第三章 夢魔は悪夢を見るか?

「……あたしは、もうここには来ないほうがいいって言ったわ」

 沙耶は机に頬杖をついて不機嫌そうに呟いた。

「あら、そうなの?」

「そうですね、そういえば言われました」

 すっとぼけた感じて円が尋ね、龍一が同じようにどこかとぼけた感じで肯定した。

「それじゃぁ何故、貴方は今ここにいるの?」

「バイトですから」

 不機嫌そうな沙耶の問に、いけしゃあしゃあと龍一は答えた。


『バイト、してみない?』

 春休みを目前に控えたある日、突然かかって来た見知らぬ電話の第一声がそれで、龍一は少しの間固まった。

『もしもーし?』

「あ、はい、円さんですよね?」

『あら、覚えていてもらって光栄』

 おちゃらけたように言う声に、ああやっぱりあの人なのだと再確認する。

「なんで知ってるんですか、俺のケータイ」

『最初の時に渡された資料に載ってたの。ええっと、職権濫用ね』

 明るく言い切られて、返す言葉につまった。どんな資料なんだろうか、それは。

「それで、今なんておっしゃいました?」

『バイト、しないかって。もうすぐ春休みでしょ? やっぱり理由がないと事務所来にくいんじゃないかなぁと思って』

「……そうですね」

 事実、あの後二度ほど事務所のところまで行ったことはある。

 だが、貴方は、もうここには来ない方がいい。最後に言われたあの言葉が忘れられなくて、どうにも入れないでいた。アレは一体、どういう意味だったのだろうか?

 それはそれとして、

「円さん、俺が下まで来ていたの知っていましたね、今の言い方は」

『まぁね。まぁ、学校帰りの高校生が立ち入るのには怪しいところだし、名前が』

 名前というか、建物からして怪しいが。

「俺は結構気に入ってますけどね」

『あら、ありがとう』

 世辞のつもりはなかったが、円はそう受け取ったらしい。楽しそう笑って返してきた。

『まぁ、それでね、バイトしないかなぁと思って。ちゃんとお給料は出すし、掃除とか買出しとかそういうことでいいんだけど、どう?』

「おいしい話ですね。俺なんかではよければ是非」

 まったく悩みもせずにそう答えた。春休み暇なことも事実ではあったし。

『じゃぁ、明日から来て頂戴』

「はい?」

 思わず変な声を出す。それはいくらなんでもいきなりすぎる気がした。

『明日から。明日は学校あるの?』

「え、えっと大掃除が。午前中だけですけど」

『じゃぁ、終わったら。あ、履歴書とかもいらないから。身元もはっきりしているし。ってまぁ、勝手にこっちが調べたものなんだけど』

 そして、あははっと笑う。それだけ軽く笑われると、勝手に調べたなんていう言葉にもつっこむことは出来なかった。代わりにちょっとため息をついた。

『何、今のため息? ……あ、一応保護者の方の了承はとった方がいいかもね?』

「あー、そうですね。……なんていえばいいんですかね?」

 まさか、そのままは言えない。こんな電話一本で簡単に決まってしまったバイトなんて、普通なら怪しすぎるし。

『適当にでっち上げていいわよ。もし、必要なら説明しに行ってあげるから』

「……はぁ、じゃぁ、まぁ適当に話してみます」

『うん、じゃぁ明日』

「はい」

 そういって電話は切れた。


 そんなことを思い出しながら、龍一は微笑んだ。

「今日から半月ぐらいになってしまいますが、雑用係としてバイトさせていただく、榊原龍一です。よろしくお願いします」

「と、いうわけだから」

 円も軽く肩をすくめながら付け加えた。

「どういうわけよ?」

 低い声で一度呟いたものの、

「もういいや。どうせ、あたしが何言っても聞かないだろうし。でも」

 そこで顔をあげて、龍一を見る。少しばかりたじろいだ。

「貴方は、それでいいのね?」

「……こんな条件のいいバイトはそうそうみつからないと思いますが? あ、きちんと親の了承も得ましたよ。基本的にうちの親はどっか抜けてるんで、あっさり許してくれました」

