題。何も知らない貴方を巻き込むよりは、少し予備知識があった方がまだいいでしょう?」
エゴね、と嗤う。龍一はコメントを控えた。
沈黙。
しばらく歩き、また信号にひっかかった。
「この話はもうやめましょう」
立ち止まり、先ほどと同じように信号を睨みながら沙耶が呟く。
「そうですね」
龍一も信号を見ながら頷いた。
「駅、こっちでいいのよね?」
「はい」
本当は、この角を右に曲がった方が近道だと知っていながら龍一は頷いた。
青信号。歩き出す。
「さっきの公園」
「はい?」
「桜、綺麗だったわね」
沙耶が言った。ああ、と龍一は笑う。
「地元の奥様方が子どもを連れてお花見をするスポットなんですよ」
「へぇ」
車の交通量が多いのが気になるけど、まぁいいところかもね、と沙耶は微笑んだ。
「好きなんですか? 桜」
こっちです、と右に曲がりながら龍一が尋ねる。
「好き。桜とか星とか月とか雪とか、そういうものが好き。でも、星とか雪はこの辺じゃ全然見られなくて」
比較的高いビルの少ない空を沙耶は見上げる。龍一もそれに習った。
「東京には空がない、とかいう詩人、いませんでしたっけ?」
「高村光太郎ね。よく知っておるわね。それとも、最近の高校生の愛読書なのかしら?」
空から龍一に視線を戻す。それを龍一は受け止めた。
「たまたま、この間何かで見たんですよ。多分、文学史の授業かなんかで」
「なるほどね」
微笑んだ。
「あたし、東京生まれの東京育ちだから本当の空とか言ってもわからないけどね」
「んー。でも、確かに祖父母の家とかに行くと、空が全然違いますよ。星が綺麗」
「どこなの?」
「山口県なんですけど。島だし」
いいなぁ、と沙耶は呟いた。
龍一はそんな彼女を見て、
「今度行きます?」
出来る限り軽い調子で尋ねた。
「……そうね、そのうち皆で」
沙耶は笑みを浮かべながら返した。
「ええ、皆で」
龍一も微笑み返した。お互いに、お互いが本気ではないことを理解していた。
沙耶は龍一が皆で行くつもりがないことを、龍一は沙耶が例え皆とでも行くつもりがないことを。
駅の見慣れた建物が見えて、龍一はひっそりとため息をついた。思っていたよりも駅が近い。
特に何も話さないまま歩く。沙耶のヒールの音だけが二人の間でしていた。
「それじゃぁ」
改札の近くで定期入れを鞄から取り出しながら沙耶。
「はい」
「わざわざ送ってくれてありがとう。おつかれさま」
「はい。お疲れ様です」
龍一は笑んで見せた。沙耶は軽く片手をふり、改札の中へと消えていった。
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