 少しばかり悩んで、そう答えた。そういう意味での質問ではなかっただろうが、彼女の質問に直接答えられるだけの言葉を、あいにく今の彼は持っていなかった。

 沙耶はしばらく、そんな龍一を見ていたが、ふぅっと軽いため息をついて視線を外した。

 それを承認と受け取り、円は軽く龍一の肩を叩いた。

 それから、黙って事の成り行きを見守っていた男性二人に、

「そういうことだから」

 一言だけ告げた。

「はいはい」

「りょーかい」

 男性二人も気の無い返事を返してくる。やっぱり、何を言っても無駄だと思っているのかもしれない。

「龍一君、あっちが」

 そういって沙耶の隣に座っている、この間来たときにも居た眼鏡の男性を指し示す。

「佐野清澄。基本的に事務処理担当。あ、見えない普通の人代表ね」

「……いきなり説明が見えないから、っていうのも嫌なんだけど」

 言われて清澄は眉をひそめた。それから、苦笑を浮かべながら龍一を見る。

「よろしく」

「よろしくお願いします」

 そうやってお辞儀しながら、見えないという彼が、何故この事務所で働いているのかが気になった。

「で、こっちが」

 そういって、清澄の正面に座っている男性を指し示す。

「この間言った、もう一人の一海、私の従弟。一海直純」

 直純はどこか不機嫌そうな顔をしながら

「まぁ、よろしく」

 そう言った。

「よろしくお願いします」

 その表情の意味が多少気になったものの、龍一は挨拶を返した。

「あとは、今更説明はいらないと思うけど、この子が大道寺沙耶。私が一海円ね」

 沙耶が軽く一礼した。慌てて、それに返す。

「と、まぁこれで全員」

 円が肩をすくめながらそう言って、事務員紹介を閉めくくる。

「とりあえず、そうね、清澄が今、郵便物の仕分けしてるから手伝ってあげて?」

「はい」

 言われて素直に清澄のそばに行く。

 清澄は眼鏡の奥からじっと彼を見て、ふっと笑った。

「君も大変だな」

 先行きの不安な歓迎の言葉だった。

 かたり、清澄の隣のデスクにいた沙耶が立ち上がる。

「榊原君、ここ座って」

「あ、でも」

「気にしないで。あたしこれから外だから」

 そういうと黒い鞄を肩にかける。

「№100320、新宿行ってきます。終わったら一回戻ってくる」

「はいはーい」

 円が手を何故か楽しそうに手をふった。沙耶はしばらく意図を探るかのようにそれを見ていたが、やがてふぅと息を吐いてドアに向かい、ドアの横のホワイトボードの自分の欄からマグネットを外すと、後ろを振り向かないで出て行った。

「あれは?」

 そのホワイトボードを指さし龍一が清澄に尋ねる。

「ああ。出勤表。事務所に居るときは、あの赤いマグネットをつけておくんだけど」

「そういえば、龍一君の分作ってなかったわね」

 ぽん、と円が手を叩いた。

「え、いや、でもただのバイトですし」

「あらあら、仲間外れは悲しいでしょ?」

 やたらと楽しそうにそう言うと、立ち上がりホワイトボードの「佐野」の文字の下に「榊原」と線の細い字でつけたした。ぽち、と赤いマグネットもつける。それから、その横に「とりあえず研修」とも書いた。

 それを数歩離れてから眺め、円はうん、と何かに満足したかのように頷き、デスクに戻る。

 龍一もそれを眺めた。「一海(円)」、「一海(直)」、「大道寺」、「佐野」、その下に自分の名前が加わっているのは、見ていて悪い光景ではなかった。

 少し笑った龍一をみて、向かいでのデスクで円が微笑んだ。

「ええっと、それで何をすればいいんですか?」

 話が横道にそれたことを思い出し、清澄に尋ねる。

「いや、正直、郵便物の仕分けとか一人で出来るしっていうか、終わったし。そんなに郵便物なんかないんですがね」

 後半は円に向けてのものだったが、円は聞こえないフリを決め込んでいた。

「大変だな、君も」

 先行き不安な歓迎の言葉をもう一度清澄は口にした。

「そんなに大変だとは……」

「大変なのはこれからだよ」

 清澄に耳を寄せるように合図され、龍一は椅子を近づけた。内緒話の要領で清澄は話し出す。もっとも、前に本人がいる時点で内緒話にする気はさらさらなかったが。

「円姉はあの通りワンマンだし、沙耶は沙耶で書類はきちんと出さないし」

 意外だった。

「直さんは」

 がたっ

 大きな音を立てて椅子が動き、二人は慌てて顔あげた。清澄の正面のデスクにいた直純は、立ち上がったままそんな二人を見下ろした。切れ長の瞳を細める。

「№100319と№100322。ノーリターン」

 端的にそれだけ言うと、鞄をもって席を離れた。

マグネットを外す。からん、

「いってらっしゃーい」

 円は体を後ろに捻ってそれを見送る。

 ドアをあけ、直純はもう一度二人を一瞥し、バンッ! と派手な音を立ててドアを閉めた。

「……いきなりこういうこと言うのもどうかと思うんですけど、なんか冷たい人ですね」

 がんがん、と派手に響く足音が消えてから龍一が呟いた。

「それは君だから」

「それは君だから」

 図らずも、円と清澄の声がはもった。円がお次はどうぞ、というように片手の平を清澄に向ける。どうも、というように清澄は頭を下げた。

「直さん、沙耶のことが好きだから。恋敵に優しくはなれないだろ?」

「ああ、まぁ」

 龍一は頷きかけ、

「って、何で知ってるんですか!」

 顔を赤くしながら大きな声でつっこんだ。

「何でって何を? もしかして、榊原君が沙耶を好きなこと?」

 小さく頷くと、

「あれで気づかれないとでも思ったの?」

 円が呆れたように笑った。

「お礼にくる人とかいなかったし、沙耶だと嬉しそうだったし、そうかなぁと思ってたんだけど。まぁ、円姉がそう言ったのが大きいけど」

 清澄が言う。

「なんでそういうことをペラペラとしゃべっちゃうんですか!」

 机を叩き、立ち上がり、龍一は正面の円を睨んだ。円は最初に会った時と同じ、にこにことした悪魔の笑みを浮かべ、

「沙耶には言ってないわよ?」

「当たり前です! まったく」

 憤慨している龍一の袖口をひっぱり、椅子に座らせると清澄は、肩をすくめて見せた。

「だから大変だって言っただろう? 円姉に何を言っても無駄だよ、ワンマンだし」

 先ほどの何を言っても無駄だという顔をしていたほかのメンバーを思い出す。

「早々に諦めることをお勧めするね」

 目の前の悪魔は聞こえているはずなのに、聞こえていないかのようなにこにことした笑みを絶やさずにいた。

「悪魔……」

 思わず呟く。隣で清澄がうんうん、と大きく頷いた。

「それ、皆がよく言うことだから」

 頭がくらくらしてきた。

「まぁまぁ、そんな非建設的な話はやめて、」

 円はぽん、と手を叩くと友好的な笑みを浮かべて見せた。

「邪魔な二人がいないからなんでも質問していいわよ?」

「そのつもりで今日の仕事組んだだろ?」

「もちろん」

 半眼になって問う清澄に円はまったく悪びれせずに頷いた。清澄は片手を額にあげて、嘆息してみせた。

「なんでも?」

「ええ、なんでも。ただ、答えるかどうかはまた別の問題なんだけどね」

 ちゃっかりしている、と龍一は円の言葉に苦笑した。

 気になっていることはたくさんあるけれども、特になんだろう? 頭の中でそんなことを考え、

「佐野さんは……」

「清澄でいいよ。俺も龍一って呼ばせてもらうし」

「ええっと、じゃぁ清澄さんは何でここで働いているんですか? さっき、見えないって言っていたのに」

 清澄は浮かべていた笑みを少しだけ凍りつかせた。

「あ、えっと聞いちゃいけないことだったら別に」

 そんな清澄の表情を見て、慌てて龍一が言う。

「いや、いいよ」

 机の上で指を組む。清澄はそれを見つめながら口を開いた。円は頬杖をついてそんな二人をかすかな微笑とともに見つめるだけで何も言わない。

「沙耶とは高校が一緒だったんだ。瀧沢なんだけど」

「じゃぁ、二人とも俺の先輩?」

 自分の学校名をあげられて、驚きで軽く眉をあげて龍一が言う。清澄は一度頷くといたずらっぽく笑って答える。

「そうそう。そういえば数学のスーサン、まだいる? 俺らの時に定年まで居るって噂だったんだけど」

「来年で定年らしいから、もう異動はないと思いますが…………」

 それを聞いてにやりと清澄が笑った。そして、声を潜めて、ここだけの話だけどなと前置きして続けた。

「あいつ、ヅラなんだぜ?」

「うそっ!」

「いや、マジで。ものすごく自然だけどな」

 くっくと清澄が笑う。

「知ってるのは俺と沙耶と、……ぐらいかなぁ? 沙耶が言うには学校にいる幽霊が、あいつがトイレでヅラを直しているのを見たって報告してきたらしい」

「へぇ」

 来年で定年というのが嘘のような若々しさの数学教師を思い浮かべながら頷いた。あんなにふさふさなのに実は……。

「ああ、だめだ。顔を見たら笑いそうだ」

「笑わないように気をつけな」

 自分こそ笑いながら清澄は答える。

「っていうか、あの学校に幽霊なんているんですね」

「いるんだよ、ちぃっていう悪戯好きが。俺はよく、背後から蹴りを喰らってた。沙耶に言わせるとあの学校の怪談の九割はやつが犯人らしいけど。まぁ、見えない俺らには関係ないよな」 言葉の最後は自虐的に笑ってしめくくる。同じような笑みを龍一も浮かべた。

「ちょっとぉ、地元トーク全開でついていけないんだけど」

 つまらなさそうに左手のネイルを気にしながら円が呟いた。それを聞いて、慌てて清澄は笑みをひっこめる。

「失礼。話がそれすぎた。その話はまた、今度。まだネタがあるから」

「それはそれは。楽しみにしてます」

 龍一が答え、二人でにやりと笑い合う。そんな二人をみて円がため息のような笑みをこぼした。

 清澄は机の上で指を組みなおす。一つ息を吸い、吐いた。

「妹がいるんだ。その妹が、俺が高校の時に眠ったまま目覚めないっていう謎の病気にかかった。医者もさじを投げる奇病」

 龍一は背もたれから背中を離し、体ごと清澄に向かいなおした。

「うん」

「龍一の時と一緒だよ。妹は夢魔に憑かれていた。夢魔って知っている?」

「いや、全然」

 龍一が首を横にふるのを見ると、清澄は円に向かって

「専門家にお任せしますよ」

 おどけた調子で言う。円は頬杖をついていた手を離した。

「夢魔はキリスト教の悪魔のひとつ。ナイトメアっていう名前だったら聞いたことあるんじゃない? なんか漫画であったりするよね? インキュバスとかサキュバスとかって言って、睡眠中に襲われる人にとっての理想の異性像で現れて性的な夢を見せた挙句、精を奪うって言われているのが本家本元。ただ、真利ちゃん……、あ、妹ちゃんね? 彼女が憑かれていたのはそういう夢魔とは違うものよ。なんかきっと色々と進化を遂げてきたんだろうけど、性的なことに関係なく襲われる人間にとって一番心地よい夢を見せて精気を奪うっていうもの。彼女は心地よい夢に囚われてしまったのよ」

 説明終わり、と円は再び頬杖をついた。どうも、と清澄が軽く頭を下げて見せた。

「医者がさじを投げたことで一海に連絡が行ったんだ」

「一海って円さん達の実家の?」

「そうそう。当時はまだ調律事務所出来てなかったから。こう見えて円姉って宗主の娘なんだぜ?」

 こそこそっと内緒話をするような手つきで言う清澄に円が顔をしかめてみせた。

「清澄、余計なことは言わなくていい。大体、どう見えてるのよ? 私だって好きで宗主の娘なんてしてないわよ」

「宗主って本家の長ってやつですよね?」

「そうそう。次期宗主」

「へぇ、凄いんですね、円さん」

 龍一の素直な感嘆の声に

「何が?」

 円が吐き棄てるように言った。

「嫌なんですか?」

「あんまりよくはないわよ。今時家柄にとらわれるなんて流行らないでしょうに。それより話の続きは?」

 頬杖をついていない方の指で机をこつこつ、と叩きながら続きを促す。清澄は肩をすくめて見せた。

「で、担当してくれたのが直さん。その助手ってことでついてきたのが沙耶だったんだ」

 清澄は片手をぱたぱたと振って、笑ってみせる。

「いやぁ、驚いたの何のって。だって、全然笑わなくて陰で巫女姫様とか言われてた同級生が突然現われたんだから」

 あははは、と笑ってみせ……、結局すぐに口を閉じた。

「……高校の時の沙耶ってさ、すっごい無愛想で。絶対に、にこりともしなかった」

「今よりも?」

「今なんか全然いいよ」

 清澄は首を横にふり、全力で否定する。

「全然の用法がおかしいわよ」

 どこか余所を見ながらつまらなさそうに円がつっこんだ。

「ええっと、まぁとにかく今はいいよ。ある程度笑うしさ。前はにこりともしないで、誰とも口をきかないで、ただ授業を受けるためだけに学校に来てるって感じ。さっき言った幽霊のちぃちゃんとかとは、一応会話してたらしいんだけど、さ。いくら人目がないところで話してたって言ったって、次第に噂になっていってさ。入学した年の六月にはもう誰も知らない人は居ないって感じだった。ほら、あの髪の長さは目立つし、見た目だけなら綺麗だし」

 思わず頷いた龍一を見て、円がくすりと笑った。それに気づいて、少し赤くなった。

「誰が言い出したのかは定かじゃない。ただ、気づいたら皆、畏怖と嫌悪をこめて「巫女姫様」って呼ぶようになってたんだ。色々噂もあってさ。曰く、彼女は幽霊が見えるらしい。曰く、彼女は今、謎の美女と二人暮しらしい。曰く、その美女の実家は名のある名家だ、なんて。まぁ微妙に違うけど大まかなところであたってたんだけど」

「その二人暮しの美女って」

「私」

 頬杖をついていない方の手を円が挙げた。

「一応ね、お目付け役で一緒に暮らしてたのよ。その時はね」

「そんなんだったからさ、俺も沙耶のこと避けててさ。だって、ちょっと怖いじゃん? 事情も何も、全然知らなかったけど……」

 清澄はそこまで言うと、再び組んだ指を見つめた。

「だから、申し訳ないと思って。あのときのこと。その辺のごちゃごちゃしたことの罪滅ぼしのつもり、なんだ、一応。ここで働いているのは。贖罪っていうの?」

 そこで顔をあげて力なく微笑んだ。龍一は、なんと言えばいいのかわからなかった。

「沙耶はねー」

 そんな二人を見ていた円が、やはりどこか余所を見ながら呟く。

「清澄のそういう中途半端に気をつかうっていうか、自分が悪いって思ってすぐ謝るところとかが嫌いらしいんだけどね」

 よくわからない子よねー、と円は笑った。

「いいんだよ、これで」

 清澄は眉をひそめて円に言い返す。円ははいはい、と片手をふって見せた。

「後は何かある?」

 清澄は笑みを作り、龍一に向かって尋ね、

「あの、妹さんは?」

「はい?」

 完璧予想外の言葉に清澄の動きが止まった。

「あ、いえ、だから……、妹さんはどうなったのかなぁ? って」

 清澄と円は動きを止め、二人で見つめあい、二人同時に笑い出した。

「何がおかしいんですか?」

 不愉快そうに半眼になって問う龍一に、清澄はいやいや、と片手を振ってみせる。

「ごめんごめん。真利はおかげさまで元気に女子大学生やってるよ。ただ、さ。さすがだなぁ、と思って。今の話の流れでそれを聞かれるとは思わなかったよ」

「ね? 私が見込んだだけのことはあるでしょう?」

 円が何故か胸をはって言った。それに清澄が頷くのを見ながら、龍一は不愉快そうな顔を戻そうともしなかった。


 がたん、がたん、

 仕事を終えた沙耶は、事務所へ戻る電車の中で、ドアにもたれかかり外を見ていた。

 似ているな、と思う。あの榊原龍一という少年が、かつての恋人に。

 容姿も性格も違うけれども。

 どこかちゃらちゃらしていた彼よりも、榊原龍一は真面目で大人しそうだ。ただ、芯はとても強そうで、そこがそっくりだと思う。

 もう来るなと、突き放したはずなのに、そんなものにへこたれずに訪れたところなんて、彼とまったく変らない。関わらない方がいいと、何度言っても彼は懲りずに話し掛けてきた。

結局、それに負けて付き合うことになったわけだけど。あのときは、それで幸せだたけれども、長くは続かなかった。二の舞になりそうで、怖い。

 ふぅ、と一つため息をつく。

 ありがとうございました。あの顔と台詞が忘れられない。あんなに一生懸命になってお礼を言うなんて、なんて変わった子なんだろう。

 あの一海円が気に入ったと嬉しそうに言っていたのだから、きっと本当に掛け値なしのいい子なんだろう。沙耶は円の人を見る目は信用していた。小学生のころ、一海にひきとられてからずっと、姉のように慕っている円のことは信頼していた。

 だからこそ。

 目的の駅を告げるアナウンスに、沙耶は扉から体を離し、扉に向き直る。

 だからこそ、早く榊原龍一を突き放してしまった方がいい。

 ぷしゅー

 ドアが開く。外への一歩を踏み出す。

心配なんだ、と告げていた口が、もう無理だと呟く前に、いつかと、堂本賢治の時と同じことを繰り返す前に、はやく、離れた方がいい。


「あ、沙耶。いいところに帰ってきたー」

 事務所のドアをあけると、何故かそこでは、ばば抜きが繰り広げられていた。

「お茶淹れてー」

「いや、お茶淹れてー、じゃなくて」

 ドアに寄りかかり、額に手を当ててため息をつくポーズをとる。

「なんでばば抜きなんかしてるの? っていうか、トランプとかなんであるの?」

「トランプは円姉の四次元机の中から」

 清澄が答える。円の机からはたびたび、お菓子類や香水の瓶が出てくるがトランプまで入っているとは思わなかった。

「なんでかっていうと龍一君との親睦のために」

「仕事しなさいよ」

 まったく、あたしは仕事して戻ってきたのに、なんて呟きながらもしぶしぶ沙耶は流しへ向かう。確かに沙耶達の仕事はそんなに毎日たくさんあるものではないけれども。

「何でもいいんでしょ?」

 やかんを火にかけながら尋ねる。

「うん、任せるー」

 円の間延びした声が聞こえてきた。

「やった、あがり!」

 ばば抜き一つで何故そんなにむきになれるのか、沙耶にはさっぱりわからないが、龍一の嬉しそうな声も聞こえてくる。楽しそうで何よりですこと。

 足音の後、龍一が顔をのぞかせた。一瞬、かたまってしまう。

「あのー、手伝いましょうか?」

 恐る恐るといった調子で彼が尋ねて来た。

「うわー」

「運命の二択よ!」

 向こうの方で、本当に何故か、とても楽しそうな清澄と円の声もする。

 じっと龍一の顔をみる。向こうも、今回は視線を逸らしたりしなかった。

 突き放そうと、決めたのに、

「お願いします」

 そう答えていた。


「結局、トランプしかしてないように思えるけど?」

 もうそろそろ帰りましょう、と散々トランプをした後に円が言い、こうして今、事務所の外に立っている。

「自分だって途中から楽しんでいたくせに」

 がちゃり、事務所のカギを閉めながら円が笑う。

「たまにはいいでしょ、こういうのも」

 カギがかかったことを確認し、円は沙耶に向かって微笑んで見せた。

「……ずるい人」

 きっと、全て計算だったのだろう。沙耶が帰ってくる時間にトランプをしていたことも、半ば強引にいれたことも。こうなることを計算していたのだろう。

「そんなに計算ばっかりしているわけじゃないわよ?」

「どうかしらね」

 カギを鞄にしまう。

「こういうのもたまにはいいでしょ?」

 もう一度尋ねられる。しぶしぶ頷くと、本当に嬉しそうな顔で笑った。たまにこうやって、何の裏もなく笑うからどんなにずるいと思っても、彼女を憎めない。

 ヒールを鳴らして円が階段を下りていく。その後ろからついていく。

 先に階段を下りていた清澄と龍一の二人が、何やら楽しそうに話しこんでいた。

 たった一日でこれだけうちとけるなんて、榊原龍一という人間の持って生まれた性質もあるのだろうけど、円の差し金である部分が大きいと思う。

 沙耶はこっそりとため息をついた。

 突き放す? もう、無理じゃない?

「おつかれさま」

 階段を降りきると、円が片手をあげた。彼女はここから車で帰る。

「おつかれー」

 清澄も手を振ってきた。

「清澄、電車じゃないの?」

「迎えにきてくれるらしいから」

「ああ、カノジョちゃんがね。このひも!」

「ひもって!」

 円と清澄の会話を聞いて沙耶は内心で苦笑する。ということは駅まで二人ということですか? なんていう疑問を顔に浮かべたりはしない。まったく、もしここまで計算だったら凄いだろう。

「お疲れ様です。……って何もしてないけど」

 龍一が苦笑した。

「お疲れ様」

 なんとなく見ているのに耐えられなくなって、一方的にそう告げると、沙耶は駅に向かって歩き出した。

「沙耶」

 あきれたような円の声が後ろから飛んできたけれども振り返らなかった。

 ぱたぱた、と足音がして斜め後ろに龍一がつく。それを横目で確認すると少しスピードを落として隣に並んだ。

 沈黙。


 円に言われるままに、後を追ったはいいけれども、別段話題もない龍一は困って視線をきょろきょろと動かす。

「家、どこ?」

 突然、端的に聞かれた言葉に、慌てて自宅の最寄駅を告げる。

「ああ、じゃぁ反対方向だ」

 そう言って沙耶も自分の自宅があるところを告げた。

「電車も違うんだ。あたし一番線だけど……」

「四番線です」

 言葉を引き取ると、彼女は頷いた。

「学校、遠くない?」

「それほどでも……、ないかな?」

「あたしは近くに住んでたからなぁ、あの時は。近いからっていう理由で選んだから。電車に乗って通うなんて尊敬するわ」

 どこかその言葉には棘があるようだった。昼間、清澄に聞いた話を思い出して龍一は少し渋い顔をした。

「学校、変な噂とかになってない?」

「あ、いいえ、全然。なんか、こっくりさんやってた子たちも十円玉が飛んだとかそういう事実を認めたがらなかったみたいですし」

「そうね、臭いものには蓋をしたわけね。でも」

 沙耶は言葉を区切り、隣の龍一を見て

「それはよかった」

 そう言って微笑んだ。あの時と同じ、綺麗な笑顔で。

 ああ、まただ。まったく、いつも不意打ちだから。どきどき言っている心臓を、軽く叩いた。

「体の方も大丈夫?」

「はい。なんか、母はまだ、なんだかんだ言っても心配しきってるんですけど」

「でしょうね、泣いて、縋っていたわ。医者に」

 前を向いて淡々と告げる。龍一は何も答えない。

「お母様、大事にしてあげなさい。とてもとても心配そうで。貴方は幸せ者ね」

 淡々と告げる沙耶の横顔が一瞬歪んで見えて、慌てて視線をそらした。見てはいけないものを見てしまった気がした。


「それじゃぁね」

 駅の改札をはいったところで沙耶は言った。

「あ、はい」

「明日もくるの?」

「はい、一応」

 そう、と沙耶は呟くと何かを思案するようにちらりと床に視線をやり、

「それじゃぁ、また明日。龍一君」

 そう告げると歩き出した。

「っ。また、明日!」

 名前を呼ばれたことに驚きと喜びを感じ、龍一は叫んだ。

 他の人の視線も集まる中、沙耶は振り返ると片手を振った。それを見届けると、彼女と反対方向へ歩き出す。

 ふと、龍一は歩き出した足を止めて振り向くと、沙耶の姿を目で追った。夕方の駅は人が多くて、すぐに彼女の姿は見えなくなった。

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